Pāṇātipātā veramaṇī sikkhāpadaṃ samādiyāmi.
Adinnādānā veramaṇī sikkhāpadaṃ samādiyāmi.
Kāmesumicchācārā veramaṇī sikkhāpadaṃ samādiyāmi.
Musāvādā veramaṇī sikkhāpadaṃ samādiyāmi.
Surāmeraya majja-pamādaṭṭhānā veramaṇī sikkhāpadaṃ samādiyāmi.
私は、生けるものを殺すことを控える学処を受持します。
私は、与えられていない物を我が物とすることを控える学処を受持します。
私は、愛欲における邪な行いを控える学処を受持します。
私は、偽りを語ることを控える学処を受持します。
私は、穀物酒や果実酒など、酔わせ放逸とさせるものを控える学処を受持します。
Pañca sīlaとは、pañca(五つ)のsīla(戒・尸羅)で、五戒を意味します。日本や支那などでもそのまま五戒と言われ、仏教徒としてのもっとも基本的な戒です。
何故にこれが基本的な戒かと言うと、まず三宝に帰依(三帰依)し、そしてこの五戒を受けることによって実質的な仏教徒となるためです。たとえば日本において檀家寺の檀家であること、あるいは何らか新興宗教団体の会員であったとしても、それでは仏教徒とは言えません。「その意味を理解した上で」みずから三宝に帰依する意志を持ち、誰か戒師となる比丘または沙弥から、あるいは自ら独り誓って三帰依文を唱え五戒を受けたならば、それでその人は仏教徒です。
そもそも仏陀は五戒をどのように説かれていたか。その一例は以下のようなものです。
gahaṭṭhavattaṃ pana vo vadāmi, yathākaro sāvako sādhu hoti. na hesa labbhā sapariggahena, phassetuṃ yo kevalo bhikkhudhammo.
pāṇaṃ na hane na ca ghātayeyya, na cānujaññā hanataṃ paresaṃ. sabbesu bhūtesu nidhāya daṇḍaṃ, ye thāvarā ye ca tasā santi loke.
tato adinnaṃ parivajjayeyya, kiñci kvaci sāvako bujjhamāno. na hāraye harataṃ nānujaññā, sabbaṃ adinnaṃ parivajjayeyya.
abrahmacariyaṃ parivajjayeyya, aṅgārakāsuṃ jalitaṃva viññū. asambhuṇanto pana brahmacariyaṃ, parassa dāraṃ na atikkameyya.
sabhaggato vā parisaggato vā, ekassa veko na musā bhaṇeyya. na bhāṇaye bhaṇataṃ nānujaññā, sabbaṃ abhūtaṃ parivajjayeyya.
majjañca pānaṃ na samācareyya, dhammaṃ imaṃ rocaye yo gahaṭṭho. na pāyaye pivataṃ nānujaññā, ummādanantaṃ iti naṃ viditvā.
madā hi pāpāni karonti bālā, kārenti caññepi jane pamatte. etaṃ apuññāyatanaṃ vivajjaye, ummādanaṃ mohanaṃ bālakantaṃ.
さて在家者〈gahaṭṭha〉の行うべきつとめ〈vatta. 義務・誓い・徳行〉を、私は汝らに語ろう。この通りに行う者は、善い声聞〈sāvaka. 教えを聞く者、仏弟子〉である。全き比丘の法〈kevala bhikkhudhamma. いわゆる具足戒〉(を護持すること)は、財を所有する者〈sapariggaha. 妻帯者。ここでは在家者の意〉によっては成し遂げることは出来ない。
生きものを(自ら)殺してはならない。また(他に)殺させてはならない。また他人が殺すのを許してはならない。この世の強い者であれ、怯える静かな者であれ、すべての存在するものに対する暴力を抑えて。
そこでまた、声聞は、それが何であれ、それがどこであっても、与えられていない物を故意に(取ることを)避けよ。(他に)取らせてはならない。(他が)取るのを許してはならない。なんであれ与えられていない物を取ることを避けよ。
非梵行〈abrahmacariya. ここでは特に邪淫。不倫・売買春〉を避けよ。(あたかも)賢者が燃えさかる火坑(を避けるように)。しかしもし、梵行を修めることが出来ないならば、他の妻を犯してはならない。
公会堂に赴いた時でも、集会においても、誰であれ偽り〈musā. 嘘〉を語ってはならない。(他に)語らせてはならない。(他が)語るのを許してはならない。あらゆる虚偽〈abhūta. 不実〉を避けよ。
誰であれこの法〈dhamma. 仏陀の教え〉を受け入れる在家者は、酔わせるもの〈majja〉を飲むことを行ってはならない。(他に)飲ませてはならない。(他が)飲むのを許してはならない。それは畢竟、(人を)狂わせるものであることを知って。
まさに愚者たち〈bālā〉は酔い〈mada〉によって諸々の悪事を行い、また他の人々を酔わせて(悪事を)なさしめる。この不利益〈apuñña〉の元を避けよ。それは愚者の好むところであり、人を狂気へ誘い、迷わせるものである。
Suttanipāta, Cūḷavagga, Dhammikasutta, 395-401 (KN 5.26)
ここで仏陀はいわゆる五戒を、sīla(戒)としてでなく、gahaṭṭha-vattaすなわち「家に在る者のつとめ(義務)」として説かれています。vattaとは、サンスクリットではvrataに該当する言葉で、意志や法・規則・習慣・徳行・誓約などを意味します。ここでは規則や習慣の意であり、平易に「つとめ」と上に訳しています。なお、漢訳では一般にこれを「禁戒」としていますが、それは訳としてあまりに仰々しく、語感としてもひどく誤解を与えるもののように思われます。
五戒を受けることに関して大乗や声聞乗、あるいは宗旨宗派の異なりなどで相違するものではありません。また本来、ただ仏教徒であることに特定の宗派に属することは不可欠ではありません。「釈迦在世に宗派無し」。そもそも仏陀ご在世に、宗旨宗派などありませんでした。そこで仮にもし、「我が宗旨において戒は不要である。あえていうならば『ひたすら信心することが戒』である」などといった主張をするものがあったならば、それは仏教ではない。
上座部では、人としてすべからく保つべきものということから、五戒をして常戒(Nicca sīla )と言い、あるいは敬すべき事柄であるということから、敬法戒( Garudhamma sīla)とも称します。
ところで、上記の五戒を受けるパーリ語の文言においてsīla(戒)という言葉は全く使われず、変わりにsikkhāpadaという語が用いられていることに気づいた人も、あるいはあるかもしれません。sikkhāpadaとは、sikkhā(学び・訓練)+ pada(足・足跡・場所・言葉・原因)で「訓練すべき事柄」・「学ぶべき所」を意味し、故に漢訳では「学処」とされます。
そこで日本の仏教学者や僧職者らにより、sikkhāpada(学処)とsīla(戒)とは同義語であって全く同じ意味である、戒も学処も同じだ、と言われることが非常に多くあります。
これは漢訳仏典ではその両者がしばしば混同して訳され、また往古の支那や日本の律宗の学僧などもそれらをないまぜにした言葉を造って用いてきたため、我々もその異なることに気づくことも出来ず、その違うことを判じ得ないので、「戒と学処は一緒だ」という理解が一般的となったのでしょう。しかしながら、sīlaとsikkhāpadaとは似てはいますが同義ではありません。よって、この二つの語を無闇に混同して用いることは正しくない。
なんとなれば、まずsīlaとは、「習慣」あるいは「道徳」をその原意とする語です。それに対し、sikkhāpadaは前述のとおり「学ぶべき事柄」です。したがって、sīlaとは、sikkhāpadaを日々修めたことによって実現されるべき、いわば理想の状態です。すなわち、sīlaとは目標・指針であって、sikkhāpadaはそれを達成する為の手段・訓練です。
人は何らか学処を受け、それを自ら日々努めて行うことによって「戒」という理想の状態を自ら実現し、体得していきます。そのようなことから、パーリ語などによる受戒の際に用いられる文言ではsikkhāpadaとしてはっきり区別され、sīlaとは言われません。
なお、sikkhāpadaという語はsīla(戒)についてだけでなく、出家のvinaya(律)における諸々の条項においても用いられますが、それは以上の理由に基づいたものです。
したがって、これも厳密に言ったならば、人は誰かに戒を授けることも誰かから戒を受けることも出来ません。受戒と言いながら受けているのは「学処」であって「戒」ではない。戒を得るのはあくまでその後の本人の、学処を保った日頃の行いの中においてのことです。これは後述する、「五戒の受戒作法」における言葉の中でも確認することが出来ます。そこではいわゆる戒師から、「Tisaraṇena saha pañcasīlaṃ dhammaṃ sādhukaṃ {surakkhitaṃ} katvā appamādena sampādetha(三帰依と共に五戒の法をよく{護持して}行い、怠らずに励んで目的を果たせ)」と勧誡されるのです。
以上のことから、戒に関していえば、それを誰から受けるか、誰から受けたかなど全く問題になりません。例えば、五戒であれ八戒であれ、それを誰か非常に高名な僧から受けたからといって、それは非常に名誉なことではあるでしょうけれども、そこに本質的価値はありません。仮に、世界的に有名なダライ・ラマ14世から五戒を受けたとしても、それで何か特別な意味があることはなく、せいぜいが(実に詮無いことですけれども)他人に自慢したり、少しばかりの高揚感を味わえたりするくらいのことです。もっとも、それがきっかけでその本人が真剣に学処を修めるようになった、というのであれば、意味が全くないとは言えなくなるでしょうけれども。
(より詳しくは、別項「戒とは何か」を参照のこと。)
ついでにいうと、これは大乗の菩薩戒でも同様であって、誰から受けたかなどに意味はなく、その故に五戒も八斎戒そして菩薩戒もまた、誰か他者からでなく自らが誓って受ける「自誓受戒」ということが可能とされます。自誓受戒が可能とされるのはあくまで五戒・八斎戒および菩薩戒に限られますが、その理由は上に述べたように、誰から受けたかなど問題ではないことに依ります。
ここには、「人は他を救うことは出来ない」・「何者も自身を救うことは出来ない、ただ自身を除いては」という、仏教の根本的な命題が現れています。それはまた仏教が真理として説く業報思想、因果応報の理の現れでもあります。
とはいえ、世間での一般的表現としては「戒を受ける」とか「戒を授ける」といわれ、菲才も日頃当たり前にそのように表現して、上にもそのように言ったばかりです。しかし、戒と学処とは、普段は同義の如くに慣用表現として普段は用いていたとしても、以上に述べたようにその実は似て非なるものです。これは仏教の修行において徹頭徹尾、最も重要であって忘れてはならない点の一つです。
では五戒の五とは何か。それはすでに上の五戒の文言で明瞭であろうとは思いますが、あらためて表にして示したならば以下の通りとなります。
No. | 学処 | 戒相 |
---|---|---|
1. | 不殺生戒 | いかなる生き物も、故意に殺傷しない。 |
2. | 不偸盗戒 | 与えられていない物を、故意に我が物としない。 |
3. | 不邪淫戒 | 不適切な性関係を結ばない。不倫・売買春しない。 |
4. | 不妄語戒 | 故意に偽りの言葉を語らない。 |
5. | 不飲酒戒 | 穀物酒や果実酒など、人を酔わせ放逸にさせる物を摂取しない。 |
補足ながら、第五番目の戒(学処)は、いかなる酒であってもこれを飲まないというものであり、故に「不飲酒戒」と言われるわけですが、しかし酒に限らず、麻薬など「人を物理的に陶酔・酩酊させるもの全般」を戒めたものです。
なんらかのきっかけで仏陀の教えに触れ、その教えに尊い価値のあることを見出したならば、尊敬し得る僧侶のもとを訪れて、三宝に帰依し、併せて五戒を受けることを勧めます。誰か比丘から五戒を直接受け、そしてその説法を聴いて、素朴な疑問や不審な点があれば問うなどして理解するのがもっとも良いのですが、必ずしも五戒は僧侶から受けなければならないものではありません。
もし自身がそのような僧との縁が無いのであれば、仏像や仏塔などの前において三宝に帰依することを表明し、自ら誓って五戒を受けることも可能です。五戒は、それをどのように受けたかということは問題でなく、それを現実生活の上で如何に実行していくかが肝心です。
五戒を守らんとして生きること。戒を実現しようと勤めること。それはこの娑婆にあっては、それがたった五つの事柄であっても案外難しいものです。守りたくても守れない時もあり、過ちを犯してしまう時もある。社会を生きていく上で色々あることでしょう。人それぞれの生涯にもまた山あり谷あり。良い時もあれば悪い時もあって一筋縄ではいきません。五戒全てを完全とはいかなくとも、けれども出来得る限り戒を保とうと、日々勤め続けることにも大きな意味があります。
そもそも、先に述べたように仏教における戒、その原語であるsīlaの意は、「道徳」あるいは「良い習慣」であり、一般に想起されるであろう宗教的戒律などといったものではありません。
たとえば、ユダヤ教やキリスト教における根本的な戒律として「十戒(The Ten Commandments)」というものがあります。いわゆる「モーゼの十戒」です。その中には、五戒と同様に「盗むことなかれ」であるとか「人を殺してはならない」といったものもありますが、「主は唯一の神である」だとか「偶像を作ってはならない」、「神の名をみだりに唱えてはならない」といったことが先ず挙げられています。
それに対し、仏教の戒(学処)には「私以外を信じるな」等といった類の条項などなく、同じ戒という語が用いられ表現されるものでも、そもそもその性質を全く異にしたものです。
仏教の戒は、お神様ならぬ「おブッダ様の言いつけであるから守れ」であるとか、「ホトケサマとの約束であるから保て」というものでなく、また「仏陀だけを拝め」であるとか「仏陀以外を信じるな」などといった人の思想・信条を縛り付けるものでもありません。そもそもキリスト教的な意味での「拝め」であるとか「信じろ」という考え方が仏教には基本的になく、したがってそれが戒とされることは当然ありません。
ユダヤ教などにおけるそれはCommandment、いわば神からの命令であり、あるいは神との契約条項です。そこで、仏教の戒とは、仏陀の命令であるとか契約内容などではありません。仏陀が世に出ようが出まいが変わらずある、人の世における普遍的道徳、人がよく生きるための、自らを苦しめずまた他を苦しめないための徳目であり、その行動指針です。
人はその行いによって善くも悪くも変わり得るものです。あらゆるものは時々刻々と変化し留まることはありません。けれども、人であれ動物であれ、我々は以前の行動に流され、あるいは以前の行動をまた繰り返そうとするものです。その行動の良し悪しに関わらず、一旦習慣化してしまうと、これを用意に変えることが出来なくなり、あるいは変える気すらもなくなってしまいます。
そこでそのような自分を顧みたとき、果たして変わり得るものであるかと疑わざるを得なくなるのが人情というものでしょうか。自分の心、感情というものがコロコロと変化するのは解るとして、しかし人格まではどうであろうか、と。
いや、変わり得ます。必ず変わり得る。
けれども、それは決して容易なことではありません。人は習慣性の動物です。仏教的に言えば、自分が作り出した業という暴風に背中を押され、業という濁流に足を取られて生けるものです。これは突如としてあっという間に変えられるものではありません。しかし、それに抗し得る。「自分を変えたい」・「幸せになりたい」と強く思い願うのであれば、その暴風・に抗し得るし抗さなければなりません。たとえそれまでの人生で多く悪を為したとしても、善く変わることは可能です。戒という徳目を基準として受け、それを保たんと日々に勤め励んで生きるならば。
その初門が五つの学処を受けること、五戒の受戒であり、それを指標として努め生きる人、それが仏教徒です。
以下、具体的にどのように比丘から五戒を受けるかの正式な次第を、パーリ語とその日本語訳の対訳によって示します。国によってその前後の文言に若干の相異がありますが、概ねその授戒の構成は、①懺悔・②乞戒・③礼仏・④三帰・⑤受戒・⑥廻向・⑦勧誡・⑧随喜となっています。
おそらく、仏陀ご在世の当時は今のように定型句化など整備されたものでなく、より素朴で簡潔なものであったろうと思われます。しかし、以下のように定式化された授戒の次第はよく考えられた合理的なもので、南アジアや東南アジア諸国ばかりでなく、今や西洋においても一般に行われています。
①【受者】
Okāsa, Okāsa, Okāsa!
Dvārattayena kataṃ sabbaṃ aparādhaṃ khamatha me bhante.
Dutiyampi dvārattayena kataṃ sabbaṃ aparādhaṃ khamatha me bhante.
Tatiyampi dvārattayena kataṃ sabbaṃ aparādhaṃ khamatha me bhante.
②【受者】
Ahaṃ bhante tisaraṇena saha pañcasīlaṃ dhammaṃ yācāmi, anuggahaṃ katvā sīlaṃ detha me bhante.
Dutiyampi ahaṃ bhante tisaraṇena saha pañcasīlaṃ dhammaṃ yācāmi, anuggahaṃ katvā sīlaṃ detha me bhante.
Tatiyampi ahaṃ bhante tisaraṇena saha pañcasīlaṃ dhammaṃ yācāmi, anuggahaṃ katvā sīlaṃ detha me bhante.
【戒師】
Ya mahaṃ vadāmi taṃ vadetha.
【受者】
Āma bhante.
③《復唱》 *戒師と同時に唱えてはいけない。以下同。
Namo tassa Bhagavato Arahato Sammāsambuddhassa.
Namo tassa Bhagavato Arahato Sammāsambuddhassa.
Namo tassa Bhagavato Arahato Sammāsambuddhassa.
④《復唱》
Buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi.
Dhammaṃ saraṇaṃ gacchāmi.
Saṅghaṃ saraṇaṃ gacchāmi.
《復唱》
Dutiyampi Buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi.
Dutiyampi Dhammaṃ saraṇaṃ gacchāmi.
Dutiyampi Saṅghaṃ saraṇaṃ gacchāmi.
《復唱》
Tatiyampi Buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi.
Tatiyampi Dhammaṃ saraṇaṃ gacchāmi.
Tatiyampi Saṅghaṃ saraṇaṃ gacchāmi.
【戒師】
Tisaraṇagamanaṃ paripuṇṇaṃ.
【受者】
Āma bhante.
⑤《復唱》
Pāṇātipātā veramaṇī sikkhāpadaṃ samādiyāmi.
《復唱》
Adinnādānā veramaṇī sikkhāpadaṃ samādiyāmi.
《復唱》
Kāmesumicchācārā veramaṇī sikkhāpadaṃ samādiyāmi.
《復唱》
Musāvādā veramaṇī sikkhāpadaṃ samādiyāmi.
《復唱》
Surāmeraya majja-pamādaṭṭhānā veramaṇī sikkhāpadaṃ samādiyāmi.
⑥《復唱》
Idaṃ me punnaṃ āsavakkhayāvahaṃ hotu.
《復唱》
Idaṃ me sīlaṃ nibbānassa paccayo hotu.
⑦【戒師】
Tisaraṇena saha pañcasīlaṃ dhammaṃ sādhukaṃ (surakkhitaṃ) katvā appamādena sampādetha.
【受者】
Āma bhante.
⑧【戒師・受者】
Sādhu, Sādhu, Sādhu.
①【受者】
聴しを!聴しを!聴しを!
(身体と言葉と心の)三種の門によって為された我が罪を赦したまえ、大徳よ。
二たび、三種の門によって為された我が罪を赦したまえ、大徳よ。
三たび、三種の門によって為された我が罪を赦したまえ、大徳よ。
②【受者】
大徳よ、私は三帰依と共に五戒の法を請います。どうか(我が願いを)受け入れて我に戒を許したまえ、大徳よ。
二たび、大徳よ、私は三帰依と共に五戒の法を請います。どうか(我が願いを)受け入れて我に戒を許したまえ、大徳よ。
三たび、大徳よ、私は三帰依と共に五戒の法を請います。どうか(我が願いを)受け入れて我に戒を許したまえ、大徳よ。
【戒師】
私が言うことを復唱しなさい。
【受者】
はい、大徳よ。
③《復唱》 *戒師と同時に唱えてはいけない。以下同。
阿羅漢であり、正等覚者たる、かの世尊を礼拝します。
阿羅漢であり、正等覚者たる、かの世尊を礼拝します。
阿羅漢であり、正等覚者たる、かの世尊を礼拝します。
④《復唱》
私は、仏陀に帰依します。
私は、法に帰依します。
私は、僧伽に帰依します。
《復唱》
二たび、私は、仏陀に帰依します。
二たび、私は、法に帰依します。
二たび、私は、僧伽に帰依します。
《復唱》
三たび、私は、仏陀に帰依します。
三たび、私は、法に帰依します。
三たび、私は、僧伽に帰依します。
【戒師】
三帰依は完成された。
【受者】
はい、大徳よ。
⑤《復唱》
私は、生けるものを殺すことを控える学処を受持します。
《復唱》
私は、与えられていない物を我が物とすることを控える学処を受持します。
《復唱》
私は、愛欲における邪な行いを控える学処を受持します。
《復唱》
私は、偽りを語ることを控える学処を受持します。
《復唱》
私は、穀物酒や果実酒など、酔わせ放逸とさせるものを控える学処を受持します。
⑥《復唱》
願わくは、この功徳が諸々の煩悩の滅尽をもたらさんことを。
《復唱》
願わくは、この戒が涅槃の因とならんことを。
⑦【戒師】
三帰依と共に五戒の法をよく(護持して)行い、怠らずに励んで目的を果たせ。
【受者】
はい、大徳よ。
⑧【戒師・受者】
善い哉!善い哉!善い哉!
なお、日本には誤解をしている人が非常に多くあるようなので補足しておきますが、受戒をするのに「戒壇」などという施設や特殊な区域は必要ありません。それが五戒であれ八斎戒であれ、あるいは見習い出家である沙弥や沙弥尼になるための十戒、さらには大乗で説かれる菩薩戒であっても、戒壇でその授受をする必要など全くないのです。
したがって、いずれか戒壇で受けないとそれらの受戒が正式・正統なものとならないということはありません。戒壇での受戒が必須とされるのは、ただ比丘になるための具足戒を受ける際だけです。もっとも、五戒であっても受戒の際には、戒師のために一段高い座を設け、受者は戒師より一段低い位置にあって、共に坐った状態で戒を受ける必要があります。どちらかが立ち、また一方が坐っているという状態であってはなりません。これは戒を尊び、三宝の一角を担う僧伽の成員たる比丘を尊ぶための礼式です。宗教的にそうせよというのではなく、それが仏教の本拠であった印度における礼法であり、それをまた踏襲して行う習い、いわゆる伝統となっているためです。
五戒は生涯にただ一度受ければそれで良いというものでなく、寺に参拝した際や比丘を食事の招待に招いた時など折に触れて幾度も受けるものとなっています。それが日常的に行われているためにその文言は、僧俗共にパリッタと同様に諳んじられています。そのようなことから、日本においても上座部の伝統によって受戒を望む人は、以下のパーリ語の文言とその意味を一通り記憶しておくことを勧めます。
Ñāṇajoti