Namo tassa Bhagavato Arahato Sammāsambuddhassa.
Namo tassa Bhagavato Arahato Sammāsambuddhassa.
Namo tassa Bhagavato Arahato Sammāsambuddhassa.
阿羅漢であり、正等覚者たる、かの世尊を礼拝します。
阿羅漢であり、正等覚者たる、かの世尊を礼拝します。
阿羅漢であり、正等覚者たる、かの世尊を礼拝します。
Vandanā(Vandana)とは、「挨拶」あるいは「敬意」・「崇敬」・「礼拝」などを原意とするパーリ語で、ここでは仏陀を礼拝する時に用いられる文言で、ここでは礼文と訳しています。
上座部では、仏陀を礼拝する時や経文を唱える時、そしてまた仏典を学習する時、何事かサンガの儀式を行う時などにはほとんど必ずこの帰敬文と併せて三帰依文が共に唱えられます。あるいはまた、仏教に関する書物を著す時にも、その冒頭にこの礼文が記されます。
始めに言う「Namo」とは、漢語で音写されて言うところの「南無」であり、「崇拝・礼拝する」いわゆる「帰依する」ことを意味した言葉です。そして「Namo tassa Bhagavato Arahato Sammāsambuddhassa」を続けて日本語訳すると、「阿羅漢であり、正等覚者たる、かの世尊を礼拝します」となります。
阿羅漢とは、Arahant([S].Arhat )の音写で「(尊敬・供養を受けるのに)値する人」を意味し、漢訳では「応供 」とされています。これはaraha(値する)という語に由来した言葉です。真に尊敬に値する境地に至った人であることからそう呼ばれます。その昔は仏教の聖者に限らず、尊敬すべき苦行者や思想家に対する敬称であったようです。
あるいは、これは仏教における伝統的な解釈の一つとして、「敵(ari)を殺した者(hanta)であることからarahantという」ともされてもいます。その解釈に基づき、漢訳では応供の他に「殺賊 」との訳も付けられています。「殺賊」などと聞くと「何やら穏やかでない」との印象を持たれることでしょう。しかし、ここでいわれる「賊」とは煩悩のことであり、解脱を志す修行者にとって敵である煩悩を残らず成敗した者であるから阿羅漢である、という語源解釈に基づいた訳です。しかし、その語が「穏やかでない」と思われたのは往古の支那でも同様であったようで、あまり殺賊という訳は通用しなかったようです。
阿羅漢とはまた仏陀の敬称の一つ、その徳を讃えていう称の一つとなっています。そしてまた同事に、仏教の伝統的理解に依れば、阿羅漢とは仏弟子として到達できる最高の境地を得た人を示す言葉でもあります。実際、上座部の教学では、仏陀と阿羅漢とは等しいものでなく、それになるための課程も期間も著しく異なるとされています。そして上座部では、人は仏陀になることなど決して不可能とされています。また阿羅漢には、その智慧の深さや徳の高さなどによって三つの別があるとされ、現在の人がなりうるのは、そのうちの最も低い阿羅漢であり、その到達し得る悟り(境地)をPakatisāvaka-bodhi(初因声聞覚)と言います。
次に、正等覚者とはSammāsambuddhaの訳で、Sammā(完全な) + saṃ(正しく・等しく) + buddha(目覚めた者)ということから、そう訳されます。最後の世尊とはBhagavantの訳で、「幸ある者(男性)」という意味の言葉です。無上の悟りに達した幸ある人という、これもやはり敬称です。正等覚者と世尊との称は阿羅漢とは異なり、いずれも仏陀についてのみ用いられる称です。
礼文とは、仏陀とは「幸ある人」であり、「供養するに値する、完全な悟りを得た者」であると敬って礼するための言葉です。
Ñāṇajoti