Buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi.
Dhammaṃ saraṇaṃ gacchāmi.
Saṅghaṃ saraṇaṃ gacchāmi.
Dutiyampi Buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi.
Dutiyampi Dhammaṃ saraṇaṃ gacchāmi.
Dutiyampi Saṅghaṃ saraṇaṃ gacchāmi.
Tatiyampi Buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi.
Tatiyampi Dhammaṃ saraṇaṃ gacchāmi.
Tatiyampi Saṅghaṃ saraṇaṃ gacchāmi.
私は、仏陀に帰依します。
私は、法に帰依します。
私は、僧伽に帰依します。
二度、私は、仏陀に帰依します。
二度、私は、法に帰依します。
二度、私は、僧伽に帰依します。
三度、私は、仏陀に帰依します。
三度、私は、法に帰依します。
三度、私は、僧伽に帰依します。
Saraṇataya とは、その原意はsaraṇa(保護・救護・避難)とtaya(三つ組)で、三宝を拠り所として帰依することを表明する、いわゆる三帰依文です。これをまた Tisaraṇa gamanaとも言います。
三宝の三とは、仏陀(仏)と、仏陀の教え(法)と、仏陀の教えに従って出家した比丘・比丘尼の集い(僧伽)との三つを言うもので、それが仏教徒にとってかけがえのない尊いもの、この世でもっとも価値あるものであるということから「三宝」といいます。
一昔前の日本では「南無三」という言葉を、危急の時に口にする人が少なからずあったようです。南無三とは、三帰依文を簡略化した「南無三宝」のさらに略ですが、人が何か危難の迫る時、あるいは人が捨て鉢な行動に出る時などに、あらためて三宝に帰依して何とかその危機を回避しようと用いられた言葉です。しかし、今はこのような言葉を口にする人も絶えてなくなったようです。
三帰依文は、その信奉する教えが大乗であれ小乗であれ、いかなる宗旨宗派に属していようとも、仏教徒であるならば必ず唱える文言です。人が仏陀の教えの真であろうと考え、仏教徒になることを決意した時、その言葉の意味を理解した上で仏像の前あるいは僧の前にて三帰依文を唱え、さらに次項に示す五戒を受けたならば、その人は仏教徒となります。したがって、なにより先ず三帰依をぜずしては仏教徒たりえません。たとえ伝統・新興を問わず、仏教系宗教団体の信者や会員などとなったとしても、どこかの檀家寺の檀家であったとしても、それでは仏教徒となったことにはなりません。
ところで、不佞がどこかの寺院などに講演や勉強会などに招かれ、そこでお話をする際、そこに集まった方々に必ず質問することがあります。「このお寺の檀家である人はおられますか?」と。すると、そこに参加している人の多くが、そりゃそのお寺での話ですから、そのほとんどが手を挙げられます。そこで次に「では、ご自身が仏教徒だと思う人。仏教を意識的に信じているという人はありますか?」と尋ねると、その手を挙げていた人のほとんどが手を下げます。檀家である以上、そして日本文化の根底に仏教があって、その生活にも必ず何らかの関わりがあるため、多少なりとも仏教に興味はある。けれども、自分は特に仏教を信じているとは思わないし、今のところなろうとも思わない、そもそも信じる必要がない、というのが大体の人の考えのようです。
寺の檀家であるために常日頃その宗派で用いている三帰依文は唱えているし(唱えさせられている?)、なんなら諳んじてすらいるという人も多くあります。三帰依文を唱えなければ仏教徒ではない、などと言っても、そのように、三帰依文を日頃唱えているけれども私は仏教徒では無い、という人が日本に多くあるのも事実です。
そこで、「皆さん、その意味がわかった上で三帰依文を唱えると、宗旨など関係なく仏教徒ですよ」といってその意味を説明し、「唱える唱えないはあくまで自由です」と言って、改めて帰敬文や三帰依文をその講演などでの本題に入る前に唱えます。すると、そこに集まった人はだいたいその皆が一緒に唱えだす。そこで最後に再度、「自分が仏教徒だという人はありますか?」と尋ねてみると、やっぱりほとんど手を挙げないでフフフと笑う。実に面白いことなので、ついでに私もハハハと笑う。寺の檀家である、ということはそういうことであるのでしょう。
一方、最近は洋の東西を問わず、仏陀やその像なぞ個人崇拝であり偶像崇拝であるから礼拝しない、僧侶も胡散臭いし生臭いから尊敬しない、ただ自分が理解出来る範囲の「カガクテキな法」をこそ尊んで帰依するのだ、というゴーリテキな自称仏教徒もしばしば見られます。日本の僧職者が胡散臭くて生臭いのは社会常識となって如何ともし難く、もはや人がどうにか出来るものではなくなっているので、そう思われるのも止むを得ないとは思います。もっとも、日本仏教には僧伽が疾うの昔に滅んでしまって無いため、実は三宝の僧に「日本のおボーさん」は入っていません。すなわち、日本のおボーさんは正しく仏教の僧ではない。
それを言うとだいたい(日本のおボーさんから)非常に嫌な顔をされるため、言わないほうが良いことであるのですけれども、実際の処、日本のおボーさんで職業として僧侶だとは思っていても、自分が僧宝の範疇にある僧だと思っている者は極少ないように思います。仮にもし、「いやいや、自分も僧宝の一員であって紛れもない出家であり、僧である」と考えている人があったならば、その人は仏教を一から勉強し直さなければならない。そう言われたならば、たちまちまた不愉快になることでしょうが、しかしそれは紛れもない事実であります。
いずれにせよ、自らが仏教徒であるというならば、必ず三帰依をしなければなりません。しかし、それはただ形式的にでなく本心からしなければ意味はない。すでに仏教徒である人も、日々に三帰依文を唱え、三宝への信仰を新たにします。故に、三宝に帰依することは、これは出家者も同様ですが、仏教徒である以上は必須です。そしてまた、三帰依をした上で五戒を受けたならば、ただしく仏教徒である、ということになります。
折々には八斎戒を受けて行うことも推奨されますが、それは人それぞれの立場や能力、境涯が異なりますので、実際にどうするかはあくまで個人の判断に委ねられています。それは五戒についても同じで、五戒を受けてもそれを実際に守るか守らないかは、その人の意志によります。
なお、ここでは上座部におけるパーリ語での常用経典などを紹介しているので、当然ながら上に挙げた三帰依文もパーリ語によるものです。しかし、三帰依は、それが漢語やチベット語であっても三宝に対して信仰を表明する文言でありさえすれば良いものです。よって、いずれかの言語に拘泥する必要はなく、必ずパーリ語で唱えなければならない、ということはありません。
といっても、すでに伝統的に用いられてきたものがあるならば、わざわざ自己流のものを創作したり、敢えて異なる文化圏のものを用いたりせず(それらは往々にして滑稽な、珍妙で不自然なものとなってしまうため)、伝統的なものに従って唱えれば良いでしょう。
以下、参考までに、仏教が信仰されてきた主要な国の諸言語で用いられてきた、あるいは用いられている伝統的な三帰依文を挙げておきます。また、最近は西洋でも仏教徒が増加傾向にあって、彼らの中にはパーリ語やサンスクリット語より自分たちが意味のわかる英語でこそ唱えたがる者も一部ありますので、一応ながら英文の三帰依文も併せて挙げます。
いずれにせよ、これらは必ず三返繰り返し唱えることがインド以来の伝統であり、仏教の習わしです。
弟子某甲 盡未来際 帰依仏 帰依法 帰依僧
『長阿含経』・『雑阿含経』にある三帰依に「弟子某甲 盡未来際」を付加した三帰依文
帰依仏 両足尊 帰依法 離欲尊 帰依僧 衆中尊
『十誦律』・「根本有部律」等に基づく三帰依文
自帰依仏 当願衆生 体解大道 発無上心
自帰依法 当願衆生 深入経蔵 智慧如海
自帰依僧 当願衆生 統理大衆 一切無礙
智顗『法華三昧懺儀』に基づく三帰依文
Buddhaṃ śaraṇaṃ gacchāmi.
Dharmaṃ śaraṇaṃ gacchāmi.
Saṃghaṃ śaraṇaṃ gacchāmi.
Bla-ma la kyabs-su-mch'iho.
Sans rgyas la kyabs-su-mch'iho.
Chos la kyabs-su-mch'iho.
Dge-'dun la kyabs-su-mch'iho.
*チベットでは一般に、三宝に師(ゲンドゥン)を加えて四帰依とされる。
I take refuge in the Buddha.
I take refuge in the Dharma.
I take refuge in the Sangha.
I go for refuge in the Buddha.
I go for refuge in the Dharma.
I go for refuge in the Sangha.
Ñāṇajoti