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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

上座部 諸経要集

パリッタとは

Paritta

ParittaパリッタParittāパリッター)とは、南アジアから東南アジア諸国に伝わり今に至るまで盛んに信仰されてきたTheravādaテーラ・ヴァーダ上座部じょうざぶ)もしくはVibhajjavādaヴィバッジャ・ヴァーダ分別説部ふんべつせつぶ)と称する部派において、日常的に唱えられている特定のパーリ語経典あるいは経文の謂です。パリッタの原意は「保護」または「防護」ですが、現代の日本ではしばしば「護呪」あるいは「護経」などと訳されています。

(本稿では、「パリッタ」・「護呪」・「護経」のいずれかを場合により使い分け、敢えて統一していません。)

なお、パーリ語のパーリ(Pāliパーリ )とは、「端」・「縁」・「線」・「列」あるいは「外耳」を意味する語です。しかしながら、経典にそのような用例があるのですが、上座部では「聖典」を意味する語として用いられています。そこで一世紀頃のセイロン以来、その聖典すなわち経・律・論の三蔵を伝える言語をしてパーリ語と呼称するようになり、すなわち「聖典語」を意味する語となっています。

上座部の伝統において、パーリ語は仏陀釈尊が話されていた古代の東印度の言語、これを一般にマガダ語(Māgadhīマーガディー)と言いますが、まさしくマガダ語そのものであると信じられています。もっとも、現代における言語学の観点からすると、パーリ語とマガダ語は近似した言語ではあるものの同一ではなく、古代西印度のピシャーチャ語(Paiśācīパイシャーチー)由来のものであろうとする説が最も有力視されています。

パリッタの多くは、そのようなパーリ語によって伝えられてきた上座部の経蔵に修められている一小経や、その一部で構成されたものであって、比較的短いものばかりです。その内容は、現代語に訳してみれば、平易にして意義深いものから、ただ災厄が自分に降りかからないようにと願うもの、あるいは意味不明のものもあるなど様々です。

パリッタとして唱えられる経文の内容はまさしく真実であり、そしてそれを表す言葉は仏陀が話されていた言葉と同じ。すなわち仏陀の言葉そのもの。であるからが故に、なおさら強力な功徳を備えるとされ、これを唱える者にはなんらかの利益・加護がある、とされます。パリッタすなわち護経・護呪といわれる由縁です。このような点においては、大乗がサンスクリットなどで伝えるところのMantraマントラ(真言)やDhāraṇīダーラニー(陀羅尼)と相似したものと言えます。

なお、南アジアならびに東南アジア諸国ではパリッタという称はそれぞれかなり訛語化しており、スリランカではPirittピリット、ビルマではParaikパイェッ、タイやラオスではこれをParitパリッと言われ、パリッタとそのまま言われている国はありません。もっとも、それら諸国における一定の学問を積んだ僧達は、基本的に英語の読解及び会話もまた必須として学び習得していることが多いため、そのような彼らに対してパリッタといえば一応通じます。

ただし、東南アジアと南アジアと一口に言ってもそれぞれ言語の相異は比較的大きいため、パリッタの読誦に際してはその発音や抑揚、さらに調子も相当違っており、時として同じパリッタを誦しているとは思われないことすらあります。

現世利益

紀元前2世紀中頃、印度北西部に侵入してこれを支配したギリシア王MenandrosメナンドロスMilindaミリンダ)と仏教僧Nāgasenaナーガセーナとの対話を記録して伝える、Milindapañhāミリンダパンハー(以下、『ミリンダパンハー』)という仏典があります。その題目は、日本語訳したならば「ミリンダの問い」というほどのもので、実際、ミリンダ王が仏教の教義に対する数々の疑問を投げかけ、それに長老ナーガセーナが次々答えていく、といった体裁のものとなっています。

なお、漢訳で『那先比丘経なせんびくきょう』はその異本の古訳で、これはミリンダの名を冠しておらずナーガセーナの名が那先と音写され、那先比丘としてその題目になっています。

今ある『ミリンダパンハー』は上座部に所属するものとされる典籍ではありますが、実はナーガセーナの所属部派が何であったかはわかっておらず、あるいは説一切有部せついっさいうぶ(説因部)ではなかったかなどとも言われます。もっとも、これは部派の更なる分裂に伴ってのことでもあるのでしょうけれども、その昔は『ミリンダパンハー』は特に一部派に限られたものでなく諸本あり、ある程度広く読まれたものであったようです。それは今も同様で、東南アジア・南アジアの上座部が信仰されてきた各地だけでなく、その信仰が漸々として広がっている西洋においてもまた、仏教に関する素朴な疑問から高度な哲学的諸問題について平易に明かされたものとして僧俗問わず愛読されています。

そんな『ミリンダパンハー』には、仏陀が説かれたとするパリッタの数々が挙げられています。Ratana-suttaラトナ・スッタ(『宝経』)・Metta-suttaメッタ・スッタ(『慈経』)・Khandha-parittaカンダ・パリッタ(『蘊護呪』)・Mora-parittaモーラ・パリッタ(『孔雀護呪』)・Dhajagga-parittaダッジャガ・パリッタ(『幢頂護呪』)・Āṭānāṭiya-parittaアーターナーティヤ・パリッタ(『阿吒曩胝護呪』)・Aṅgulimāla-parittaアングリマーラ・パリッタ(『指鬘護呪』)です。

“bhante nāgasena, bhāsitampetaṃ bhagavatā —
“‘na antalikkhe na samuddamajjhe, na pabbatānaṃ vivaraṃ pavissa.
na vijjatī so jagatippadeso, yatthaṭṭhito mucceyya maccupāsā’ti.
“puna bhagavatā parittā ca uddiṭṭhā. seyyathidaṃ, ratanasuttaṃ mettasuttaṃ khandhaparittaṃ moraparittaṃ dhajaggaparittaṃ āṭānāṭiyaparittaṃ aṅgulimālaparittaṃ.
「大徳ナーガセーナよ、世尊はまたこのように説かれています。
虚空においても、海中においても、山々の裂け目に入っても、
人が死の罠から解き放たれて留まり得る、そのような場所は世界に存在しない。
そして世尊は諸々のパリッタを読出されてもいます。すなわち、『ラトナ・スッタ』、『メッタ・スッタ』、『カンダ・パリッタ』、『モーラ・パリッタ』、『ダッジャガ・パリッタ』、『アーターナーティヤ・パリッタ』、『アングリマーラ・パリッタ』です」

Milindapañha, Maccupāsamuttipañha

(ただし、今上に挙げたのはビルマ第六結集本の『ミリンダパンハー』によるもので、シャム王室本ではSuvatthi-parittaKhandha-parittaMora-parittaDhajagga-parittaĀṭānāṭiya-parittaの五つが挙げられており、Ratana-suttaMetta-suttaおよびAṅgulimāla-parittaが無い。またPTS本ではRatana-suttaKhandha-parittaMora-parittaDhajagga-parittaĀṭānāṭiya-parittaAṅgulimāla-parittaの六つが挙げられるなど、各本によって相異があります。)

現在伝わる形での『ミリンダパンハー』が成立するのはより後代のことではあったでしょうけれども、『ミリンダパンハー』の所伝によれば、今からおよそ2200年前の当時から北印度において「パリッタ」が行われていたとされます。今やその全てと、さらにそれ以外の経典あるいは経文がパリッタとして加えられ、主要11パリッタが数えられています(国や地域によってはさらに20から30程度がパリッタとして用いられています)。

それらパリッタは、僧侶はもとより在家信者においても幼少時より家庭や地域などで頻繁に読誦されているため、そのほとんどを暗誦している者が普通に見られます。人々にとってパリッタを唱えることは、積善の一環としてだけでなく、己の世間的願いを叶えるための、いわゆる現世利益を得るためのものともなっています。

もっとも、これは「パリッタとは何か」に直接関わる問題であるのですが、先程示した『ミリンダパンハー』の一説の直後には、以下のような問答が展開されています。

yadi, bhante nāgasena, ākāsagatopi samuddamajjhagatopi pāsādakuṭileṇaguhāpabbhāradaribilagiri vivarapabbatantaragatopi na muccati maccupāsā, tena hi parittakammaṃ micchā. yadi parittakaraṇena maccupāsā parimutti bhavati, tena hi ‘na antalikkhe ... pe ... maccupāsā’ti tampi vacanaṃ micchā. ayampi ubhato koṭiko pañho gaṇṭhitopi gaṇṭhitaro tavānuppatto, so tayā nibbāhitabbo”ti.
“bhāsitampetaṃ, mahārāja, bhagavatā ‘na antalikkhe ... pe ... maccupāsā’ti, parittā ca bhagavatā uddiṭṭhā, tañca pana sāvasesāyukassa vayasampannassa apetakammāvaraṇassa, natthi, mahārāja, khīṇāyukassa ṭhitiyā kiriyā vā upakkamo vā.
[...]
“bhante nāgasena, ‘kiṃ sabbe yeva parittaṃ rakkhatī’ti? “ekacce, mahārāja, rakkhati, ekacce na rakkhatī”ti. “tena hi, bhante nāgasena, parittaṃ na sabbatthikan”ti? “api nu kho, mahārāja, bhojanaṃ sabbesaṃ jīvitaṃ rakkhatī”ti? “ekacce, bhante, rakkhati, ekacce na rakkhatī”ti. “kiṃ kāraṇā”ti. “yato, bhante, ekacce taṃ yeva bhojanaṃ atibhuñjitvā visūcikāya marantī”ti. “tena hi, mahārāja, bhojanaṃ na sabbesaṃ jīvitaṃ rakkhatī”ti? “dvīhi, bhante nāgasena, kāraṇehi bhojanaṃ jīvitaṃ harati atibhuttena vā usmādubbalatāya vā, āyudadaṃ, bhante nāgasena, bhojanaṃ durupacārena jīvitaṃ haratī”ti. “evameva kho, mahārāja, parittaṃ ekacce rakkhati, ekacce na rakkhati.
“tīhi, mahārāja, kāraṇehi parittaṃ na rakkhati kammāvaraṇena, kilesāvaraṇena, asaddahanatāya. sattānurakkhaṇaṃ, mahārāja, parittaṃ attanā katena ārakkhaṃ jahati,
「大徳ナーガセーナよ、もし人が虚空を行き、あるいは海中を行き、あるいは宮殿、小屋、洞窟、洞穴、谷間、山窟、巣穴、山、そして山の裂け目に行ったとしても、死の罠から解き放たれない、というのであれば、パリッタを行うこと〈parittakamma〉は誤っています。また、もしパリッタを為すこと〈parittakaraṇa〉によって死の罠から解放されるようになる、というのであれば、『虚空においても、…乃至…、人が死の罠から(解き放たれて留まり得る、そのような場所は世界に存在しない)』という、その言葉も誤りです。これもまた両刀論法〈ubhato koṭika pañha. ディレンマ〉であって、結び目をさらに結んだものです。これはあなたが解きほどくべきものです」
「大王よ、世尊はこのように説かれています。『虚空においても、…乃至…、人が死の罠から(解き放たれて留まり得る、そのような場所は世界に存在しない)』と。そして世尊は諸々のパリッタを読出されてもいます。しかし、それは寿命にまだ残りがあり、若さに溢れ、業障〈kammāvaraṇa〉の無い者へのものです。大王よ、寿命の尽きた者を生かせる儀式、あるいは方法などありません」
《中略》
「大徳ナーガセーナよ、パリッタは、(それを行う)すべての人をも護るのでしょうか?」
「大王よ、ある人々を護り、ある人々は護りません」
「大徳ナーガセーナよ、そうであるならば、パリッタは万能ではありませんね?」
「大王よ、では食物はすべての人の生命を護りますか?」
「大徳よ、ある人々を護り、ある人々は護りません」
「その理由は何でしょうか?」
「なぜならば、大徳よ、ある人々は食物を過食し、あるいはコレラ〈visūcikā〉によって死ぬからです」
「大王よ、そうであるならば、食物はすべての人の生命を護りませんね?」
「尊者ナーガセーナよ、二つの理由によって、食物は生命を奪い去ります。あるいは過食〈Atibhutta〉によって、あるいは熱の弱いこと〈usmādubbala. 消化不良〉によってです。尊者ナーガセーナよ、寿命を与える食物は、悪しき用い方によって、生命を奪い去ります」
「大王よ、実にそれと同様に、パリッタは、ある人々を護り、ある人々は護りません。大王よ、三つの理由によって、パリッタは、(ある人々を)護りません。業障によって、煩悩障〈kilesāvaraṇa〉によって、不信〈asaddahanata〉によってです。大王よ、生命あるものを守護するパリッタは、(それを用いる)自身が為した(過去の悪しき)行いによって、その守護(の功験)を断つのです」

Milindapañha, Maccupāsamuttipañha

以上のように、ここでパリッタとは健康や安全など、あくまで世間的な守護を得うる、しかし限定的なものであるとされています。それはあくまで、日常的な脅威を避けることを期したごく素朴なものであり、万能なる呪文のごときものではないことがここで語られています。

もっとも、今引いた箇所で中略した箇所の一部には、大乗の『法華経』普門品いわゆる『観音経』の偈文に「かの観音力を念じたならば(念彼観音力)」とあるのが「パリッタが行われたならば(kataparittañhi)」になっているだけ、と言えるほど、その説かれる種々の利益がほとんど変わらないようなところもあります。

“tena hi, mahārāja, ‘parittabhesajjakiriyā niratthakā’ti yaṃ vacanaṃ, taṃ micchā bhavati. kataparittañhi, mahārāja, purisaṃ ḍaṃsitukāmo ahi na ḍaṃsati, vivaṭaṃ mukhaṃ pidahati, corānaṃ ukkhittalaguḷampi na sambhavati, te laguḷaṃ muñcitvā pemaṃ karonti, kupitopi hatthināgo samāgantvā uparamati, pajjalitamahāaggikkhandhopi upagantvā nibbāyati, visaṃ halāhalampi khāyitaṃ agadaṃ sampajjati, āhāratthaṃ vā pharati, vadhakā hantukāmā upagantvā dāsabhūtā sampajjanti, akkantopi pāso na saṃvarati.
「大王よ、そうであるならば、『パリッタや医薬を行うことは無益である』という言葉は誤っています。大王よ、なぜならばパリッタが人に行われた時、蛇が彼を咬もうとしても咬まず、開いた口を閉じます。盗賊たちが(襲おうとして)振り上げた棍棒も(彼を撃つことが)出来ず、彼らは棍棒を捨てて(彼に)優しく接します。怒り猛った大象が(彼の近くに)やって来ても大人しくなります。燃え盛った大きな火炎が(彼の近くに)迫りきても消え去ります。彼が口にした必殺の毒も薬に変わり、あるいは食物となって満ち、人殺しが(彼を)殺そうとやって来ても、(彼の)奴隷のように変わり、そして(彼が)罠を踏んでも(その罠に)かかりません」

Milindapañha, Maccupāsamuttipañha

この箇所だけみると「そんな馬鹿な」としか思われない、パリッタが行われたことに依る超常的な功徳のあることが挙げ連ねられており、それはまさに『観音経』の一節と何ら変わりありません。

仮使興害意 推落大火坑 念彼観音力 火坑変成池
或漂流巨海 龍魚諸鬼難 念彼観音力 波浪不能没
或在須弥峰 為人所推堕 念彼観音力 如日虚空住
或被悪人逐 堕落金剛山 念彼観音力 不能損一毛
或値怨賊繞 各執刀加害 念彼観音力 咸即起慈心
或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段段壊
或囚禁枷鎖 手足被杻械 念彼観音力 釈然得解脱
呪詛諸毒薬 所欲害身者 念彼観音力 還著於本人
或遇悪羅刹 毒龍諸鬼等 念彼観音力 時悉不敢害
若悪獣囲繞 利牙爪可怖 念彼観音力 疾走無辺方
蚖蛇及蝮蝎 気毒煙火燃 念彼観音力 尋声自回去
雲雷鼓掣電 降雹澍大雨 念彼観音力 応時得消散
たとえ誰かが悪意をもって自分を害そうと思い、火の燃えさかる穴に突き落としたとしても、かの観世音菩薩の力を念じれば、火の穴はたちまちに池と変わる。
あるいは大洋に漂流して龍や魚・諸々の怪物に襲われることがあっても、かの観世音菩薩の力を念じれば、海中に沈んで海の藻屑となることは決してない。
あるいは須弥山の上にいて、誰かが(自分を殺そうと)突き落としたとしても、かの観世音菩薩の力を念じれば、太陽が空に浮かぶように空中に留まる。
あるいは悪人に追い立てられ金剛山から落とされたとしても、かの観世音菩薩の力を念じれば、一本の毛髪さえも傷つけられることはない。
あるいは賊の集団に取り囲まれ、それぞれが刀を手にとって危害を加えようとしても、かの観世音菩薩の力を念じれば、彼らは皆たちまち慈しみの心を起こす。
あるいは悪政の苦しみにあい、死刑を宣告されまさに刑が処せられようとするとき、かの観世音菩薩の力を念じれば、振り下ろされる刀はバラバラに砕け散る。
あるいは囚われて縄や鎖で拘束され、手かせや足かせをはめられても、かの観世音菩薩の力を念じれば、たちまち拘束から逃れることができる。
呪いやまじない、様々な毒薬によって自分を滅ぼそうとしても、かの観世音菩薩の力を念じれば、それらはそれを用いた何者かのもとに還っていく。
あるいは悪しき低級な神々や毒龍・阿修羅や鬼神に遭遇しても、かの観世音菩薩の力を念じれば、彼らは皆、自分を害しようとすることは無い。
もし恐ろしい獣が自分を取り囲み、それらが鋭い牙や恐るべき爪を持っていたとしても、かの観世音菩薩の力を念じれば、たちまちにどこか遠くへ走り去る。
イモリやヘビまたはマムシやサソリに遇って口から毒の息や炎を吐きだしたとしても、かの観世音菩薩の力を念じれば、おとなしくなって何処かに去る。
雲から雷が鳴り響き稲妻が落ちて、雹を降らせまた大雨が降りそそいでも、かの観世音菩薩の力を念じれば、その瞬間に静まる。

鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』第廿五 観世音菩薩普門品(T9, pp.57c-58a)

ここで『観音経』を殊更に持ち出し、奨めているのではありません。しかし、『観音経』の偈文で繰り返しいわれる「かの観音力」とあるのを「観音菩薩の超常的救済力」などと解さず、観音菩薩に象徴される「慈心」に置き換えてみたならば、確かに相い通じたものであるのを見ることが出来るでしょう。あるいはこの両者の記述には、インドにおける長い仏教の歴史の中で何らかの関係があったように思われます。

しかしながら、パリッタは、なにか業果を消滅させるまでの力あるものだとか、それを唱えること自体が積善となるとはされていません。そもそも、たとえば釈迦族の滅亡や尊者モッガーラーナ(目連)の死にまつわる話でもそれを物語っているように、「すでに為した行為を消し去ること、その熟した業果を消し去ることなど誰であっても出来ることではない」というのが仏教の根本的思想であり、それがここにも現れています。

また、法(真理)に対する信の有無によってもその加護の有無があるとされている点も見逃せないところでしょう。これは次項において触れることですが、パリッタを行う者に「慈心」が具わっているかどうかも非常に重要な鍵とされ、等閑視してはならない点です。

とはいえ、現代における上座部が信仰されている社会では、パリッタを唱えること自体が善行の一つとされ、それが除災招福・心願成就・病気平癒などその人や組織の願意・目的などによって異なるものが、あるいは比丘に依頼して読誦してもらい、あるいは自分で読誦するなどされています。

パリッタは、先に述べたようにパーリ語という古代印度語で伝えられてきたものであって、特に勉強しなくともその意味を自然に理解できるようなものではありません。したがって、それらの意味を人々が皆知っているかと言えば、それらを学び理解することを奨励されてはいるものの、これには国・地域差や個人差がかなりあることではありますが、「否」ということになります。

その功徳を得るためなどに経典などを日々熱心に暗誦してはいる。けれどもその意味は必ずしも知らない。あるいは、ただ伝統や慣習として行っているだけで、なんとなく聞いたことはあるが具体的な意味まではわからない。一応その意味内容は学び知っているけれども、「いや、しかし、それはそれ。これはこれ」などというのもしばしば見られます。

もっとも、東南アジアでも特にビルマは飛び抜けて仏教に対する信仰の深い国と言え、パリッタの内容や仏教のアレコレについての書籍に溢れ、これを読む人が多くあります。また、日常的に街のあちこちで説法会や無遮会、さらには在家信者を対象とした阿毘達磨の勉強会や講習会、そしてある程度の日数をかけた瞑想会などが開かれているため、パリッタの内容を理解していることはもはや常識とすらなっています。

(ただし、特に21世紀に入って急速にインターネットが一般化したことや、2021年の軍事クーデターにより、そのような状況も変わってきています。1988年の民主化蜂起への大弾圧、そして2007年の弾圧を通して民衆の側に立って対立してきた僧界、特にその高位を占める僧らが、再度の軍事クーデター以降はむしろ軍事政権との関係を非常に近くしており、それを嫌って仏教から離れる人が相当数現れ出しているのです。そのように軍と僧統などの関係が近くなっている背景には、2001年のNYテロ以降世界的に生じ、ビルマでは2011年の自由化以降に顕著となったムスリムの急進的・敵対的な拡大方針への非常に強い危機感があって、それに対抗しようとする民族的かつ国粋主義的動きです。民族主義あるいは国粋主義が必ずしも悪いとは思いませんが、しかし、それにしても理不尽なまでの両者の蜜月には、民衆の怒りを買うのも宜なることです。)

タイやラオスもまた一時出家の習慣があるため、仏教に対する素養は一定の水準に保たれているため、パリッタの内容についてもある程度よく知られています。特にタイは国家としてパーリ語の学習体制を構築しており、初級から上級まで幾重にも設けられた試験を通過する毎にそれに応じた称号が与えられるため、若年から熱心に学ぶ者があってパーリ語に相当通じた者が幾人もあります。

スリランカはその大多数を占めるシンハラ語がサンスクリットやパーリ語と同じインド・アーリア語派であるためそれらを比較的習得しやすく、パーリ語だけでなくサンスクリットにも通じた古老が多数あります。しかしながら、現代スリランカにおける仏教の状況は決して芳しくなく、特に都市部において急速に若年層からの支持を失いつつあるため、これは僧俗問わず言えることですが、その素養の豊かな人は古老に偏った印象があります。スリランカではもはや優秀な者が出家しようとすることがほとんどなくなりつつあるのです。

さて、それら国々でもそれぞれ習慣や形式に異なりがありますが、一般的に行われる諸々の通過儀礼、たとえば誕生してまもない赤ん坊の祝福、誕生日、結婚式、葬式、あるいは家や店の新築・改築にともなう儀礼等々において、パリッタを唱えること・唱えてもらうことは、上座部の信徒にとって欠かせない行為となっています。さらには、いわゆる悪霊・鬼神の排除、戦勝ならびに兵士の戦場における無事、そして国家や会社などその大小を問わず組織の安泰などを願ってなされる諸々の祈祷でも、盛んに用いられています。

時としてあたかも呪文のように唱えられるパリッタ、ことあるごとに家族ら親族ら、地域の仏教徒ら皆と共に唱えられるパリッタは、在家信者にとって、それぞれの日々の祈願を乗せるもの、仏教を日々信仰していくうえで重要な要素です。パリッタは仏教、特には上座部が信仰され、世代を超えて伝えられるにも必要不可欠であったもの、そしてこれからも不可欠のものである、と言えるでしょう。

そして出家修行者にとってパリッタは、律蔵に認められているように危難を回避するための手段として用いられています。それはまた仏陀の教えを簡便な形で記憶し、確認するのにも有用なものであり、そして仏教の布教手段や僧侶の個人的収入の手段としても重要な役割を担うものとなっています。

Ñāṇajoti