汝等比丘、まさに知るべし、多欲の人は多く利を求むるが故に苦悩もまた多し。少欲の人は求め無く欲無ければ、則ち此の患い無し。直爾少欲すら尚おまさに修習すべし。何に況や少欲の能く諸の功徳を生ずるをや。少欲の人は、則ち諂曲して以て人の意を求めること無し。また諸根の為に牽かれず。少欲を行ずる者は心則ち坦然として、憂畏する所無し。事に触れて余りあり。常に足らざること無し。少欲ある者は、則ち涅槃あり。是を少欲と名づく。
汝等比丘、もし諸の苦悩を脱せんと欲せば、まさに知足を観ずべし。知足の法は即ち是れ富楽安穏の処なり。知足の人は地上に臥すと雖も、なお安楽とす。不知足の者は天堂に処すると雖も、また意に称わず。不知足の者は富むと雖も、而も貧しし。知足の人は貧ししと雖も、而も富めり。不知足の者は常に五欲の為に牽かれて、知足の者の為に憐愍せらる。是を知足と名づく。
汝等比丘、寂静・無為・安楽を求めんと欲せば、まさに憒閙を離れて独処閒居すべし。静處の人は帝釋・諸天共に敬重する所なり。是の故にまさに己衆・他衆を捨てて空閒に独処して、苦の本を滅せんことを思うべし。もし衆を楽う者は、則ち衆悩を受く。譬えば大樹の衆鳥、之に集まれば則ち枯折の患いあるが如し。世間の縛著は衆苦に没す。譬えば老象の泥に溺れて、自ら出ること能わざるが如し。是を遠離と名づく。
汝等比丘、もし勤め精進するときは、則ち事として難き者の無し。是の故に汝等、まさに勤め精進すべし。譬えば少水も常に流るるときは則ち能く石を穿つが如し。もし行者の心、数数懈廢すれば、譬えば火を鑽るに未だ熱からずして而も息めば、火を得んと欲すと雖も火得べきこと難きが如し。是を精進と名づく。
汝等比丘、善知識を求め、善護助を求めることは、不忘念に如くは無し。もし不忘念ある者は、諸の煩悩の賊、則ち入ること能わず。是の故に汝等、常にまさに念を摂めて心に在くべし。もし念を失する者は、則ち諸の功徳を失う。もし念力堅強なれば、五欲の賊中に入ると雖も、為に害せられず。譬えば鎧を著て陣に入れば、則ち畏るる所無きが如し。是を不忘念と名づく。
汝等比丘、もし心を摂むる者は、心則ち定に在り。心定に在るが故に、能く世間生滅の法相を知る。是の故に汝等、常にまさに精進して諸の定を修習すべし。もし定を得る者は、心則ち散ぜず。譬えば水を惜しむの家は、善く隄塘を治するが如し。行者もまた爾なり。智慧の水の為の故に、善く禅定を修め漏失せざらしむ。是を名づけて定と為す。
汝等比丘、もし智慧あれば則ち貪著無し。常に自ら省察して、失わることあらせしめず。是れ則ち我が法の中に於いて、能く解脱を得。もし爾らざる者は、既に道人に非ず。また白衣に非ず。名づくる所無し。実智慧は、則ち是れ老病死海を度る堅牢の船なり。また是れ無明黒暗の大明燈なり。一切病者の良薬なり。煩悩の樹を伐るの利斧なり。是の故に汝等、まさに聞思修の慧を以て而も自ら増益すべし。もし人智慧の照あれば、是れ肉眼なりと雖も而も是れ明見の人なり。是を智慧と名づく。
汝等比丘、もし種種の戯論は其の心則ち乱る。また出家すと雖も、なお未だ脱することを得ず。是の故に比丘、まさに急に乱心戯論を捨離すべし。もし汝、寂滅の楽を得んと欲わば、唯だまさに善く戯論の患を滅すべし。是を不戯論と名づく。
「比丘たちよ、まさに知るべきである、多欲の人は、多くを求めるがために苦悩もまた多い。少欲の人は、求めることなく欲することないために、そのような患いが無い。ただちに少欲をこそ修習せよ。少欲がよく諸々の善功徳を生じることは言うまでもない。少欲の人は、諂いおもねって他者に気に入られようとすることが無い。また諸々の感覚に心を囚われることもない。少欲を行じる者は、心が坦々として憂い恐れることはない。何事につけゆとりあり、常に足りないと不満であることが無い。少欲の者にはすなわち涅槃がある。これを少欲と名づける」
「比丘たちよ、もし諸々の苦悩から脱却せんと欲するならば、よく知足を観よ。知足の法とは、すなわち富楽にして安穏である。知足を知る人は、地面で寝るような暮らしであっても、なお安楽である。足ることを知らぬ者は、たとえ天界にあったとしても満足することはない。足ることを知らぬ者は裕福であっても貧しい。知足の人は、貧しくとも心豊かである。足ることを知らぬ者は、常に五欲に振り回され、知足の者から憐愍される。これを知足と名づける」
「比丘たちよ、寂静にして無為なる安楽を求めるならば、まさに喧噪を離れ独り閑静な地に住まうがよい。静寂な地を好んで道を修める人は、帝釈天や諸々の神々が篤く敬うところである。このことから、まさに様々な人々との関わり交わりを捨て、ひっそりとして静かな地に独り住まい、苦の根源を滅することを思え。人々との交わりを喜ぶ者は、様々な悩みに苛まれる。譬えば、大樹に多くの鳥が群がれば、折れたり枯れたりする患いがあるようなものである。世間の束縛・執着は、諸々の苦悩に沈ませるものである。譬えば、老いた象が泥沼にはまって溺れ、自ら出ることが出来なくなるようなものである。これを遠離と名づける」
「比丘たちよ、もし勤め励んで精進したならば、事として成就できないものはない。このことから、比丘たちよ、まさに勤め励んで精進せよ。譬えば、少量の水も常に流れつづけたならば、よく石に穴を穿つようなものである。もし行者の心が度々なまけて怠ったならば、それは譬えば火を摩擦によって起こそうとしても十分な熱量を得る前に途中で止めたならば、火を起こそうとしても火を得ることが出来ないようなものである。これを精進と名づける」
「比丘たちよ、善知識を求め、善護助を求めるならば、不妄念こそその最たるものである。もし不忘念のある者は、諸々の煩悩の賊が(その心を)侵すことは出来ない。このことから、比丘たちよ、常にまさに念を摂めて心と共にせよ。もし念を失したならば、諸々の功徳を失う。もし念の力が強固であれば、五欲という賊の只中にあっても、これに害されることはない。譬えば、鎧を着けて戦場にあれば、畏れることが無いようなものである。これを不忘念と名づける」
「比丘たちよ、もし心を摂めることが出来る者は、その心はすなわち定にある。心が定にあることによって、よく世間の生滅する事物の真実なる姿を知る。このことから、比丘たちよ、常にまさに精進して諸々の定を修めよ。もし定を得たならば、心が乱れることはない。譬えば水を大切にうする家は、よく堤防を保全するようなものである。行者もまた同様である。智慧の水を得るために、正しく禅定を修めて(智慧という水を)漏失させない。これを名づけて定という」
「比丘たちよ、もし智慧があれば(事物を)貪り執着することはない。常に自ら省察して、(智慧を)失することがない。そのような者こそ、我が教えの中において解脱を得る。もしそうでない者ならば、すでに道の人ではない。また在家信者でもない。名づけようのない者である。真実の智慧とはすなわち、この老い・病い・死という海を渡る堅牢な舟である。または無明という暗闇における大いなる灯明である。すべての病苦の良薬である。煩悩という樹を伐る鋭利な斧である。このことから、比丘たちよ、まさに聞・思・修の慧をもって、自らまたそれを磨き強めよ。もし人に智慧の輝きがあるならば、それがたとい肉眼であったとしても、その人は真理を明らかに見る人である。これを智慧という」
「比丘たちよ、もし種々なる無意味な議論をしたならば、その心は乱れる。(心が乱れたままであれば)出家したとしても解脱することは出来ない。このことから、比丘よ、まさに速やかに心を乱す無意味な議論から離れよ。もし汝が、寂滅の安楽を得ようと願うならば、ただまさに無意味な議論による患いを滅ぼせ。これを不戯論と名づける」