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智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

慈雲『律法中興縁由記』

『律法中興縁由記』解題

近世戒律復興の魁

『律法中興縁由記』とは、慈雲尊者がその師であった忍綱貞紀にんこう ていきから伝え聞いたという、いかにして慶長の世に戒律復興がなされ、江戸の世に盛んに行われるようになったかの由来を記した典籍です。

本書の巻末にて「經巻のうらを汚す、其恐あれども、此は律法末葉に中興の基なれば、弘通の縁由をなすに足れり」と自ら書き記しているように、元は慈雲が『瑜伽戒本ゆがかいほん』の裏の書き付けていたものです。これを前代の真言宗を代表する大学者であった長谷宝秀はせ ほうしゅうが、『慈雲尊者全集』を編纂した折、独立した書として全集に収録したものです。その真筆は京都長福寺の所蔵として現存しています。

嘉禎二年〈1236〉、覚盛や叡尊などによってなされた中世戒律復興に関しては、叡尊の『感身学生記かんしんがくしょうき』などに詳しく伝えられ、今それらは出版して広く世に知られ、また学者もその研究の対象として様々な側面から明らかにされています。しかしながら、近世戒律復興の最初に関して伝える書は決して多くなく、ただその中心人物であった俊正明忍しゅんしょう みょうにんのいくつかの伝記がその資料となるのみです。そしてそれらは未だ出版の機を見ておらず、また学者が稀にその極一部を突き回す程度でその全体を俯瞰する者も未だありません。

その大きな理由の一つは、叡尊とは異なり、俊正明忍とその同志たちの活動期間が極短く矢継ぎ早に没しており、為にその思想など詳細に語られて我々が知りうる著作などほとんど全く残していないことにあります。槇尾山に端を発する戒律興隆の運動は、俊正明忍らの没後いくばくかの時を経た後の後進により深化され、確実に展開されていったものです。しかしながら、それはまた種々の問題を孕んだものでありました。

そもそも、江戸最初期の日本で戒律復興が行われていたということについて今知る人は、仏教学者や僧職者ですら稀と思われます。おそらく、槙尾山の俊正明忍の名を知る人などほとんど存していません。故に菲才は、その名と行業を顕彰すべく十数年以上前から微力を尽くしていますが、不徳のいたす所力及ばず、いまだ世に知られぬままとなっています。

ここに紹介する『律法中興縁由記』は、その近世戒律復興の経緯とその後を、極簡略ながらもまとめ伝える数少ないものの一つです。

(俊正明忍律師については、別項「明忍律師とは」および「元政『槙尾平等心王院興律始祖明忍律師行業記』」などを参照のこと。)

伝戒にまつわる春日明神 ―改変された伝承

慶長七年という近世初頭になされた戒律復興は、実は戒律復興すること自体が目的であったのでなく、仏教復興を目指したものでした。その故に、それがなされて間を置かないうちから諸宗の一部僧から非常に注目され、槇尾山の門あるいはその門流の膝下に集まる者が多く出て、やがて諸宗に伝播しその興隆へと動きを移しています。

しかしながらその後、諸宗に伝播したといっても、最初期の僧らの仏教復興の志など汲み取られず無視され、それぞれ戒律というものを宗義の枠内で消化吸収する、河内延命寺の故上田霊城氏の言葉を借りれば「戒律の宗派化」という方向へ進み、むしろ戒律が名目上だけのものとなって急速に無意味化・形骸化しています。しばしば学者が無批判にして無闇に用いている、「法華律」・「浄土律」・「安楽律」・「真言律」などといった言葉は、現実に存在しないもの、あるいは内容の伴わない空虚なもの、むしろ復興された戒律が形骸化・無意味化して律の内実を伴わなくなってなお律を称した一派閥を指して言ったようなものです。

そのような中、江戸後期に出た慈雲が宣揚した「正法律しょうぼうりつ」は、まさに明忍らが目指した仏教復興を、宗派化して無意義となった流れを刷新し、あらためて戒律復興して補完しようとしたものです。正法律とは、慈雲が始めた律の一派などでなく、宗旨宗派を超えた正法と律すなわち仏教を意味したものです。慈雲は己がどのような流れの中に位置し、どのような伝統を継ぐ者であるかをよく意識していました。そんな慈雲の認識を示したものの一つがまさにこの『律法中興縁由記りっぽうちゅうこうえんゆき』です。

(慈雲が宣揚した正法律については、別項「慈雲尊者とは」あるいは「慈雲『根本僧制』」を参照のこと。)

しかしながら、慈雲が伝えた俊正明忍など近世戒律復興に携わった諸師についての逸話は、必ずしも正確な内容とは言えません。

どのように正確でないかといえば、明忍が戒律復興の志を共にした二人の同志のうち、特に慧雲が非常に重要な人で、極短いながらもその伝承・伝記がありますが、そこに記されている話と『律法中興縁由記』の中で伝えられている話とは、いくつか異なった点があるのです。具体的には、明忍が戒律復興を志して南都にある時、その同志である慧雲と友尊の二人と邂逅した順序と場所、そしてその経緯とが異なっています。何よりも、その出会いに春日明神を介在させていることが注目すべき点です。

慧雲の行業を伝えるその最初のものは、明忍の行状を未熟・不完全な編集ながら取りまとめた『明忍律師之行状記』にあり、そこでは以下のように記されています。

門侶活命ヲ競テ邪法弘說セルヲウラミテ上人號ヲトルヘカラスハ我カ會下ニ來テ學スヘシトテ門弟ニ一紙ノ起請ヲカヽセテ講談セルトナン猶虛名無實ノ受施鐵湯ヲ飲ノ因ナルコトヲナケイテ持戒ニアラサレハ出家ニアラス出家ニアラアラスンハ壇施ヲ受ンヤトテ丹波國ニ身ヲカクシスミヲヤキワラタツヲ作テ生命ヲクリシカ凡心境ニ隨フノナケキ又アリシカハ是ヨリ南都ニ行、霊跡ナツカシク滅法ノナケキ我ノミニ覺テコヽカシコサマヨエルトナン此時三輪ホトリニシテ忍師ト行會テ懐セルニ兩師ノ所存宛乳水ノコトシ手ヲ打涙ヲナカシテ倶ニ興起正法ノ契約ヲナス
 (恵雲は、同じ日蓮宗の)門侶らが、より多くの収入を得ようとして競って邪法を人々に説法しているのを悲しみ、「(邪命説法する他の日蓮宗徒らのように)上人号を名乗らないのであれば、我が会下えか〈門下〉に来て学ぶことを許す」として、その門弟らに一枚の起請文きしょうもんを書かせてから講談していたということである。そうしてさらに、(結局は恵雲自身も含めて無戒であって)虚名無実こめいむじつ〈名ばかり形ばかりで内実が全く無いこと〉の僧が(信者らから)布施を受けることは、(来世に地獄に堕して)溶けた鉄を飲んで苦しむ因となることを嘆き、「持戒者でなければ出家ではない。出家でないならば、どうして信者から布施を受けることが出来ようか」と言って(日蓮宗僧たることを捨てて)丹波国に身を隠してしまい、炭を焼き、藁を編むなどして生計を立てるようになった。しかし、(堕落した寺門から脱し、質素で静かな俗に身を置いたとしても、自らの)凡心が見聞覚知する境〈対象〉にたちまち惑わされることへの嘆きは依然としてあったため、意を決して丹波から南都に行って(その昔まだ仏法が盛んであった時の)霊跡に心惹かれつつ、「仏法は已に滅んでしまったか」と嘆きを懐くのは自分のみであるかのように思いながら、ここかしこと彷徨っていたのであるという。そんな時、三輪山みわやま〈三室山〉の辺りにて忍師〈明忍〉と行き逢った。互いにその志を述懐したところ、二人の懐いはあたかも乳水がたちまち相交わるかのように通じたのである。(二人はそのあまりの感動に)手を打ち、涙を流して倶に正法を興起せんとの契約を交わした。

『明忍律師之行状記』(西明寺文書)

このように、明忍はまず慧雲と三輪山にて邂逅したことを伝えています。この『明忍律師之行状記』にある所伝はまた明忍の没後七十七年となる貞享四年〈1687〉に著された最も詳しい伝記、月潭『槇尾山平等心王院故弘律始祖明忍和尚行業曲記』にそのまま採用され、漢文にされ伝えられています。

そしてまた、そのニ年後の元禄二年〈1689〉、同じくこの説を慧雲伝として独立させ出したのが戒山慧堅かいざん えけんで、そこでも以下のように記されています。

師常視世之贋浮屠假佛法而饕貴富者。不願與此輩頡頏。輒遯跡於丹波山中採蕨充饑。編蒲爲業。淸淨自活。積有年矣。一日偶訪古蹟。飛錫於和陽。邂逅明忍律師于三輪山下。一傾蓋際。恍若夙契。及潭素志。鍼芥相投
〈慧雲〉は、常に世の贋浮屠にせふと〈無戒・破戒の相似僧、似非僧〉が仏法を商いの道具として貴富を貪る様を見て、そのような輩らと頡頏きっこう〈拮抗。状態・勢力の等しい様〉することを良しとしなかった。そこで跡を丹波の山中にくらまし、蕨を採って餓えを凌ぎ、蒲を編むのを業として、(仏法を商いとすることなく)清浄に自活して年月を重ねていた。ある日、たまたま古蹟を訪れようと和陽〈大和国〉を巡方している時、明忍律師に三輪山の麓にて邂逅した。たまたま初めて出会って言葉を交わした時、知己の親友であったかのように感ぜられたのは、あたかも宿世の因縁に由るかのようであった。(そこで、仏法についての)思いに話が及ぶと、たちまち鍼芥相投しんかいそうとう〈磁石が惹かれ合うように意気投合すること〉した。

戒山『慧雲海律師伝』(新版『大日本佛教全書』, vol.64, p.228b)

以上のように、やはり明忍と慧雲が出逢ったのは三輪山であるとされています。この著者の戒山は、慈雲が受具した野中寺の中興の祖、慈忍慧猛じにん えみょうの高弟の一人であり、戒山の法弟であった洪善普摂こうぜん ふしょうは慈雲の師である忍綱貞紀の師、すなわち慈雲はその孫弟子です。慈雲は、戒山の法事の導師を近江の安養寺で勤めるなど、戒山の法系とも繁く交流していました。

ところが、元禄十三年〈1701〉、明忍のいわば本拠であり、また『明忍律師之行状記』の原本を蔵した他ならぬ槇尾山平等心王院において、以上の話が以下のように改変され伝えられるに至っています。

師自嘆曰發心遠渉非足不能趣向佛道非戒寧到必須顯密二戒堅固受持浄戒莫犯於此乃往南京詣春日社祈所志于時有沙門惠雲又有戒法志訪霊跡于南洛於春日廟前與律師邂逅互述素志恰如宿契二人連錫入西大寺寺有友尊素信如律於是齊志
〈明忍〉は自ら「発心して遠くへ行くには足でなければ達することは出来ない。仏道を趣向するのに戒でなくてはどうして到ることが出来ようか。『必ず須く顕密の二戒を堅固に受持し、浄戒を犯じることがあってはならない』〈空海『遺誡』の一節であり、叡尊が戒律復興を志した契機となったものとして『金剛仏子叡尊感身学正記』に記した一節〉のだ」と嘆いて言われた。そこですなわち南京〈南都〉に往き、春日の社に詣で、その志す所を祈った。その時、沙門恵雲という人があった。また戒法の志があって霊跡を南洛〈南都〉に訪ねていた。春日の廟前に於いて律師と邂逅し、互いにその素志を述べあうと、あたかも宿契のようであった。そこで二人は錫を連ね、(律学を伝える)西大寺に入った。すると寺に友尊という人があって、日頃から如律を信ずるものであった。ここに於いて(三人は)志を等しくし、共に律蔵を探ったのである。

『槇尾山略縁起流記』(西明寺文書)

このように、それまで明忍と慧雲とが邂逅した地が、三輪山から春日の社頭に変えられています。何故か。何故に三輪山でなく、春日であると「改変」されたのか。少々乱暴に話をすっとばして結論から云うと、それは三輪明神の故地である三輪山でなく、春日社こそが最もその契機となるに適当な地であったためです。なんとなれば、春日明神とは、日本における伝戒に関わり、戒法を守る神とされていたためです。

鎌倉期初頭、春日明神は単に藤原氏の氏神ではなく、またただ興福寺や法相宗の守護神でもなく、仏法守護の神と見なされるようになっていました。それは、 明恵みょうえ貞慶じょうけいなど当時のすぐれた僧の言葉にすでに見られ、もしくは彼らについて語った託宣として現れています。また、学徳は優れているものの行としては堕落した僧の前に現れて教誡したという話として、『明恵上人伝記』や『沙石集』など当時の書にて語り継がれています。

(それら書においてどのように春日明神が描かれているかは、比較的よく世間で知られたものであろうことからここでは敢えて示しません。)

その中、特に春日明神が伝戒に関わる神として描かれたのが、唐招提寺に伝わる『唐招提寺解とうしょうだいじげ 』なる一般には全く知られない書です。この書は鎌倉後期に撰述されたものかと見られていますが、実際の所不明で、いつ・誰によって著されたものか確かなことはわからず、その内容自体も真偽の疑わしい説が散見されるものです。しかしながら、中世における戒律復興運動の嚆矢となる実範がいかにして興律を志したかの経緯を記す中、それ以前の実範にまつわる伝承とは異なって、春日明神が介在していたとされています。

(実範が戒律復興を志した経緯と、その伝承の変遷については別項「戒山『中川寺實範律師伝』」を参照のこと。この話はまた江戸期を迎え、貞享元年〈1684〉、東大寺真言院の 亮然重慶りょうねん じゅうけいによって撰述された『律宗図源解集りっしゅうずげんげしゅう』に採録されています。直接的には、槇尾山の衆徒はこの書を読み、あるいは間接的に聞いてその所伝を取り入れたのかもしれません。)

そしてまた、これも世間ではほとんど全く知られていない書ではありますが、室町期に著されたと思われる『聖誉鈔しょうよしょう 』には、春日明神がまさに「戒法ヲ守リ玉ト云」う存在であるとの認識が伝えられています。

一。春日大明神。大同年中託宣。以左眼護加我朝庭。以右目守護法相宗。云云 私云。是亦右御目ヲ以佛法
《中略》
又春日山ヨリ金招提西大。大明神諸神具足。御影向アリテ。戒法守リ玉ト云。夢ヲ見ル者アリ。眞不思議靈瑞共多ク侍ケリ。
一。春日大明神が大同年中〈806-810〉に託宣して云われたことには、「左の眼をもって我が朝庭を護加し、右の目をもって法相宗を守護する」とのことであった。これについて私見を述べれば、(春日明神は)右の御目でもって(法相宗ばかりでなく)仏法を守り玉われているということである。
《中略》
また春日山から金の橋が唐招提寺と西大寺に掛けられ、大明神が諸々の神を率いて御影向されて戒法を守られる、という夢を見た者がある。まことに不思議な霊瑞などが多くあったのだ。

『聖誉鈔』(新版『大日本佛教全書』, vol.72, pp.4b-21c)

以上のような鎌倉期後期から室町期にかけ形成されていったであろう春日明神にまつわる伝承は、近世にいたるまで継承され、戒律復興が果たされた後にまた着目されて、ついに明忍らに絡めて語られるようになったと考えられます。

明忍は中世の明恵および叡尊を深く敬し、その先蹤を辿ろうとしていたことは間違いありません。そして明忍らが戒律復興を明恵の故地である栂ノ尾の山中、勧請された春日と住吉の社前において行っていたことは、まさにその事実を物語るものです。

そこでそのような改変を、後代の門流が、明忍らへの敬意と信仰、そしてその法流を過剰に権威付けしようとする過程で、従来の所伝を合していく中、むしろ当然そうあるべきものとして改変を改変とも思わずしてなしたものであったと思われます。それを為し得たのは明忍を直接知らない人であったからこそのことでしょう。明忍を祖と仰ぐ彼らにとって、中世の昔に範をとってなされた近世戒律復興には、春日社(春日明神)は必ず介在していなければならない存在でした。

そこで慈雲が伝え聞いた話に戻りますが、上に示したように、慈忍の弟子である戒山は明忍らによる戒律復興に春日神が関わったとする伝承を記していません。したがって、この話を慈忍が承知していたとは考えられず、また戒山が野中寺を継いだ頃に野中寺に伝えられていたとは思われません。しかし、慈雲の師であり、同じく野中寺出身の忍綱は春日明神の伝承を交えた伝戒の経緯を慈雲に伝えています。おそらく、忍綱かあるいは洪善かのいずれかに、栂尾山との交流が、直接か間接か知られぬものの何らかの形で必ずあったのだと考えられます。

実際、慈雲自身にも槇尾山の律僧との直接的交流があって、その法を受けていたことが知られます(慈雲『千師伝』)。

なお、慈雲が聞いた話は、『槇尾山略縁起』の所伝に、さらに『唐招提寺解』あるいは『律宗図源解集』を混交したようなものとなっています。実範の当時に同じく、春日の神託があったという話が付加されているためです。そしてまた、明忍が同志に出会った順序も、友尊が先で慧雲が後とされてもいます。これは、友尊も実は元日蓮宗徒であって脱宗した後に西大寺に入って律学を修めていたようですが、西大寺に伝わる自誓受戒の軌則を知る友尊こそ、春日社頭で真っ先に遇うべき人であると考えられた結果であったろうと思われます。

さて、このような改変がなされた所伝を、慈雲は文字通り信受していたようです。先に述べたように、慈雲は己がどのような流れの中に位置し、どのような伝統を継ぐ者であるかをよく意識していました。その故になおさら、自身が継ぎ、また世に顕彰して興隆すべき仏法に対する敬意と責務とを感じていたことでしょう。

後に慈雲が十善を仏道を超えた普遍の道、「人となる道」として唱えるとき、あるいは自身が継承していた両部神道を説く時にも、その背後にはこの『律法中興縁由記』に記されたような、護法神あるいはいわば伝戒神としての春日明神など、日本の神明の存在を見ていました。『律法中興縁由記』は、先に近世戒律復興の経緯とその後を記したものと述べましたが、事実とは異なる所伝です。しかしながら、むしろその故に、それは近世の律僧らの世界、慈雲の思想、その立ち位置・展望を知り得る書の一つです。

愚翁覺應 謹記

凡例

一.本稿にて紹介する『律法中興縁由記』は、『慈雲尊者全集』第六巻所収のものを底本としている。

一.原文および訓読にては、底本にある漢字は現代通用する常用漢字に改めず、可能な限りそのまま用いている。これにはWindowsのブラウザでは表記されてもMacでは表記されないものがある。ただし、Unicode(またはUTF-8)に採用されておらず、したがってWebブラウザ上で表記出来ないものについては代替の常用漢字などを用いた。

一.現代語訳においては読解に資するよう、適宜に常用漢字に改めた。また、読解を容易にするために段落を設け、さらに原文に無い語句を挿入した場合がある。この場合、それら語句は括弧()に閉じてそれが挿入語句であることを示している。しかし、挿入した語句に訳者個人の意図が過剰に働き、読者が原意を外れて読む可能性がある。そもそも現代語訳は訳者の理解が十分でなく、あるいは無知・愚かな誤解に由って本来の意から全く外れたものとなっている可能性があるため、注意されたい。

一.現代語訳はなるべく逐語訳し、極力元の言葉をそのまま用いる方針としたが、その中には一見してその意を理解し得ないものがあるため、その場合にはその直後にその簡単な語の説明を下付き赤色の括弧内に付している(例:〈〇〇〇〉)。

一.難読あるいは特殊な読みを要する漢字を初め、今の世人が読み難いであろうものには編者の判断で適宜ルビを設けた。

一.補注は、特に説明が必要であると考えられる人名や術語などに適宜付し、脚注に列記した。

一.本論に引用される経論は判明する限り、すべて脚注に『大正新脩大蔵経』に基づいて記している。その際、例えば出典が『大正新脩大蔵経』第一巻一項上段であった場合、(T1, p.1a)と記している。

懸命なる諸兄姉にあっては、本稿筆者の愚かな誤解や無知による錯誤、あるいは誤字・脱字など些細な謬りに気づかれた際には下記宛に一報下さり、ご指摘いただければ幸甚至極。

非人沙門覺應(info@viveka.site)