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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

『仏垂般涅槃略説教誡経』(『仏遺教経』)

原文

汝等比丘。當知多欲之人。多求利故。苦悩亦多。少欲之人。無求無欲。則無此患。直爾少欲。尚應修習。何況少欲。能生諸功德。少欲之人。則無諂曲。以求人意。亦復不爲諸根所牽。行少欲者。心則坦然。無所憂畏。觸事有餘。常無不足。有少欲者。則有涅槃。是名少欲。

汝等比丘。若欲脫諸苦悩。當觀知足。知足之法。卽是富樂安隱之處。知足之人。雖臥地上。猶爲安樂。不知足者。雖處天堂。亦不稱意。不知足者。雖富而貧。知足之人。雖貧而富。不知足者。常爲五欲所牽。爲知足者之所憐愍。是名知足。

汝等比丘。欲求寂静。無爲安樂。當離憒閙。獨處閒居。靜處之人。帝釋諸天。所共敬重。是故當捨己衆他衆。空閒獨處。思滅苦本。若樂衆者。則受衆惱。譬如大樹衆鳥集之。則有枯折之患。世間縛著。没於衆苦。譬如老象溺泥。不能自出。是名遠離。

汝等比丘。若勤精進。則事無難者。是故汝等。當勤精進。譬如少水常流。則能穿石。若行者之心。數數懈廢。譬如鑽火未熱而息。雖欲得火。火難可得。是名精進。

汝等比丘。求善知識。求善護助。無如不忘念。若有不忘念者。諸煩悩賊。則不能入。是故汝等。常當攝念在心。若失念者。則失諸功德。若念力堅強。雖入五欲賊中。不爲所害。譬如著鎧入陣。則無所畏。是名不忘念。

汝等比丘。若攝心者。心則在定。心在定故。能知世間生滅法相。是故汝等。常當精進。修習諸定。若得定者。心則不散。譬如惜水之家。善治隄塘。行者亦爾。爲智慧水故。善修禪定。令不漏失。是名爲定。

汝等比丘。若有智慧。則無貪著。常自省察。不令有失。是則於我法中。能得解脫。若不爾者。既非道人。又非白衣。無所名也。實智慧者。則是度老病死海。堅牢船也。亦是無明黒暗大明燈也。一切病苦之良藥也。伐煩惱樹之利斧也。是故汝等。當以聞思修慧而自增益。若人有智慧之照。雖是肉眼而是明見人也。是名智慧。

汝等比丘。若種種戲論。其心則亂。雖復出家。猶未得脫。是故比丘。當急捨離亂心戲論。若汝欲得寂滅樂者。唯當善滅戲論之患。是名不戲論。

訓読

汝等比丘、まさに知るべし、多欲の人は多く利を求むるが故に苦悩もまた多し。少欲の人は求め無く欲無ければ、則ち此の患い無し。直爾少欲すら尚おまさに修習すべし。何に況や少欲の能く諸の功徳を生ずるをや。少欲の人は、則ち諂曲して以て人の意を求めること無し。また諸根の為に牽かれず。少欲を行ずる者は心則ち坦然として、憂畏する所無し。事に触れて余りあり。常に足らざること無し。少欲ある者は、則ち涅槃ねはんあり。是を少欲と名づく。

汝等比丘、もし諸の苦悩を脱せんと欲せば、まさに知足を観ずべし。知足の法は即ち是れ富楽安穏の処なり。知足の人は地上に臥すと雖も、なお安楽とす。不知足の者は天堂に処すると雖も、また意に称わず。不知足ふちそくの者はむといえども、而も貧しし。知足の人は貧ししと雖も、而も富めり。不知足の者は常に五欲の為に牽かれて、知足の者の為に憐愍せらる。是を知足と名づく。

汝等比丘、寂静・無為・安楽を求めんと欲せば、まさに憒閙かいにょうを離れて独処どくしょ閒居げんごすべし。静處の人は帝釋たいしゃく諸天しょてん共に敬重する所なり。是の故にまさに己衆・他衆を捨てて空閒に独処して、苦の本を滅せんことを思うべし。もし衆を楽う者は、則ち衆悩を受く。譬えば大樹の衆鳥、之に集まれば則ち枯折の患いあるが如し。世間せけん縛著ばくちゃく衆苦しゅくぼっ。譬えば老象の泥に溺れて、自ら出ること能わざるが如し。是を遠離と名づく。

汝等比丘、もし勤め精進するときは、則ち事として難き者の無し。是の故に汝等、まさに勤め精進すべし。譬えば少水も常に流るるときは則ち能く石を穿つが如し。もし行者の心、数数懈廢すれば、譬えば火を鑽るに未だ熱からずして而も息めば、火を得んと欲すと雖も火得べきこと難きが如し。是を精進と名づく。

汝等比丘、善知識を求め、善護助を求めることは、不忘念に如くは無し。もし不忘念ある者は、諸の煩悩の賊、則ち入ること能わず。是の故に汝等、常にまさに念を摂めて心に在くべし。もし念を失する者は、則ち諸の功徳を失う。もし念力堅強なれば、五欲の賊中に入ると雖も、為に害せられず。譬えば鎧を著て陣に入れば、則ち畏るる所無きが如し。是を不忘念と名づく。

汝等比丘、もし心を摂むる者は、心則ちに在り。心定に在るが故に、能く世間生滅の法相を知る。是の故に汝等、常にまさに精進して諸の定を修習すべし。もし定を得る者は、心則ち散ぜず。譬えば水を惜しむの家は、善く隄塘を治するが如し。行者もまた爾なり。智慧の水の為の故に、善く禅定を修め漏失せざらしむ。是を名づけて定と為す。

汝等比丘、もし智慧あれば則ち貪著無し。常に自ら省察して、失わることあらせしめず。是れ則ち我が法の中に於いて、能く解脱を得。もし爾らざる者は、既に道人に非ず。また白衣に非ず。名づくる所無し。実智慧は、則ち是れ老病死海を度る堅牢の船なり。また是れ無明黒暗の大明燈なり。一切病者の良薬なり。煩悩の樹を伐るの利斧なり。是の故に汝等、まさに聞思修の慧を以て而も自ら増益すべし。もし人智慧の照あれば、是れ肉眼なりと雖も而も是れ明見の人なり。是を智慧と名づく。

汝等比丘、もし種種の戯論は其の心則ち乱る。また出家すと雖も、なお未だ脱することを得ず。是の故に比丘、まさに急に乱心戯論を捨離すべし。もし汝、寂滅の楽を得んと欲わば、唯だまさに善く戯論の患を滅すべし。是を不戯論と名づく。

脚註

  1. 涅槃ねはん

    [S].nirvāṇa / [P].nibbānaの音写。サンスクリットの語源解釈するとnir+√vāであって、その原意は「吹き消すこと」。仏教においては一般に、輪廻(saṃsāra)を継続する業が全く滅された状態、あるいはそのような状態になったままで死を迎えることを涅槃という。それはそれぞれ、まだ業果としての生きるべき身体があることから有余依涅槃、死によって身体も無くなることから無余依涅槃と言われる。
    しかしながら、ここに「少欲ある者は、則ち涅槃あり」と説かれているように、涅槃とはどこか遠くに存在する、たとえば一般に天国と言われるような場所、桃源郷、異次元の理想郷などでない。そして、仏教で一般的に言われるように全く解脱した者の心的状態やその死だけを意味するものでもなく、それがたとい全きものでなく、またそれが一時であったとしても満足を知る人の心には、その原義どおりに「心に煩悩の炎が吹き消された状態」・「心騒がず平安である状態」があり、それもまた時に涅槃と言われる。

  2. 不知足ふちそくの者はむといえども...

    常に足りないと思い、満足しない者とは一体どういう者であろうか。それは我々ほとんど皆全てである。我々は「欲しがる者」である。欲しい、まだ足りない、もっと、という欲望が、人に非建設・非現実的な方向で現出し、それに基づいた行為が行われたならば、結果するのは結局不満足、苦しみのみ。そして、それを満たすためにまたさらに求め続け、不満足をやり通す。

  3. 憒閙かいにょう

    憒は「みだれている」・「混乱している」、閙は「さわがしい」の意。

  4. 独処どくしょ閒居げんご

    ひっそりとした山林、ひと気の無い静かな土地で独り修行すること。これは、古代インドの大叙事詩Mahābharataにも見られるように、インドではバラモン教においても等しく説かれる。仏教ではその様な場所を[S].araṇya / [P].araññaといい、支那ではこれを音写として阿蘭若という。遠離処・寂静処はその漢訳。遠離処・寂静処などといっても、そのような場所は都会や町村からあまり遠くにあってはならない。僧侶が托鉢するにも在家の集落があまりに遠く、また在家者が布施しに来るにもあまりに不便であるからである。世俗から隔絶された場所でなく、かつ世俗の喧噪からは離れた場所がもっとも良いとされる。一般にイメージされるような、人里から遠く離れ隔絶された地で修行など、現実として出来はしない。

  5. 帝釈たいしゃく

    インドの神indra。一説に神々の王、天空の王などと言われ雷槌をその武器とするとされる。仏教においては、仏陀が成道後、人々に説法することを躊躇われていたのを梵天と共にその前に現れ、その説法を乞い願ったのが帝釈天であったとされる。このことから、特に梵天と帝釈天とは仏教の守護神として見なされている。

  6. 諸天しょてん

    もろもろの神々。仏教において、神とは人々に救いをもたらす存在などではない。それは人より長大な寿命と能力を有する霊的存在とはされるものの、やがては死すべき者、いまだ悩み苦しみある存在であって、その点では我々とまったく同じであるとされる。そのような存在たる神々が、解脱を求めて静処において独り修行に励む人々を敬し護るであろうと仏教では考えられている。

  7. 世間せけん縛著ばくちゃく衆苦しゅくぼっ

    仏教において世間における諸々の活動は、畢竟すべて無価値なものでしかない。世界は美しい、そのように人に感じられることは事実である。実際、仏陀釈尊もまた、ご自身の滅度を意識された最後の旅において、世界の美しさを歎じられた。そして、人の懸命なる営みはときに美しく崇高である、そのように人に感じられることも事実であろう。けれども、いくら人がそこに懸命に何かを見出そうとしても、人生に生来的な意味などない。これを無理に「いや、世間はすばらしい」などと主張する者がある。しかし、本来的に仏教はそのようなものではない。仏教が世間での価値観、一般社会における諸々の慣習や義務などを、一概に否定することはない。けれどももし、解脱を求め、ましてや在家から出家して修行者となったならば、それらはもはやその目的を成就するための足かせ、苦しみの基としかならないとされる。世界の人皆が解脱を求めることなどない。また、解脱に対する憧憬を懐く者はあっても、しかし世俗の様々なしがらみを全く捨てて出家するほどの決意や強い欲求を持てない者のほうが多くあろう。たとい出家したとしてもそのような世間への未練や執着を捨てきれず、断ち切れない者も多くある。しかし、それは無論ここでも説かれているように、出家者としてあるべきでない有り様である。その故に仏教では、在家と出家とのあり方の別が設けられている。

  8. 善知識ぜんちしき

    仏道に導き、悟りへと誘う師のこと。知識とあるが、これはただ単に知識量が豊富な人を意味しない。あくまで人の師として涅槃に導き得る、豊かな善き智慧を持つ人のこと。

  9. 善護助ぜんごじょ

    善護助なる語は一般的でなく、その他の経典にある語でないためにその意味は判然としない。世親菩薩によると伝説される『仏遺教経』の注釈書『遺教経論』にも、善護助とは何かが説明されない。あるいは自身を支援援助する在家の檀越・施主のことであろうか。

  10. 不忘念ふもうねん

    念とは[S].smṛti / [P].satiの漢訳。心に留めて忘れないこと。不忘とは念の働き、すなわち忘れないこと、失わないことをそのまま表した語。
    ここで『仏遺教経』は、善知識や善護助など他の人の精神的・物理的助けを求めることよりも、まず自身の念を強めることをもってその助けとすることを最も推奨している。今現在己が行っている諸々の動作、自分の身心の動き、たとえば呼吸あるいは歩く動作などに意識を向け、注意深くすること。そうして念が確立されているときは、この経文にある如く、五欲に心が囚われ惑わされることはない。それは譬えば、何かを手に固く握って離さないでいたならば、他の何物も掴み得ないようなものである。念を保っている間は、自心に五欲の賊が付け入る隙はない。しかし、念を失えばたちまち五欲がその掌中に入り込み、自らもそれを望んで欲をこそ掴み離さないこととなって、ついに自らを利す筈が自らを傷つける。

  11. じょう

    [S]/[P].samādhiの漢訳。これにはまた三昧もしくは等持との音写もあって共によく用いられる。同義語に心一境性(cittaikāgratā)・等引(samāhita)・等至(samāpatti)・止(śamatha)、そして現法楽住(dṛṣṭadharmasukha-vihāra)がある。[S].dhyāna / [P].jhānaの漢訳である禅那(禅)もまた、まぎれもない定すなわち三昧の一種であるが、仏教では特に定の内でもより深い境地、深く集中した心の状態が意味される。

  12. こころじょうるが故に...

    深く集中して揺るぎのない心の状態に至ってこそ、この世の無常たることの真に何たるかを知ることが出来る、との意。逆に言えば、心が定になければ「能く世間生滅の法相を知る」ことは出来ない。

  13. 隄塘たいとう

    堤防。

  14. 智慧ちえ

    [S].prajñā / [P].paññāの漢訳。般若はその音写。あるいは[S].jñāna / [P].ñāṇaもまた智慧と訳される。時にjñānaが智、prajñāが慧と訳されることがあるが、その逆もまたあり一定しない。また、特に無常・苦・空・無我なるモノゴトの真実を認識する心の働き、無分別智をprajñāとし、知識・教養・知的理解など分別智をjñānaとする場合があるが、ここではそのような別によらず一般的な意味での智慧と説かれていると思われる。

  15. 老病死海ろうびょうしかい

    生まれ・老い・病み・死ぬこと、それはあたかも果てしなく押し寄せる波のごとくに繰り返しつに脱することの出来ない我々の人生が、否定的な意味で海のようなものであることを言う言葉。同じ意味で苦海ともいわれる。

  16. 聞思修もんししゅの慧

    仏陀の教えについて聞き(聞法)、考え(思量)、それらに基づいて定を修する(修定)ことによって生じる三種の智慧。三慧。

  17. 是れ肉眼にくげんなりと雖も...

    仏陀や菩薩・阿羅漢はもとより四禅に至った瑜伽行者が備えるという五神通の一つたる、天眼通に対する語。天眼通を得た者は、遠く離れた場所で起こっていることなど、普通は見ることができないものを見ることが出来る、といわれる。ここではしかし、そのような天眼通を得ていなくとも、「もし人智慧の照あれば」明見すなわち事物の真理を達見する人であるとしている。天眼通の有無など、事物の真理を達見する智慧の獲得には関しないことが、その趣旨であろう。

  18. 戯論けろん

    [S].prapañca、あるいはabhilāpyaまたはākhyāyakaなどの漢訳。概念によって念入りに作り上げられたもの。すなわち形而上学あるいは形而上学的義論のこと。または、形而上学に関わらずとも決定的結論を出し得ない無意味な論争。それらは証明することも出来ず、また両者ともに結論することも出来ないために不毛である。それに関わり拘る者には心の平安がない。
    あるいは単に「無駄口」という意で理解しても可であろう。仏教では語黙をもって尊しとする。いや、瞑想修行する者が寡黙で多言しないことは、ほとんどその心地の為には必須であると言って良い。例えばこれは、おそらく現代の一般社会にて生活するままでは、ほとんど実行し難いことであろうが、試しに十日間でもまったく言葉を発せず、音楽もテレビも新聞も本も見ず聞かず読まず、早寝早起きする中で、自主的に一日中でも瞑想に励んでみたらよい。それがどれほど我が心を穏やかにするか、心を澄み明瞭とさせるかを、まさに自らがはっきりと知ることとなる。

仏陀の言葉