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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

元照 『仏制比丘六物図』

原文

二釋名。有二。初通名者。總括經律。或名袈裟 從染色爲名 或名道服 或名出世服。或名法衣。或名離塵服。或名消痩服 損煩惱故 或名蓮華服。離染著故 或名間色服 三色成故 或名慈悲衣。或名福田衣。或名臥具。亦云敷具 皆謂相同被褥 次別名者。一梵云僧伽梨。此云雜碎衣 條相多故 從用則名入王宮聚落衣 乞食説法時著 二欝多羅僧。名中價衣 謂財直當二衣之間 從用名入衆衣 禮誦齋講時著 三安陀會名下衣 最居下故或下著故 從用名院内道行雜作衣 入聚隨衆則不得著 若從相者。即五條。七條。九條。乃至二十五條等。義翻多別且提一二

三明求財。分二。初明求乞離過。由是法衣。體須清淨。西梵高僧。多拾糞掃衣。今欲如法。但離邪求。事鈔云。興利販易得者不成。律云不以邪命得 下引疏釋 激發得 説彼所得發此令施 現相得 詐現乏少欲他憐愍 犯捨墮衣 三十諸衣戒等 竝不得作業疏云。邪命者。言略事含。大而言之。但以邪心。有渉貪染。爲利賣法。禮佛。誦經。斷食。諸業所獲贓賄。皆名邪命。今人嚢積盈餘。強從他乞。巧言諂附。餉遺汚家。凡此等類竝號邪利。次明對貿離過。若本淨財貿得最善。必有犯長錢寶。將貿衣財準律。犯捨衣貿得新衣。但悔先罪。衣體無染。可以例通。若自貿物。不得與白衣爭價高下同市道法。遣淨人者。亦無所損。有云。淨財手觸。即爲不淨。此非律制。人妄傳耳 但犯捉寶非汚財體

四明財體。分二。初明如法。律中猶通絹布二物。若準業疏諸文。絹亦不許。疏云世多用絹紬者。以體由害命。亦通制約。今五天竺及諸胡僧。倶無用絹作袈裟者。又云。以衣爲梵服。行四無量。審知行殺。而故服之。義不應也。感通傳中。天人讃云。自佛法東傳。六七百年。南北律師。曾無此意。安用殺生之財。而爲慈悲之服。廣如章服儀明之。義淨寄歸傳。輒責爲非。蓋大慈深行。非彼所知。固其宜矣。次簡非法。然其衣體。須求厚密。離諸華綺。律云。若細薄生疎 蕉葛生紵並不可用 綾羅錦綺。紗縠紬綃等。並非法物。今多不信佛語。貪服此等諸衣。智論云。如來著麁布僧伽梨。此方南嶽山衆。及自古有道高僧。布衲艾絮。不雜一絲。天台唯被一衲。南山繒纊不兼。荊溪大布而衣。永嘉衣不蠶口。豈非慈惻之深。眞可尚也。今時縱怠。加復無知。反以如來正制之衣。用爲孝服。且僧無服制。何得妄行。釋氏要覽。輔教孝論。相循訛説。愼勿憑之。近見白布爲頭絰者。斯又可怪。法滅之相。代漸多。有識者。宜爲革之。則法得少留矣

訓読

二に釋名しゃくみょう。二有り。初めに通名つうみょうとは、經律を總括そうかつするに、或は袈裟けさと名づけ 染色に從て名と爲す、或は道服どうふくと名づけ、或は出世服しゅっせふくと名づけ、或は法衣ほうえと名づけ、或は離塵服りじんふくと名づけ、或は消痩服しょうしゅふくと名づけ 煩惱を損ずるが故なり、或は蓮華服れんげふくと名づけ 染著を離れるが故なり、或は間色服けんじきふくと名づけ 三色を成すが故なり、或は慈悲衣じひえと名づけ、或は福田衣ふくでんねと名づけ、或は臥具がぐと名づけ、亦は敷具ふぐと云ふ 皆、被褥に相同じきを謂ふ。次に別名べつみょうとは、一にはぼん僧伽梨そうぎゃりと云ふ。此には雜碎衣ぞうさいえと云ふ 條相多きが故にゆうに從へば則ち入王宮聚落衣にうおうぐうじゅらくえと名づく 乞食・説法時に著す。二には欝多羅僧うったらそう中價衣ちゅうけえと名づく 財・直、二衣の間に當るを謂ふゆうに從へば入衆衣にっしゅえと名づく 禮・誦・齋・講の時著す。三には安陀會あんだえ下衣げえと名づく 最も下に居るが故に。或は下に著するが故にゆうに從へば院内道行雜作衣いんないどうぎょうぞうさえと名づく 聚に入り、衆に隨ふときは則ち著することを得ず。若し相に從へば、即ち五條、七條、九條乃至二十五條等なり。義翻ぎほん、多く別れたり。しばらく一、二をぐ。

三に求財ぐざいを明すに、二を分かつ。初めに求乞ぐこつとがを離れることを明かす。是れ法衣ほうえなるに由て、たいすべから清淨しょうじょうなるべし西梵さいぼんの高僧、多く糞掃衣ふんぞうえを拾う。今、如法にゅほうなることを欲すれば、但だ邪求じゃぐを離れよ。事鈔じしょうに云く、利を販易ほんにゃくして得たる者は成ぜず。りつに云く、邪命得じゃみょうとく 下にしょを引いて釋す激發得げきほっとく 彼に得る所を説いて此に發して施さしむ現相得げんそうとく 詐て乏少を現じて他の憐愍れんみんを欲すを以て得ざれ。犯捨墮ぼんしゃだの衣 三十の諸衣の戒等なり、竝びに作ることを得ずと。業疏ごうしょに云く、邪命じゃみょうとは、ことばりゃくにしてこと、含なり。大にして之を言はば、但だ邪心を以て貪染とんぜんわたること有り。利の爲に法をり、禮佛らいぶつし、誦經ずきょうし、斷食だんじきするなどもろもろの業によって獲る所の贓賄ぞうわいは、皆邪命じゃみょうと名づく。今の人はふくろに積みちて餘れども、あながちに他に從いて乞ひ、言を巧みにしてへつらい附き、餉遺しょうけんして家を汚す。凡そ此等の類を竝びに邪利じゃりと號す。次に貿かうあたり過を離れることを明す。若し本の淨財じょうざいをもって貿かいるは最も善し。必ず犯長ほんじょう錢寶せんぼう有らんにもっ衣財えざい貿えば、律に準ずるに、犯捨ぼんしゃの衣を以て新衣しんねを貿得ば、但だ先罪を悔すべし。衣體えたいは染無し。以て例通すべし。若し自ら物を貿んには、白衣びゃくえあたいの高下を爭ひて市道の法に同ずることを得ず。淨人じょうにんを遣せども、亦た所損しょそん無し。有るが云く、淨財、手に觸るるを即ち不淨と爲すと。此れ律制に非ず。人の妄傳もうでんなるのみ 但だ捉寶を犯ず。財體を汚すには非ず

四に財體ざいたいを明す。二を分かつ。初めに如法を明す。律中に猶ほきぬぬの二物にもつつうせり。若し業疏ごうしょの諸文に準ずれば、絹も亦た許さず。しょに云く、世に絹・紬を用いる者多し。體、害命がいみょうに由るを以て、亦た通じて制約す。今、五天竺ごてんじく及び諸胡僧こそう、倶に絹を用て袈裟を作る者無しと。又云く、衣を以て梵服ぼんぷくと爲して、四無量しむりょうを行ず。つまびらかに知ぬ、殺を行じて而も故に之を服するは、義に應ぜざるなりと。感通傳かんつうでんの中に、天人てんにん讃じて云く、佛法東傳してより六七百年。南北の律師、かつて此の意無し。いずくんぞ殺生の財を用て而も慈悲の服と爲さんやと。廣くは章服儀しょうぶくぎに之を明すが如し。義淨ぎじょう寄歸傳ききでんに、すなわち責めて非と爲す。けだし大慈の深行は、彼が知る所に非ず。固に其れむべなるかな。次に非法をえらぶ。然れども其の衣體えたいは、須く厚密こうみつなるを求めて、諸の華綺かきを離るべし。りつに云く、若し細薄生疎さいふしょうそ 蕉葛生紵並びに用ふるべからず綾・羅・錦・綺・紗・縠・紬・綃等、並びに非法の物なりと。今、佛語を信ぜず。此等の諸衣を貪服せり。智論ちろんに云く、如來は麁布そふ僧伽梨そうぎゃりを著したまへりと。此方の南嶽山なんがくざんしゅ、及び古より有道うどうの高僧は布衲ふのう艾絮がいじょにして一絲をもまじえず。天台てんだいは唯だ一衲いちのう南山なんざん繒纊きぬわた兼ねず荊溪けいけい大布だいふにして而も永嘉えいかは衣、蠶口さんくせず。豈に慈惻じそくの深きに非ずや。眞に尚ぶべきなり。今時はほしいままに怠りて、加復知無し。反て如來正制しょうせいの衣を以て、用て孝服こうふくと爲し、且つ僧に服制無しとす。何ぞ妄行することを得んや。釋氏要覽しゃくしようらん輔教ほきょう孝論こうろんは訛説に相循あいしたがへり。愼みて之にたのむこと勿れ。近ろ白布びゃくふをもって頭絰ずてつと爲す者を見る。斯れ又た怪しむべし。法滅の相、代てようやく多し。有識者うしきしゃ、宜く爲に之をあらためば、則ち法、少しく留ることを得ん。

脚註

  1. 袈裟けさ

    [S]kāṣāyaの音写。本文の割り註にても言及されているように、そもそも袈裟に衣や服の意は無い。袈裟とは赤褐色あるいは赤黒色のことであって、これが壊色と訳された。『仏制比丘六物図』が多くその拠り所とした道宣の『章服儀』においても、「經律所傳。號曰袈裟。通稱法服。然則袈裟之目。因於衣色。即如經中壞色衣也」(T45. P835a)とある。事実、仏教が伝来した当初、多くの胡僧・梵僧が赤褐色の袈裟を着ていたことが支那の諸伝に見える。やがて支那においては、そのような特徴的な仏教者の衣の色の名、すなわち「袈裟」をもって僧の装束の総称とするようになった。しかし、そもそも袈裟という言葉に衣などの意味など無いため、たとえば現在の印度や南方などにてサンスクリットであれパーリ語であれ「袈裟、袈裟」などと言っても、誰も理解してくれはしない。仏教者の衣は普通、cīvaraと言うのであって、漢土では支伐羅などと音写され、また衣と漢訳された。よって例えば袈裟衣という場合、それは本来「壊色の衣」の意。

  2. 臥具がぐ

    ここで元照は十二種の衣の異称を挙げる。それらは道宣が衣の別称として『四分律刪補隨機羯磨疏』(以下『業疏』)などにてその根拠とともに挙げ連ねたのを引いたもの。就中、臥具を挙げて袈裟の別称としたのは道宣以来のこと。しかし、道宣が『薩婆多論』に基づいて臥具を衣の異称としたことについて、後代の義浄は誤りであると批判し、その後も江戸期の日本に至るまで様々に論争を惹起した。

  3. 求財ぐざい

    衣を仕立てるための布の入手法。

  4. 是れ法衣ほうえなるに由て...

    『業疏』巻四にある一節の引き写し。體(体)とはその本質・元のこと。この一節で「清淨なるべし」とある清淨とは、律の規定に反しないこと。淨は[S]kalpaあるいは[P]kappaの訳であるが、その原意は適切・妥当。
    一般に、清淨という語を見たならば物理的清潔さや、宗教的清淨さを想起するかもしれない。しかし、律における術語としての浄はそのようなものではない。よって、この逆の不浄といった場合「律の規定に違反した物あるいは行為」のこととなる。

  5. 糞掃衣ふんぞうえ

    糞掃は[S]pāṃśu-kūlaの音写。その意はpāṃśu(ゴミ)-kūla(集積)すなわちゴミの山、あるいはゴミ捨て場のことであって、糞掃衣とは要するに「捨てられた布で誂えた衣」のこと。傷むなどしたためにゴミとして捨てられた布で、使用に耐える部分をのみ切り取り、洗ったものを重ね縫い、継ぎ合わせて衣に仕立て、それを袈裟(赤褐色)に染めた衣が糞掃衣である。『四分律』では糞掃衣に「牛嚼衣・鼠噛衣・燒衣・月水衣・初産衣・神廟衣・塚間衣・願衣・立王衣・往還衣」(T22. P1011b)の十種が挙げられる。
    巷間、ただ「糞掃」衣という漢字からの印象にのみ従って、「汚物を拭いた布で作った袈裟のことだ」などという安直な理解をし、あまつさえ人に解説すらする者があるが噴飯物の理解。

  6. 事鈔じしょう

    『行事鈔』巻下「一求財如法。謂非四邪五邪興利販易得者不成。律云。不以邪命得激發得相得犯捨墮衣。不得作等」(T40. P105b)。

  7. 犯捨墮ぼんしゃだ

    捨墮とは、律の五篇七聚のうち衣鉢や敷具・坐具等所有物および金銭や薬についての三十項目からなる諸規定である尼薩耆波逸提(naihsargika prāyaścittika)の漢訳。もしこれに違反した物品を取得した場合、まず四人以上の僧伽に対して懴悔し、その所有を放棄しなければならない。「犯捨墮の衣」は捨墮に違反した衣。

  8. 業疏ごうしょ

    道宣『四分律刪補隨機羯磨疏』の略。『四分律』所説の諸羯磨を道宣が集成した『四分律刪補隨機羯磨』に対して自ら注釈した書。『羯磨疏』とも称される。『大正蔵』には未収録。その巻四 衣薬受淨篇第四を釈する中に「邪命者。言略事含。知任何不攝。大而言之。但以邪心。有渉貪染。爲利賣法禮佛誦經斷食諸業所獲贓賄。皆曰邪命物」とあるを引く。

  9. 犯長ほんじょう錢寶せんぼう

    比丘が(衣を仕立てるために)金銭を受ける際、衣直として受けなかった場合、それは犯捨堕となる。そしてその金銭は犯長といって、所有権を僧伽に対して放棄しなければならない。

  10. 犯捨ぼんしゃの衣

    その所有権を放棄しなければならない衣。もし犯長の銭宝によって得た衣は、その根本から「犯捨堕の衣」であって、捨てなければならない。

  11. 淨人じょうにん

    比丘には律の違反となる行為を代わりに行うなど、その生活を助ける在家人。浄、すなわち「律に凖じること」を助ける人の意。パーリ語ではそのような役割をする人をkappiyaという。

  12. 人の妄傳もうでんなるのみ

    ここで元照は「有るが云く、淨財、手に觸るるを即ち不淨と爲すと。此れ律制に非ず」とそのような主張をする者のあることを言い、これを「人の妄伝なるのみ」などと断じているが、正しくない。まず捨堕において、比丘は金銭に直接触れてはならないと規定されており、たとえ例外の衣直であろうとも、その管理は浄人などに任せるべきものであって、それに比丘は直接触れてはならない。
    もっとも、この有る人の説というのが、「衣直にもし比丘が直接触れてしまった場合、その衣直はたちまち犯長の銭宝となって、それを用いて得た衣は犯捨堕衣となる」という意味で言っており、その説に対して元照が異議を唱えているのであれば、元照は必ずしも誤ってはいない。そこで割注にてあるように、「但だ捉寶を犯ず。財體を汚すには非ず」と解することが可能なためである。

  13. 財體ざいたい

    衣の素材。

  14. きぬぬの二物にもつつうせり

    諸律蔵では通じて衣の財体に絹、および麻や綿などの植物繊維による布を使用することが許されていること。例えば『四分律』巻六 三十捨堕法之一には「衣者有十種。絁衣劫貝衣欽婆羅衣芻摩衣讖摩衣扇那衣麻衣翅夷羅衣鳩夷羅衣讖羅半尼衣」(T22. P602a)と十種の衣を挙げている。それはそれぞれ絁衣(太絹)・劫貝衣(木綿)・欽婆羅衣(毛織物)・芻摩衣(麻の一種)・讖摩衣(野麻)・扇那衣(白色羊毛)・麻衣(麻)・翅夷羅衣(鳥毛)・鳩夷羅衣(絳色羊毛)・讖羅半尼衣(尨色羊毛)とされる。律蔵やその注釈書によって若干の相違はあるものの、いずれの律においてもその素材として絹・麻・綿の使用が許されているのは変わらない。

  15. しょ

    『業疏』巻四「雖求清淨財躰應法綾羅錦繍。倶不合故。世多用絹紬者。以體由害命。亦通制約。今五天及諸胡僧。倶無用絹作袈裟者。來此神州。乃隨著耳親問。彼云絹亦有也。但慈念故。以衣爲梵服行四無量。審知。行殺而故服之。義不應也」。
    道宣は絹の使用は律蔵で許されてはいるけれども、梵僧や胡僧らでもそれを着るものは無く、絹は蚕の命を害って得るものであるから使ってはならない、と禁止した。この絹衣禁止の道宣による方針は、南山律宗のいわば教義(ドグマ)となり、後述の義浄三蔵からの批判を始め、後代の日本における律宗や禅宗に至るまで様々な論争・軋轢を生むこととなる。

  16. 感通傳かんつうでん

    『律相感通伝』。道宣が齢七十二の最晩年、乾封ニ年〈667〉に著した書。道宣の前に天神が現じてその徳を賛嘆し、彼がいまだ明らめていなかった律についての詳細に関する問いに対して天神が次々答えたのを、逐一記録したものとされる書。
    ここに引かれるのは、その「自佛法東傳。六七百年。南北律師曾無此意。安用殺生之財。而爲慈悲之服」(T45. P879c)。

  17. 章服儀しょうぶくぎ

    『章服儀』立体抜俗篇第二には、肉食と絹衣が経律に許されているとは言え、なぜ共に用いるべきでないかの理由と根拠がかなりの長きにわたって主張されている。ここでその全てを示すのは冗長となるため、その冒頭の一部のみ示す。
    「問。上顯求之有方。則理事雙得。然求之所幸有布。有繒。或氈㲲相乘或毛綿間獲。五納百結。聞諸儉徒。木食草衣。偏資山衆。蒙既惑焉。願欣其要。答。曰出俗五衆准的四依。聖有成儀。無經凡慮。開濟形苦。意在心清。事不獲已。置斯聖 種而正律遮許。慈悲務先。得而生惱。必不容納。故肉食蠶衣。爲方未異。害命夭生事均理一。暴繭爛蛾。非可忍之痛。懸皰登俎。成惡業之酷。漁人獻鮪。桑妾登絲。假手之義不殊。 分功之賞無別。是以至聖殷鑒審惡報之難亡。經律具彰。兩倶全斷」云云(T45. P835c)。

  18. 義淨ぎじょう

    唐代の律僧(635-713)。法顕や玄奘など渡天の三蔵らの蹟を慕って自らも南海経由で印度に入り、廿五年間、南海および印度諸国を遊歴し、多くのサンスクリット経典・律蔵を持ち帰った。帰国後は請来した経律の翻譯に励み、多くの重要な密教経典および新来の根本説一切有部の律蔵の漢訳を遺している。道宣が打ち立てた南山律宗における教学に対し、印度における前例も根拠も無い妄伝が多くあるとして激しく批判したが、その当時の律宗にはほとんど影響を与えなかった。

  19. 寄歸傳ききでん

    『南海寄帰内法伝』。義浄が印度及び南海諸国において見聞した僧伽のあり方などその詳細を記した書。義浄は支那の仏教自体のあり方、中でも道宣など律宗の教義とそれに基づく諸行事が誤っていることを盛んに批判している。そこで元照は、義浄の『寄帰伝』における実地に見聞した実際と因明を用いた「絹の禁止は不合理」という批判に対し、むしろ感情的に反論している。ここではいわば理想と現実の、そのどちらを重視するかの立場の違いによる齟齬が発生している。けれども、私見ではその理は義浄にある。
    まず道宣にしろ元照にしろ、実際に印度に行ってその実際を見聞したことは無い。その故にその所論はただ伝聞か想像の範を出られておらず、その意志はあくまで慈悲を尊んでこれを現実に行おうとする貴いものではあろうけれども、勢いその思想や理解が思弁的に過ぎている感が否めない。そして、義浄の主張は数々の典拠と因明に基づいた、彼らの主張への反証を示したものであり、またより現実的なものであるためである。更に言えば、後述する漉水曩に用いる布は細密な絹を用いよとしているなど、彼らのいう言は矛盾している。

  20. りつ

    ここで「律に云く」とあるけれども、いずれの律蔵にも同様の一節は見いだせず、かえって『行事鈔』巻下に「若細薄生疏綾羅錦綺紗縠細絹等。並非法物」(T40. P105b)と見える。

  21. 智論ちろん

    『大智度論』巻一「以刀剃髮。以上妙寶衣貿麁布僧伽梨。於泥連禪河側六年苦行」(T25. P58a)。

  22. 南嶽山なんがくざんしゅ

    智顗の師、天台宗第二祖慧思は、南岳(衡山)に入ってここを中心として教化活動を行い、晩年を過ごしたことから南岳慧思と称された。ここではその慧思の門弟らを指して言う。

  23. 天台てんだいは唯だ一衲いちのう

    天台とは天台宗第三祖智顗。智顗は天台大師あるいは智者大師と称された。しかし、灌頂『国清百録』あるいは『隋天台智者大師別伝』、および道宣『続高僧伝』にある智顗伝にはそのような伝承のあることを愚衲には見いだせない。かわりに元照より下ること二百年ほどの志磐によって表された『仏祖統紀』巻六には、「師於三十年唯著一納衲非」(T49. P185a)とそのような伝承のあったことを伝えている。

  24. 南山なんざん繒纊きぬわた兼ねず

    南山とは南山大師と称された道宣のこと。賛寧撰『宋高僧伝』巻十四に「三衣皆紵一食唯菽」(T50. P790c)とあって、道宣のその三衣すべて麻布であってただ豆類のみ食していたと伝えられる。

  25. 荊溪けいけい大布だいふにして而も

    荊渓は天台宗第六祖湛然、妙楽大師とも言われる。『宋高僧伝』巻六に「天寶末。大暦初。詔書連徴。辭疾不就。當大兵大饑之際。掲厲法流學徒愈繁。瞻望堂室以爲依怙。然慈以接之謹以守之。大布而衣一床而居。以身誨人耆艾不息」(T50. P739c)とその人徳の高くあったことを伝えている。

  26. 永嘉えいかは衣、蠶口さんくせず

    永嘉とは禅宗六祖慧能の弟子玄覺。『宋高僧伝』巻八の玄覺伝に「絲不以衣耕不以食。豈伊莊子大布爲裳」(T50. P758a)とあるに依るものであろう。

  27. 孝服こうふく

    喪服。

  28. 服制ふくせい

    (仏教僧における)喪服に関する規定。

  29. 釋氏要覽しゃくしようらん

    宋代の僧、道誠が天禧三年(1019)に著した初学者のための仏教辞典的著作。ここで道誠は服制の項を設け「服制 釋氏之喪服。讀涅槃經。并諸律。並無其制」(T54. P307c)などと解説している。これは元照が「妄行である」と批判するのも無理はない暴論であろう。どのようにして彼はこのような説を述べたのか理解しかねる。

  30. 輔教ほきょう

    『輔教編』。宋代の禅僧、明教大師契嵩が、主に儒家など仏教に批判的な人々に対して仏教・儒教・道教の三教一致を主張した書。『輔教編』はそれ自体としては現存していないが、同じく契崇撰の『鐔津文集』にその全文が残っている。その中、契崇は「終孝章第十二」なる一章を設け、「父母之喪亦哀。縗絰則非其所宜。以僧服大布可也」(T52. P662b)と始めて孝論を展開している。
    契崇のそれは当時の儒教に迎合するための主張であろうけれども、あまりにも無根拠で杜撰にすぎる感のあることが否めない。元照もやはりこのような僻事をさも正当かのように世に主張する者を認めることは出来なかったのであろう。

  31. 孝論こうろん

    葬送論。

  32. 白布びゃくふをもって頭絰ずてつと爲す者を見る

    絰とは、古代支那において喪服を着る時に用いられた麻布。これを頭に巻く時は頭絰あるいは首絰といい、腰に巻く時は腰絰と言った。許慎『説文解字』では「喪首戴也。从糸至聲」と解している。ここで元照は、当時の支那僧らが白布をもっていわば襟巻きのように着用しているのを批判している。これは現今の日本における天台宗や真言宗、浄土教徒らが着用している縹帽子(羽二重帽子)の嚆矢のようにも思える。
    もっとも、僧が縹帽子を着用するにようになった始めは、隋の煬帝が智顗から受戒したおり、その縹袖を帽子として下賜したことであるとされる。日本では平安最初期、これを桓武帝が模倣して最澄に与えたのが最初とされる。事実、一乗院蔵の最澄図像には最澄が白色の頭巾すなわち帽子をかぶった姿が描かれている。真言宗では、嵯峨天皇が神道灌頂を空海から受けた折、寒かろうといってその片袖を空海に与えたのが初めだ、などという話をまことしやかに伝えている。が、これは空海入定説に等しい、根も葉もない捏造話にすぎない。

僧服関連文献