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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

『仏垂般涅槃略説教誡経』(『仏遺教経』)

原文

汝等比丘。於諸功德。常當一心。捨諸放逸。如離怨賊。大悲世尊。所說利益皆已究竟。汝等但當勤而行之。若於山間。若空澤中。若在樹下。閒處靜室。念所受法。勿令忘失。常當自勉。精進修之。無爲空死後致有悔。我如良醫。知病說藥。服與不服非醫咎也。又如善導。導人善道。聞之不行。非導過也。

汝等。若於苦等四諦。有所疑者。可疾問之。無得懷疑。不求決也。爾時世尊。如是三唱。人無問者。所以者何。衆無疑故。時阿㝹樓駄。觀察衆心。而白佛言。世尊月可令熱。日可令冷。佛說四諦。不可令異。佛說苦諦實苦。不可令樂。集眞是因。更無異因。苦若滅者。卽是因滅。因滅故果滅。滅苦之道。實是眞道。更無餘道。世尊是諸比丘於四諦中決定無疑。

於此衆中。若所作未辯者。見佛滅度。當有悲感。若有初入法者。聞佛所說。卽皆得度。譬如夜見電光。卽得見道。若所作已辯。已度苦海者。但作是念。世尊滅度。一何疾哉。

阿㝹樓駄。雖說此語衆中皆悉了達四聖諦義。世尊欲令此諸大衆。皆得堅固。以大悲心。復爲衆說。

汝等比丘。勿懷悲惱。若我住世一劫。會亦當滅。會而不離。終不可得。自利利人法皆具足。若我久住更無所益。應可度者。若天上人間。皆悉已度。其未度者。皆亦已作得度因縁。自今已後。我諸弟子展転行之。則是如來法身常在而不滅也。是故當知。世皆無常。會必有離。勿懷憂也。世相如是。當勤精進。早求解脫。以智慧明滅諸癡闇。世實危脆。無牢強者。我今得滅。如除惡病。此是應捨罪惡之物。假名爲身。没在老病生死大海。何有智者。得除滅之如殺怨賊。而不歡喜。

汝等比丘。常當一心。勤求出道。一切世間。動不動法。皆是敗壞不安之相。汝等且止。勿得復語。時將欲過。我欲滅度。是我最後之所教誨。

佛垂般涅槃略説教誡経 佛遺教経

訓読

汝等比丘、諸の功徳に於いて、常にまさに一心に諸の放逸を捨てること、怨賊を離るるが如くすべし。大悲世尊、所説の利益は皆な已に究竟す。汝等、但だまさに勤めて之を行ずべし。もしは山間、もしは空沢の中に於いても、もしは樹下・閒処・静室に於いても、所受の法を念じて忘失せしめること勿れ。常にまさに自ら勉め、精進して之を修すべし。すこと無くしてむなしく死せば、後にいあることをいたさんわれは良医のやまいを知ってくすりを説くが如し。服すと服せざるとは医の咎に非ず。また善く導く者の、人を善道に導くが如し。之を聞いて行かざるは、導く者の過に非ず。

汝等、もし苦等の四諦したいに於いて、疑う所ある者は、疾く之を問うべし。疑いを懐いて決を求めざることを得ること無し。爾の時世尊、是の如くたびとなへ玉うに、人、問い上つる者の無し。所以者何、衆、疑い無きが故に。時に阿㝹樓駄あぬるだ、衆の心を観察して、而も仏に白して言さく。世尊、月は熱からしむべく、日は冷やかならしむべくといえども、仏の説き玉う四諦は異ならしむべからず。仏の説き玉う苦諦は実に苦ななり。楽ならしむべからず。集は真に是れ因なり。更に異因無し。苦もし滅すれば、即ち是れ因滅す。因滅するが故に果滅す。滅苦めっくの道は、実に是れ真道なり。さら余道よどう無し。世尊、是の諸の比丘、四諦の中に於いて決定して疑い無し。

此の衆中に於いて、もし所作しょさいまべんぜざる者は、仏の滅度を見て、まさに悲感あるべし。もしはじめて法にること有る者は、仏の所説を聞いて、即ち皆な得度す。譬えば夜電光を見て即ち道を見ることを得るが如し。もし所作しょさすでべんじて已に苦海をわたる者は、但だ是の念を作さん。世尊の滅度、一えに何ぞ疾かなるやと。

阿㝹樓駄、此の語を説いて、衆中皆な悉く四聖諦の義を了達すと雖も、世尊、此の諸の大衆をして皆な堅固なることを得せしめんと欲して、大悲心だいひしんを以て、また衆の為に説き玉う。

汝等比丘、悲悩を懐くこと勿れ。もし我れ世に住すること一劫するといえども、会う者はまたまさに滅すべし。会うて離れざること、終に得べからず。自利じり利人りにんの法、皆な具足す。もし我れ久しく住するといえども、更に所益無けん。まさに度すべき者の、もしは天上てんじょう人間にんげん、皆なことごとすでに度す。其の未だ度せざる者も、皆なまた已に得度とくど因縁いんねんを作す。自今已後、我が諸の弟子、展転して之を行ぜば、則ち是れ如来にょらい法身ほっしん常に在して滅せざるなり。是の故にまさに知るべし、世は皆な無常なり。会う者は必ず離るることあり。憂悩うのういだくことなか。世相、是の如し。まさに勤め精進して早く解脱を求め、智慧の明を以て諸の癡闇を滅すべし。世は実に危脆なり。牢強なる者の無し。れ今、めつを得ること悪病をあくびょうくが如し。此れは是れまさに捨つべき罪悪の物、仮に名づけて身と為す。老病生死の大海に没在す。何ぞ智者あって、之を除滅すること怨賊を殺すが如くして、而も歓喜せざらんや。

汝等比丘、常にまさに一心に勤めて出道しゅつどうを求むべし。一切世間、動・不動の法は、皆な是れ敗壊はいえ不安ふあんの相なり。汝等且く止みね。また語ことを得ること勿れ。時まさに過ぎなんと欲す。我れ滅度せんと欲す。是れ我が最後の教誨する所なり。

佛垂般涅槃略説教誡経 佛遺教経

脚註

  1. すこと無くしてむなしく...

    人はどれだけ長く生きられたとしても120年。日本での平均はそれが比較的長いとはいえ88歳程度。しかし、それもその後半は思うままに動くことも出来ず、あるいは老いに、あるいは病に苦しみ、漠然とした不安と不満とが途切れること無く時を過ごしていく。悶々とした十代を終え、大学に行って短い青春を謳歌出来たとしても、それもせいぜい四年から八年程。多くの場合、それが終われば否応なく日本的会社組織ですり潰され、家庭をもって月並みながらもその幸せとその苦しみとを味わいつつ三十を過ぎてあきらめの気持ちが出、その後もおよそ己がしたいことの五分の一、いや十分の一ほども出来ずに定年を迎える。最終的に楽しみといえば、食べることと酒を呑むこと、そして寝ること。あるいは日がなボーっとテレビを見つつ、誰に言うともなく無意味にボヤくのみ。あるいは、趣味に没頭して遅い青春を謳歌せんとし、実際に楽しむ人もあろうが、それは決して多くない。特に芯から没入できる趣味を持つこともなく、精神的支柱とした思想や信条、理想など自ら持つことなく生きてきたがために、ほとんど精神的に成熟することもなく、ただ老いていく一方の心と身体と共に、生活にまつわる様々な不満を抱え、ついに死を迎える。
    人生とは、ときに果てしなく長いように思えることもあるが、しかし実に短い。これは別段、人生を実際に八十年も九十年も生きなくとも、人が三十年も生きてみたならば容易に知られることである。我が死は、我が親しい人たちの死はすぐそこにある。すぐそこに迫っている。そのゆえに人は、出来る限り最大限、いずれ虚しく後悔せぬように生きたほうが良い。たとえば、青年から老年まで富裕な、そして人から尊敬される人生を送れたとしても、突如として病や死によって、それらは虚しく壊れさる。その時、はじめて我が生涯を振り返って後悔したとしても、それはあまりにも苦しく、あまりに虚しい。我々人のほとんど多くが、それを頭でわかっているつもりでいても、実際は自らが死を真に意識するまで決してワカラナイ。故にこれを常に意識し、芯から知り行動している人は、その点で賢人である。

  2. われは良医のやまいを知って...

    「すべての人が平等に救われる教えでなければ宗教とは言えない。真の宗教とは、すべての人を幸福にするものである」などと言う者がある。それは無知・無教養・無思考の極みの言である。そんな宗教は無い。少なくとも、世界宗教といわれるキリスト教やイスラム教、そして仏教はそのような宗教ではない。
    仏陀は優れた内科医であり、その病の根源を知って、その処方箋を、それは非常に苦い薬であろうのであろうけれども、確かに自ら飲めば効く薬を出される。その薬を飲むか飲まぬかはあくまで自分次第である。その薬を飲まないのは本人の責任であって、医師の責任ではない。仏陀は、“tumhehi kiccamātappaṃ, akkhātāro tathāgatā. paṭipannā pamokkhanti, jhāyino mārabandhanā.”(汝は自ら努め励め。 諸々の如来はただその道を示すのみ。 禅を修めてこの道を歩む者らは、魔の束縛から解き放たれるであろう)と説かれた(KN. Dhammapada, Maggavagga 276)。忠言耳に逆らう。真実は時に人に痛みを与えるもので、むしろそれが必要な者こそそれを遠ざけようとする。しかし、これはまさに真実である。誰も私を救うことは出来ない。けれども私は私を救うことは出来る。その詳しい術として残されたもの、それが仏教である。

  3. 四諦したい

    釈迦牟尼の根本教説。諦は「真理」の意。一般には苦集滅道の四諦と云われる。あるいは、それが人をして苦海から脱さしめる聖なるものであるから、特に四聖諦という。 この世の全ては苦であるという真理・苦の原因は(渇愛や無明を主とする)煩悩であるという真理・煩悩の滅があるという真理・煩悩を滅するに道という真理。仏陀のすべての教説は畢竟、すべてこの四聖諦に集約される。

  4. たびとなえ玉う

    なにか一つの事を尋ねるのに、三度同様の質問を繰り返すことはインドの習慣・伝統であり、それは仏教のもたらされた国々でも踏襲された。

  5. 阿㝹樓駄あぬるだ

    [S].Aniruddha (Anaruddha) / [P].Anuruddha. 仏陀の直弟子の一人。支那・日本においては『維摩経』に基づき、釈尊の十大弟子の一人として尊敬される人。釈尊の従兄弟であったという。漢訳経典では、多くの音写名があって統一されていないが、阿那律との名が一般的か。漢語仏教圏では、釈尊の説法の座にあって居眠りしたことを釈尊から叱責され、以来決して眠らぬとの誓願を立てて実行したため、視力を失ったとされている。しかし、肉眼の視力は失ったが、かわりにモノの真なる有り様を見通す智慧の眼を得たとされる。この阿那律が盲目となったという伝承は漢語仏教圏で通用したものであって、南方にそのような伝承は無いことに注意。。

  6. 滅苦めっくの道

    八正道。[S].āryâṣṭâṅga-mārga / [P].ariya-aṭṭhāṅgika-magga. 原語を正確に訳せば八正道でなく八聖道あるいは八支聖道。
    八正道とはすなわち、①正見・②正思惟・③正語・④正業・⑤正命・⑥正精進・⑦正念・⑧正定の八つの修習。すべて「正しい」との語が冠されているが、それでは実に不明瞭であろう。実際、日本の俗間では、日本の僧職者や仏教学者などによって、例えば「正見とは正しくモノゴトを見ること、正しい見解のことです」などと、なんの説明にもなっていないことを平然と言うのみで済まされている。けれども、伝統的にはそれぞれがいかなる内容かが具体的に提示される。
    ① 正見…苦についての知識、苦の根源についての知識、苦の滅尽についての知識、苦の滅尽へと導く道についての知識。すなわち四聖諦について正しく知り、理解すること。
    ② 正思惟…離欲の思惟(俗世間で良しとされる価値観から離れた、離れんとする思い)、無瞋恚の思惟(怒りなき思い)、無害の思惟(害意なき思い)。思考についての戒め。
    ③ 正語…妄語(嘘)からの遠離、両舌・離間語(中傷)からの遠離、悪口・麁悪語(誹謗)からの遠離、綺語(無駄口・虚飾した言葉)からの遠離。発言についての戒め。
    ④ 正業…殺生からの遠離、偸盗(窃盗)からの遠離、邪淫(不倫や不特定多数の対象との性関係など不道徳な男女関係)からの遠離。身体的行為についての戒め。
    ⑤ 正命…邪な生業を捨て、正しい生業によって生計を立てること。在家者は正語・正業に従った職業に従事すること。出家者は四依法を原則とし、律や経の説く戒に従って生活すること。生活手段についての戒め。
    ⑥ 正精進…すでに生じ、あるいは未だ生じていない諸々の不善なる我が身心の有り様・行為を捨てるため、又はすでに生じ、あるいは未だ生じていない諸々の善なる身心の有り様・行為をさらに強め育むため、懸命に努力し、心を引き締めて克服すること。すなわち四正勤の修習。
    ⑦ 正念…身随観(身体は不浄に満ちていると随観)・受随観(すべての感受は畢竟苦であると随観)・心随観(心は無常であると随観)・法随観(すべてのモノゴトは非我であると随観)に住して、これらを熱心に、明らかに意識し、注意深く、この世における貪りと憂いとを調伏すること。すなわち四念住の修習。
    ⑧ 正定…欲と不善の法から離れ、尋・伺あって、離生の喜・楽を具える初禅に達し住すること。尋・伺が静まり内に信あり一心にして、尋・伺なく、定生の喜・楽を具える第二禅に達し住すること。喜を離れて捨に住し、念あり正知して、身楽を知る第三禅に達し住すること。苦楽を離れ、先の喜憂を滅し、不苦不楽・捨念清浄なる第四禅に達し住すること。すなわち四禅の修習。

  7. さら余道よどうなし

    仏陀は人それぞれの能力と時機に応じて説法され、その教えは八万四千の法門とまで言われるまでに様々であると言われる。しかし、それは畢竟、四諦八正道に集約される。大乗において、空性・唯識・仏性・如来蔵等々が説かれ、悟りの内容あるいは諸法の真実相はそれぞれ相異なって説かれていたとして、結局それぞれで説かれる修修法が、八正道を逸脱することはない。世界の真相が四聖諦と異なることはない。

  8. 所作しょさいまべんぜざる者

    悟りを求めて出家した修行者としてなすべきことを未だ成し終えていない者。解脱していない者、凡夫。あるいは凡夫でなく賢者・聖者の流れに入ってはいても、いまだ阿羅漢果までには至っていない者を言う。いまだ学ぶべきこと、成し遂げるべきこと有る者であることから、有学とも言われる。

  9. はじめて法にること有る者

    仏陀の教えに触れたことによって、あたかも雷に打たれた如くにその教えの得難く尊いものであることを理解し、たちまち初果を得た者。その初果とはすなわち、四双八輩といわれる聖者の階梯の第一たる預流果(須陀洹果)である。仏教では、預流に至った者をして聖者の初めとされる。なお、この一節は天台の湛然によって引かれている。
    『止観輔行伝弘決』「彼經云。初入法者聞佛所説。即皆得度譬如電光。正當初果也。初得無漏故云初入」(T46, p.413c)

  10. 所作しょさすでべんじて已に苦海をわたる者

    阿羅漢果に達し、もはや再びいかなる世界・境涯にも生まれ変わることのない者。修行完成者。成すべき事を成し終え、学ぶべき事がもはや無いことから、無学とも言われる。

  11. 大悲心だいひしん

    悲心は、他者が苦しみの最中にあってもがくのを知ってあわれみ、その苦しみを取り除かんとする思い。漢字で「悲」とあることによって「哀れな人・生物をみておこる悲しみ」などといった理解をしてはならない。なお我々凡夫の悲心には「大」が付されない。時にそれは小悲といわれ、大が付されるのは仏陀や大菩薩のそれに限られる。なんとなれば、思うだけでなんら他に影響を及ぼさないそのような思いは小悲であって、ただ悲心または小悲といわれる。対して仏陀や大菩薩のそれは、他に対して影響力を伴うものであるから大悲といって区別される。

  12. 一劫いっこう

    劫は[S].Kalpaの音写、劫波の略。古代インドの時間単位のうち最長のもの。想像すら出来ないほどの宇宙的長大なる時間。伝統的にその時間の長大であることは「芥子粒の譬え」や「天衣の譬え」によって表される。

  13. 自利じり利人りにんの法

    仏教には、小乗と大乗という二つの教えの流れがある。一般に、小乗は自己を利するのみの教えであって、大乗は利他を先とする教えとされる。あるいは、小乗は人など個々の事物は原因と結果とによって形成された不完全なもの、無常なものとするが、本質的なモノは不変とする教えであり、対して大乗ではそのいずれもが空なるもの、無常・無我のものとするなどとされている。古来、小乗と大乗という言葉自体が一人歩きし、やがて実体不明のものとなったが、仏教はいずれにせよ自己を利し他者を利する教えである。

  14. もしは天上てんじょう人間にんげん...

    釈尊はその生涯の中で、人だけでなく神々にも法を説いて道を示した。仏教の理解では、仏陀や阿羅漢果に至り得るのは基本的に人間に限られるとされる。しかし、仏陀は神々に対しても法を説き、神々はその教えを受持して仏教に伏した。故に仏陀はその異称として人天師、すなわち「人と神との師」とされる。

  15. 得度とくど因縁いんねん

    ここに言われる得度は、出家することではない。そのまま度を得ること、すなわち解脱(への道筋)を得ることである。そもそも、出家することを得度というのはこの意に基づく。出家したならば「世俗を離れて修道に励み、ついには解脱を得る」であろうことから、出家することを得度という。得度の因縁とは、仏陀の遺された法(教え)と律。

  16. 如来にょらい法身ほっしん

    ここに言われる法身とは、仏陀の教えを擬人化して言ったもの。仏陀が入滅しても、あるいは仏陀がこの世に生まれ出でていなかったとしても、真理そのものは変わることがない。「すべては移ろいゆく、変わり行くものであり、いかなるものも金剛不壊ではない」という真理は金剛不壊である。

  17. 憂悩うのういだくことなか

    仏陀は、ただ世間が無常であって死は逃れがたいものであることを重ね重ね示そうと、ここでこのように説かれたのではなかったであろう。自分を失うことを悲しむ弟子達を思いやり、いたわっての言でもあったと思われる。弟子達にとってそれが師との別れであることは、釈尊にとっても弟子達との別れでもあった。

  18. れ今、めつを得ること...

    釈尊はここで自身が死に逝くことを喜びをもって迎えることを表明されている。この身体は我がものであって我がものでなく、不浄なるものであり、老いるもの、病むもの、苦しみを伴うもの、死に逝くものであって、執着愛好するものではない。今ここに仏陀のその身体は滅び、もはや再び生まれ変わることのない完全な涅槃を迎えられる。それは完全なる平安、すなわち無余依涅槃であった。

  19. 出道しゅつどう

    出離の道。世間を離れ、生死輪廻の苦海を出でる道。それはすなわち仏道に他ならない。俗世・世間にしがみつきながら同時に解脱を得ようとすることは理にかなわない。それはあたかも、人が湖の水面にただ浮かび漂いながら、深き湖底に秘められた宝を得ようとするようなもの。

  20. 敗壊はいえ不安ふあんの相

    この世のすべては不完全で危うく脆いものである。それはなにも仏教だけが説くことではなく、キリスト教やイスラム教もまた同じく見なすところである。しかし、彼らはその背後に絶対唯一なる創造主、万能なる神の存在を夢見る。不完全な我々に対し、完全なる絶対者、唯一なる救済者の存在を想うのである。けれども仏教では、そのような絶対唯一なる創造主の存在などありえないことを説く。また、何者であれ他者を救うことなど出来ないとも説く。自分を救い得るのは他でもない、自分以外にあり得ないのである。仏陀は、その自らが自らを救う道を説かれた。まさにその行き方を示された。
    どれほど社会的に成功し、人々から賞賛される事業を成し遂げ、大なる富を築きあげてこの世の春を謳歌した者であっても、その最期は突如としてあっけなく、また惨めにやってくる。それを満ち足りた思いで受け入れられるのか、その理不尽に思える最期をどのように捉えるのか。それは当然、人によって異なるであろう。しかし、「知足」を知ると知らぬとで、またこの世が「敗壊不安の相」であることを知ると知らぬとで、その終わりの迎え方は甚だ異なってくるに違いない。
    我々はどのように生きるべきか、如何に我々は世界を見るべきか、如何に我々はその最期を迎えるべきか。その得難き答え、尊き教えの要が、この『仏遺教経』では説かれている。『平家物語』にて詠われた「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」とは、まさにここで仏陀が語られ示された誰しも必ず死を迎えることを言うものであった。

仏陀の言葉