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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

上座部 諸経要集

パリッタと儀礼

聖水儀礼 ―除災と廻向

南アジアおよび東南アジアの上座部を信仰してきた国々では、パリッタを読誦するのに併せて様々な儀礼を行います。

その一つに聖水儀礼(Parittodakaパリットーダカ)があります。これは比丘や沙弥などを家に招いて食事の接待をする際、まずパリッタを僧に読誦してもらうのが一般的ですが、その読誦の前後もしくはその最中、用意していた鉢(あるいは壺や水瓶)になみなみと注がれた水を、青葉の付いた枝などにて信者にバシャバシャと盛大に振り散らすものです。

では上座部においてこの聖水儀礼が行われる、その根拠は何か。それは、仏陀ご在世の当時、疫病が流行し饑饉に見舞われていたヴェーサーリーに釈尊が招かれ、その病を収束させたという話です。例えばDhammapadaダンマパダの注釈書、Dhammapada-aṭṭhakathāダンマパダ・アッタカターに依れば、釈尊に指示されたアーナンダが、城塞都市であるヴェーサーリーの城壁の間にあって仏陀の鉢に満たした水を振り撒きつつ、Ratana-suttaラタナ・スッタ(『宝経』)を終夜、それをまた一週間に渡って唱えたことによって疫病(の原因となっていた悪鬼)が消え去った、とされています。

この話は聖水儀礼が行われるもといとなっているのと同事にパリッタを病気平癒のためなどに唱えることの根拠もなっており、パリッタをしていわゆる「真実語である」とし、また「真実語には事象を変化させる力がある」とすることの根拠の一つにもなっています。

(余談ながら、パリッタに伴う聖水儀礼は、チベットや日本の密教に伝わる灑水加持しゃすいかじ(洒水加持)と、どちらもインドにおけることですからその源泉ルーツは同一でしょうけれども、もちろん直接の根拠は同じではなく、しかし非常によく似た儀礼となっています。日本で行われる灑水加持は、水を実際に降り注がせることはまずなく、水に少しばかり浸した散杖さんじょうと言われる細長い木の棒や千茅を切り揃えて束ねたのを、ゆらゆらと三度ばかり空中で往復させるだけとなっています。これは、それが朝廷や貴族などを対象に行わることが多いものであったことなどから、密教が本来有したその荒々しさなどを削り取り、その動きを多分に儀礼的・貴族的なものとしていった結果です。空海が密教をもたらした平安前期など当初は、実際にバシャバシャとまではいかないものの、それなりに水を散らしていたようです。)

あるいは同じく水を用いた儀礼として、これは在家信者が行うものであって出家者が行うことはありませんが、盆の上に置かれた小皿と水飲みや小さな水瓶を用いるものがあります。比丘たちによってパリッタが読誦され終わった際その儀礼の締めくくりとして特定の偈頌が唱えられている間に、施主が一人で、あるいはその家族などと共に水飲みや水瓶を持ち、その水を小皿などに少しづつ垂らしていきます。

これをAnumodanaアヌモーダナとパーリ語で言いますが、その意は「祝福」あるいは「感謝」であり、日本で言うところの廻向えこうに近い儀礼です。その功徳が自分だけではなく、家族・親族・ゆかりのある物故者、そして神々(精霊)など生きとし生けるものすべてに行き渡って満ち溢れるようにと願いながら、施主は小さな瓶に入れられた水を、小さな椀や小皿などに溢れるまで垂らすのです。

ビルマにおける仏教徒は、このアヌモーダナについて、自分の家族・友人たちが現世でそのような近しい関係にあるのは、宿世において共にこのアヌモーダナを行ったからこそのことである、と一般に理解しています。アヌモーダナをビルマ語では「yay zet chaイェー・ゼッ・チャ」といい、直訳すると「水落とし」となりますが、彼らは現世で互いに縁があったのは「水落としを共にやったからだ」とよく言い合います。ビルマ人にとってアヌモーダナを共に行うということは、いわゆる廻向以外にも結縁けちえんという大きな意味の込められた儀礼となっています。

また、これはタイやカンボジア、そしてビルマでも見られないラオス独自の習慣であったと思いますが、アヌモーダナは毎朝の托鉢の際にも路上で行われています。ラオスではそれが常食であるため托鉢の際に僧に施されるのは「もち米」で、小さい円筒形の竹籠に入れて蒸し炊いたばかりのいまだ非常に熱いのを、信者たちはこらえながら手ずから団子状にちぎって比丘らの鉄鉢に捧げ、また副食・惣菜の類も併せて施されます。

それぞれの施主から食が施されたならば、それを受けた比丘や沙弥は一定の偈頌をもって呪願する慣わしとなっています。托鉢の際に呪願するのもラオスでは一般的ながら、他の国ではあまり見られないことです。そこでその呪願がなされている間に、信者らは路上に跪いてそれを聞きつつ、水飲みや水瓶の水を垂らしてアヌモーダナを行うのです。

アヌモーダナが行われるのは葬式の場においても同様で、その場合、それら全ての国において亡者のための廻向として一般に行われています。

仏教を護り伝えるパリッタと諸儀礼

スリランカではこれに加え、別にPilit-panピリット・パンとシンハラ語で言われる聖水儀礼と、Pilit-nūlaピリット・ヌーラと云われる聖糸儀礼が行なわれています。ピリット・パンは、ピリット(パリッタ)の読誦によって「加持された水」を少し口に含ませたり身にふりかけたりするものであり、ピリット・ヌーラは同じく「加持された白い木綿糸」の幾本かまとめたのを、信者の右手首に巻いて結うものです。特にピリット・ヌーラは、正式なパリッタ儀礼の後にはその右手に巻き付けられないと信者たちが納得しないほど、スリランカでは一般的な習慣となっています。この糸は自然に擦り切れるか解けるまでずっと着け続けられます。

ピリット・ヌーラは、現在のインドにて、ヒンドゥー教シヴァ派のBrahminブラフミン(婆羅門・祭祀者)やSādhuサードゥ(苦行者)が行っている、といってもスリランカではサードゥは仏教僧への敬称の一つとなっているのですが、信者の右手首に糸を巻き付けるのと全く同様の行為です。ただし、ヒンドゥー教では、オレンジ色か赤色の糸が用いられています。

(近年は白の木綿糸だけでなく、仏旗に使われる五色の糸を用いる場合も、それほど一般的ではないものの見られます。)

あるいは、白い糸を、年少の信者(時として僧侶)の素肌の左肩からたすきがけにかけさせることも行なわれます。これは、婆羅門教の規定する四住期の初め、すなわち学生期に入る入門式と言えるUpanayanaウパナヤナという宗教儀礼において、バラモンカーストに属する8-16歳の子どもに、正式に婆羅門となったことを認める印として与えられるものです。したがって、これは自身が婆羅門であることを示す一つの印となるもので、それを授けるのも授けられるのも、婆羅門にのみ許される行為ですが、スリランカではこの習慣を仏教に取り入れています。

聖糸儀礼は、スリランカだけでなく、タイでもその一部にて行われていますが、タイの場合、比丘など出家者が女性に直接接触することは禁忌となっているため一般化しにくいでしょう。ミャンマーでは聖糸儀礼は行われず、ラオスとカンボジアでも、少なくとも菲才はそれが行われているのを目にしたことも聞いたこともありません。

また、これもスリランカに限られた独自のことですが、MantraマントラYantraヤントラ(といってもヒンドゥー教のそれとは当然異なり、多くは仏陀の肖像あるいは五種の武具)が書かれた護符あるいはパリッタにて加持された聖油などを、真鍮製や銅製の直径10mmにも満たない小さな円筒に密閉し、これに紐を通す箇所があって首にかけたり、腿や上腕などに巻きつけたりして生活することも一般的です。これもピリット・ヌーラと同様、災難除け・悪魔除けまたは病気平癒のお守りです。

(もっとも、これはタイでも似たことが行われています。それはしかし、サクヤンと言われる主に入れ墨として体に文字通り彫り込まれます。タイではヤントラを「ヤント」と言い、それは非常に多様な宗教的文様として伝えられ、マントラに該当するものを、これはgāthāガーター(偈頌)の訛語であると思いますが「カタ」と称して、刺青にするのです。刺青を彫った上でカタを唱えなければ、その呪術性は生じないものとされ、したがってその彫師は一種の呪術者です。サクヤンを入れるのも掘るのも僧俗に限られておらず、中にはほとんど全身に入れているような者もあります。スリランカのそれと同様、いずれもバラモン教由来ながら仏教に取り込まれ行わている、タイにおける土着信仰です。)

先に言及したDhammapada-aṭṭhakathāダンマパダ・アッタカターに基づいて行われる夜通しのパリッタ儀礼(Sarvarātrika piritサルバラートリカ・ピリット)や一週間以上に渡るパリッタ儀礼(Bana piritバナ・ピリット)が行われる際は、屋内外に関わらず仮小屋を作って種種に飾り付け、その中で唱えなければならない、とされています。その仮小屋をMaṇḍapaマンダパと言い、ピリットに使うので特にPirit-maṇḍapaピリット・マンダパと言われます。

そしてそこで唱えられるパリッタは、Ratana-suttaラトナ・スッタ(『宝経』)・Metta-suttaメッタ・スッタ(『慈経』)・Maṅgala-suttaマンガラ・スッタ(『吉祥経』)といった、今日の上座部において特に主要とされる三つのパリッタと、Āṭānāṭiya-parittaアーターナーティヤ・パリッタ(『阿吒曩胝護呪』)が必ず唱えられ、またさらにその他のパリッタや経典が読誦されています。注釈書にあるとおりに特別の東屋を設けてまで行う儀礼は、特にスリランカにおいてのみ見られることです。

スリランカ(ならびにその影響を受けた現インド)にて一般的に行われている儀礼の中、灯明・香・華・水・食・供物など六種供養を献ずる際には、パーリ語によるその偈文が唱えられますが、これもスリランカに特有のことです。

ところで、仏教に興味を抱き、幾分かの信心あるいは共感をもつようになった近年のシンポ的人士やブンカ人、今どき「進歩的人士」だの「文化人」だのいう言葉はもはや使われることは無いようですが、もしくは左傾教育を多分に受けて育った、その大体が団塊の世代といわれる人々があります。そのような人々は、少しばかり仏教をかじるとたちまち「ゴーリテキであり、カガクテキですらある仏教、その本質がおよそ宗教とは思われない仏教において、たとえその内容に意味があったとしても、それを呪文のように用いるのは迷信がかった前時代的で胡散臭い行為だ。そのような行為に意味があるなど到底信じられないし、認められない。仏教は本来その様なモノではないはずだ。それは仏陀以降の後代に、俗人によって俗信が混入せられた非ブッキョー的行為だ」などといった物言いをしたがる傾向があるように思われます。

しかし、そもそものところを言えば、危難・災難などから逃れるため・回避することを目的に仏教僧がパリッタを用いることは、仏陀が許されたからこそ行われているもので、どこかの誰かが何らの根拠なくして勝手気ままに始められたことではない。これは律蔵にその所以が記され、公式に許されていたことです。

tena kho pana samayena aññataro bhikkhu ahinā daṭṭho kālaṅkato hoti. bhagavato etamatthaṃ ārocesuṃ. “na hi nūna so, bhikkhave, bhikkhu imāni cattāri ahirājakulāni mettena cittena phari. sace hi so, bhikkhave, bhikkhu imāni cattāri ahirājakulāni mettena cittena phareyya, na hi so, bhikkhave, bhikkhu ahinā daṭṭho kālaṅkareyya. katamāni cattāri ahirājakulāni? virūpakkhaṃ ahirājakulaṃ, erāpathaṃ ahirājakulaṃ, chabyāputtaṃ ahirājakulaṃ, kaṇhāgotamaṃ ahirājakulaṃ. na hi nūna so, bhikkhave, bhikkhu imāni cattāri ahirājakulāni mettena cittena phari. sace hi so, bhikkhave, bhikkhu imāni cattāri ahirājakulāni mettena cittena phareyya, na hi so, bhikkhave, bhikkhu ahinā daṭṭho kālaṅkareyya. anujānāmi, bhikkhave, imāni cattāri ahirājakulāni mettena cittena pharituṃ, attaguttiyā attarakkhāya attaparittaṃ kātuṃ.
時に、とある比丘があって蛇に咬まれて命を落とした。そこで(比丘たちは)世尊にその義〈attha〉を伝えた。
「比丘たちよ、実に彼の比丘(が蛇に咬まれて命を落としたの)は、あの四種の蛇王の眷族〈ahirājakula〉に対し、慈しみの心を以て満たしていなかったためである。比丘たちよ、もし彼の比丘があの四種の蛇王の眷族に対し、慈しみの心を以て満たしていたならば、比丘たちよ、彼の比丘は蛇に咬まれて命を落とすことはなかったであろう。何が四種の蛇王の眷族であろうか?ヴィルーパッカ蛇王の眷族、エーラーパタ蛇王の眷族、チャビャープッタ蛇王の眷族、カンハーゴータマ蛇王の眷族である。比丘たちよ、実に彼の比丘はあの四種の蛇王の眷族に対し、慈しみの心を以て満たしていなかったためである。比丘たちよ、もし彼の比丘があの四種の蛇王の眷族に対し、慈しみの心を以て満たしていたならば、比丘たちよ、彼の比丘は蛇に咬まれて命を落とすことはなかったであろう。比丘たちよ、あの四種の蛇王の眷族に対し、慈しみの心を以て満たして自らを油断なくし〈attagutta〉、自らの守護〈attarakkhā〉のために、自らパリッタ〈attaparitta〉を行うことを許す」

VInaya Piṭaka, Cūḷavagga, Khuddakavatthukhandhaka, 251

このようにパリッタとは最初、比丘が蛇の脅威から自らを護るためになすることが許されたものです。なお、この律蔵の一節に続いて、そのパリッタとはどのようなものかが偈頌によって説かれているのですが、それがKhandha-parittaカンダ・パリッタ (蘊護呪)です。ただ日本にばかりあって外国、特に南アジアや東南アジアを知らない人には今ひとつピンとこないことと思われますが、恐るべき強力な毒を持った蛇はそれこそそこら中に、しかも多くの種類があり、その脅威は今もなお日常的なものです。当時から毒蛇からその身を護ることは切実な問題であったことによる措置です。

しかし、最初そのような形で行うことが許されるようになったパリッタは、今やただ危難を回避する力あるものとしてだけでなく、他にも仏語を簡便に伝える意義あるものとしてもその数を増して行われ伝わったのでした。

そこでまた、これは「もし」・「仮に」といった類の物言いとなりますが、いくら仏教が現代言うところの合理主義的精神をその柱としたものであったとしても、なんらかの祭儀や呪術的行為なしには俗世で受け入れられ定着することは無かったと思います。仏教がおよそ二千五百年の昔から現在に至るまで、伝わり得はしなかったでしょう。各地の習俗や嗜好をある程度取り入れ、あるいは換骨奪胎して行ったとして、それで仏教の本質が変わることはありません。

もっとも、これは大乗・小乗の別を問わず、その伝統において仏教が後世に「正しく伝わる」のに不可欠であると等しく云われてきたのは、実は「僧伽が律儀を遵守すること」の一点です。仏陀の教えを伝え、また世に示す重大な役目を帯びているのが僧伽であり、それを構成するのが比丘・比丘尼ですが、その比丘らを正しく規定するのは律蔵に伝えられる律儀です。その律儀を比丘らが守ることがなくなれば仏教は滅びる、正しく伝わらず行われなくなる、とされています。

とはいえ、何事も栄枯盛衰はつきもので、上座部だけでなくチベットや中国、日本においても仏教の歴史には随分の波があります。そこで、それぞれの伝統が頽廃、衰微し朽ちかけたとき、その復興を目指した運動を開始する者がまず最初に着手することはほとんど律儀の再興であることです。仏法の命脈が律儀にかかっているというその共通認識、いや、それは真理であるというべきことでしょうが、仏教が衰微したときにそれが現出するのを見ることが出来ます。

しかし、これはあくまで出家者においての話。上に述べたように、在家においては、社会における信者たちの結束や秩序をもたらすのに、どうしても何らかの祭儀や儀式は不可欠となります。これは歴史的観点からも確かに言えることであるでしょう。今現在まで仏教、特に上座部が伝わった国々では、その一つの鍵となったのパリッタとそれにまつわる儀式・儀礼です。いわばパリッタは、ただ自身から災厄を守るだけのものでなくて、仏教を護り伝える力を備えてきたと言えるでしょう。そして今もなお、パリッタはその役割を担い続けています。

Ñāṇajoti