五明色相。律云。上色染衣。不得服。當壞作袈裟色 此云不正色染 亦名壞色。即戒本中三種染壞。皆如法也一者青色 僧祇。謂銅青也。今時尼衆青褐。頗得相近 二者黒色 謂緇泥涅者。今時禪衆深黲竝深蒼褐。皆同黒色 三木蘭色 謂西蜀木蘭。皮可染作赤黒色古晋高僧多服此衣。今時深黄染絹微。有相渉。北地淺黄。定是非法 然此三色名濫體別。須離俗中五方正色 謂青黄赤白黒 及五間色 謂緋紅紫緑碧。或云硫黄 此等皆非道相。佛竝制斷。業疏云。法衣順道。錦色斑綺。耀動心神。青黄五綵。眞紫上色。流俗所貪。故齊削也。末世學律。特反聖言。冬服綾羅。夏資紗縠。亂朱之色。不厭鮮華。非法之量。長垂髀膝。況復自樂色衣妄稱王制。雖云飾過。深成謗法。祖師所謂何慮無惡道分悲夫 多論違王教得吉者。謂犯國禁令耳
六明衣量。有二。初準通文。不定尺寸。律云。度身而衣。取足而已。五分肘量不定。佛令隨身分量。不必依肘。今時衣長。一丈二三。言取通文者。無乃太通乎。又言此是度身者。其身甚小。而衣甚長無乃度之。不細乎。然度身之法人多不曉。業疏云。先以衣財。從肩下地。踝上四指。以爲衣身。餘分葉相。足可相稱。次明局量。鈔引通文已續云。雖爾亦須楷準。故十誦僧祇。各有三品之量。今準薩婆多中三衣。長五肘。廣三肘毎肘一尺八寸。準姫周尺長九尺。廣五尺四寸也 若極大者。長六肘廣三肘半長一丈八寸。廣六尺三寸。有人局執極量。既分三品。何得局一。借令依此。亦不至丈二思之 若極小者。長四肘。廣二肘半長七尺二廣四尺五 若過量外。應説淨。不者犯捨墮。四分云。安陀會。長四肘。廣二肘長七尺二。廣三尺六 欝多羅僧。長五肘。廣三肘。僧伽梨亦然長九尺。廣五尺四寸 上引佛言示量。下引祖教顯非。章服儀云。減量而作。同儉約之儀。過限妄増。有成犯之法。文云。四肘二肘。不爲非法。與佛等量。便結正篇。即其證也。又云。頃載下流驕奢其度。至論儉狹。未見其人。又云。衣服立量減開過制者。倶抑貪競之情也好大者請詳此諸文 鈔文佛衣戒云。佛身倍人。佛長丈六。人則八尺。佛衣長。姫周尺丈八廣丈二。常人九尺六尺也有執極量者 謂佛衣倍人六肘則二丈一尺六寸。蓋未讀此文故也 然佛世之人。身多偉大。準前爲量。足覆形躯。今時劫減。人身至大。不過六尺。而衣長丈二。往往過之。及論廣量。不至五尺前垂拕膝。歩歩吉羅。可謂顛之倒之。於斯見矣。故業疏云。前垂一角。爲象鼻相。人不思罪。習久謂法。何必如許煩惱我執。無始常習。可是聖法耶。聞義即改。從諫若流斯上人也疏文 慈訓若此那不思之
五に色相を明す。律に云く、上色の染衣は服することを得ず。當に壞して袈裟色 此には不正色染と云ふと為すべしと。亦た壞色と名づく。即ち戒本中の三種染壞は、皆如法なり。一には青色 僧祇には銅青と謂ふなり。今時の尼衆の青褐は、頗る相近きことを得たり、二には黒色 緇の泥涅の者を謂ふ。今時の禪衆の深黲竝びに深蒼褐、皆黒色に同じ、三には木蘭色 謂く西蜀の木蘭皮、染めて赤黒の色を作すべし。古へ晋の高僧、多く此の衣を服せり。今時の深黄染の絹、微かに相渉ること有り。北地の淺黄は定んで是れ非法なり。然れども此の三色は名は濫して體は別なり。須く俗中の五方正色 謂く青・黄・赤・白・黒及び五間色 謂く緋・紅・紫・緑・碧、或は硫黄と云ふを離るべし。此等は皆道相に非ず。佛竝びに制斷したまへり。業疏に云く、法衣は道に順ずべし。錦色・斑・綺は心神を耀動す。青黄の五綵、眞紫の上色は流俗の貪する所。故に齊しく削るなりと。末世の律を學ぶもの、特に聖言に反して冬は綾・羅を服し、夏は紗縠を資す。亂朱の色、鮮華を厭はず。非法の量、長く髀・膝に垂る。況んや復た自ら色衣を樂て妄りに王制と稱す。過を飾ると云ふと雖も、深く謗法を成ず。祖師の所謂、何ぞ惡道の分無しと慮る。悲きかな 多論に王教に違すれば吉を得と云ふは、國の禁令を犯すを謂ふのみ。
六に衣量を明す。二有り。初めに通文に準るに、尺寸を定めず。律に云く、身を度て衣よ。取りて足るのみと。五分には肘量定めず。佛、身に隨て分量せしむ。必ずしも肘に依らず。今時の衣の長きことは一丈二、三。通文を取ると言はば、乃ち太だ通ずること無し。又此は是れ度身なりと言はば、其の身は甚だ小にして衣は甚だ長し。乃ち之を度ること細からざること無からんや。然れども度身の法は人多く曉らめず。業疏に云く、先ず衣財を以て、肩從り地に下して、踝の上、四指なり。以て衣の身と爲す。餘分の葉相は足して相稱はしむべしと。次に局量を明す。鈔に通文を引き已て續けて云く、爾りと雖も亦須らく楷準すべしと。故に十誦・僧祇、各の三品の量有り。今、薩婆多に準るに中の三衣の長五肘・廣三肘肘毎に一尺八寸。姫周尺に準るに長九尺、廣五尺四寸なり。若し極大の者は、長六肘・廣三肘半長一丈八寸・廣六尺三寸。有る人、極量を局執す。既に三品を分つ。何ぞ一に局ることを得ん。借令此に依れども、亦た丈二に至らず。之を思へ。若し極小の者は、長四肘・廣二肘半長七尺二・廣四尺五。若し量の外に過ぎらば應に説淨すべし。不ざれば捨墮を犯ず。四分に云く、安陀會は長四肘・廣二肘長七尺二・廣三尺六。欝多羅僧は長五肘・廣三肘、僧伽梨も亦た然り長九尺・廣五尺四寸と。上に佛言を引て量を示す。下には祖教を引て非を顯さん。章服儀に云く、量を減じて作るは儉約の儀に同じ。限を過て妄りに増すは、成犯の法有り。文に云く、四肘二肘をば非法と爲さず。佛と量を等しくするは、便ち正篇を結すと云ふ。即ち其の證なり。又た云く、頃載、下流、其の度りを驕奢す。儉狹を論ずるに至っては、未だ其の人を見ず。又た云く、衣服の立量の減を開して過るを制することは、倶に貪競の情を抑ふと大を好む者は請ふ、此の諸文を詳かにせんことを。鈔文の佛衣戒に云く、佛身は人に倍す。佛の長は丈六、人は則ち八尺。佛衣の長さは姫周尺の丈八・廣丈二。常の人は九尺、六尺なり極量を執する者有りて謂く、佛衣は人に倍すること六肘なれば、則ち二丈一尺六寸なりと。蓋し未だ此の文を讀まざるが故なり。然れども佛世の人は身多く偉大なるすら、前に準じて量と爲して、形躯を覆ふに足れり。今時は劫減にして、人身至大すら六尺には過ぎず。而も衣の長さ丈二。往往に之に過ぎたり。廣量を論ずるに及んでは五尺に至らず。前に垂れ膝に拕く。歩歩吉羅なり。謂ふべし、之を顛し之を倒すと。斯に於て見へたり。故に業疏に云く、前に一角を垂るを象鼻の相と爲す。人、罪を思はず。習ひ久しくして法と謂へり。何ぞ必ず如許の煩惱・我執、無始より常に習へり。是れ聖法なるべけんや。義を聞て即ち改めよ。諫に從ふこと流れの若きなるは斯れ上人なり疏の文と。慈訓、此の若し。那ぞ之を思はざる。
衣の規定された色。▲
『四分律』巻四十「時六群比丘畜上色染衣。佛言不應畜。時六群比丘畜上色錦衣。佛言。不應畜錦衣白衣。應畜。應染作袈裟色畜」(T22. P857a)。▲
五正色・五間色といわれる、世間で良しとされ、もてはやされる色。後述。▲
[S]prātimokṣaあるいは[P]pāṭimokkhaの漢訳。波羅提木叉と音写される。
仏陀によって規定された、比丘の為すべきでないこと、あるいは為すべきことの集成である律蔵の枢要を抽出してまとめたものであり、それが戒(律)の根本であり、ひいては仏教の根本であることから意訳されて戒本といわれる。しばしば巷間に、戒本という文字から受ける印象からであろうが、「戒がまとめ書かれた本であるから戒本である」など安直な理解をして人に説明すらする者があるが僻事。
その原語prātimokṣaから見たならば、prāti (=prati)は「それぞれの」、mokṣaは「解脱、開放」の意であることから、漢訳としては他に、別解脱・処処解脱・随順解脱とされる。これらの語は各自が受けた戒あるいは律に従うことによって身および口によって為される悪から離れることができる、すなわち少なくともその戒あるいは律の一条項が制する悪からは解脱し得ることからその様に訳されたもの。
戒本が比丘らにとってどのような価値をもつものであるかについて、たとえば『仏遺教経』において「汝等比丘、我が滅後に於いて、まさに波羅提木叉を尊重し珍敬すべし。闇に明に遭い、貧人の宝を得るが如し。当に知るべし、此れは則ち是れ汝等が大師なり」と説かれる。▲
律蔵に制されている衣の三種の色。ここではひとまず『四分律』の所説にしたがって、それぞれ濁った青色・黒色・木蘭色をもって三種染壊とする。ただし、律蔵によってこの三種の色についての語は若干ながら相違する。▲
前述のように三種染壊色は一応、青色・黒色・木蘭色と称されてはいるけれども、先に割註にて青色とは青褐色であり、黒色とはねずみ色であり、木蘭色とは赤黒色のことであると言われているように、それらがそのまま世間で言われている色と同じでは無いこと。今、日本では木蘭色を黄褐色あるいは茶褐色であると理解し、香色などと称する場合があるが正しくない。木蘭色とは赤褐色のことである。また墨染の衣といえば、漆黒の衣のことだと解する者も非常に多いが、すでに述べたように、墨染めの衣とはねずみ色の衣。
いずれにしてもその要は、青・黄・赤・白・黒の五純色(五正色)を必ず避けることであり、また同じく緋・紅・紫・緑・碧あるいは硫黄の五間色にも衣を染めてはならないこと。▲
『業疏』巻四 衣薬受浄篇第四「第三門義。以法衣順道。錦色斑綺。耀動心神。青黄五綵。眞紫上色。流俗所貪。故齊削也」。▲
錦のような色。金銀が混じって輝く色。▲
様々な色が混じり合ったもの。▲
縞模様。▲
精神、こころ。▲
綾絹。▲
薄絹。▲
穀紗。薄絹で織り上げられた絹織物。▲
紫色。▲
大きさ、寸法。▲
色衣とは特に紫衣(紫色の袈裟)。宋代初期の僧賛寧による『大宋僧史略』巻下に「賜僧紫衣 古之所貴名與器焉。賜人服章。極則朱紫。緑皂黄綬乃爲降次。故曰加紫綬。必得金章。令僧但受其紫而不金也方袍非綬尋諸史。僧衣赤黄黒青等色。不聞朱紫。案唐書。則天朝有僧法朗等。重譯大雲經。陳符命言。則天是彌勒下生爲閻浮提主。唐氏合微。故由之革薜稱周新大雲經曰。終後生彌勒宮。不言則天是彌勒 法朗薜懷義九人並封縣公。賜物有差。皆賜紫袈裟銀龜袋。其大雲經頒於天下寺。各藏一本。令高座講説。賜紫自此始也」云々(T54. P248c)とあって、僧に初めて紫袈裟を送るようになった経緯として、唐の武則天(則天武后)が法朗や薜懐義ら九人の僧に『大雲経』の重訳をさせ、その功績として県公の爵位、および紫袈裟と銀亀の袋を下賜したことがその嚆矢であると伝える。愚衲には、元照がここで参照したという「唐書」が何か不明であるため、この伝承がどこまで事実であったかの確認を今の所なし得ない。
元照とほぼ同時代の道誠は『釈子要覧』に、紫袈裟が下賜された顛末として、『大宋僧史略』の一節を粗略ながら引用して記している。さらに後代の天台僧志磐は、『仏祖統紀』巻三十九に「載初元年。勅沙門法朗九人重譯大雲經。並封縣公賜紫袈裟銀龜袋賜紫始此」(T49. P369c)と具体的に載初元年〈689〉のことであったとして、さらに簡略に伝えている。宋代にはすでに何か帝や朝廷に対しなにか功績を残した僧に、紫袈裟を下賜するという慣習は定着して行われていたことが『宋高僧伝』などによっても確認される。そしてさらに、この元照の批判によって、当時の僧らが紫衣を得ることに憧れ、また得た者はそれが明らかに非法であるのに、いわば「王制に反する行為を仏陀は禁止された。紫衣は仏制に反するように思えるけれども、王制に従うことであるから、かえって許されるのだ」という詭弁によって正当化する者らが存在したことを確認することも出来る。
これは俗に言う「おためごかし」というものであろうが、そのような言を振るうものは現代の日本においても多くあり、そして人は変わらないものであるということをここで知ることもできよう。元照がこの少々後の割り注にて「多論に王教に違すれば吉を得と云ふは、國の禁令を犯すを謂ふのみ」としているが、それは『薩婆多論』巻三に「然違犯王教突吉羅」(T23. P518a)とあるのを牽強附会し、そのような弁明をする者らがあったためであろう。
なお、現今の日本では一般に、紫衣とは袈裟ではなく、袈裟の下に着る紫の服を指して言うものと理解されている。元来、衣と袈裟とは同義語であったのが、袈裟の下に着る、いわば下着に該当する部分が支那以来、特に日本で独自に展開し、これを衣と称するようになったことによるものであろう。しかし、袈裟であれ彼らのいう衣であれ、いずれにせよ紫色などは「上色」であって僧が所有・着用すべきもので無いことには変わりない。▲
道宣『行事鈔』巻下「薩婆多云。五大色者不成受。則孝僧白布袈裟等非法。如是例之。多有黒青赤黄四色。無多白者。正言如上不成。今以凡情苦受。此則一生無衣覆身。一死自負聖責。何慮無惡道分。悲哉」(T40. P106cー107a)を引いたもの。この『行事鈔』にある記述から、初唐に活躍した道宣の当時から僧が喪に服すとして白袈裟を着用する者のあったことが知られよう。▲
衣の規定された寸法、大きさ。▲
『四分律』巻五十三「度身而衣。取足而已」(T22, p.963a)▲
『弥沙塞部和醯五分律』三十巻。化地部(弥沙塞部)の律蔵。
ここでは『五分律』巻廿および廿一にある衣法には、三衣の寸法について具体的な規定が示されていないことの指摘。▲
肘とは腕と指を真っすぐ伸ばして肘から曲げた時の、中指の先から肘までの長さ。古代欧州から印度にかけて用いられた単位(身体尺)の一つ。肘量とは、その肘などをもって長さを量ること、あるいはその長さ自体。
本来、肘の長さは人によって若干異なるものであるが、これを支那では寸尺によって一般化しようと試みられた。元照は本書において一肘は一尺八寸であるとする。しかし、元照の云った尺が周尺でのことか唐尺のいずれに依ったものか明瞭でない。▲
『業疏』巻四 衣薬受浄篇第四「度身最好。先以衣財。從肩下地。踝上四指。以爲衣身。餘分葉相。足可相稱也」 ▲
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指は肘に同じく古代印度における長さの単位の一つ。指先の幅。
肘量には他に搩手という単位も用いられるが、これは手のひらを最大まで開いた時の親指と中指の先の間の長さ。一肘は二搩手であり、一搩手は十二指とされる。そこで一肘を一尺八寸であるとした場合、一搩手は九寸となり、一指は七分五厘となる。よって、四指は三寸。▲
具体的な寸法。▲
『行事鈔』巻下「律言。量腹而食。度身而衣。取足而已。準此無定量。任時進不。雖爾亦須楷準」(T40, p.105c)▲
標準化、一般化すること。▲
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『薩婆多論』巻四「正衣量三五肘。若極長六 肘。廣三肘半。若極下長四肘。廣二肘半。若如 法應量三五肘。受時應言。此衣則成受持無過。若言如是衣。則不成受持。得突吉羅。 壞威儀故。若過三五肘。受時應言。如是衣則成受持無過。若言此衣不成受持。得突吉羅。 壞威儀故。又缺衣故。過十日無長衣罪。若減三五肘。受時應言。此衣則成受持無過。若 言如是衣不成受持。得突吉羅。壞威儀故。 又缺衣故。過十日無長衣罪。三五肘若長如 法受。則成受持。若比丘死。三衣應與看病人。 三五肘外長隨多少。應白僧令知。僧和合與 者好。凡受衣法。若長應説淨。若不説淨。 入長財中」(T23, p.527b-c)▲
比丘が衣鉢や食などを得ても、それをそのまま自身の所有物とすることは余剰となって律の規定に違反してしまう場合や、そもそも金銭などその所有自体が禁止されている物の場合、その名目上の所有権を他比丘に附することや、その実際の使用を浄人などに委ねることを、説浄という。
律における「浄」とは律の違反がないこと、律において適法であることを意味するが、そこで説浄とは比丘が何かの事物の使用や所持を「浄」とするための言葉・行為をいうものであって、いわば律における迂回法のこと。▲
『四分律』巻四十一「佛言。聽以長四肘廣二肘衣作安陀會。廣三肘長五肘作欝多羅僧僧伽梨亦如是」(T22, p.863a)▲
『章服儀』方量篇「然減量而作。同儉約之儀。過限妄増。有成犯之法。故文云。四肘二肘。不爲非法。與佛等量。便結正篇。即其證也。頃載下流驕奢其度。至論儉狹。不見其人」(T45, p.838a)、および裁製篇「衣服立量減開過制者。倶同抑貪競之情也」(T45, p.837c)▲
今は一応、『四分律』巻十九に依っていったならば、六群比丘が仏陀と同じ大きさの衣、あるいはその体格からすると大きに過ぎる衣を着していたが、これを諸比丘が批判したことをきっかけとして、如来と等量の衣を作って着ることが禁止された。もしこれに反したならば波逸堤(単堕)となる。
波逸堤とは[S]prayaścittika / [P]pācittiyaの音写であり、比丘が行うべきでない行為に関する罪の名。これに違反した場合は一人以上の比丘に対して懴悔することによって出罪することが出来る。▲
『行事鈔』巻中「與佛等量作衣戒九十。多論云。佛量丈六常人半之。衣廣長皆應半也。十誦云。長佛九磔手。五祇二律亦同。有本十磔手者錯也。長姫周尺丈八廣丈二。常人九尺六尺也」(T40, p.89c)
仏衣戒とは、波逸堤にある「仏陀のものと同じ大いさの衣を作り着ること」の規制。仏衣等量戒とも。▲
十誦律』の注釈書や『四分律』のそれにおいて、仏陀の身長は常人の倍あったと伝説される。この伝説を根拠として、日本ではしばしば仏像は丈六すなわち常人(八尺)の倍の高さで作られる。すなわち、先に仏衣戒などと規制していることの要は、常の二倍の大きさの衣を作り、着てはならないこと。
なお、上座部(分別説部)のVinaya Pitaka(『パーリ律』)の伝統においては、仏身は常人の三倍であったと伝説される。▲
周尺とは支那の南北朝時代、北周で用いられていた尺。ここで道宣は姫周尺をもってその大いさを表しているが、隋代から唐代の支那ではこれに変わり唐尺が用いられるようになった。唐尺の一尺は、姫周尺の一尺二寸である。唐尺は現代のメートル法でいうと29.6cm程度であって、日本の曲尺でいうと九尺七分八厘。▲
突吉羅の略。突吉羅は[S]duskrta / [P]dukkaṭaの音写。その原意は「悪しく作された(こと)」で、悪作と漢訳される。律における諸規定のうち最も軽い罪・過失について名づけら、そのことから軽垢あるいは小過とも漢訳される。一人の比丘に対し、あるいは心の中で懴悔することによって出罪することが可能。▲
『詩経』斉風の一節「東方未明 顛倒衣裳 顛之倒之 自公召之」を引いたもの。その意は「太陽が未だ昇らぬ未明、衣裳を逆さまに、衣を下半身、裳を上半身に着て公の急なお召に急ぐ」というほどのものであるが、非法の衣を着する僧らがそのような逆さまで滑稽であると揶揄する意図で引いたのであろう。▲
『業疏』巻四 衣薬受浄篇第四「故垂前一角。爲象鼻相。人不思罪。習久謂法。何必如許煩惱我執。無始常習。可是聖法耶。聞義即改。從諫若流。斯上人也」▲
袈裟の着法において「してはならない着方の喩え」の一つ。支那・日本においては袈裟の一角が胸前にダラリと垂れて着ている様が、象の鼻のようであるからかくいう。象鼻の相の如く衣を着ることは衆学法において禁じられており、これに違反すれば突吉羅(悪作)となる。
具体的にどのような状態を象鼻の相とされるかは、例えば薬師寺に伝わる慈恩大師基法師の肖像画を見れば明瞭となる。その肖像に描かれた彼の衣の着方は反面教師として挙げられる。▲
『論語』述而第七「子曰。徳之不脩。学之不講。聞義不能徙。不善不能改。是吾憂也」(孔子は言われた、「徳を修めること無く、学問も極めること無く、正しきを聞いても直すこともせず、不善を改めない、これらは私自身が憂いとするところである」と)を意図してのことであろう。
義を聞て即ち改める、いわゆる「君子豹変す」ることは理想とされるところであるけれども、一般に人がこれを為すのは容易でないようである。それを断行する者は周囲を敵とせざるを得ないこととなりかねない。それを承知した上で意に介せず、その信念を貫くことは、常人のなせるところではないと思われるかもしれない。しかし、改めなければならないことは改めなければならない。そしてそれをするのを他人任せにしてはいけない。▲