汝等比丘。受諸飮食。當如服藥。於好於惡。勿生増減。趣得支身。以除飢渇。如蜂採花。但取其味。不損色香。比丘亦爾。受人供養。趣自除悩。無得多求。壞其善心。譬如智者。籌量牛力所堪多少。不令過分以竭其力。
汝等比丘。晝則勤心。修習善法。無令失時。初夜後夜。亦勿有廢。中夜誦經。以自消息。無以睡眠因縁。令一生空過。無所得也。當念無常之火。燒諸世間。早求自度。勿睡眠也。諸煩悩賊。常伺殺人。甚於怨家。安可睡眠。不自驚寤。煩悩毒蛇。睡在汝心。譬如黒蚖。在汝室睡。當以持戒之鉤。早屏除之。睡蛇既出。乃可安眠。不出而眠。是無慚人也。慚恥之服。於諸莊嚴。最爲第一。慚如鐵鉤。能制人非法。是故比丘。常當慚恥。無得暫替。若離慚恥。則失諸功德。有愧之人。則有善法。若無愧者。興諸禽獣。無相異也。
汝等比丘。若有人來。節節支解。當自攝心。無令瞋恨。亦當護口勿。出惡言。若縱恚心。則自妨道。失功德利。忍之爲德。持戒苦行。所不能及。能行忍者。乃可名爲有力大人。若其不能歡喜。忍受。惡罵之毒。如飮甘露者。不名入道智慧人也。所以者何。瞋恚之害。則破諸善法。壞好名聞。今世後世。人不喜見。當知瞋心。甚於猛火。常當防護。勿令得入。劫功德賊。無過瞋恚。白衣受欲。非行道人。無法自制。瞋猶可恕。出家行道。無欲之人。而懷瞋恚。甚不可也。譬如靑冷雲中。霹靂起火。非所應也。
汝等比丘。當自摩頭。以捨飾好。著壞色衣。執持應器。以乞自活。自見如是。若起憍慢。當疾滅之。増長憍慢。尚非世俗白衣所宜。何況出家入道之人。爲解脫故。自降其身。而行乞耶。
汝等比丘。諂曲之心。與道相違。是故宜應質直其心。當知諂曲。但爲欺誑。入道之人。則無是處。是故汝等。宜應端心以質直爲本。
汝等比丘、諸の飲食を受けること、まさに薬を服するが如くすべし。好に於いても悪に於いても、増減を生ずること勿れ。趣に得て身を支して、以て飢渇を除け。蜂の花を採るに、但だ其の味のみを取って、色香を損ぜざるが如し。比丘もまた爾なり。人の供養を受けて、趣に自ら悩を除け。多く求めて、其の善心を壊ることを得ること無かれ。譬えば智者の、牛力の堪うる所の多少を籌量して、分を過ごして以て其の力を竭さしめざるが如し。
汝等比丘、昼は則ち勤心に善法を修習して、時を失せしむること無かれ。初夜にも後夜にも、また廃することあること勿れ。中夜に誦経して、以て自ら消息せよ。睡眠の因縁を以て、一生空しく過して、所得無らしむること無かれ。まさに無常の火の諸の世間を焼くことを念じて、早く自度を求むべし。睡眠すること勿れ。諸の煩悩の賊、常に伺って人を殺すこと、怨家よりも甚だし。安んぞ睡眠して、自ら驚寤せざる。煩悩の毒蛇、睡って汝が心に在り。譬えば黒蚖の、汝が室に在て睡るが如し。まさに持戒の鉤を以て、早く之れを屏除すべし。睡蛇既に出でなば、乃ち安眠すべし。出でざるに而も眠るは、是れ無慚の人なり。慚恥の服は、諸の荘厳に於て最も第一と為す。慚は鉄鉤の如く、能く人の非法を制す。是の故に比丘、常にまさに慚恥すべし。暫くも替ることを得ること無かれ。もし慚恥を離れば、則ち諸の功徳を失う。有愧の人は、則ち善法あり。もし無愧の者は、諸の禽獣と相異なること無し。
汝等比丘、もし人あり来たって節節に支解するも、まさに自ら心を摂めて、瞋恨せしむること無かるべし。またまさに口を護って悪言を出すこと勿るべし。もし恚心を縱にすれば、則ち自ら道を妨げ、功徳の利を失す。忍の徳たること、持戒苦行も及ぶこと能わざる所なり。能く忍を行ずる者は、乃ち名づけて有力の大人と為すべし。もし其れ悪罵の毒を、歓喜し忍受して甘露を飲むが如くすること能わざれば、入道智慧の人と名づけず。所以者何、瞋恚の害は則ち諸の善法を破り、好名聞を壊ぶる。今世後世、人見んことを喜わず。まさに知るべし、瞋心は猛火よりも甚し。常にまさに防護して、入ることを得せしむること勿るべし。功徳を劫る賊は、瞋恚に過ぎたるは無し。白衣は受欲、非行道の人なり。法として自ら制すること無きすら、瞋なお恕むべし。出家行道、無欲の人にして而も瞋恚を懐くは甚だ不可なり。譬えば青冷の雲の中に、霹靂火を起こすは所応に非ざるが如し。
汝等比丘、まさに自ら頭を摩づべし。以て飾好を捨て、壊色の衣を著し、応器を執持して、乞を以て自活す。自ら見るに是の如し。もし憍慢起こらば、まさに疾く之を滅すべし。憍慢を増長するは、尚お世俗白衣の宜き所に非ず。何に況や出家入道の人、解脱の為の故に自ら其の身を降して而も乞を行ずるをや。
汝等比丘、諂曲の心は道と相違す。是の故にまさに宜しく其の心を質直にすべし。まさに知るべし、諂曲は但だ欺誑を為すことを。入道の人は則ち是の処無し。是の故に汝等、まさに宜しく端心にして質直を以て本と為すべし。
「蜂が花の蜜を採るとき花の色形や香りを損なわないように」という譬えは、しばしば仏典の中で用いられる。ここで花とは在家信者であり、蜜とは在家信者からの食事の供養である。これとまったく同内容の一節が、『仏本行集経』ならびに『仏所行讃』にある。
『仏本行集経』「得食如服藥 不當起愛憎 所得方便食 趣愈飢支形 喩如衆蜂集 採花之精味 以時度施食 無壞人慈敬 莫煩好施者」(T4, p.107c)
『仏所行讃』「飯食知節量 當如服藥法 勿因於飯食 而生貪恚心 飯食止飢渇 如膏朽敗車 譬如蜂採花 不壞其色香 比丘行乞食 勿傷彼信心」(T4, p.48b)▲
仏教では一日を六分して、晨朝・日中・日没・初夜・中夜・後夜とする。初夜は、現在の午後八時頃。中夜は、午後十時から午前二時頃。後夜は、午前四時頃。ここにあるとおりに修行するとなると、修行者は寝る間などほとんどないことになろう。今一般に南方の修行者は十時から深夜頃に就寝し、午前三時から四時に起床し、五時頃から托鉢に出る。▲
[S]/[P].middhaの漢訳。ここにいう睡眠とは、眠ることではなく、精神が物憂くボーっとして不活性であること。「眠ってはならない」などと無茶なことが説かれているわけでない。もっとも、一般的な意味で「惰眠を貪ってはならない」という意も含まれていようが、特には「ボーっとして不活性な精神でいてはならない」という意が主。それは後の一節において「心昏く呆けるという蛇を排除してからこそ、安眠するべきである」と説かれていることから明らかであろう。説一切有部または分別説部の阿毘達磨においても、「睡眠とは、ぼんやりとして物憂い心の状態」と定義される。▲
釈尊は成道してまもないころ、事火外道すなわち火の祀りを行う宗教者であったウルヴェーラの[S]kāśyapa(迦葉)の三兄弟およびその教団全員を帰依せしめ、象頭山にて説法を行われた際にこのような説示をされた、「比丘達よ、すべては燃えている」と。すべては無常という火に燃えており、一刻の猶予もないというのである。あるいは仏教では、危機感をもって修行に打ち込むことをして「頭燃を払う」と言う。あたかも頭髪が燃えているのを打ち払うがごとく、急遽として修行に打ち込むべきことを言う言葉である。
『仏本行集経』「現意通者。汝等比丘。今應當知。此一切:法。皆悉熾燃。言熾燃者。眼亦熾燃」(T3, p.850c)▲
慚は[S].hrī / [P].hirīの漢訳。恥の意であるが、特に自らが自らに対して恥じる心の働き。▲
愧は[S].apatrapā / [P].ottappaの漢訳。愧もまた恥の意であるが、特に自らが他者に対して恥じる心の働き。▲
人と獣との違いは何か?理性の有無か?知性の強弱か?仏教においては、恥を知ることこそ人が獣とは異なる所以、人をして人たらしむ所以であるとされる。▲
怒り、恨むこと。どのような場合でも怒らないことを仏教は勧める。巷間「仏の顔も三度まで」の意が誤解されているが、それは決して同じ過ちを四度以上繰り返すような者に対しては怒っても良い、などという意味ではない。▲
Khantī paramaṃ tapo titikkhā, nibbānaṃ paramaṃ vadanti buddhā; Na hi pabbajito parūpaghātī, na samaṇo hoti paraṃ viheṭhayanto.(「忍辱は最上の苦行である。涅槃は最高のものである」と、諸々の仏陀は説く。他人を害する者は出家者ではない。他者を悩ます人は沙門ではない)(KN. Dhammapada, Buddhavaggo 184)
またチベットでは一般に、自分に仇なす者、罵詈雑言を吐く者を「教師」であると思え、と教えられる。なんとなれば、そのような時にこそ自分本当の心の状態が明瞭となり、その真価が問われるからであり、また忍辱という修行の場が提供されるからである。平常時、この世は娑婆すなわち忍土であるとは言え、人はそれほど「堪え忍ぶ」状況にはない。しかしながら、常には怒らず・怨まず、平穏に暮らせていても、自身に仇なす者が出現したとき、心はまったく乱れる。その時こそ、まさに修行の時となる。どれだけ誹謗中傷の言葉を浴び去れたとしても、むしろその貴重な時を提供されたことを敢えて喜べというのである。しかし、それは決して容易く出来ることではない。が、であるからが故にそれは最上の苦行となり、それを行うことの徳は高きものとなる。▲
暴力や暴言をもって他者を圧する人ではなく、それらをよく耐え忍び、怒りを抑える人、よく忍辱を行う人こそ有力の大人、すなわち力ある立派な人であると賞賛される。▲
インドでは出家は壊色の袈裟を、在家は白い色の服装が一般的であったために、このように言う。これは支那そして近代までの日本でも同様であった。しかし、日本は明治期にキリスト教の習慣に倣って葬式などで黒を用いることが国から強制された。
玄人・素人という言葉があるが、これは「出家者・在家者」の意である。玄はもともと道教を指した語であったようであるが、やがて鈍色という僧侶が着用していた墨染め(濃灰色)の衣を、素は白色で在家者が着用していた服を表した。日本では白袈裟を用いる宗派がいくつかあるが、大乗経典においても仏法が滅びると僧侶が白袈裟を着けると説かれており、まさにその説は真実であった。▲
普通、地上で雷鳴がとどろくのは、真っ黒な雷雲に覆われた時であって、澄み渡る青空で観察されるものではないからかく言う。▲
壊色とは白・赤・黄・青・黒の五正色といわれる純色ではない濁った中間色。仏教の出家者が着用できるのはcīvara(支伐羅)すなわち衣に限られるが、その色は壊色に染められたものでなければならないと規定される。律蔵によって色の規定に若干の異なりが見られるが、それらすべての色を挙げれば、青黒色・赤褐色・茶褐色(香色)・濃灰色(鈍色)。現在、日本では漆黒の服に茶褐色の衣が一般的に用いられ、南方のうちタイやスリランカでは色鮮やかなオレンジ色の衣が一般的になっているが、実はそのいずれも律の規定からすると非法。漆黒もオレンジ色も、出家の衣の色としては本来あり得ない。
支那・朝鮮では灰色の服に香色の衣、ラオスでは香色の衣、ビルマやチベットでは赤褐色の衣が一般的で、色に関して律に適った威儀を保っている。なお、そもそも袈裟とは、壊色の中でも赤黒色・赤褐色の色の名称であって僧侶の衣の名称ではない。▲
鉄鉢。比丘には必ず所有していなければならない物が六種あるがその内の一つ。仏教の出家修行者が用いる鉢は鉄製あるいは陶器製でなくてはならないと律で規定されており、石製または木製のものは所有・使用が禁じられている。今の日本の禅門の徒が用いている木製の鉢は非法。▲
おごり高ぶる心の働き。自分を何か「特別なもの」と考えること。僧侶に対して、その非法を「真っ向から批判する在家信者」など、仏教が定着して確たる経済基盤をもった今やまれ。
僧侶らには戒律を守る以外に浄化作用がないが、ここに驕慢のネズミが潜みこむ。しばしば「釈尊以来の戒律を厳しく守っている」などと伝えられる南方の僧侶、学徳・行徳 名高い「高僧」と言われる者にも、日本のそれに比しても眼おとりしない、驕慢の権化とも言うべ▲
自分を偽って、他人にへつらいおもねること。▲
だまし、あざむくこと。▲