在唐記
圓仁記
《中略》
短上阿。以下初字皆短上。
長阿。開口呼之。初去後平之勢。以下第二字皆准之呼之。
短伊上
長伊。初去後平。
短乎。々字以本鄕音呼之。下准之。
長乎。
短衣。々字以本鄕音呼之。下准之。
長哀。々字以本鄕音呼之。初阿後伊之勢。
短於。々字以本鄕音呼之。
長奥。初是阿聲。後是本鄕乎字聲。
短阿暗友〈反の写誤〉。
短阿。此阿聲是似本鄕阿字音。放氣急切呼。不同初短阿聲。
短阿哩。齒不大開合呼。下長阿里准。
長阿利。
短離。々字以本鄕音呼之。齒不大開合呼之。長離准之。
長離。
以本鄕加音呼之。下字亦然。以下諸字皆去呼之。
斷氣呼之。
本鄕我字音。下字亦然。但皆是去聲。
斷氣呼之。
本鄕鼻音之我字音呼之。
本鄕佐字音勢呼之。下字亦然。但皆去聲。此字輕微呼之。下字重聲呼之。
斷氣呼之。
引佐反。下字准此呼之。
斷氣呼之。
爾也反 爾也兩字以本鄕音呼之。
吒。舌音吒字。以唐音呼之。姹字亦然。
姹。斷氣呼之。
拏。以本鄕陀字音勢呼之。但加舌下荼。
荼。此字斷氣。
拏鼻音。上下齒不開。合呼之云阿奈。此阿奈兩字用本鄕音。
哆。齒音。以本鄕多字音呼之。下字亦然。但皆加齒音。
他。斷氣。
以本鄕陀字音呼之。伹加齒。下字亦然。加齒音。
陀。斷氣。
以本鄕陀〈那の写誤〉字音呼之。伹加鼻音。
唇音。以本鄕波字音。呼之。下字亦然。皆加唇音。
波。斷氣呼之。
以本鄕婆字音呼之。下字亦然。
婆。斷氣呼之。
但用本鄕麻字音呼之。但加鼻音。
伊野反。以下諸字皆去聲。
阿羅反。
以本鄕羅字音呼之。
以本鄕婆字音呼之。向前婆字是重。今此婆字是輕。有人以唐國嚩音呼之。甚錯。問兩婆字其樣圖有何異耶。菩提三藏答有云曰。前婆字懷裏濶。此婆字裏狹。
以本鄕沙字音呼之。伹唇齒不大開。合呼之。
以大唐沙字音勢呼之。伹是去聲。唇齒不大開。合呼之。
以大唐娑字音勢呼之。但去聲呼之。
以大唐賀字音勢呼之。
〈の写誤〉 呂牟反。兩字以本鄕音呼之。
葛叉。兩字依唐國音呼之。已上字母隨南天寶月三藏學得。
《以下略》
底本:『大日本仏教全書』
(但、淳本に依る)
圓仁記
《中略》
長の阿。口を開て之を呼べ。初め去、後ち平の勢。以下、第二字は皆な之に准じて之を呼べ。
長の伊。初め去、後ち平。
長の乎。
短の衣。々字は本鄕の音を以て之を呼べ。下、之に准ず
長の哀。々字は本鄕の音を以て之を呼べ。初め阿、後ち伊の勢。
短の於。々字は本鄕の音を以て之を呼べ。
長の奥。初め是れ阿の聲、後ち是れ本鄕の乎字の聲。
短の阿。此の阿聲は是れ本鄕の阿字の音に似たり。氣を放て急切に呼べ。初めの短の阿の聲に同じからず。
短の阿哩。齒、大いに開かず合して呼べ。下の長の阿里、准ぜよ。
長の阿利。
短の離。々字は本鄕の音を以て之を呼べ。齒、大いに開かず合して之を呼べ。長の離、之に准ぜよ。
長の離。
本鄕の加音を以て之を呼べ。下字も亦た然なり。以下の諸字、皆な去に之を呼べ。
斷氣して之を呼べ。
本鄕の我字の音。下の字も亦た然なり。但し、皆な是れ去聲。
斷氣して之を呼べ。
本鄕の鼻音の我字の音に之を呼べ。
本鄕の佐字の音勢に之を呼べ。下字も亦た然なり。但し皆な去聲。此の字、輕微に之を呼べ。下字は重聲に之を呼べ。
斷氣して之を呼べ。
引佐の反。下の字、此に准じて之を呼べ。
斷氣して之を呼べ。
爾也の反。爾也の兩字、本鄕の音を以て之を呼べ。
姹。斷氣して之を呼べ。
荼。此の字、斷氣せよ。
拏。鼻音。上下の齒、開かず合して之を呼んで阿奈と云ふ。此の阿奈の兩字、本鄕の音を用ふ。
哆。齒音。本鄕の多字の音を以て之を呼べ。下の字も亦た然なり。但し皆な齒音を加ふ。
他。斷氣せよ。
本鄕の陀字の音を以て之を呼べ。伹し齒を加ふ。下の字も亦た然なり。齒音を加ふ。
陀。斷氣せよ。
本鄕の陀〈那の写誤〉字の音を以て之を呼べ。伹し鼻音を加ふ。
唇音。本鄕の波字の音を以て、之を呼べ。下の字も亦た然なり。皆な唇音を加ふ。
波。斷氣して之を呼べ。
本鄕の婆字の音を以て之を呼べ。下の字も亦た然なり。
婆。斷氣して之を呼べ。
但だ本鄕の麻字の音を用て之を呼べ。但し鼻音を加ふ。
伊野の反。以下の諸字、皆な去聲。
阿羅の反。
本鄕の羅字の音を以て之を呼べ。
本鄕の婆字の音を以て之を呼べ。向前の婆字は是れ重。今の此の婆字は是れ輕。有る人、唐國の嚩音を以て之を呼ぶ。甚だ錯りなり。問ふ、兩婆字の其の樣の圖、何の異り有るや。菩提三藏答へ有て云て曰く、前の婆字は懷裏濶く、此の婆字は裏、狹なりと。
本鄕の沙字の音を以て之を呼べ。伹し唇・齒、大いに開かず、合して之を呼べ。
大唐の沙字の音勢を以て之を呼べ。伹し是れ去聲。唇・齒、大いに開かず、合して之を呼べ。
大唐の娑字の音勢を以て之を呼べ。但し去聲に之を呼べ。
大唐の賀字の音勢を以て之を呼べ。
呂牟の反。兩字、本鄕の音を以て之を呼べ。
葛叉。兩字、唐國の音に依て之を呼べ。已上字母、南天の寶月三藏に隨て學び得たり。
《以下略》
《凡例》
『字記』=智廣『悉曇字記』
『字母』=不空訳『瑜伽金剛頂経釈釈字母品』
『釈義』=空海『梵字悉曇字母并釈義』
円仁(後述)が在唐中に学び得た特に密教に関わる諸々の事項、おそらく円仁が疑問に思い師に尋ねて得た答えの箇条書き。その中間に円仁が印度僧宝月から学んだ梵字悉曇の発音の要を、主として漢語でなく平安初期の日本語の音を以て簡略端的に記している。本稿はその箇所をのみ抜粋して示すもの。▲
平安時代前期の僧。下野の壬生氏出身。十五歳で比叡山に上って最澄に師事。弘仁五年〈814〉、廿一歳のとき天台の年分度者となって出家し、同七年〈816〉、廿三歳で東大寺戒壇院にて受具し比丘となった。ほとんど多くの同門が最澄の元を離れて法相宗などに移籍する中、同十三年〈822〉に最澄が死去するまで離れず仕えた。最澄の死後、天台宗がその後継者を巡って内紛を繰り返していた間の動向はよく知られていない。その十四年後となる承和三年〈836〉に還学請益僧に選ばれるも二度と口失敗し、実際に渡航を果たしたのは同五年〈838〉六月のことであった。しかし、その目的の一つであった天台山に行くことは許されず、また長く在留することも許可されなかったため遣唐使一行から離脱して不法滞在。以来九年、唐の各地を訪ねて密教や梵字悉曇を受法した。主目的であった密教の受法を果たした円仁は帰国を幾度も願うも許されず、しかし武宗による廃仏(会昌の廃仏)に遭って強いて還俗させられた上、国外追放となった。円仁は帰国直前に再び出家し、多くの文物と共に朝鮮半島を経由して、承和十四年〈847〉に帰朝した。帰国後、唐における紀行録を『入唐求法巡礼行記』巻四として著したが、それは日本人初の旅行記。仁寿四年〈854〉に第三代延暦寺座主に就き、貞観六年〈864〉一月十四日入寂。享年七十一歳。
円仁が唐で梵字を学んだのは、揚州開元寺に来訪していた長安西明寺の宗叡、揚州開元寺の全雅、長安青竜寺に逗留していた南印度僧の宝月(および北印度僧の難陀)、そして大安国寺の元簡。▲
異体:
Devanāgarī: अ
Roman : a ▲
『字記』:短阿字上聲短呼音近惡引
『字母』:阿上
『釈義』:阿上聲呼
伝統的に、悉曇(母韻)には六韻(通摩多)および二韻(別摩多)あって各々に短・長あり、十二字および四字に分けられる。すなわち「a / ā」・「i / ī」・「u / ū」・「e / ai」・「o / au」・「aṃ / aḥ」および「ṛ / ṝ」・「ḷ / ḹ」の計十六字。ここでは字以下、それら通摩多と別摩多がまず示される。
なお、「短」とは、実際にその音の短長を意味せず、それら一韻のうち前者であることを云う。ただし「aṃ / aḥ」は、すでに母音+子音であって純粋な母音でないが、本書ではそのいずれも「短」として扱われている。
「上」は漢語における声調、いわゆる四声(ししょう)のうち上声(じょうしょう)であることを示す。▲
通摩多六韻十二字および別摩多二韻四字のうち短音の字。
『悉曇字記』「義淨三藏云上之三對上短下長下之三對上長下短」(T54, p.1187c)▲
異体:
Devanāgarī: आ
Roman : ā ▲
『字記』:長阿字依聲長呼
『字母』:阿引去
『釈義』:阿去聲長引呼 ▲
円仁は(ā)字など母韻の長音には微妙な声調があると理解しており、初めは去声で発し最後は平声となることを云う。▲
六韻十二字のうち長音の字。▲
異体:
Devanāgarī: इ
Roman : i ▲
『字記』:短伊字上聲聲近於翼反
『字母』:伊引去
『釈義』:伊去聲引呼 ▲
異体:
Devanāgarī: ई
Roman : ī ▲
『字記』:長伊字依字長呼
『字母』:伊引去
『釈義』:伊去聲引呼 ▲
異体:
Devanāgarī: उ
Roman : u ▲
『字記』:短甌字上聲聲近屋
『字母』:塢
『釈義』:塢
本字に充てられた「乎」はいわゆる万葉仮名にて「う(u)」の音を表す。▲
円仁の本国、日本における音。平安時代初頭当時、いわゆる万葉仮名で用いていた漢字音。以下、円仁は音を説明する際、その示す漢字音が日本におけるものである時は必ず「本鄕の」と但し書きする。
本書『在唐記』に大きな価値があるのは、他の入唐僧らと異なり梵字の音をこのように「本郷の音」にて示している点であり、これによって平安初期の入唐僧およびその後進らにおける梵字の発音を推測することが出来る。円仁は入唐した当初、漢語をまったく話せなかったことが知られるが、九年間も彼の地にあったことから帰国直前にはそれなりに会話することも可能となっていたことであろう。しかし、それでも漢語を自在に、流暢に会話できるまではいかなかったのかもしれない。それがため、こうして「本鄕の音」を用いて備忘録としていた可能性がある。
そこでまた副次的に、古代における日本語、いわゆる「いろは」の発音がいかなるものであったかも、梵字と漢字そして円仁のいう「本鄕の音」との対比によって知ることが可能となっている。▲
異体:
Devanāgarī: ऊ
Roman : ū ▲
『字記』:長甌字長呼
『字母』:汚引
『釈義』:汚長聲 ▲
異体:
Devanāgarī: ए
Roman : e ▲
『字記』:短藹字去聲聲近櫻係反
『字母』:曀
『釈義』:曀
本字に当てられた「衣」の読みは本郷の音であり、すなわち「え(e)」である(ゑ(we)ではない)。しかし、梵語として本字は必ず長母音であって、いわば「えー」と引き伸ばして発せらるべきもの。しかし、円仁は「短」としてそれを指摘していない。そこで考えられる可能性は二つ、円仁の錯誤あるいは記述忘れか、当時の「え」の音は今の「え」より長く、言語学でいうところの2 moraであったかのいずれか。▲
異体:
Devanāgarī: ऐ
Roman : ai ▲
『字記』:長藹字近於界反
『字母』:愛
『釈義』:愛
哀は「本郷の音」、すなわち「あい」。愛に同じく今と同様。▲
異体:
Devanāgarī: ओ
Roman : o ▲
『字記』:短奧字去聲近汙
『字母』:汚
『釈義』:汚長聲
於は「本郷の音」、すなわち「お」。しかしながら、(o)もまた(e)に同じく長母音であり、必ず「おー」としなければならないが、それを円仁は指摘していない。▲
異体:
Devanāgarī: औ
Roman : au ▲
『字記』:長奧字依字長呼
『字母』:奧
『釈義』:奧去聲引
奥は「本郷の音」を示したもので無く唐音。「本郷の音」としては「初め是れ阿の聲、後ち是れ本鄕の乎字の聲」すなわち「あう」。▲
異体:
Devanāgarī: अं
Roman : aṃ ▲
『字記』:短暗字去聲聲近於鑒反
『字母』:暗
『釈義』:闇
異本では「暗」を「闇」とする。
「阿暗の反」は反切による音の説明。反切とは支那の伝統的標音法で、ある字の音をすでにその音が知られている二つの字を用いて示す。ここではの音が、「阿(a)」と「暗(om)」のそれぞれ頭音と頭音以外すなわち「a」と「m」を取り出し組み合わせて「am」であることを示す。▲
異体:
Devanāgarī: अः
Roman : aḥ ▲
『字記』:長痾字去聲近惡
『字母』:惡
『釈義』:惡
本字について円仁は「本鄕の阿字の音に似たり」としていることから、当時の日本の「阿(あ)」の発声は、入声のような促音に近くつづまった音であったのであろう。本字は今一般に(平安中後期あるいは中世以来?)「あく」などと読まれているが、それが全く誤っていることがこの一節からも明瞭。字だけでなく、他にもvisargaいわゆる涅槃点が付された字を、(涅槃点のあることを示すための慣用的表記としては致し方ないとしても)すべて文字通り「-く」と実際に発音して読むことは愚かな陋習。▲
異体:
Devanāgarī: ऋ
Roman : ṛ ▲
『字記』:-
『字母』:哩
『釈義』:哩彈舌呼
本字はいわゆる別摩多(べつまた)に属する四つの母音の一つであり、したがってここに「阿哩」と二音で示されるのは不合理と思われるであろう。しかし、これは「ṛ」という音が支那および日本に無い音であって彼らの耳にはそのように聞こえ、そこでこれを正確に発音するための工夫であったろう。たとえば現代日本人が不得意とする英語の「ra」を発音させるため時として「ゥラ」と書き、言わせることがあるようなもの。事実、「哩」という漢字自体は、不空がを音写するのに他の「里」などの音と峻別するため新たに創作したもの。円仁はこの音を発するには「齒、大いに開かず合して呼べ」とその要点を記している。実際、そのようにして日本語の「ぁり」と少しく舌を巻いて言おうとすれば、それに近い音を得ることが出来よう。▲
異体:
Devanāgarī: ॠ
Roman : ṝ ▲
『字記』:-
『字母』:哩引
『釈義』:哩彈舌去聲引呼 ▲
異体:
Devanāgarī: ऌ
Roman : ḷ ▲
『字記』:-
『字母』:𠴊
『釈義』:𠴊彈舌上聲
円仁はこれを「本郷の離」すなわち「り(li)」の発音に同じであるという。ただし、と同様に「齒、大いに開かずして合して之を呼べ」とその発音には歯(口)をほとんど開かず「り」と発音すべきことを要としている。そのように(円仁はそれを意識し指摘していないが本来的にはさらに舌を口蓋に反らせる必要があるものの)口の閉鎖度を大きくして発せられた「り」は、今日本で用いられる「り(li)」とは異なった音、すなわち「り(ḷ)」となる。▲
異体:
Devanāgarī: ॡ
Roman : ḹ ▲
『字記』:-
『字母』:𡃖
『釈義』:嚧彈舌長聲 ▲
Devanāgarī: क
Roman : ka ▲
『字記』:迦字居下反音近姜可反
『字母』:迦上
『釈義』:迦上聲引
この記述から「本郷の加」すなわち平安時代初頭の「か」の音は、現代日本語の「か」と同じであったことが知られる。
円仁は以下に示す子音いわゆる体文(体文)はすべて去声であるとしている。しかし、それは印度の不空(『字母』)や支那の智廣(『字気』)、そして日本の空海(『釈義』)の理解・記述とは大きく異なる。▲
Devanāgarī: ख
Roman : kha ▲
『字記』:佉字去下反音近去可反
『字母』:佉上
『釈義』:佉上呼
本書において円仁が用いる「斷氣」すなわち「氣を斷て」という表現は、今の音声学でいうところの有気音(帯気音)であることを示す。ここでは「本郷の加」すなわち「ka」を帯気させ、有気音すなわち「kha」とすべきこと。以下にも「斷氣」との語がいくつか用いられるが同様。なお、支那では無気音と軽音、有気音を重音とする表現が用いられていた(『悉曇字記』)が、それもまた円仁は「重聲」などとして後に用いている。▲
Devanāgarī: ग
Roman : ga ▲
『字記』:伽字渠下反輕音音近其下反餘國有音疑可反
『字母』:誐上
『釈義』:誐去引
この記述から当時の「我」すなわち「が」が、現在の「が(ga)」と同じ発音であったことが知られる。▲
Devanāgarī: घ
Roman : gha ▲
『字記』:伽字重音渠我反
『字母』:伽去引
『釈義』:伽
「我(ga)」の断気、すなわち「gha」。▲
異体:
Devanāgarī: ङ
Roman : ṅa ▲
『字記』:哦字魚下反音近魚可反餘國有音魚講反
『字母』:仰鼻呼
『釈義』:仰鼻聲呼
(ṅa)の発音を強いて今の日本語で表記すれば「んが」となるが、これを円仁は「本鄕の鼻音の我」と的確に表現している。そしてこの記述から当時の日本語に「ṅa」の音が無かったことが知られよう。日本で中古以来、本字を「ギャウ」などと読むのは誤解の甚だしきもの。▲
Devanāgarī: च
Roman : ca ▲
『字記』:者字止下反音近作可反
『字母』:左
『釈義』:遮上聲
ここで円仁は(ca)に「本鄕の佐」、今言うところの「さ」を充てていることから、当時の日本語の「さ」は「ca」に該当、あるいはそれに非常に近い発音であったことが知られる。すなわち「あいうえお」の「さ行」は当時、「ちゃ・ち・ちゅ・ちぇ・ちょ」と発音していたと考えられる。
また、他書は字に対して「者」・「左」・「遮」とそれぞれ異なる字を充てているが、これにより唐代の字音もまた「ca」あるいはそれに非常に近い発音であったこともわかる。▲
円仁は特に字についてのみ「輕微に之を呼べ」と但し書きしているが、これは下字のとの対比を強調するためのものであろうか。あるいは「ca」が梵語の初めに出される拗音であることから特記したか。▲
断気した音。智廣は「重音」と表現する。▲
異体:
Devanāgarī: छ
Roman : cha ▲
『字記』:車字昌下反音近倉可反
『字母』:磋上
『釈義』:磋上聲
「佐(ca)」の断気、すなわち「cha」。▲
異体:
Devanāgarī: ज
Roman : ja ▲
『字記』:社字杓下反輕音音近作可反餘國有音而下反
『字母』:惹
『釈義』:惹
「本鄕の音」と特記していないことから唐音での反切であろう。しかし、(ja)を示すのに、父字を「引(yín)」としていることは不審。あるいは当時、「引」の頭子音が「j」であったか?未詳。▲
Devanāgarī: झ
Roman : jha ▲
『字記』:社字重音音近昨我反
『字母』:酇去
『釈義』:鄼上聲
「引佐の反」の断気、すなわち「jha」。▲
異体:
Devanāgarī: ञ
Roman : ña ▲
『字記』:若字而下反音近若我反餘國有音壤
『字母』:穰上
『釈義』:孃上聲
「爾也の兩字、本鄕の音を以て」であることから「爾(に)と也(や)」の反切。しかし、円仁が本郷の音での反切という場合、支那のそれとは用法を異にし、単純に二字を合して一音とするかのようである。すなわち本字の場合は「にや(niya)」。円仁はñaの音を二音節で理解していたか。
円仁より後代、おそらくは平安中期頃から日本ではこれを「じゃう」であるとか「ざ」などの音と理解してきたがもちろん明らかな誤りで、それは音訳として充てられた漢字「若」・「穰」・「孃」を漢音にて理解したことによる。ただし、ここでおかしなことが起こる。「若」の日本における呉音読みは「にゃ」、漢音読みは「じゃ」。そして「穰」・「孃」の両字は「にゃう」あるいは「にょう」で漢音は「じゃう」または「じょう」であり、(ña)字の原音に照らせば呉音のほうが近く、むしろ漢音は音質すら異なって程遠い。しかし『字記』・『字母』は盛唐、『釈義』は平安初期に書かれたもので、唐での音を反映したものであり、それがいわゆる日本での漢音であった。これと同様の事態は他の字でも散見される。したがって、これら梵字に充てられた音訳を、単純に日本の呉音・唐音で考証することは出来ない。▲
異体:
Devanāgarī: ट
Roman : ṭa ▲
『字記』:吒字卓下反音近卓我反
『字母』:吒上
『釈義』:吒上聲 ▲
悉曇学において五類声といわれる五つの調音部位を規定するうちの第三、舌声(mūrdhanya)。以下の五字も同様。
舌を反り口蓋に触れさせて発する音。現代の音声学にいうところの反舌音(retroflex)。『字記』などすべて「吒」としていることからも、当時の支那での吒は「ta」の反舌音すなわち「ṭa」であったことが知られる。▲
唐代の支那における漢字音。▲
異体:
Devanāgarī: ठ
Roman : ṭha ▲
『字記』:侘字拆下反音近折我反
『字母』:咤上
『釈義』:咤上
断気と強調されており有気音、すなわち「ṭha」。▲
Devanāgarī: ड
Roman : ḍa ▲
『字記』:荼字宅下反輕音餘國有音搦下反
『字母』:拏上
『釈義』:拏上 ▲
当時の日本の「陀」が今の「だ(da)」と同じであったことがここから知られる。もっとも、「ただし舌を加ふ」と但し書きしていることにより「だ」であっても全く同じでなく、これが反舌音すなわち「ḍa」であって実は異なることを強調している。▲
淳祐本ではここで途切れ意味不明であるが、異本には続いて「字亦然」とあり、すなわち「下の荼字も亦た然なり」となる。次の字の荼もまた「舌を加ふ」る反舌音であること。▲
異体:
Devanāgarī: ढ
Roman : ḍha ▲
『字記』:荼字重音音近幢我反
『字母』:荼去
『釈義』:荼去
「反舌音の荼」(ḍa)の断気、すなわちその有気音の「ḍha」。▲
異体:
Devanāgarī: ण
Roman : ṇa ▲
『字記』:拏字搦下反音近搦我反餘國有音拏講反
『字母』:拏尼爽反鼻呼
『釈義』:拏陀爽反仍鼻聲呼 ▲
ここで円仁が言っているのは「本郷の音」を用いて「阿奈」すなわち「あな」とはっきり発音せよというのでなく、それを口を開かず舌を用いて発しようとせよ、との意。それによって確かに正しく反舌音であり鼻音の「ṇa」の音を再現することが出来るであろう。▲
異体:
Devanāgarī: त
Roman : ta ▲
『字記』:多字怛下反音近多可反
『字母』:多上
『釈義』:多上 ▲
五類声の第四、歯声(dantya)。歯および歯茎と舌との間を調音部位とする音。
ここで円仁が字(および以下の五字)を歯音としていることは重要。智廣は『悉曇字記』において五類声を示す中、その順を牙・歯・舌・喉・唇としたが、それは梵語の文法および原語に照らして明らかに誤りを含むものであった。その訳語を用いてその正しい順を言えば牙・喉・舌・歯・唇、すなわち第二と第四とが倒錯している。しかし、ここで円仁は以下の五字を「歯音」として正しく認識しており、この点非常に重要である。▲
ここで円仁が(ta)が「本鄕の多」すなわち「た」と同じとしていることにより、当時も今も「た」の音が「ta」であって変化がないことが知られる。またこれが「齒音」であると但し書きしていることもそれが確実であることを示している。▲
異体:
Devanāgarī: थ
Roman : tha ▲
『字記』:他字他下反音近他可反
『字母』:他上
『釈義』:他上
「本郷の多」を断気した音が唐音の「他」であり、すなわち「tha」。▲
Devanāgarī: द
Roman : da ▲
『字記』:𨹔字大下反輕音餘國有音𨹔可反
『字母』:娜
『釈義』:娜
ここで円仁が字が「本鄕の陀」と同じとしていることにより、「だ」はその昔も今も「da」であって変わりないことが知られる。しかし後述するように、「陀」は本来支那で「dha」に充てられた字であった。日本には「だ」に無気音有気音の違いがなく、その異なりをよく認識することも出来ず、無気音で理解され用いられていたのであろう。▲
Devanāgarī: ध
Roman : dha ▲
『字記』:𨹔字重音音近𨹔可反
『字母』:馱去
『釈義』:馱
断気(有気音)の「だ」、すなわち「dha」。▲
異体:
Devanāgarī: न
Roman : na ▲
『字記』:那字捺下反音近那可反餘國有音曩
『字母』:曩
『釈義』:曩
淳祐本はこれを「陀」とするが、先に(da)字に該当するものとして「本鄕の陀」が挙げられており、また異本では「那」とあることから、淳祐による写誤で「那」が正しいであろう。今の「な(na)」と同じ。▲
異体:
Devanāgarī: प
Roman : pa ▲
五類声の第五、唇声(oṣṭhya)。唇を調音部位とする音。(pa)以下の五字。▲
『字記』:波字鉢下反音近波我反
『字母』:跛
『釈義』:跛
円仁がここで(pa)字が「本鄕の波字の音」としていることは極めて重要な意味を持っている。なんとなれば、「波」は「は」を示すものであり、それは今「ha」を表する字であると理解されているが、それが当時は「pa」であったことの明瞭な証となるためである。それが唇音と強調されていることもその重要な根拠。もし「ha」であるならばそれは決して唇音ではない。したがって、本字の発音は「ぱ(pa)」である。
「は」の発音が円仁のあった平安初期には「pa」であったが、しかしやがて平安中期頃にまた変異して「fa」となり、それが近世頃に「ha」となったことが知られる。▲
Devanāgarī: फ
Roman : pha ▲
『字記』:頗字破下反音近破我反
『字母』:頗
『釈義』:頗
「波(pa)」の断気、すなわち「pha」。▲
Devanāgarī: ब
Roman : ba ▲
『字記』:婆字罷下反輕音餘國有音麼
『字母』:麼
『釈義』:麼
こうして円仁がを「本鄕の婆」としていることから、「婆」すなわち「ば」が「ba」であって今と変わらぬことが知られる。ただし、円仁は後述する(va)字もまた同じく「婆」に同じであるとしている。▲
Devanāgarī: भ
Roman : bha ▲
『字記』:婆字重音薄我反
『字母』:婆去重
『釈義』:婆重上呼
「婆(ba)」の断気、すなわち「bha」。▲
Devanāgarī: म
Roman : ma ▲
『字記』:麼字莫下反音近莫可反餘國有音莽
『字母』:莽
『釈義』:莽
こうして円仁がを「本鄕の麻」としていることから、当時の「麻」すなわち「ま」は「ma」であって今と変わらぬことが知られる。▲
Devanāgarī: य
Roman : ya ▲
『字記』:也字藥下反音近藥可反又音祗也反訛也
『字母』:野
『釈義』:野
「本鄕の音」と云わない。唐音であるならば伊(yī)と野(yě)の反切で「yě」。仮に本郷の音であれば、あるいは伊(yi)と野(ya)の反切で「ya」。字の音に充てるには本郷の音が相応しいであろう。▲
Devanāgarī: र
Roman : ra ▲
『字記』:囉字曷力下反三合卷舌呼囉
『字母』:囉
『釈義』:囉
「本鄕の音」と云われない。しかし唐音であるならば阿(ē)と羅(luǎ)の反切で「ēuǎ」が得られるが不合理。ならば本郷の音の反切として「あら」となる。ここで子音一字に「あら」とニ音にて表現することも不合理と思われるが、羅の前に阿の音を付すことは『字記』にも云われる。これは同書に「囉字曷力下反三合卷舌呼囉」とあることにも基づくのであろう。当時の支那人にとって印度のraは反舌音としてもその程度が著しく思われたようで「卷舌呼囉」と特記したものと考えられる。
しかし、ここでの音として日本人の円仁が「阿羅」としたことは、前述の(短の阿哩)および(長の阿利)に同じく、当時も日本語に無かった、その反舌音を再現するための工夫としての表記であったと思われる。▲
Devanāgarī: ल
Roman : la ▲
『字記』:羅字洛下反音近洛可反
『字母』:邏
『釈義』:邏上
ここで円仁がに「本鄕の羅」すなわち「ら」を充てていることから、当時もこれが今の「ら(la)」と同じであったことが判る。▲
Devanāgarī: व
Roman : va ▲
『字記』:嚩字房下反音近房可反舊又音和
『字母』:嚩
『釈義』:嚩
円仁は(va)を、先の(ba)と同じく「本鄕の婆」であるとしている。ただし、(ba)は重であり、(va)は軽であると言っていることから、その両者に異なりのあることは理解していたようである。確かに両者は音声学的には唇音で似た音ではある。しかし「va」は唇を軽く噛んでこそ発音出来るものであって調音方法が「ba」とは全く異なり、したがって音も違う。その違いを軽重で表するならば「va」を重、「ba」を軽とするのが妥当と思われる。いや、そもそも円仁がその発音方法を明確に知り、意識していたならば、軽重などという曖昧な表現は用いなかったであろう。したがって、円仁はこれら両字の調音位置、発声方法に違いのあることを明瞭に意識していなかったと考えられる。
また、現代ならば明治期に福沢諭吉によりvを「ヴ」とする表記が考案され、その異なりを表記としては日本語でも容易にし得るようになったが、当時は他に表する方法がなかったのであろう。▲
ここで円仁の言う「有る人」が誰か不明。しかし、「嚩」という漢字自体が不空によって(va)字の音を正確に表すために作られたものであるから、「甚だ錯りなり」などというのは全くお門違いの本末転倒。▲
同じくその音が「本鄕の婆」とされる(ba)字と(va)字の二字は、音ばかりでなくその字形(図)も似通っていて区別がつけ難く、両字にどのような相違点があるのかという、今現在もしばしば問われる疑問。その回答として以下に示される「菩提三蔵」の答えは、あくまでその字形の異なりについてのものであって発音について云ったものではない。
これは日本の悉曇学における伝統で云われることであるが、(ba)字の場合、その腹部の曲線を描いてその運筆を仕舞う際、上部に引き上げて、その腹部に出来る空間を宝珠(水滴)のような形にせよとされる。(ba)字のいわば腹部は、臨月を迎えた妊婦の腹のような形、下ぶくれの形となる。対して(va)字はその腹部の曲線の描いたその運筆を引き上げず、半月(半円)の空間を作るように筆を仕舞い、最後に縦画を描くべきことが云われる。▲
異本では「菩提勝三藏」。誰を言ったものか不明。あるいは大興善寺の不空の師、金剛智(Vajrabodhi)で、その説として支那で伝えられていたのを記したか?▲
異体:
Devanāgarī: श
Roman : śa ▲
『字記』:奢字舍下反音近舍可反
『字母』:捨
『釈義』:捨
円仁はここで(śa)に「本鄕の沙」を充てているが「沙」は、先にに充てられた「佐」に同じく、当時の日本で「さ」の音を表したものとされる。しかしながら、円仁は「ba」・「bha」・「va」を、それぞれ注記を付してはいるものの同じく「婆」と表記したように、両字に「佐」あるいは「沙」を用いず使い分けている。ということは、円仁はこの両字を「本鄕の」といいながら異なる音を示したものとして扱っていた。そこで「佐」は(ca)字に対応するものとされ、「沙」が(śa)字に対応するものならば、その「沙」は万葉仮名としての沙ではなく、当時の日本人が漢字として読んでいた音であったろう。そしてそれは、厳密にはそれが一音節でなく二音節で発声せられていた可能性もあるが、今我々が表記するところの「しゃ(śa)」であったと考えられよう。▲
Devanāgarī: ष
Roman : ṣa ▲
『字記』:沙字沙下反音近沙可反一音府下反
『字母』:灑
『釈義』:灑
実際は反舌音であって舌を口蓋に反らす必要があるが、円仁の言うように唇・歯を閉塞気味にして発すべき音。▲
Devanāgarī: स
Roman : sa ▲
『字記』:娑字娑下反音近娑可反
『字母』:娑上
『釈義』:沙上 ▲
Devanāgarī: ह
Roman : ha ▲
『字記』:訶字許下反音近許可反一本音賀
『字母』:賀
『釈義』:賀
円仁がここで上二字と同様に「本鄕の音」によって示していないことに注意。したがって、上のとが表す反舌音の「ṣa」と歯音の「sa」が当時の日本語に無かったのと同様、の「ha」も無かった(当時の「は」は「pa」)ことが知られる。そこで外来の「h」音はほとんど「k」に置換されていたものと考えられ、支那でhaを示した「賀」は実際、万葉仮名で「か(ka)」を示すものとして用いられた。▲
Devanāgarī: ळं
Roman : llaṃ
底本はと空点(visarga)が脱落して記載されているが、以下に記される音注からもが正しい。 ▲
『字記』:濫字力陷反音近郎紺反
『字母』:-
『釈義』:-
本鄕の音での反切ならば「ろむ」。本字は(la)を二重結合させたいわゆる当体重字に空点を点じた(llaṃ)。▲
Devanāgarī: क्ष
Roman : kṣa
(ka)と(ṣa)の接合文字(二合)。▲
『字記』:叉字楚下反音近楚可反
『字母』:乞灑二合
『釈義』:乞灑 ▲
『字記』で字母といえばただ体文すなわち子音のみを意味した語として用いられるが、ここで円仁は漢語における三十六字母のように声母の代表的なものとして字母といったようである。▲
南天竺。南印度。▲
Ratnacandra. 宝月。唐長安は青竜寺に居していた印度僧。『入唐求法巡礼行記』によればほとんど漢語を話すことが出来なかったとされる。したがって、円仁が宝月から梵語(サンスクリット)を学んだということはありえず、どのように意思疎通を図ったのかわからぬが、ただなんとかその字と発音をのみ習ったという程度であろう。円仁は入唐してまもなくの開成三年〈838〉、揚州開元寺にて長安西明寺から来訪していた宗叡からすでに梵字を教わっていたが、印度僧から直接その発音がいかなるものかを学んだのは非常に大きな成果であった。円仁は宝月から二度に渡り悉曇を学んだとし、特に「正音を口受」したと自ら述べている。宝月は会昌元年六月、印度帰国を望むもこれを開符(功徳使・僧尼の監督官)を通さずに上奏した罪(越官罪)によって拘束され、帰国は許されなかった。▲