yānīdha bhūtāni samāgatāni, bhummāni vā yāni va antalikkhe. sabbeva bhūtā sumanā bhavantu, athopi sakkacca suṇantu bhāsitaṃ.
tasmā hi bhūtā nisāmetha sabbe, mettaṃ karotha mānusiyā pajāya. divā ca ratto ca haranti ye baliṃ, tasmā hi ne rakkhatha appamattā.
yaṃ kiñci vittaṃ idha vā huraṃ vā, saggesu vā yaṃ ratanaṃ paṇītaṃ. na no samaṃ atthi tathāgatena, idampi buddhe ratanaṃ paṇītaṃ. etena saccena suvatthi hotu.
khayaṃ virāgaṃ amataṃ paṇītaṃ, yadajjhagā sakyamunī samāhito. na tena dhammena samatthi kiñci, idampi dhamme ratanaṃ paṇītaṃ. etena saccena suvatthi hotu.
yaṃ buddhaseṭṭho parivaṇṇayī suciṃ, samādhimānantarikaññamāhu. samādhinā tena samo na vijjati, idampi dhamme ratanaṃ paṇītaṃ. etena saccena suvatthi hotu.
ye puggalā aṭṭha sataṃ pasatthā, cattāri etāni yugāni honti yugāni. te dakkhiṇeyyā sugatassa sāvakā, etesu dinnāni mahapphalāni. idampi saṅghe ratanaṃ paṇītaṃ, etena saccena suvatthi hotu.
ye suppayuttā manasā daḷhena, nikkāmino gotamasāsanamhi. te pattipattā amataṃ vigayha, laddhā mudhā nibbutiṃ bhuñjamānā. idampi saṅghe ratanaṃ paṇītaṃ, etena saccena suvatthi hotu.
yathindakhīlo paṭhaviṃ sito siyā, catubbhi vātehi asampakampiyo. tathūpamaṃ sappurisaṃ vadāmi, yo ariyasaccāni avecca passati. idampi saṅghe ratanaṃ paṇītaṃ, etena saccena suvatthi hotu.
ye ariyasaccāni vibhāvayanti, gambhīrapaññena sudesitāni. kiñcāpi te honti bhusaṃ pamattā, na te bhavaṃ aṭṭhamamādiyanti. idampi saṅghe ratanaṃ paṇītaṃ, etena saccena suvatthi hotu.
sahāvassa dassanasampadāya, tayassu dhammā jahitā bhavanti. sakkāyadiṭṭhi vicikicchitañca, sīlabbataṃ vāpi yadatthi kiñci.
catūhapāyehi ca vippamutto, cha cābhiṭhānāni bhabba kātuṃ. idampi saṅghe ratanaṃ paṇītaṃ, etena saccena suvatthi hotu.
kiñcāpi so kammaṃ karoti pāpakaṃ, kāyena vācā uda cetasā vā. abhabba so tassa paṭicchadāya, abhabbatā diṭṭhapadassa vuttā. idampi saṅghe ratanaṃ paṇītaṃ, etena saccena suvatthi hotu.
vanappagumbe yathā phussitagge, gimhānamāse paṭhamasmiṃ gimhe. tathūpamaṃ dhammavaraṃ adesayi, nibbānagāmiṃ paramaṃ hitāya. idampi buddhe ratanaṃ paṇītaṃ, etena saccena suvatthi hotu.
varo varaññū varado varāharo, anuttaro dhammavaraṃ adesayi. idampi buddhe ratanaṃ paṇītaṃ, etena saccena suvatthi hotu.
khīṇaṃ purāṇaṃ nava natthi sambhavaṃ, virattacittāyatike bhavasmiṃ. te khīṇabījā avirūḷhichandā, nibbanti dhīrā yathāyaṃ padīpo. idampi saṅghe ratanaṃ paṇītaṃ, etena saccena suvatthi hotu.
yānīdha bhūtāni samāgatāni, bhummāni vā yāni va antalikkhe. tathāgataṃ devamanussapūjitaṃ, buddhaṃ namassāma suvatthi hotu.
yānīdha bhūtāni samāgatāni, bhummāni vā yāni va antalikkhe. tathāgataṃ devamanussapūjitaṃ, dhammaṃ namassāma suvatthi hotu.
yānīdha bhūtāni samāgatāni, bhummāni vā yāni va antalikkhe. tathāgataṃ devamanussapūjitaṃ, saṅghaṃ namassāma suvatthi hotu.
我ら、ここに集った諸々の生けるもの〈精霊・鬼神・神々〉は誰であれ、地上のものでも空中のものでも、すべてのものに喜びあれ。そこでまた、心して我が言葉を聞け。
それ故に、すべての生けるものよ、聴け。人類に慈しみを垂れよ。(人々は汝らに)昼夜に供物を捧げる。それ故に、怠ることなく(人々を)守護せよ。
現世や他世におけるどのような富であっても、また天界における勝れた宝であっても、我らの如来に等しいものなど何一つとして存在しない。この勝れた宝は、仏陀において存する。この真実によって幸いであれ。
揺るぎない心〈集中した心の状態.等持〉にある釈迦牟尼は、(煩悩の)滅尽・離欲・不死・妙勝(なる涅槃)を獲得した。その法に等しいものは何も存在しない。この勝れた宝は、法において存する。この真実によって幸いであれ。
最も勝れた仏陀が讃歎した清浄なるものは、「無間の三摩地」と言われる。この三摩地に等しいものは何も存在しない。この勝れた宝は、法において存する。この真実によって幸いであれ。
人が称賛する八輩の者は、これら四双の者である。彼らは、善逝の弟子であり、供養を受けるに値する。この(彼らへの)施与は大きな果報をもたらす。この勝れた宝は僧伽において存する。この真実によって幸いであれ。
堅固な心をもってゴータマの教えに従い、愛欲がなく、(証すべき境地を)獲得して不死に入り、代償を払うことなく得た平安を享受している。この勝れた宝は僧伽において存する。この真実によって幸いであれ。
あたかも城門の外で大地に据え付けられた柱が、四方からの風に微動だにしないように、聖なる真理を確かに知見する善き人も(煩悩によって動揺することが無く)同様である、と私は言う。この勝れた宝は僧伽において存する。この真実によって幸いであれ。
深遠なる智恵ある人によって善く説かれた、聖なる真理を明らかに知る者達〈預流の境地に至った者ら〉は、たとえ大いに放逸に陥ることがあったとしても、第八の生を受けることがない。この勝れた宝は僧伽において存する。この真実によって幸いであれ。
彼が(正しい)知見を獲得したならば、三種の事柄は自ずから捨て去られる。(「我」は実在すると見る)有身見と(三宝や修行、輪廻、縁起法などへの)疑と(牛や犬などと同様の生活を送る等の戒が解脱の因であるとする見方の)戒禁(の偏執)とである。その他(の見解・煩悩)もまた然り。
彼は(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅という苦しみ多大なる)四悪趣(に陥ること)から自由になり、(母を殺し、父を殺し、阿羅漢を殺し、仏陀の身体から流血させ、僧伽の和合を破り、異教徒の教えに従う、という)六つの重罪を犯し得ない。この勝れた宝は僧伽において存する。この真実によって幸いであれ。
たとえ彼が、身体によって、言葉によって、あるいは心によって何か悪しき行いを為したとしても、彼はそれを隠すことが出来ない。隠し得ないことを「足跡〈往古の賢者たちの足跡. 涅槃〉を見た者」〈釈迦牟尼〉は説いた。この勝れた宝は僧伽において存する。この真実によって幸いであれ。
譬えば、夏の月始めの暑さにおいて、森の茂みでは梢に花が咲くように、涅槃へと趣く最上の利益のために、尊い法を(仏陀は)説いた。この勝れた宝は仏陀において存する。この真実によって幸いであれ。
尊きものを了知し、尊きものを与え、尊きものをもたらす、無上の人が尊い法を説いた。この勝れた宝は仏陀において存する。この真実によって幸いであれ。
古きものはすでに尽き果て、新しきものはもはや生じることはない。未来の生存に心が執着することもない。再生をもたらす種子を滅ぼし、それが成長することを欲しない彼ら賢者は、あたかも灯火のように消え去る。この勝れた宝は僧伽において存する。この真実によって幸いであれ。
我ら、ここに集った諸々の生けるものは誰であれ、地上のものでも空中のものでも、神々や人々とが敬うこのように成就した仏陀を、礼拝しよう。幸いであれ。
我ら、ここに集った諸々の生けるものは誰であれ、地上のものでも空中のものでも、神々や人々とが敬うこのように成就した法を、礼拝しよう。幸いであれ。
我ら、ここに集った諸々の生けるものは誰であれ、地上のものでも空中のものでも、神々や人々とが敬うこのように成就した僧伽を、礼拝しよう。幸いであれ。
日本語訳:Ñāṇajoti
bhūta. 有る者、存在する者。ここでは特に神々・鬼神・精霊の類、いわゆる天界の存在者が意図されている。▲
mānusiyā pajāya. ▲
metta. 「安楽であれ」との思い。仁、優しさ、親しみの情。▲
rakkhatha. rakkhati(護る)の命令形(Imperative)。▲
idha vā huraṃ vā. この世界や、あるいは他の世界において。ここでの「他世」とは未来の世界であり、「後世」すなわち死後にまた再び生まれかわった際の世界の意。仏教はその始めから生死輪廻を大前提としている。▲
vitta.▲
ratana. 貴重品、宝石。▲
etena saccena suvatthi hotu. 真実(sacca)には物事を動かす力がある、真実なる言葉はそれが真実であるが故に事象を変える力をもつという思想、その確信による言。▲
samāhita. 集中して揺るぎない心の状態。漢訳では「等持」。samādhi(三昧・三摩地)に同じ。▲
sakyamunī. 釈迦族(sakya)の聖者(muni)。牟尼はmuniの音写。いわゆるゴータマ・ブッダの異称。▲
khaya. ▲
virāga. vi+rāgaで愛欲からの離脱.▲
amata. a+mataで不死。甘露と漢訳される。神々に長寿をもたらす飲料だと言われ、仏教では転じて生死を離れた涅槃の境地を指す。いわゆる阿弥陀はこの語のサンスクリットamṛtaの音写。▲
paṇīta. 優れた(もの)、美味な(もの)。▲
samādhimānantarika. 間をおかず、たちまちの(目的の境地に達し得る)三摩地。あるいはその三摩地に至るための術。三摩地とはsamādhiの音写で、三昧とも音写され、定などと漢訳される。先のsamāhita(等持)と同義。▲
puggalā aṭṭha. 八つ(八種)の人。仏教における聖者の境涯には四段階あり、その一段階ごとに向と果とがあるため、八種の聖者があるとされる。その四段階とは預流・一来・不還・阿羅漢で、阿羅漢が仏弟子として達しうる最も高位の境涯。これを一般に「四双八輩」という。▲
sugata. 善く(su)+行った(gata)。善く(涅槃・彼岸に)達した者。仏陀の異称、讃えられる徳の一つ。▲
sāvaka. (教えを)聴く者。大乗の立場からしばしば小乗の異称として用いられるが、原義はあくまで「仏陀の教えを聴く者」すなわち仏弟子であって、これに大も小もない。▲
dakkhiṇeyya. ▲
gotamasāsana. ▲
laddhā mudhā nibbutiṃ bhuñjamānā. laddhā mudhā「何らの代価を払うことなく得る」。▲
ariyasaccā. 四聖諦。▲
gambhīrapañña. ここでは仏陀の意。▲
kiñcāpi te honti bhusaṃ pamattā,. 四双八輩の最初である預流に達したならば、それは「聖なる真理を明らかに知る者」であって仏教の聖者とされるけれども、未だいくらかの煩悩があって過ち(たとえば「放逸に陥ること」)を犯すことがある。▲
na te bhavaṃ aṭṭhamamādiyanti. 預流に至った者は、再び生死流転することがあるけれども、しかしそれも七度の転生する間に必ず阿羅漢果に達する、とされる。故に一度、聖者の流れに預かった(預流)者は「第八の生を受けることがない」。この境地に至ることを、大乗では(その位置づけには異なりはあるものの)不退転(阿鞞跋致 / avaivartika)という。▲
dassana. ここでは特に「聖なる真理(四聖諦)」への知見。それを言葉上でなく、たしかに真理であると確信した知見。▲
sakkāyadiṭṭhi. ▲
vicikicchita. vicikicchati(疑う・ためらう)の過去完了。特に四聖諦に対する疑惑。vicikicchāに同じ。▲
sīlabbata. sīla+vata(>bata). 戒(習慣・道徳)と誓約(宗教的制約・修行)。ここでは特に涅槃に達することに資することがない、誤った道徳と無意味な誓約・修行の意。
いわゆる「仏教の戒律」について理解する際によくよく注意すべきは、まず戒(sīla)と律(vinaya)、そしてしばしば同一であると誤解されている戒と学処(sikkhāpada)とが実は異なり、また戒と誓約(vata/[S].vrata)とが全く異なることである。▲
catūhapāya. 地獄・餓鬼・畜生・修羅の四種の苦しみ多大なる生命のあり方(趣)。▲
chaccābhiṭhānāni. 仏教において最も深刻な罪となる六種の行為。①母を殺す。②父を殺す。③阿羅漢を殺す。④仏陀を傷つけ流血させる。⑤僧伽の和合を乱す。⑥異教徒の教えに追従する。一般的には最後の⑥を除いた五種の行為をもって五逆罪という。これらを犯した者は現世では出家することが出来ず、したがって阿羅漢になることも出来ず、また来世は地獄に長く堕すことが必定であるといわれる。▲
abhabba so tassa paṭicchadāya,. 預流に達した者がなんらか過ちを犯し、さらにそれを他に明らかに告白しなかったとしても、その業果が長く潜むことはなく速やかにその者の身心に現れる。▲
khīṇaṃ purāṇaṃ. 古いもの(purāṇa)とは、過去世あるいは現世における過去において為した業。業はしばしば日本人には否定的意味をもって耳に響くかもしれないが、善いも悪いも含めたものであり、人は善い業の果報によって聖者にもなりえる。善業の功徳、その果報として聖者になるが、その果報はそこに達した時点で尽きている。▲
nava natthi sambhavaṃ. ここでの新しいもの(nava)とは、来世における苦しみの生存を生じさせる因となる業。▲
nibbanti dhīrā yathāyaṃ padīpo.. 仏陀や阿羅漢など解脱した者は、その身体の寿根が尽きて死に至れば、何処へともなく消え去って再び生まれることはない。たとえば灯明が灯芯と油や蝋そして空気があってこそ灯明たり得、そのいずれかが尽きれば火が消えるように。▲
tathāgataṃ devamanussapūjitaṃ, buddhaṃ. ここでのtathāgataは如来あるいは如去と訳さず、「この(『ラトナ・スッタ』で説かれた)ように成就した」としなければ意味が通らなくなる。以下、dhamma(法)とsaṅgha(僧伽)についても同様。▲