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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

戒山『霊嶽山圓通寺賢俊永律師伝』

自誓受における依止の問題

通受自誓受と別受

鎌倉期、嘉禎かてい二年〈1236〉覚盛かくじょう叡尊えいそんら四人によって果たされた戒律復興は、日本ではすでに三師七証の別受従他受による正当な受戒法が不可能となっていたため、覚盛によって「考案」された通受自誓受によって果たされました。その後、覚盛は唐招提寺に入り、また叡尊は西大寺を中心として活動を展開し、特に叡尊の西大寺系の律宗が大いに繁栄して、以降の鎌倉期における日本仏教で最大勢力となるほどの信仰と支持を集めています。

そこで叡尊滅後の西大寺一門の律僧らは、夏安居を十年以上経た比丘らがあり、また必要な十人以上の比丘が揃って本来の別受従他受による具足戒の授受が可能となっていたにも関わらず、いわば緊急避難的・例外的であった筈の自誓受をむしろ標準、正統として行じ続けています。これは祖師である叡尊が自誓受戒によって戒律復興を成し遂げた先例に倣ってのことであり、それをいわば神聖視・特別視してのことであったと考えられます。

しかしながら、当の本人である覚盛や叡尊などは、自誓受を全く正当な受戒であるとしてはいても、必ずしも正統であると考えてはいませんでした。

問。若依三聚羯磨自受從他倶成其性。不應用依白四羯磨別受事。既成其性之故。得戒畢之故。可無用之故。同聲聞之故。答。凡化身土以聲聞僧爲正機之故。以白四受法三乘同爲根本軌則。依之通受之上重別受之也。《中略》
若依白四不受大僧戒。與聲聞僧同布薩時。彼聲聞比丘更不可許之。所以爲共彼尤可別受也。
問:もし三聚羯磨に依って自誓受と従他受と倶に(七衆それぞれ)その性を成ずることが出来るのであれば、(比丘出家の場合は)白四羯磨に依って別受する必要性が無くなるであろう。何故ならば(通受に依って)既にその性を成じるからであり、また(通受に依って)得戒し畢るからであり、もはや(別受は)無用となるからであり、(通受によって)声聞と同じ(比丘)となるからである。
答:およそ化身土〈報身仏としての釈迦牟尼が教化する世界〉においては声聞僧が正機とされるのであるから、白四羯磨の受法を(声聞・縁覚・菩薩の)三乗にて同じく根本の軌則とする。そのようなことから、通受の上に重ねてこれ〈具足戒.声聞律儀〉を別受する。《中略》
もし白四羯磨に依って大僧戒を受けなければ、声聞僧と同じく布薩しようとする時、その声聞比丘はそれを許さないであろう。そのようなことから、彼らと(僧事を)共にする為にも、やはり当然のこととして別受すべきである。

覚盛『菩薩戒通別二受鈔』(日蔵, vol.13, p.508b)

事実、覚盛そして叡尊は、本来は受具後の十年を超えていなければならない筈のところを、ただ九度の夏安居を過ごした直後に、律に違うことを百も承知ながらも「無理を押して」家原寺えばらじにて別受従他受を敢行。その後、それぞれの弟子に具足戒を授けています。

一、別受事
九夏ニ成リ候シ時始行シ、九夏ノ和尚ハ得戒・得罪ト定タルニ満足シテ、「明年可レ行」ト某ハ申候シヲ、窮情房、「明年マデ生キモヤセンズラウ、是程難レ有法ヲ空シテ止ナンハ無二本意一事也。ゲニ悪シカルベクハ、授テ後懺悔ヲコソセメ」ト候シカドモ、弟子ヲ蓄ワエン料ニモ授バコソ、唯難レ有仏法ヲ興サン料ナレバ、クルシカラジニテ候シ也。某与二窮情房一トハ如レ律波羅提木叉ヲ為二和尚一受レ之。其ノ後、両人為二和尚一各ノ弟子ニ授テ候也。尼ノ十ニ夏ヨリ始二行之一。
一、別受の事
(通受自誓受によって比丘となり)九夏を経た時に始行した。(律蔵では)九夏の和尚(が他に具足戒を授けること)は得戒得罪〈十夏已上の年限という条件を満たしていない授者、いわゆるその受者の師僧たる和上にはその行為、すなわち僧伽が具足戒をその受者に授けることを乞うことは罪となる。ただし、ただそれだけによっては受者の受具が不成立となることはない〉と定められていることに満足し、
「明年、(夏安居を過ごして十夏を満たしてから)これ〈別受〉を行じよう」
と私が言ったのに対し、窮情房〈覚盛〉は、
「明年まで(我々は)生きていないかもしれない。(もし死んでしまって)これほど有難き法〈比丘僧伽の再興〉を虚しく頓挫させてしまうことは本意で無い。本当にそれが(律の規定に反するという点で)悪しきことであったとしても、(別受によって具足戒を他に)授けて後に(授者である我々が)懺悔をしたらば良いであろう」
と言われた。(別受は)弟子を蓄える為に授けるものであるけれども、ただ有難き仏法を興そうとする為であるならば、(律の規定に違ってまで別受を始行しても)差し支えないかとも思った。そこで先ず私と窮情房とが、律の通りに波羅提木叉〈prātimokṣa. 律蔵の諸規定を要略し集成したもの。戒本〉を和尚として別受した。その後、両人が和尚となって、それぞれの弟子に授けたのである〈ここに叡尊の律についての誤認が見られる。具足戒(律)を授ける主体はあくまで「僧伽」であって、受者の師匠すなわち和尚ではない。授戒における和尚の役割とは、あくまでその弟子が具足戒を受けることの許可を、その戒壇上に集う自身を含む比丘全員すなわち僧伽に「乞う」ことに過ぎない。故に受者の和尚をして乞戒師と称することがある。ただし、このような誤認は何も叡尊に独自のものではなく、支那以来、そして鑑真渡来以降の日本で多く共有されたものであった〉。尼の(別受は、嘉禎二年から)十二夏を経てからこれを始行した〈叡尊がここで始めたという、女性を比丘尼とするべくした授戒、すなわち比丘尼僧伽の復興については、中世における女性の救済活動と現代的評価はされよう面がある一方、覚盛や叡尊らがなした通受自誓受という戒律復興の方法以上に、伝統的にはさらに大きな問題を孕むものであった。なお、ここでなぜ十夏でなく十二夏であったかといえば、比丘尼は受具後十二夏を経ていなければ和尚尼となれず、比丘尼の受具を執行し得ないためである。そしてこれは非常に重要な点であるが、比丘は沙弥尼・比丘尼の和尚になることは出来ない。女性出家者の師はあくまで女性出家者に限られる〉

『興正菩薩御教誡聴聞集』(岩波『日本思想体系』鎌倉旧仏教, p.208)

以上のことから、本来十夏じゅうげを経過していなければならないところを、覚盛が九夏で別受を始行したいと願い出し、一夏足らないことは律の規定に違って問題があったけれども「興法のためならば」と叡尊はそれを了承し、別受を初めて実行していたことが知られます。

就中、この記録から知られる彼らがその時なしたという別受なるものに、極めて重大な問題が潜んでいることを喝破しなければなりません。ここで本当に、しかも重大なる問題であったのは、覚盛と叡尊とが別受を行うための法臘が「一年不足していた」とかそんなことではない。実は、覚盛と叡尊が弟子らに授ける前に自ら受けたというそれは、別受などとは全く云い難いものでした。古今の学者や僧職者らにも、この極めて重大な点に気づき、指摘する者は何故か全くありません。

そもそも、律を授け得る先達の比丘が日本に全く欠けていたことから、彼らは通受自誓受という(その正当性が甚だ疑問視される)全く新しい方法を案出し実行することによって比丘となったとしていたのに、「律の如く波羅提木叉を和尚として之を受ける」などとは、誠に不審です。こんな馬鹿な話はない。「律の如く」と叡尊は言っていますが、しかし「波羅提木叉を和尚として」という律の根拠など存在しません。

すなわち、二人がまず別受したと叡尊は言っていますが、それは自誓受でもなく別受とも全く言えないものであって、しかも確固たる根拠に何ら基づかず、理論武装することなど無く行われた極めて杜撰なものでした。叡尊がその根拠としたのはほぼ間違いなく、『仏遺教経』の一節「汝等なんだち比丘、我が滅後に於いて、まさに波羅提木叉はらだいもくしゃを尊重し珍敬ちんぎょうすべし。闇に明に遇い、貧人の宝を得るが如し。當に知るべし、此れは則ち是れ汝等が大師なり」であったと思われますが、それは受戒について言われたものでは決してありません。すなわち、正当な根拠に成り得ないものです。

これは結局、他に授けるならば自身らが受けていなければ恰好がつかない、その戒脈が成立しない、ということへの、いわば辻褄合わせで行ったことであったのでしょう。いや、通受により比丘となった者と別受で比丘となった者とは別物である、戒体が異なる、などと覚盛が定義してしまっていた以上、どうしても自身たちも別受を受けていなければ他に授けることは出来ず、整合性がとれないことを意識した上で辻褄合わせであったと思われます。

しかしながら前述したように、叡尊の後代の末弟は、叡尊らがそのような無理を押してまで別受を始行したその意図を汲むことが出来なかったようで別受の伝統を継承しておらず、むしろ通受こそ正当であって別受に優越する正統なものとして行じ続けています。

その慣例はまた、室町や安土桃山など戦乱の世を経る中で再び滅んでしまった律の伝統を、ようやく天下泰平を迎えようとしつつあった慶長の世に再度復興した槇尾山の門流にそのまま受け継がれました。いや、その最初の人である明忍は、叡尊らと同様に、あるいはまさに叡尊の遺跡に倣って別受を志向しています。

叡尊らが(非常に奇妙な形ではあったものの)実際に別受を始行し、また明忍が別受を受けることと始行することを強く望んでいたことは、そもそも彼らが常に依拠してきた『四分律行事鈔』などの著者で南山律宗祖であった道宣がとってきた本来の授戒法が別受であるためです。そもそも、その根本である律蔵において、自誓受によって比丘に成るなどとどこにも説かれていません。そのようなことからしても、仮に自誓受で比丘となった者であったとしても、重ねて別受を受けんとする志を持つことは自然なことです。

けれども、この流れにおいては別受を標準として継続されることは無く、自誓受によって比丘となった者の数や年限など別受を行う諸条件が充分に満たされた後になっても、自誓受のみが行われ続けました。後続の律僧らは、実際に戒律復興した律僧らの遺志を何故か採らず、自誓受がやはり正統であるとしたのでした。

(ただし、これはもはや笑えない三文芝居であると評すべき話ですが、最初から破戒すること、守らないことを前提とした形ばかりの似非受戒ならば、別受従他受も通受自誓受もごく稀とは言え、律宗の唐招提寺や華厳宗の東大寺、天台宗の延暦寺、現代の真言宗や真言律宗などにて相変わらず行われています。そのようないわば茶番受戒を、現今の日本の僧職者らがしかつめらしい顔をしながら受けているその様は、吉本新喜劇のような笑えない喜劇という他ありません。)

さて、少々本題からそれましたが、戒律復興を成し遂げた最初の人々、すなわち嘉禎二年〈1236〉の覚盛や叡尊ら四人、そして慶長七年〈1602〉の明忍や慧雲など五人ですが、彼らがやむを得ず自誓受という手段によってそれをなしたが故に一つの疑問が生じます。上に示したような新学の比丘に必須とされた最低五年間の依止を、彼らはどのように過ごしたのか、という疑問です。

結論から言うと、彼らには依止すべき先輩比丘がそもそも存在していなかったため、正しく五年の依止を過ごすことは不可能でした。『四分律』および道宣の『四分律行事鈔』など幾度も読み込んでいた彼らが、新受戒の者には五年の依止が必須であるという規定を知らなかったなどということは全くありえず、必ずこの問題を意識していたに違いない。しかしながら、そこでこれを律師らがいかに理解し、そのような不可能な状況で五年という期間を過ごしたのか、それを具体的に示す彼ら自身の文書が管見では無いため、残念ながら今知ることが出来ません。

そしてこれが、先に述べた賢俊良永の受具後一夏で依止を離れようとし、実際に離れてしまった、という問題に繋がることとなります。

賢俊の主張の要は、自誓受による得戒における和上とはあくまで釈迦牟尼であって、自身の和上は釈迦牟尼に他ならない。よって依止は釈迦牟尼につくのであって、具体的には直に戒や律の波羅堤目叉などを鑑として真摯に五年以上学ぶことによって果たし得るというものであった、と言われます。この賢俊の主張には一理あります。

まず、嘉禎の昔に覚盛によって考案された自誓受という受戒法では、本来は生身の十夏以上を過ごした上座比丘を和上とすべきところを釈迦牟尼としたものです。したがって、理屈の上では「私の戒和上は釈迦牟尼である」などということは出来ます。そして、今述べたように、戒律復興を成し遂げた最初の律師らが、実体ある上座比丘に依止して何事か学んだわけではありませんでした。

中世にしろ近世にしろ、その最初の人には、律蔵は言うまでもなく、主に南山大師の諸著作に依り、鎌倉期の場合は俊芿など入宋僧から宋代の支那において行われていた法式・行儀を学んで取り入れ、また江戸期の場合は西大寺にて形式的に学問として伝わっていた律学を学ぶなどしていたに過ぎず、正しく五夏の依止を経た者など一人としてありません。そもそもそれが可能な状況であれば、通受によって比丘となりえるとする根拠を主に諸仏典(法相唯識の典籍)からひねり出し、その術を考案する必要など全く無かったのですから。

凡鈔出之趣更无他事。時代及末佛法至衰。雖欲作別受之軌則依无授與之師範。成就比丘等戒不能爲佛弟子。依之設雖无好師。依通受之軌則或自誓受從他。隨應爲令成七衆性而建立僧寶久住佛法也矣
およそこの鈔〈『菩薩戒通別二受鈔』〉にて主張した趣旨は他でも無く、世も末となって仏法は衰微し、別受の軌則を行おうと欲したとしてそれを授与しえる師範が無く、したがって比丘等の戒を成就して仏弟子となることは出来ないこと〈東大寺等における戒壇院での受具を否定した一節〉にある。これによって、たとい(別受を行い得る)好師が無いとしても、通受の軌則に依ってあるいは自誓受あるいは従他受により、まさに七衆の性を成就して僧宝を打ち立て、仏法を久住せしめる。

覚盛『菩薩戒通別二受鈔』(日蔵 vol.13, p.513b)

戒律復興する術としての通受自誓受という受法自体が、考案した覚盛自身が緊急避難的・便法として創始したものであったのです。

賢俊におけるもう一つの大きな問題点は、彼が受具した慶長十六年の安居を終えた時には、「和上は釈迦牟尼」であるにしても、晴れて十夏を終えた現実に依止阿闍梨となりえる人が存在していたことです。慧雲および玉圓です。しかも、慧雲は賢俊のただしく沙弥出家した際の師です。また玉圓は、詳しいことが全く伝えられていない人ではあるのですが、明忍らと共に初めて自誓受による戒律復興した五人の同志の一人です。

そこで、賢俊が一夏で槇尾山を離れると主張しだしたのが夏安居を終えた直後の慧雲および玉圓が存命時のことであったのか、あるいはその二人が亡くなった後のことであったかで、話は大きく変わります。いまだ存命時にそのような主張をしたのであれば、それはいわば賢俊の自己勝手な我儘に過ぎません。

しかしもし、それが二人の亡くなった後(慧雲は慶長十七年二月二日没、玉圓は同年四月十八日没)であったならば、賢俊が依止すべき現実の人を失ったことになり、ならばもはや槇尾山に残る理由もなくなります。それら先達が死去したならば、槇尾山に残ったのは賢俊と同年同日に通受自誓受した新比丘だけであるからです。玉圓が亡くなったのが結夏(夏安居の開始)以降であったことからすれば、その可能性は低いように思います。が、それも玉圓の最晩年がどのようなものであったかに関わることであって、判断しかねることです。そもそも、賢俊がいつそのような争議を起したのか、菲才は今のところ知りません。

ただし、賢俊のとった行動の決定的に誤りであったのは、実際のところそのどちらが京都所司代に訴えでたのか知れませんが、僧伽内での諍論の解決を政治権力に委ねたことです。実は律(二百五十戒)において、僧伽内でなんらか諍論が生じた際の解決法が定められており、それを七滅諍法しちめつじょうほうといいます。持戒持律を志す者ならばなおさら先ず必ず従うべき、破僧を防ぐための重大な規定です。が、彼はそうせずしてその解決を政治に委ね、結果的に不合理な裁定が下されています。

この賢俊の行動について、従来のあり方を変えた革新的なものであるとか、誰でも正しく比丘となるための自由さを増した進歩的なものであったとか評価する輩もあります。しかし、それは彼が持戒持律を志した人であったことに決定的に矛盾し、また律蔵からの観点だけでなく日本の律宗などに継承された支那の南山律宗の教学面からも到底認められないものでした。

賢俊がただ一夏を過ごしただけで槇尾山を独り離れた後、高野山に圓通寺を開き律学の道場として門弟を育て、また法隆寺北室院も律院僧房としたことによって興律運動を他宗にも波及させるなど、その初期における重要な役割を果たしたことに間違いはない。しかしながら、それは一夏で依止を離れて良いとしたことによってこそ行われたものでは決してなく、そこに不可分の因果関係を認めることなど出来はしません。事実、正しく五夏を過ごした慈忍などその他律僧も同様に、他宗に興律運動を波及させる大きな力となっています。

さて、自誓受という受戒法が、それが本来の正統なものではない、印度でも支那でも無かった日本独自のものであったが故に上述の問題を生じ、いや、ここではあえて深入りしませんが、実は今述べた以上の問題を様々に生じさせていました。

近世における興律の実際

賢俊が従わなかった受具後の最低五年以上は和上もしくは阿闍梨のもとで依止しなければならない、という新受戒の比丘の義務を、恣意的にたった一年で良いとした規定については後日談があります。

その後に賢俊の弟子で泉州大鳥山神鳳寺を四方僧坊として開いた真政圓忍を継ぎ、その第二世となった快圓は、その僧坊において受具した者は必ず五年間依止しなければならないことを寺規として明文化して制しているのです。

あるいは、戒律復興の黎明期であって実際に平等親王院の体制も完全に整っていなかったからこそ、賢俊が為したような無理も通ったのでしょう。けれども、しかしすでにその修学・修行面で一定程度組織化され、安定したあり方をなした時には、やはり賢俊の主張は、その弟子からも律蔵に照らしてありえない無理筋であると捉えられ、結局はあくまで律蔵を基準とすることになったと思われます。

とは言え、この依止ということについて、江戸後期にはかなり緩んでいたようで、慈雲尊者などはそれがどこのことかは明らかにしていないものの、相当厳しい批判を展開しています。

近世、戒律復興の波は中世を起点とする西大寺系統の律宗のみならず、真言・禅・天台・浄土・法華など諸宗にも及んで、江戸中期にはいわば一種の流行となっていました。しかしながら、その内実を窺ったときには、それは所詮「流行」であったようです。それはただ名目上だけのことであって相当乱れた、持戒持律のそもそもの意義や目的など全く失われていたものが多かったことが知られます。

飲光曰。今時稱僧坊者。情不忘自他法分彼此。假令非法犯戒者。於彼彼寺受戒者爲彼彼一派。如法如律者。若他山受戒者。謂之他派而不許執法務與人依止等。滔滔者天下皆是。相傚爲俗。強諌反增瞋恚。嗚呼寂滅性中妄起業種。平等法中反生隔歴。生死實可悠遠而已。又今時稱依止者實可笑耳。弟子不請 律佛制使請而不知請 師不與 律佛制。若比丘師德具。則衆僧與畜衆。自是已後得度弟子。新學比丘入寺乃至一夜不許無依止。弟子請之而師與依止。具有其法。師資總不知。 不問路遠近 律中限一日往還 師不勘弟子。弟子不擇師德。至於甚。師問弟子以財賄有無。弟子擇師量名聞高下。爲沙彌爲比丘寄券衆僧。如奴婢口券爾。夫僧坊之立制者是佛法之命脈。師資相仍者僧伽之勝業。若欲使如來正法不墜於地者。則請須少留意也。
 飲光〈慈雲〉曰く、今の時代に僧坊を称する者らは、人情〈慈雲にとって、いや、仏教において「人情」とは決して従い依るべきでない、判断基準としてはならないもの〉でもって自他を差別することを忘れず持ち込んで、法を彼れ此れと分け隔てている。たとえ非法・犯戒の者であっても、彼らの寺で受戒した者であれば彼らの一派であるとしている。如法・如律の者であっても、もし彼が他山にて受戒した者であれば彼を「他派〈よそ者〉」と言い、その寺で法務を行ったり、若い比丘の依止となること等を許さないのだ。天下すべてがこのような有り様である。皆が揃って俗人と何ら変わりなく、もしこれを敢えて諌めたならば、むしろ(諌めたものに対して)怒りを増す。 嗚呼、(生死輪廻から脱せんと)寂滅を求めるのが本質の(仏陀の教えの)中において、妄りに(さらに苦しみの生死を引き起こす)業の種を蒔き、平等の法の中において、むしろ別け隔てする。(彼らの)生死の苦しみはまさに悠遠に続くと言う他ない。
 また、今の時代にて「依止」と言われている者については、まこと失笑を禁じ得ない。その弟子は(依止を)請ぜず 律蔵に(依止を)請じなければならないと仏陀が定められているにも関わらず、その「請うこと」自体を知らない。、その師は(依止を)与えず 律蔵に、もし比丘が師たりえる徳を具えているならば、衆僧はその比丘に弟子を取らせることを仏陀は許された。その時以降、(比丘は)弟子を取って得度させることが出来るようになった。(具足戒を受けたばかりの)新学比丘は寺に入ったならば一夜として依止師の無い状態は許されない。弟子は依止を請じ、師は依止を与えるのである。それについて詳細な定めがある。にも関わらず、(今時の僧徒は)師もその弟子も総じて無知である。、路〈外出先〉の遠近を問わず 律蔵にて一日で往復できる距離に限ると定められている。、その師は弟子(の資質)について何も考えず、その弟子は(入門する前に)その師となる者に徳があるかどうか考慮すらしない。甚だしきに至っては、師となる者が弟子となろうとする者に対して財産の有無を問い、弟子となろうとする者は師を選ぼうとする時にただ世間における名聞の有る無しをのみ判断基準としている。沙彌となり、比丘となろうとするのに衆僧に券を送ることなど、奴婢の口券のようなものであろう。
 そもそも僧坊の立制〈律蔵の諸規定〉は仏法の命脈である。(仏教僧として本来あるべき)師と弟子とが相い支え合うあり方は僧伽の勝業〈優れたあり方〉である。もし如来の正法を地に墜とさせぬと願う者は、ここに請う、すべからく多少なりとも(戒律が仏法の命脈であること、師と弟子とのあるべきようを)留意すべきことを。

慈雲『根本僧制』

およそ仏教においては通じて、その師弟関係は極めて重要なものであると言われます。その基は、上に示した仏陀釈尊の昔における和上と弟子、阿闍梨と弟子との関係が重要視されたことにあります。そしてそれは、ただ頭を剃って衣を着ただけの無知無能の僧の存在を許さないためで、出家後十年以上の経験あり、智慧・知識あって優れた者こそが弟子を持って、これを育て得るというのが仏教僧における教育のあり方です。

このような仏教本来の師弟のあり方を示せばたちまち、「そんなことは理想に過ぎない」・「所詮、それは文字上のことで現実はそうはいかない」・「時代が違う」などといった反論を試みる者がきっとあることでしょう。

しかし、それは現代においてもなお、セイロンなど南アジアやビルマやシャムなど東南アジアにおける僧院において連綿と行われており、まさに現実のものとしてそこここで目にすることが出来るものです。それはまさに世俗の父子関係のように、互いを信頼し尊敬し合う和上と弟子、阿闍梨と弟子との姿です。そのような姿は、チベットにおいても学問寺などではないむしろ小寺院や、決して長い伝統などあるわけでもないベトナムやシンガポールや台湾における仏教寺院においてすら、等しく同様に見られるものです。

いや、それは仏教と縁深かったアジア諸国においてだけ見られることではなく、まったくその歴史など存せずとも現代熱心な仏教徒の存在が比較的多く見られるようになってきたイギリスにおいてすら、かなり厳格にその伝統と規定が守られています。

現在の日本において、仏教における師弟関係の厳しさ、重要さを言う僧職者らは多くあります。それはしかし、「師が黒いカラスを白だと言ったならば、弟子は黒であろうと白だと言え」というが如きもので、悪い意味で儒教的・封建主義的で、お話にもならないむしろ非仏教的あり方を是とするものとなっています。

あるいは、戦後あたりまえのように、なし崩しに世襲制をとってきた日本仏教では、師匠とで弟子とは、大体が文字通りの親と子であって、日本の親子関係がおおよそそうなっているように、そこには互いに信頼し尊敬し合う関係など無いことも少なからず関係していると考えられます。

今、日本は再々度、明治・大正のの廃仏毀釈と富国強兵そして大東亜戦争を経験する中で戒律の断絶した時代を迎えて久しく、依止を求める以前の状況となっています。そんな中にあって、たとい知識のみであっても依止などといった仏教における真の師弟関係のあり方、師資相承というもの真相をこれによって知る人があれば、いつかまた律幢を挙げる人が現れることの機縁の一つとなるに違いありません。

なんとなれば、このような仏教における本来の師弟のあり方を通してこそ、仏教が生きたものとして社会に行われ、また継続されていくものであるからです。

小苾蒭覺應 拝記