慈雲尊者とは、江戸中期の大阪および京都を中心に活躍し、当時の仏教復興運動に尽力した仏教僧です。俗名は上月平次郎、字は慈雲、諱は飲光。号は百不知童子、雙龍叟、葛城山人等々。
戒律を厳しくたもって修禅に打ち込み、多くの庶民に法を説いて止まなかった慈雲尊者は、幕末の一大傑物、山岡鉄舟から「日本の小釈迦」とまで讃えられています。
慈雲は、享保三年〈1718〉七月廿八日、大阪中之島に生を受け、十三歳で摂州法樂寺の忍綱貞紀の元で出家。その後、師命によって古義学の伊藤東涯(長胤)のもとで漢籍や詩文を学んでいます。その後、慈雲は近世「天下の三僧坊」と世にうたわれた律院の一つ、河内野中寺にて二十一歳で具足戒を受け比丘となったのでした。
慈雲は野中寺から帰るや師から譲られ法樂寺住職の席に就くも、ちょうど二年でその職を辞して法弟に譲り、信州は曹洞宗正安寺の高徳、大梅禅師(圭立法撰)のもとで一年半参禅。大阪に帰り、師命により高井田長栄寺に入った後には法弟の愚黙親証の懇願によって、慈雲は正法律復興を宣揚してその狼煙を上げています。
そこで巷間、慈雲をして「正法律の開祖である」などと云う者があります。しかし、これは正法律という語やそこに慈雲が込めた意図をまるで理解していないことによる誤謬です。
まず正法律という言葉自体について言えば、漢訳仏典では『雑阿含経』・『中阿含経』をはじめ『大般若経』や『五分律』・「根本有部律」、『瑜伽師地論』などの仏典にあるものであり、梵語でいうならば[S].Dharmavinaya([P].Dhammavinaya)であって、慈雲が創り出したものではない。その内容についても、慈雲が新たに考案したものというのでも「真言律の一種」であるとか「真言宗の戒律」といった類の宗派や団体独自の戒律と言われるものでも全くありません。
また、しばしば「正法律」をして「慈雲による戒律復興運動」と理解される場合も多いのですが、これも正確ではありません。そもそも正法律とはいかなる意味であるかは、慈雲その人によって明らかにされています。
正法律と云フは世尊の宗名なり。外道の不正義邪説に対して、自ら我が正法律と称し玉ふなり。大般若経。処々正法毘奈耶と云ふ。有部諸律に多く正法律と云ふ。其ノ中一例を挙レば、阿黎沙ノ偈に、此の正法律出家云云ト是也。相似ノ正法とは、末世の弊儀人師の所立なり。瑜伽論には像似の正法と云フ。
「正法律」とは世尊〈釈迦牟尼〉の宗名である。外道の不正義・邪説に対し、(世尊)自ら「我が正法律」と称されたものである。『大般若経』には処々に「正法毘奈耶」〈正法律に同じ。毘奈耶はvinayaの音写で律の意〉と説かれ、「有部律」〈根本説一切有部の律蔵〉やその他の律蔵には多く「正法律」と説かれている。その中の一例を挙げたならば阿黎沙の偈〈阿黎沙伽他.阿黎沙はārṣaの音写で賢者の意.阿利沙あるいは阿梨沙とも。『大智度論』では聖主と訳〉に、「この正法律出家」云云〈「正法律出家」という語は『雜阿含経』にしばしば見られるが偈文としては無い〉とあるのがそれである。「相似の正法」とは末世の弊儀、後代の人師が捏ち上げたものをいう。『瑜伽師地論』にて「像似の正法」と称されるものである〈『瑜伽師地論』に「像煮正法」が詳しく定義されている〉。
慈雲『枝末規縄』(『慈雲尊者全集』, vol.6, p.77)
正法律とはそのまま正法(仏陀の教え)と律、すなわち仏教そのものを意味した語です。近世江戸期、すでに仏教は衰退し、それでいてその多くがもはや本来依るべき経論の説を離れた独自の説を好き好きに主張して互いに争っていました。そんな中、慈雲が唱えた正法律とは、既存の宗旨宗派に拘泥せず「仏教」に回帰して行うことを意味するものでもありました。慈雲は、正法律という新たに創作したのでない仏典にある語をこそ用いることにより、「仏教を復興」することを目指したのです。
しかしながら、仏教を復興してこれを正しく行い、後世に伝えるには必ず先ず持戒持律が不可欠というのもまた仏教における常道であり大前提。事実、僧の「あるべきよう」の具体的指標、僧たる者の生活・行いを規定する根拠となるものは、経蔵・律蔵・論蔵のいわゆる三蔵のうち律蔵以外にありません。
そこで慈雲は、僧はすべからく律に則った者でなければならず、その実行に際しては(得てして伝統の名のもとに行われてきた)根拠なき旧習・慣習や人情を決して交えてはならない、という根本的態度を表明しています。
正法律とは、聖教の名目にて、外道邪宗に對して佛法の尊尚を表せる名なり。若シ但に正法と云ハば、像似ノ法に對せる名にも用ゆ。瑜伽菩薩戒本に於像似法、或自信解。或隨他轉。是名第四他勝處法と。これなり。今正シく私意を雑へず、末世の弊儀によらず、人師の料簡をからず、直に金口所説を信受し、如説修行するを、正法律の護持と云フなり。
正法律とは、聖教〈経・律・論の三蔵〉の名目〈名称〉であって、外道邪宗に対して仏法の尊尚たることを示したものである。もし単に「正法」といった場合には「像似法」に対する呼称にも用いる。それはたとえば、(瑜伽戒の)『菩薩戒本』にある「於像似法。或自信解。或隨他轉。是名第四他勝處法」、このことである。今、正しく私意〈私的思想〉を雑えず、末世の弊儀に依らず、人師の料簡〈祖師の独自思想〉をとらず、直に金口所説〈仏陀の言葉.三蔵所伝の仏説〉を信受し、如説修行〈経に説かれた通りの修行〉することを「正法律の護持」という。
慈雲『一派真言律宗総本山神下山高貴寺規定』(『慈雲尊者全集』, vol.6, p.63)
当時、日本における仏教の諸宗派はそれぞれの祖師の思想を無根拠に、もしくは経説を牽強付会・我田引水してまで絶対視する教義を構築しており、現代において「祖師(仏)教」あるいは「祖師無謬説」とまで表現、揶揄されるものとなっていました。
彼らは自らが属する宗派の祖師をあたかも仏菩薩や神の化身であるかのように崇拝して盲信。そんな祖師と言われる人の中には、戒律不要論・害悪論と言い得る主張を公然とした者すらあります。あるいは、戒律の重要と実践を強調していた者があったとしても、その弟子達で戒律の遵守をなす者はごくごく稀でした。常日頃から「お祖師さま」云々と崇め奉っている割にそこが馬耳東風であるのは非常に滑稽なことですが、しかしそれは当時からむしろ常識的なものであり、現代に於いてもまったく同様です。
そのような日本仏教各宗派の思想はきわめて観念的・情意的なもので、そこに属する人々は頭を丸めて袈裟をまとっていたとしても、宗旨宗派が異なればその行儀や外儀に至るまで独自性を打ち出すために敢えてそれぞれなんら正統な根拠なく異ならせており、それを疑問に思う者は極めて稀です。あるいは朝廷に叙任され官僧となって貴族に準じた位階を得ることを渇望し、朝廷の定めた衣冠の制に倣って造られた装束を着ることを無上の名誉とする者が多くありました。現代の僧職の者が着ける多くの装束は官僧に準じたものです。実にさもしい話ですが、その昔に恋い焦がれた官僧となることを今ようやく形の上だけ現実化し、世代を超えた虚栄心を満たして澄ましているといったところしょう。
このような指摘をすると途端に、「その何がおかしいのか、宗派毎に異なって何が悪い。自由で良いではないか」と反論する者が必ず現れます。けれども、出家の場合、僧としての外儀や行儀は「仏教として定まっている」ため、そもそも仏教にそのような意味での自由さなど存在しません。それぞれ異なって雑多であることはすなわち根拠なく行われていること、あるいは全くその規定に反していることです。したがって、それ自体が仏教者として大きな問題となります。それをなお「問題ない」と強弁するのであれば、その内面の思想ばかりでなく外面においても「もはや仏教者ではない」ということを自ら表していることになる。
慈雲はそのように人が戒と律とを守らず、偏向な一宗一派の教義に拘泥してその祖師を盲信、まさに「吾が仏尊し」とばかりに各々が宗派贔屓することを強く批判しています。慈雲は、それぞれの宗派、その祖師の思想には長所もあれば短所や誤りも多いことを指摘。もしそれに依るとしても参考する程度に留め、あくまで先ずその根本として学び行うべきは、後代の観念的解釈や因習・慣習を廃して、仏典に伝えられる釈尊の言葉であるとしています。
正法律復興、それは日本の仏教徒に根強くはびこっていた宗派意識を廃した、いわば「釈尊に帰らん」との宣言、その実践を謂うものでした。
慈雲は当時の仏教界において、現代においてなお瞠目すべき数々の業績を遺していますが、それは正法律復興を目指したその志を軸に展開されたものです。そこでその第一歩が、まず戒律を正しく護持して仏弟子としての綱紀粛正を図ることでした。
なぜその始めが戒律であったのか。それは、仏教には戒定慧の三学という修道の枠組みがあり、その第一が戒であるためです。
戒定慧三學。猶鼎之三足不可偏廢也。然有戒而後有定慧。論其次序則戒居其首矣。
戒・定・慧の三学とは、鼎の三足のいずれか一本でも取り去ることなど出来ないようなものである。しかしながら、(仏教の修道階梯としては)先ず戒があって後に定・慧がある。その次第を言うのであれば、戒がまずその首にあるのだ。
慈雲『戒学要語』序(『慈雲尊者全集』, vol.6, p.36)
これは慈雲の直弟子の一人でありその伝記を著した明堂による慈雲『戒学要語』の序文にある一節ですが、その理由がごく端的に示されています。持戒は目的でなく、仏教の目的である解脱、涅槃を得るための手段であり不可欠の要素です。したがって、ただ戒律だけ細かく厳密に守って澄ましておれば良いというものではありません。慈雲は正法律復興を目指してまず持戒を基とし、それから以降、実に八面六臂と言うに相応しい諸活動を展開していきます。そして、世紀を経てもなお衆人の耳目を集め驚嘆に値する数々の成果を遺しています。
そもそも慈雲は、正法律復興を目指したその始めに高井田長栄寺にて著していた『根本僧制』において、釈尊の教えと律とを守り実行する者であるならば、それがいかなる宗旨宗派に属していても一派同朋である、としています。
第四。当山規矩。一切諸宗如法如律之徒。悉是一派同袍。仮令有別所属本山。亦不妨於当山執行法事。如其為沙弥及新学比丘。為依止為和上。亦通無妨
第四条
当山〈長栄寺〉の規矩〈規則〉は、いかなる宗派に属する人であっても如法如律の人であれば、ことごとく一派同胞である。たとい別に所属する本山があっても、当山にて法事〈僧事.受戒・布薩・安居・自恣など諸々の行事〉を執行することに妨げない〈制限のないこと〉。もし(いずれかの宗に属する人であっても当山にて)沙弥や新学比丘〈五夏以下の比丘〉となり、(誰か当山に居する比丘の)依止師〈教授.指導者〉となったり和上〈師僧〉となったりしても、また通じて妨げない。
慈雲『根本僧制』(『慈雲尊者全集』, vol.6, p.72)
慈雲によるこのような意志は、当時の仏教者らのあり方を批判的に問うて対したものであり、釈教を復古せんとする志に貫かれたものです。実はそれは、この日本で慈雲が初めて採った態度というのではなく、天平の昔に鑑真が唐招提寺を建てた志に連なるものであり、近くは江戸期における戒律復興の魁であった槇尾山の俊正明忍や野中寺中興の慈忍慧猛の遺志を継ぐものでもありました。
たとえば、鑑真が唐招提寺を建てることの契機と目的は、これは鑑真に唐から付き従ってきた如法の弟子、唐招提寺第五世を継いだ豊安が天長八年〈831〉に淳和天皇に対して上奏した書にある一節ですが、以下のようなものであったようです。
天平寶字元年中更有別勅。加大和上之號。詔。天下僧尼。皆師大和上習學戒法也。自爾以来。二百五十戒授與此土佛弟子。時有四方來學者。緣無供養。多有退還。同年十一月廿三日勅賜備前國水田一百町。充十方僧供料。一聽大和上處分之。三年八月三日有恩勅。以薨新田部親王舊家施之。大和尚卽以此地奉爲聖朝造僧伽藍。其號稱招提寺。卽大和上聞此國行事者。寺家雖有衆供而不通外來僧。亦客僧供雖開三日分。若不相識終不資供。由是塞十方僧路。行人爲此幸苦。大和上發願。奉爲代代聖朝開廣大福田。別立十方僧往來修道之處。設無遮供。及日時望寺向堂。不簡僧沙彌。不論斗升。兼及資供。准天竺鷄頭末寺。大唐五臺山華嚴淸凉寺。衡岳寺。將行之。亦如仁王經所説。不立官籍。若貫籍綠衆僧。我法隨滅。但修六和。同崇如水乳之。是故十方行者。共住此伽藍。住持佛法。鎭護國家。然後彼授戒儀式。迄至今時。經數年而尚爲一道無別異矣。惟和上住持當契於佛意趣。
天平宝字元年〈757. 『続紀』では天平宝字二年(758)。豊安の誤認であろう〉中、更に別勅あって(鑑真に)大和上の号が加えられました。そして詔により天下の僧尼は皆、大和上を師として戒法を習学させることとなっています〈天平宝字二年八月朔日の勅〉。それ以来、二百五十戒がこの国の仏弟子に授與されるようになりました〈豊安による誤認。鑑真らによる具足戒の授戒は天平勝宝六年(755)から執行されていた〉。そこで四方から(鑑真の元に戒律を)学びに来る者がありましたが、供養〈経済的支援〉が無いことからその多くが退還しています。同年十一月廿三日〈『東征伝』説。『続紀』では廿九日〉、勅により備前国水田一百町が賜われ(律学を志して来訪する)十方僧〈すべての僧〉の供養料に充てられました。それは偏に大和上の裁量に任されたものでした。また三年八月三日〈『東征伝』では八月一日にその名を「唐招提寺」としたとあり、ならば新田部親王の旧宅が寄進されたのはそれ以前のことでなければならないため、これも豊安の誤認〉、恩勅あって薨新田部親王の旧家が施与されました。そこで大和尚はこの地を以て聖朝の奉為に僧伽藍〈saṁghārāmaの音写「僧伽藍摩」の略。僧伽の精舎すなわち寺院の意〉を造りました。その号は「招提寺」と称します。
ところで、大和上はこの国における(寺家や僧の)行事〈寺や僧のあり方〉について耳にしておりました。寺家には(朝廷から)種々の供養がありながら外来僧〈その寺院に所属していない僧〉にそれを用いることは無く、また客僧の供は三日分であると開いていましたが、しかしもし(その僧に)縁故がなければ決して(客僧として)資供〈食事や必要な諸物品を提供すること〉することがなく、そのようなことから十方の僧路は塞がれ、行人はこの為に幸苦していることを。
そこで大和上は発願し、代代聖朝の奉爲に広大なる福田を開き、(既存の官寺とは)別に十方僧往来修道の処を立て無遮の供〈ここでは、縁故の有無を問わず門戸を開いて衆僧を迎えることの意〉を設けんとしたのであります。たとえ(寺に滞在・修学する)日時が長くなろうとも寺に望み堂に向うならば、僧・沙彌を択ばず、斗升〈食事など供養の量〉を論ぜず、(拒絶・排除すること無く)いずれも資供に及ぶというのです。天竺の鷄頭末寺〈Kurkuṭārāma. 鶏園寺・鶏雀寺。Magadha(摩伽陀)はPāṭaliputra(華氏城)にAśoka(阿育王)が建立した大寺院〉や大唐の五台山華厳淸凉寺・衡岳寺〈南岳衡山の般若寺か?〉に准じ、まさにそれを行じようとしたのであります。また、『仁王経』の所説〈『仁王経』では、国王など国家が仏弟子を世俗の官人や軍人のように管理し制限すれば、仏法は久しからずして滅びる、とされる〉に則って(唐招提寺に)官籍を立てませんでした。「もし(寺を国家の)貫籍としてその衆僧を録したならば、我が法は滅するであろう」と。ただ六和〈六和敬。僧伽の行動指針。比丘が三業と戒と見と利において互いに尊重し協調すること〉を修し、(僧が)互いに崇ること水と乳の如くしたものです。このようなことから十方の行者は共にこの伽藍に住して仏法を住持し、国家を鎭護していました。その後、その授戒の儀式は(私豊安の)今の時に至るまで数年を経ておりますが、なお一道にして別異ありません。それは和上の住持が、まさに仏の意趣に契うものであったからに違いないものであります。
豊安『鑑真和上三異事』(新版『大日本佛教全書』, vol.72, pp.34-35)
具足戒の伝統が鑑真によってようやくもたらされていた当時、しかしそれを受持して学ばんとする学徒が鑑真らの住まう東大寺唐禅院に集ってきても経済的理由により多く挫折・退転していたことは、『続日本紀』や『東征伝』など諸史料にあることから確実と見てよい。
ここで豊安の記述で特に注目すべきは、なぜ学徒にそのような経済的困窮が生じていたかの根本的原因を記している点です。それは当時の寺院が、今の寺院も同様でありますが、まったく縁故主義を取って閉鎖的であり、本来あるべき四方僧伽であるとか一味和合などというあり方など全くとっていなかったことにあります。そこで鑑真はそれを問題視し、印度および支那以来の寺家のあり方に反したものであると考えたことにより、あえて唐招提寺を官寺とせず私寺として建てたのでした。官寺としてはその理想を実現できないためです。
そのような鑑真の意志は、まさに「唐招提寺」あるいは「唐律招提寺」と名付けられたその寺号に現れています。
云招提者亦訛略也。世依字解。招謂招引。提謂提携。並浪語也。此乃西言耳。正音云招鬪提奢。此云四方。謂處所爲四方衆僧之所依住也。
いわゆる「招提」とはまた訛略である。世間は(梵語の音写であることを知らず)この字に依って解釈して、招とは「招引」の意であり、提とは「提携」の意であるという。いずれも浪語〈妄説〉に過ぎない。これはすなわち西方〈印度〉の言葉である。その正音を云えば「招闘提奢〈caturdiśā〉」であって、この国で云う「四方」であり、その意は「四方衆僧が依って住する所」である。
道宣『続高僧伝』巻二(T50, p.435a)
招提寺は支那でもしばしば用いられていた寺院の称であり、鑑真が考案したものではありません。しかし明らかにその意味を意識して名付けたものに違いないものでした。
豊安もそのような鑑真の志と当時の唐招提寺のあり方を誇りに思い、また縁故主義がはびこり官におもねる他の僧らへの批判も多少なりとも含め、先のように記していたのでしょう。鑑真は日本一国の伝戒伝律の師とされ日本における律宗の祖とされているものの、実は「宗」といった概念、あるいは日本的な「寺」の枠で動いてなどいません。
鑑真の招提寺においてなしたあり方と慈雲が『根本僧制』などにおいて正法律復興を目指したあり方とは、その時代や背景はまったく異なるとはいえ実に多く重なるものです。いずれもそれは「本来」・「復古」を目指したものでありながら、しかし日本の当時としては革新的あり方でした。
第三。若三蔵所説。於事不可行者。聖言未具者。則須依支那扶桑諸大徳諸誥。及現前僧伽和合。
印度よりして支那、支那よりして我朝、風土同からず。其ノ正法律十善の法は、万国におし通じ、古今に推シ通じて、差異なけれども、行事は或は通塞あり。支那の風これを我朝に施すべからず。立を礼とする等なり。沙門の中或は可也。貴人官辺には其ノ式行ふべからず。此の類先徳の所誥あり。亦現前僧の和合あるべし。内衣を着せず、直に偏袒する。又食時に匙箸を用ひざるは、印度の聖儀なれども、此ノ邦の風儀に異なり。又先徳の所誥、現前和合の式あるなり。
飲光曰。吾扶桑邊國與西天大隔。如一切有袖衣律文不開。此土寒凍不得不著之類
第三条
もし三蔵に説かれていたとしても、(日本における)事〈行事・威儀・作法〉において行うべきでないことや、釈尊が全くお説きにならなかった(が、今では何らか規定が必要となっている)事柄については、支那や扶桑〈日本〉の諸大徳の教誡および現前僧伽の和合に依るべきこと。
印度と比較して支那、支那と比較して我が国と、それぞれ風土は同じではない。正法律や十善の法は、世界のあらゆる国に通用し、昔も今も通じて異なることはないが、こと行事に関しては、時として通用するものもあればはばかられるものもある。支那の風儀をそのまま(無批判に)日本で実行しようとしてはならない。(例えば支那では正式に礼法として)立ったまま礼すること等である。沙門〈出家者〉同士であったならばあるいはそれも良いであろう。しかし、(日本の帝や貴族など)貴人や官人に対しては、(印度あるいは支那における)礼式を用いてはならない。これに類する事柄については、すでに先徳らによる教誡がある。また現前僧伽の和合〈律に基づき羯磨によって衆人一致して決議すること〉をなせ。内衣を着ずに、直に偏袒〈素肌に袈裟衣をまとって右肩をあらわにすること〉すること。また食事の際に(右手で直接食べ物をつかんで)匙や箸を用いないのは、印度における聖儀ではあるけれども、この日本の風儀にはそぐわない。(この類の事柄についても)また先徳らの教誡や現前(僧伽)の和合の規定があるのだ。
飲光曰く、我が扶桑という辺境の国は、西印度から遠く離れた土地である。なんであれ(支那および日本で用いられる褊衫等の)「袖のある衣」は、律蔵の規定では許されない。しかしながら、この地の気候は寒凍であって着ざるを得ない、といった類のことである。
慈雲『根本僧制』(『慈雲尊者全集』, vol.6, p.72)
慈雲は無闇に原理主義的態度を取ってはおらず、例えばありとあらゆる事について印度における釈尊在世当時の風儀をやり通せなどと極端なことを云ってはいません。三蔵を規範としながら、また倣うべき範を遺していた往古の諸大徳の先蹤を踏んでいます。これは戒律についてだけでなく、禅や密教においても同様でした。
そのような合理的態度は、やはり慈雲ただ独り採られていたものではありません。近世当時、幕府が治世のための思想の中核に据えたことから非常に盛んとなっていた朱子学に対し、復古的・語学的・文献学的観点から異を唱えた古義学を創始した伊藤仁斎ならびにその長子であった東涯、そして古文辞学を打ち立てた荻生徂徠、また独自の観点から儒教・仏教・神道を批判的・比較思想的に眺めて折衷的独創の「道」を唱えた富永仲基等々、それぞれが極めて優れた説を打ち立てて一家をなし、あるいは孤高の座に着いていました。彼らはそれぞれ当代の天才、抜群の学者であり思想家です。
種々様々な思想を奉じて深め、もって火花をちらし合う群雄が多数排出されていた時代、合理的精神をそれぞれの立場で研ぎ澄まし磨き上げていかんとする気運の影響を、それはいわば時代精神というべきものでしたが、慈雲は批判的に対抗しながらも少なからず受けています。
事実、慈雲に対して文書に対する基礎的な素養を備えさせたのは伊藤東涯その人です。慈雲自身も非常な読書家で、内外の古典ばかりでなく当時の書物にもよくよく目を通しており、当代の思想界における動向に非常に敏感でした。慈雲の場合、そのような風潮にただ乗って追随するだけでなく、自身も種々の分野において前人未到の域まで切り開いていたところが、まさにその白眉たる所以です。
なお、慈雲をして真言宗の人であったと理解している者が今非常に多くありますが、これも誤認です。慈雲は確かに真言密教の、しかも諸法流の相承者ではありましたが、実はかつて真言宗に属したことは一度たりともありません。そういうと「ならば真言律宗か?」と考える者もあるでしょう。しかし、実は真言律宗という言葉が言われだしたのは江戸中期であったのですが、それは「真言密教を兼学する律宗」という程度のもの。逆の「律を護持する真言宗」を意味したものではありません。また、兼学していたのは真言密教に限ったことでもない。そもそも真言を兼学するのは律宗だけでなく、すでに平安前期から南都諸宗にて普通にあったことであり、また鎌倉期でも臨済宗のその最初期には見られたことであって、何か特殊なことではありませんでした。
しかし、古代・中世から時代を経て近世に至る頃までに、いずれか一つの宗旨宗派に凝り固まることが一般化すると、人は「兼学」がどういうことかもわからなくなっていったようです。宗旨は必ず一つに絞ってそれを絶対視するのが当たり前、諸宗を並列的に学ぶ、あるいは特定の宗を至上としながらその他の宗をも兼ねて学ぶというのは異常である、という感覚になっていたのでしょう。これは現在においても同様で、そのような感覚こそ今の人も有して理解でき、やはり兼学とは何ぞや、と首をひねる者が多くあります。
そこで、近世となって槇尾山から西大寺叡尊の先蹤を踏んで戒律復興がなされ、それが他宗他派に伝播していくようになると、そもそも律宗が宗旨宗派として存在することがおかしいという見方が生じています。特にそのような見方は、槇尾山平等心王院やそこから分立していった神鳳寺や野中寺などの律家が真言を兼学しながらも、それをあくまで傍としていることに反発した浄厳において強く見られます。彼もまた自ら律を護持してその普及に勤めてはいましたが、しかし真言宗を至上最高のものとし、これを傍とすることなど許されないと考えていました。それと似たような思考は、天台宗にても持律の要たることを主張し実行した、安楽律院の霊空光謙においても同様に見られます。
このような動きを現代の上田霊城は「戒律の宗派化」という概念により把握していましたが、その指摘は正しいものです。そしてそのような動きが生じことで、むしろ戒律というものが再び無効化、あるいは無意味化していくこととなります。
そのような流れの中、その観点や思考は浄厳や霊空とは異なるものの、慈雲もまた律宗を特に宗旨宗派たりえるものとは見なしていません。
律宗は別に宗旨と云フべきことならず。唯タこれ僧儀なり。又近世みな眞言天台等よりの兼學なれば。それぞれの宗旨によるべし。
律宗は別に宗旨と云うべきことはない。ただこれは「僧儀」〈僧として必ず見に具えるべき行儀・規範〉である。また、近世はみな真言・天台等からの兼学であるから、(その見解や修習は)それぞれの宗旨に依れば良い。
慈雲『諸宗之意得』(『慈雲尊者全集』, vol.14, p.39)
ただし、慈雲はこのように言っていますが、これはあくまで「既存の諸宗をどうみるべきか」という中でのことであって、では慈雲自身が真言宗に属する者だと見ていたかと言えば、先に述べたように全くそのようなことはありませんでした。そもそも慈雲にとって宗旨宗派など二次、三次の副次的なものに過ぎず、自身はあくまで正法律、すなわち宗旨宗派を離れた直の仏教僧であると考えています。
慈雲は高貴寺を一派総本山とするべく幕府からの認可を得る際、「真言律宗」の称も用いていますが、それはただ登記上の便宜的なものに過ぎません。江戸期も現代と同様、何かにつ政府(幕府)の認可が必要であり、それを得るためには何らか名称がなければならなかったので、結局「正法律宗」というのがその正式の称となっています。
なお、現代の真言律宗という「宗」が成立するのは明治期以降のことであって最近のことです。しかも、それは明治政府により南都諸宗がすべて真言宗として統廃合されていたのに諸大寺が反発し、ついに分離独立する際に西大寺が再び他の宗派に組み込まれるのを嫌って用いたものであり、西大寺が昔から名乗っていたものではありません。また、明治政府が南都諸宗を十把一絡げに真言宗にまとめていたのも、そのいずれもが真言密教を相承し兼学していたからに他なりません。
そもそも、いずれの宗派に属する人であったかと枠にはめて見ようとする姿勢が、宗派という色眼鏡を掛けることにすっかり慣れさせられてその弊害に気づかない者のそれであって、慈雲を理解するのに甚だ遠いところからのものです。あえて言うならば慈雲は正法律の人であり、脱宗派の仏教そのものに直参せんとする人でした。
ところで、現在残されている慈雲の図像には皆、立派な髭 が生えた姿が描かれています。実際、その伝記にも、「尊者広額豊頤。鬚眉雪白(尊者は広い額と立派なアゴをもち、その髭と眉は雪の様に白い)」とその晩年の容貌が述べられています。しかし、戒律を厳守していた慈雲において、これはかなりおかしなことです。何故なら、仏教僧は男女問わず毛髪は勿論のこと髭もすっかり剃り落とさなければならない、と律で定められているからです。
もちろん、慈雲は伊達や酔狂でヒゲを延ばしていたわけではありません。高貴寺に伝わっていた話によると、慈雲の毛髪は生来よほどの剛毛であったのが、六十歳の老年に差し掛かる頃となるやさらにより一層のものとなって剃れば血がダラダラと流れ、痛くて堪えられなかったというのです。
困った尊者は、「比丘で病縁ある時は髭髪を蓄ふること四指〈約10cm〉に到るまでを許す」との律宗の相伝により、不本意ながらもやむを得ず髪と髭とを伸ばしていた、ということです。
そんな慈雲尊者は文化元年〈1804〉十二月廿ニ日、京都阿弥陀寺にてその生涯を閉じています。法臘六十七、享年八十七歳でした。
下愚道人 覺應