『悉曇字記』とは、唐代の智廣(智広)という僧によって表された梵字悉曇とはいかなるものかの基本を詳細に明かした書です。
著者の智廣がいかなる人であったかはほとんど何も伝えられておらず不明です。本書において自身を「山陰沙門智廣」と称していることから、あるいは越州山陰県(現在の浙江省紹興市周辺)すなわち支那東部の東シナ海沿岸部の人であったかもしれません。ただし、この山陰が何を意味するか古来諸説があり、確かではありません。なお、智廣が山陰沙門と称していることから、その昔の日本では『悉曇字記』を『山陰記』とも称しています。
また智廣は、文殊菩薩の聖地として印度にまで聞こえ信仰されていた北支の五台山に、南天竺から南海経由で来訪していた般若菩提〈Prajñabodhi〉という僧に出逢い、教えを受けたということが本書に記しています。ただその記述からは、智廣と般若菩提が遇ったのが、自身が五台山に元から起居していた、あるいは一時的に過ごしていたところに般若菩提が到来したのか、もしくは般若菩提が五台山に逗留していたところに智廣がたまたま来たってその教えを請うたのか今ひとつ不明瞭となっています。
そして梵字悉曇を智廣に享受したというその般若菩提という印度僧についても、若い頃から(印度にて)般若瞿沙〈Prajñaghoṣa?〉という僧に師事した人であったと、やはり本書に記されている以外には何もわかっていません。
確かであることは、智廣が唐代の人であり、印度出身の不空が唐にて三蔵として活躍して以降、そして日本の空海が入唐する以前に本書を著していたということだけです。というのも、本書で使われている「囉」や「嚩 」などの漢字は不空が特に梵字の音をなるべく正確に写そうと新たに創作したものであり、また空海が本書を日本に初めてもたらしていたためです。したがって本書は750年頃から806年までの間に著されたものです。
大同元年〈806〉、空海は唐は長安にて密教を受法した後、留学僧として十年から二十年程度修学しなければならない慣例を破り、二年足らずで早々に帰国しています。その際、密教関連だけでなく数多の梵典など梵字にまつわる書など数多くの新来の書籍など文物をもたらしており、空海はその目録を天皇に上奏しています。その中に含まれていたのが、支那で書かれた梵字悉曇についての註釈書二部であり、その一つが『悉曇字記』でした。
論䟽章等《中略》
悉曇字記一卷
悉曇釋一巻
《中略》右三十二部一百七十卷含理者也三爻。能敷者也十翼。若闕彖繋龜文何益。況乃一乗理奧義与文乖。不假論疏微言無功。雖有勞載車冀裨乎聖典。
論疏章等《中略》
『悉曇字記』一卷
『悉曇釈』一巻
《中略》右三十二部一百七十卷理を含むものは三爻〈卦. 上中下の三種の記号の組み合わせ〉であり、よく敷く〈ここでは解釈の意〉ものは十翼〈『易経』の註釈〉である。もし彖繋〈「彖伝」と「繋伝」.十翼の一〉を闕いたならば亀文〈亀卜〉に何の益があろうか。ましてや乃ち一乗の理は奧くして、(時として)その義は文〈文字通りの意味〉に乖いている。(そこで)論疏〈註釈書〉を借りなければ微言〈玄奥な言葉〉に功は無い。載車に労することあり〈その分量が多く読解するのに骨が折れること〉といえども、冀は聖典〈経律〉(を理解する)の裨けとなることを。
空海『御請来目録』(『定本 弘法大師全集』, vol.1, pp.27-30)
いずれも空海が初めて日本にもたらした書で、本書は「論疏章等」すなわち註釈書の類として日本に紹介されています。もっとも、残念ながらその一つである『悉曇釈』は現存していません。。
空海は長安の醴泉寺にて罽賓(Kapiśa)の般若〈Prajñā〉と北印度の牟尼室利〈Muniśrī〉という僧のもとで「南天の婆羅門等の説を聞いた」と自ら語っており〈『秘密漫荼羅教付法伝』〉、それに基づいて空海は梵字悉曇を彼らから学び、その実際の発音を耳にしていたと今考えられています。空海がその程がどれほどであったかは置くとしても、直接その発声、発音を聞いて梵語に触れ、梵字を学んでいたということは、現在「伝統的」とされる(時としてその本来からかけ離れた)梵字の読み、発音を考える時、非常に重要な事実です。
なお、近現代の学者には空海がここに挙げる『悉曇字記』は智廣の『悉曇字記』とは違うものであったなどと見なす者が比較的多くありました。というのも、空海はこうしてその題目を挙げているものの、しかし以降の著作でこれに言及したものが全く無い、と見なされていたためです。けれども実は、空海がその後自ら著した『梵字悉曇字母并釈義』において本書の一節を借りた表現があちこちで見られるため、まず間違いなくそれは智廣の『悉曇字記』であったと考えられます。
(『梵字悉曇字母并釈義』については、別項「空海『梵字悉曇字母并釈義』」を参照のこと。)
とは言え、空海は確かに本書を読み学んでいながらもこれを、まったく取り上げていません。その理由はおそらく、空海が本書を真言宗として依拠すべきものとするには不適当であると考えたためであったろうと思われます。なんとなれば空海は当初、梵字悉曇という文字体系自体を「 自然法爾」・「法然」、すなわち誰かに作られたのでもなく無始の昔からあったものであると完全に誤解しており、それに対して本書などでは「梵王の所製」であると(印度における伝承および玄奘『西域記』に基づいて)断言しているためです。そしてまた『悉曇字記』は仏教、特には密教において不可欠な、梵字各字が示すとする字義に全く触れていないためでもあったのでしょう。
大同四年〈809〉、帰国してしばらく大宰府などに留め置かれて京に入ることを許されなかった空海は、ようやく許されて高雄山寺〈神護寺〉に入っています。これを聞いてただちに反応したのが最澄でした。最澄は空海が持ち帰った文物の目録(『御請来目録』)にすでに目を通しており、その中から十二部の経論の借用を空海に申し出ているのです。それは主に密教関連の典籍でしたが、そこに『悉曇字記』・『梵字悉曇章』・『悉曇釈』の三部が含まれていました。
最澄は唐から「梵漢両字仏頂尊勝羅尼 」や「般若心経梵本」、「一字梵字」など梵字で書かれた典籍を十数部、日本にもたらしています。そして最澄は、自ら唐にて密教を受法したと自称し、実際大同三年〈808〉には高雄山寺にて日本で初となる密教の灌頂を実施しています。しかし、最澄は、梵字を唐にて習得していたとする後代の伝説はあるものの、実際のところほとんど全く学んでいなかったと思われます。というのも、その後、空海に前述の典籍を借受け、またさらにその後に密教の受法を懇請した際には自ら「未だ真言の法を学ばず」と言っており、最澄が唐で受法したというのは単に密教の典籍を唐で得てその説を少し聞きかじった程度のことであったようです。
密教の受法には、少なくとも梵字悉曇の読み書きはもちろんその構造など基本的素養が不可欠です。それを欠いた状態で最澄が行ったという灌頂が具体的にいかなるものであったか詳しく伝えられていませんが、ただ名目上のことであって、甚だ怪しいものであったろうと考えられます。
最澄は帰朝してまもなく、翌年の延暦二十五年〈806〉正月廿六日に、桓武帝から天台宗の年分度者二名が許されており、その一人は遮那業すなわち密教を専攻する者とされていました。しかし、自身が受けたと称し朝廷に上奏していた密教とはまったく不完全なものであって、年分度者となった徒弟を教育し得る筈もないものでした。それをよく自覚していた最澄は密教の受法を喫緊の課題としており、当初は自ら空海から受法することを望んでいました。しかし、空海からそれには三年間、みずからの元で専ら修学する必要があると云われたためにこれを断念。そこで徒弟の円澄や泰範などを空海の元に送って入門させ、密教を学ばせています。
結局、最澄は日本に天台宗を立宗したものの、しかし門弟の大多数がまたたくまに離散。望んでいた密教の受法もままならず、また法相宗徳一との激しい論戦を展開する中、門弟の離散を防ぐために大乗戒壇を国に認めさせてようとする政治運動も同時に推し進めています。しかし、それが極めて非常識で印度以来の伝統に乖離し、何より仏教として根拠の無いものであったことから僧綱や諸大寺からの猛烈な批判を受けるなど極めて不安定な情勢のまま、いずれも決着を見ることなく失意のうちに最澄はその生を終えています。
そして最澄が死去するやただちに徒弟らの間で内紛が勃発し、宗内の政争が続くなど先行きの見通せない情勢が続いていました。
(詳細は別項「最澄『山家学生式』」を参照のこと。)
それがようやく落ち着いて後、最澄の宿願であった密教を受法することを課題として円仁、続いて円珍が入唐してその目的を果たすこととなっています。特に円仁は禁を犯して密かに在唐すること九年余り。南天竺の宝月〈Ratracandra〉なる僧から直接梵字を学び、その字形はもちろんその発音に大いに興味を持って習得したようです。
それはその後に入唐した円珍も同様で、日本ですでに『悉曇字記』を初め諸々の『悉曇章』に触れており、入唐時には空海の後に常暁が日本にもたらしていた『悉曇章』〈現存せず〉を携行していたといいます。唐では福州の開元寺にて中天竺の般若多羅〈Prajñātāra〉三蔵から梵字を学んだと伝えられています。そんな円珍はしかし、梵字の極基本的なこともまるで理解出来ていなかったことが、彼の残した『些々疑文』から伺えます。
その後、天台密教を大成させ、また天台宗における悉曇学の礎を確固として築くのは、後述する 安然に至ってからのことです。
日本で初めて『悉曇字記』の註釈書を著したのは宗叡です。
宗叡は、初め比叡山にて天台を学んだ後に南都で法相を学び、また比叡山に帰って菩薩戒を受戒。続いて園城寺にあった円珍の元で両部密教を受法して灌頂を受けた後、さらに東寺に移って空海の弟子の実慧および(実の叔父であったという)真紹の弟子となって伝法灌頂を受けるなど、最終的には真言僧となった人です。その後、真如法親王〈高丘親王. 平城天皇の第三皇子〉が入唐するのに従って自身も唐に渡り、滞在すること三年。諸処で重ねて密教を受法し帰国しています。
宗叡は帰国後、清和天皇の深く帰依するところとなって度々宮中で講経を行い、後の元慶三年〈879〉に帝が禅譲し円覚寺にて落飾する際の師となっています。また、宗叡は貞観十年〈868〉に、師の真紹が建立した京の東山山麓の禅林寺および河内の観心寺 を譲り受けていますが、晩年を過ごしその生を終えたのは禅林寺でした。そのようなことから宗叡は円覚寺僧正、または禅林寺僧正とも称されています。
宗叡は唐に渡って日本に密教を伝えたとされる八人の僧、いわゆる「入唐八家」として挙げられる最後の人です。入唐八家として挙げられる諸僧は、前述したように最澄については甚だ訝しまれるために例外とすべきですが、唐で密教を受法したばかりでなく梵字を唐僧あるいは印度僧から学び、それにまつわる典籍及び学問を平安時代初頭の日本に伝えています。
- | 渡航 | 帰朝 | 滞在期間 |
---|---|---|---|
最澄 [767-822] |
延暦廿三年〈804〉八月 | 延暦廿四年〈805〉六月 | 十ヶ月 |
空海 [774-835] |
大同元年〈806〉十月 | 二年二ヶ月 | |
常暁 [ ? -867] |
承和五年〈838〉七月 | 承和六年〈839〉八月 | 一年一ヶ月 |
円行 [799-852] |
承和六年〈839〉十二月 | 一年五ヶ月 | |
円仁 [794-864] |
承和十四年〈847〉九月 | 九年二ヶ月 | |
恵運 [798-869] |
承和九年〈842〉?月 | 承和十四年〈847〉六月 | 約五年 |
円珍 [814-891] |
仁寿三年〈853〉八月 | 天安二年〈858〉六月 | 四年十ヶ月 |
宗叡 [809-884] |
貞観四年〈862〉?月 | 貞観七年〈865〉十一月 | 約三年 |
宗叡は、真言宗の空海あるいは天台宗の円珍の後に入唐した人であったからか、あるいは入唐八家の最後の人であったことからか、後入唐僧正とも後に称されるようになっています。
そんな宗叡が問答体で著していたのが『悉曇私記』という註釈書です。宗叡はまた禅林寺僧正とも称されていましたが、その私記であったことにより『禅林記』とも通称され、さらに略して『林記』、『悉曇私記林記』とも云われます(以下、『林記』)。しかし、『林記』がいつ頃著されたのかは不明で、おそらくは帰朝以降、すなわち貞観七年〈865〉十一月以降のことであったでしょう。そして宗叡は元慶八年〈884〉三月に禅林寺にて没しているのですが、その四年前の元慶四年〈880〉に著された『悉曇蔵』にて『林記』はよく引用されていることから、その十五年の間に成立していたことが知られます。
『林記』は、『悉曇字記』の記述において人が容易く抱くであろう諸々の点に対する疑問への答えが、その適否は兎も角として、簡便に記されており、平安時代最初期の人に『悉曇字記』がどのように理解されていたかを知るにまず最も重要なものです。
ところで、伝承では、宗叡は入唐時に智廣に直接あってこれを習い、したがって『林記』を著したというものがあり、またはそもそも空海が入唐した時に智廣から直接これを聞き受学したなどというものすらあります。しかし、いずれも何ら根拠なく捏造された後代の創作に過ぎず、一顧だにする価値はありません。
また、これを取り上げていた『悉曇蔵』とは、円仁の孫弟子となる安然が著したものです。その題目の通り、奈良時代から平安時代初頭にかけて日本に伝えられ、あるいは著されていた諸々の梵字悉曇関係の典籍を遍く集成し、その説をよく批判的にまとめたものとなっています。日本の天台宗をして「真言宗」と自称〈『教時諍論』〉するほどまでに天台密教の完備を目指し、実際に大成した安然は、これは必然的といって良いでしょうが、梵字悉曇の字形・音韻・意義について熱心に学究しており、その成果が『悉曇蔵』でした。
『悉曇蔵』が当時の諸典籍を集大成したものであるとはいえ、安然はあくまで『悉曇字記』の所説を根幹に据え、それを基準として諸説を批判的に取りまとめた上で自説を展開しています。例えば梵字悉曇の字形について、安然はその序にてこのように舒べています。
評此諸説以攝四種。一僞作字。以攝釋摩訶衍論非梵非唐字。二妄計字。以攝七十二字六十四書。三點〈黯の写誤〉推字。以攝大悉曇章及慧遠章。四眞實字。以攝智廣字紀十八章文。與諸梵文多所契合。餘章不然故皆斥之。
これら諸説を評して四種に摂める。一つには偽作の字、『釈摩訶衍論』の非梵非唐字がそれである。二には妄計〈無根拠な出鱈目〉の字、七十二字〈支那撰述の経疏にて梵王が示したとする字数〉・六十四書〈『普曜経』を初め支那の史伝にて云われる印度にて行われたとする六十二の言語〉がそれである。三には黯推〈憶測〉の字、『大悉曇章』〈空海の著作〉および『慧遠章』〈慧遠『大般涅槃経義記』〉がそれである。四には真実の字、智廣の『字紀』〈『悉曇字記』〉十八章の文がそれである。(『字記』には日本に伝えられた)諸々の梵文と契合〈一致〉する所が多くあるが、その他の章〈典籍〉はそうでない。したがって、(『字記』以外の説)すべてを除く。
安然『悉曇蔵』序(T84, p.365b-c)
これはあくまで「字」について言ったものではあります。そこでまた安然は、平安初期当時に日本に伝わっていた異なる「悉曇章」の構成や特徴などを具に紹介した後に、以下のように結論しています。
評曰。上來八本雖云増減不同。而以智廣一十八章最爲廣大。
評して曰く、上に示した(何らかの形で印度の「悉曇章」を伝える典籍)八本〈智廣『悉曇字記』・義浄『南海寄帰内法伝』・慧遠『大般涅槃経義記』・全雅『悉曇章』・仏哲請来『悉曇章』・円行請来『悉曇章』・常暁請来『悉曇章』・空海請来『大悉曇章』〉には、増減あって同じではないけれども、智廣の十八章〈『悉曇字記』〉が最も詳しい。
安然 『悉曇蔵』巻三(T84, p.394b)
ここで安然が挙げた八本の中に仏哲請来の『悉曇章』があるように、梵字悉曇はすでに奈良時代、唐から来たった菩提僊那〈Bodhisena〉や仏哲など印度や林邑〈現在のベトナム〉の僧などによって、おそらく大安寺を中心とした南都において広く諸宗の僧に学ばれていました。(ただし、仏哲の『悉曇章』は明治期前後に散失して現存していません。)
しかし、平安期初頭に『悉曇字記』は空海が初めて日本にもたらして後、これが真言および天台にて密教に付随する必須の文字としても学ばれます。特に宗叡がその註釈を著し、また安然がこのようにそれを根幹とした説を展開して以降は、日本で梵字悉曇を学ぶその根本典籍としての位置を占めるようになったのでした。それは『悉曇字記』がそれ以前に日本に伝えられていた書籍より詳しく、その他に比して最も優れたものであったからに他ならないのでしょう。
事実、智廣は『悉曇字記』にて記すところについて、このように自ら述べています。
俾學者不逾信宿而懸通梵
(この『悉曇字記』により、梵字を)学ぶ者をして信宿〈二晩〉を超えることなく、(梵語と漢語と)懸に(異なったものであっても)梵音に精通させられるであろう。
智廣 『悉曇字記』(T54, p.1186a)
なお、以上示したように、時代の流れとしてもこれにまず着目し、盛んに学んだのは密教に関わる僧で占められてはいますが、『悉曇字記』という書自体は密教に直接関知するものではありません。密教が特に真言陀羅尼をその核心とするものであり、また曼荼羅などに梵字が描かれていることから、そして密教が平安期に隆盛したことから、梵字悉曇を学ぶ者が特に密教僧に多くあったに過ぎません。実際、『悉曇字記』を学べば直ちにわかることですが、そこに「ミッキョウ」の「ミ」の字も出てきはしません。
『悉曇字記』とは顕教や密教など仏教に関せず、あくまで梵字悉曇とは何か、(今からすれば往古の)印度にて用いられた文字体系の字形と字音とを、唐代の智廣という僧の耳目を介して説明した書です。
さて、安然の後、その学を継いだ大慧があり、続いて浄蔵という人があったようですが、実際のところ天台宗では突出した学者がしばらくありません。しかし平安後期、安然を慕って悉曇学を志した明覚は、梵語の理解を以前の僧より深めたというのでは全然なく、むしろ誤解を深めていった人ではあるのですけれども、特にその音韻に関する説を展開しており、その独自性という点において傑出しています。梵字の音韻論を深める過程で生み出された日本語のいわゆる「五十音図」は、俗に明覚が初めて作ったものであるとして顕彰されています。
ただし、明覚は晩年、加賀温泉寺に身を移していたこともあるのでしょうけれども、その学を継ぐ者が無く、またその後に抜群の人も絶えて出ていません。とはいえ、安然および明覚という二人の英俊による後代への影響は甚だ大きいものがありました。
一方、平安時代の真言宗では悉曇に通じた学僧が各所に現れ、やはり『悉曇字記』の研究を主とした著作を多く遺しています。平安期以降、法相宗および三論宗や華厳宗など南都六宗では真言密教を兼修することが当たり前となっていたため、真言宗だけでなく法相宗や三論宗にも悉曇学に通じた学僧が幾人かあります。
「悉曇学」などと云うに至らずとも密教を兼修する以上は、必ずまず『悉曇字記』を学ぶことが常識的に行われていたようです。例えば平安末期から鎌倉期初頭、華厳宗中興の祖といわれる明恵[1173-1232]も、その伝記において『悉曇字記』を学んでいたとされます。
一 仁和寺土橋惠鏡房法橋尊實ニ對シテ弘法大師ノ御作習學ス、又花嚴院景雅法橋ニ對シテ花嚴五敎章受學ス、又又賢如房律師尊印ニ對シテ悉曇字記等ヲウク、シカルニ律師悉曇ニ於テ分明ナラサル所アリ、仍彼ノ説ヲ受學スト雖トモ聊思煩トコロニ、夢ニ一人ノ梵僧ニ對シテコレヲナラヒテソノ不審ヲ決ス、梵僧告テ曰ク、汝來世ニ釋迦如來ニ親近シ奉リテ五百生ノ間コノ悉曇聲明ノ法ヲナラヒキハムヘシ、其後夢サメテ律師ニ對シテ是ヲ問ニ分明ナラス、夢中ニ示ストコロ律師コレヲシラス云々
一 仁和寺の土橋恵鏡房法橋尊実から弘法大師の御作を習学した。また花厳院景雅法橋から『華厳五教章』を受学した。またまた賢如房律師尊印から『悉曇字記』等を受けた。しかしながら、律師の悉曇には分明でない所があった。よって彼の説を受学したとはいえ、聊か思い煩っていたところ、夢で一人の梵僧からこれを習ってその不審を解決することが出来た。すると梵僧は、「おまえは来世に釈迦如来に親近し奉って、五百生の間、この悉曇声明〈梵字とその音韻学〉の法を習い極めるであろう」と言った。その後、夢が醒めて律師に対してこれを問うたが分明でなかった。夢の中で(梵僧が)示した(梵字悉曇についての)ことを、律師は知らなかったのだ。
喜海 『高山寺明惠上人行狀』
これは明恵が出家する以前、十二歳頃のことです。
また、明恵より一世代後の人ですが、律宗を中興して西大寺を拠点として当時日本最大の教団を形成するに至る叡尊[1201-1290]もまた、やはり出家以前に『悉曇字記』を学んでいたことが知られます。
修成法身章第二同秋。思惟。人身難受。佛法難値。適値聖法。不求名聞。不望利養。受學大乘。修行正道。利益衆生。報謝四恩。但於顯密。密宗甚深難入。須學顯宗。但於四大乘―可學何宗。早仰神慮。可定其宗。思惟畢。是以密詣淸瀧宮。懇祈請至七ヶ日。夜感靈夢曰。詣下醍醐淸瀧宮。候南廊。見著裳唐衣御子一人參南廊前。賜饗一前。居高坏 置予前。告曰。食之。行金剛王院。可沐浴云々。夢寤後合之。可學眞言。爲靈夢也。然而非所願。故不足信用。
二趣修學密敎事其後猶志顯宗。亦思惟。大乘學者多倶舎爲初學。須學倶舎。是以爲學倶舎頌疏。入同山西谷惠操大法師室。法師者。卽三密房阿闍梨五人瀉瓶内。山上二人之中圓明房阿闍梨孫弟子也。卽受學八九巻之間。師被尋學本趣。如先所願答申之処。師命曰。眞言者。爲末世凡夫相応妙藥也。何捨是求他。須眞言爲宗。修學之由。慇懃被教訓。於是且信其敎化。且憶先靈夢。發修學密宗興法利生之願。卽讀菩提心論。悉曇字記等。自爾以來。密敎修學志尤切也。十二月中旬。以圓明房爲和尚。剃髪染衣。成沙門形。修學眞言。心彌不絕。然而全闕世資緣。心事相違。空送日月矣。
修成法身章第二同秋〈建保五年(1217)秋.叡尊十七歳〉。思うに「人身は受け難く、仏法には値い難い。たまたま聖法に値うことが出来た。名聞を求めず利養を望まず、大乗を受学して正道を修行し、衆生を利益して四恩に報謝する。ただし顕密において密宗〈密教〉は甚深であって入り難い。須く顕宗〈顕教〉を学ぶべきである。ただし四大乗〈四箇大乗.法相・三論・華厳・天台〉において何れの宗を学ぶべきであるか、早く神慮を仰いでその宗を定めなければならない」と考えた。そこで密かに清瀧宮〈上醍醐寺の鎮守、山上清瀧宮〉に詣で、懇ろに祈請すること七ヶ日に至った。その夜、霊夢を感じた。「下醍醐の清瀧宮に詣でよ。その南廊にて裳唐衣を著た御子一人があるであろう」という。そこで南廊の前に参った。すると饗一前を賜い高坏であった、私の前に置いて「これを食べて金剛王院〈下醍醐の子院〉に行き、沐浴せよ」と言われた。その夢が寤めて後、これを解いてみるに、真言を学ぶべきという霊夢であった。しかしながら(それは私の)所願ではない。故に(その霊夢は)信用出来るものでなかった。
二.密教を修学するに趣くことその後はなお顕宗を志した。また「大乗の学者は多く倶舎〈『倶舎論』に代表される有部の阿毘達磨〉を初学とする。須く倶舎を学ぶべきである」と思った。そのようなことから倶舎の頌疏〈『倶舎論』の註釈書.円暉『俱舍論頌疏論本』〉を学ぶため、同山西谷〈上醍醐西谷〉恵操大法師の室に入った。法師はすなわち三密房阿闍梨〈金剛王院流祖、聖賢〉の五人の瀉瓶〈全てを伝授した高弟〉のうち、山上の二人の中の円明房阿闍梨〈深勝〉の孫弟子である。すなわち(『俱舍論頌疏論本』の)八、九巻を受学する間に、師からこれを学ぶ本趣〈真意〉を尋ねられた。そこで先の所願の通りにお答え申したところ、師は命じて「真言は末世凡夫のための相応の妙薬である。どうしてそれを捨て他を求めるのか。須く真言を宗として修学すべき」という由を言われ、慇懃に教訓せられた。ここにおいて且つはその教化を信じ、且つは先の霊夢を憶い、密宗を修学し、法を興して生を利する願いを発した。そこで『菩提心論』と『悉曇字記』等を読んだ。それより以来、密教修学の志はもっとも切となった。十二月中旬、円明房を和尚となし、剃髪染衣して沙門の形と成る。真言を修学する心は弥よ絶えることがなくなった。しかしながら全く世の資縁〈経済的後援〉を闕いており、心事〈本意と現実〉は相違して空しく日月を送った。
叡尊 『金剛仏子叡尊感身学正記』(『西大寺叡尊傳記集成』, pp.2-3)
以上のように叡尊が出家を志して何を宗とするか決めあぐねていた時、密教を学んで受法するきっかけは霊夢によるもので、しかもそれは自身にとって全く不本意なことでした。この時、叡尊の齢十七歳。叡尊はその後、経済的困窮により思うようにはいかない中でも密教の修学を進める中、嘉禄元年〈1225〉の二十五歳の時、醍醐の霊山院静慶から再び『悉曇字記』を学んでいます。その三年後の安貞二年〈1228〉、叡尊はようやく具支灌頂(伝法灌頂)に入檀して密教受法の宿願を果たすのでした。
もっとも、叡尊がようやく伝法灌頂を受けて密教の阿闍梨となったとて、いくらその修法を熱心に行ってもまるで意味がないこと、その甲斐のないことを不審に思い悩むこととなります。そこで、ついに戒学の必須であることに気づいて戒律復興に向かい、ついに西大寺を中心とした律宗を復興するのは、そのおよそ六年も後のことです。
ここで示したのは古代末期と中世初頭のただ二例ではありますが、平安時代前期に多く密教僧によって大成された悉曇学の潮流はその後定着して一般化され、その基礎となる梵字悉曇を学ぶのは出家する以前、あるいは出家してすぐの年少の頃のこととなっていたことが以上から知られるでしょう。したがって、悉曇を学ぶには僧でなければならない、などということは伝統的にもありません。そしてその修学に用いられたのは、やはり『悉曇字記』であり、師弟の相承を通してのことです。
特に密教は梵字悉曇の読み書きが出来ることを大前提としていることから、その初歩の初歩として梵字を学ぶことは必然的に必要不可欠ではあります。しかし、印度の(特に婆羅門や王族など上位階級)一般において通用していた梵字を学ぶのは、これはごく当然ながら、幼少からのことでした。
夫聲明者。梵云攝拖苾馱停夜反攝拖是聲。苾馱是明。即五明論之一明也。五天俗書。總名毘何羯喇拏。大數有五。同神州之五經也舊云毘伽羅論音訛也 一則創學悉談章。亦名悉地羅窣覩。斯乃小學標章之稱。倶以成就吉祥爲目。本有四十九字。共相乘轉。成一十八章。總有一萬餘字。合三百餘頌。凡言一頌。乃有四句。一句八字。總成三十二言。更有小頌大頌。不可具述。六歳童子學之。六月方了。斯乃相傳。是大自在天之所説也
そもそも声明とは梵〈梵語あるいは印度〉では「攝拖苾馱停夜反〈śabda-vidyā〉」という。「攝拖〈śabda〉」とは声〈音・声・言葉〉であり、「苾馱〈vidyā〉」とは明〈智慧・学問〉である。すなわち五明論〈印度古来の五種の伝統的学問〉の一明〈一学問〉である。五天竺〈印度全土〉の俗書では、総じて「毘何羯喇拏〈vyākaraṇa〉」と言われている。大きくはその数に五つあり、いわば神州〈支那〉の五経〈詩経・易経・書経・春秋・礼記〉と同じである旧に「毘伽羅論」と云うのは音訛である 第一はすなわち「創学悉談章」であり、また「悉地羅窣覩〈siddhirastu〉」ともいう。これはすなわち小学〈幼少〉の標章の称であり、いずれも「成就吉祥」を目したものである。その本〈母音字と基本的な子音字〉は四十九字ある。(母音字と子音字とを)共に組み合わせて転用し、十八章を形成している。総じては一万余字となり、合しては三百余頌となる。およそ一頌と言えばすなわち四句あり、一句は八字であって、そうじて三十二言となる。これには更に小頌と大頌(の異なり)があって具さに述べることは出来ない。六歳の童子がこれを学び、六ヶ月にしてまさに終了する。これ〈『悉曇章』〉はすなわち相伝して、大自在天〈Maheśvara〉の所説であるという。
義浄 『南海寄帰内法伝』 巻四(T54, p.228b)
このような義浄『南海寄帰内法伝』の記述や、さらに遡って玄奘による『大唐西域記』の印度における修学や語学についての記録は、平安初期に梵字を熱心に学んだ僧らにもよく知られ、意識されていました。そのようなこともあり、特に仏門を志す者にとって梵字悉曇を学ぶことは幼少からの手習いの一つともなっています。
(玄奘による七世紀中頃の印度における梵語についての記述は、別項「玄奘『大唐西域記』」および「慧立『慈恩寺三蔵法師伝』」を、義浄による八世紀中頃の印度における梵語やその修学についての記録は、別項「義浄『南海寄帰内法伝』」を参照のこと。)
もっとも、おおよそ明恵と同時代の醍醐寺や東寺の長を務めたすぐれた学僧、成賢は当時悉曇を学ぶ者が世に絶えて無くなっていることを嘆く文言を遺していたようです。
平安中期に律令制の崩壊とともに僧風は乱れ、すでに律儀を厳持する者は絶えており、後期には僧の堕落が一層進んで密教はただ皇族貴族の願望に応えようとする表面的で空虚な祈祷を専らとするようになって、その学問も自身の出世や収入に関する事柄ばかりとなった当時、梵字悉曇を真剣に学ぶ者など決して多くはなかったのかもしれません。けれども、上に示したように、明恵や叡尊が幼少時あるいは青年時に『悉曇字記』を学んでいたことからすれば、いわゆる悉曇学にまで足を踏み入れる者はなくとも、『悉曇字記』を学ぶことはある程度一般化していたように思われます。
しかしやがて、先に挙げた叡尊もその立役者の一人ですが、中世鎌倉期に入ると悉曇学は再び興隆するようになります。また室町期など戦国時代という血なまぐさい時には、東寺や高野山などに幾人か優れた学僧が出ていますが全体としてはなりを潜めていくものの、近世江戸期の、特に戒律復興運動に関わる僧の中に多くこれを追求する者が出ています。
それはもはや古代や中世のそれに比してその次元を異にし、ただ字形と字音とを考究するだけでなく、言語としてこれを扱い、その文法に踏み込んで理解しようとする段階に入っています。そしてその潮流は近世後期の慈雲において頂点を迎えることとなっていきます。
その時もやはり、『悉曇字記』はそれまでと同様、まず最初に確実に学ぶべきその基礎、根本典籍として扱われたのでした。