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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

最澄『末法灯明記』(偽書)

訓読

本朝沙門㝡澄撰

一如いちにょ範衛はんえいして、以てく者は法王ほうおうなり。四海に光宅こうたくして、以てふうを垂るる者は仁王にんおうなり。然れば則ち、仁王と法王と、互にあらはして物を開き、眞諦しんたい俗諦ぞくたいと、たがひに因りて敎を弘む。所以ゆえ玄籍げんしゃく宇内うだいちて、嘉猷かゆう、天下にあふる。ここに愚僧等、天網てんもうに率容し、嚴科ごんか俯仰ふごうす。未だ寧処ねいしょするにいとまあらず。

然るに法に三時さんじ有り、人に亦三品さんぼんあり。化制けせいの旨、時に依りて興替こうたいし、毀讃きさんの文、人をひて取捨す。夫れ三古さんこの運、盛衰同からず。五五ごごの機、慧悟又異り、豈一途いっとに據りてすくひ、復一理に就きて整へんや。故にしょうぞうまつの階降をつまびらかにし、或は破持僧の行事をあらはす。中に於て三有り。初には正・像・末を決し、次には破持僧の事を定め、後には敎を挙げて比例す。

初に正・像・末を決すとは、諸説同からず。しばらく一説を述べん。大乘の、『賢劫經げんごうきょう』を引きて言く、「仏涅槃の後、正法五百年、像法一千年、此千五百年の後、釈迦の法滅盡す。末法を言はず」と。所説しょせつに準ぜば、「尼、八敬はっきょうを修せずして懈怠けたいするが故に、法更に増せず」と。故に彼に依らず。又、『涅槃經ねはんぎょう』に、「末法中に於て、十二万の大菩薩衆有りて、法を持して滅せず」と。此は上位に拠るが故に亦用ひず。

問ふて云く。若し爾らば千五百年の内の行事は如何。

答ふ。『大術經だいじゅつきょう』をあんずるに、「仏涅槃の後、初の五百年には、大迦葉だいかしょう等の七賢聖しちけんじょう次第に住持して、正法滅せず。五百年の後、正法滅尽す。六百年に至りて、九十五種の外道げどう競ひ起る。馬鳴めみょう出世して、諸の外道を伏す。七百年中に、龍樹りゅうじゅ出世して、邪見のはたくだく。八百年に於て、比丘縱逸じゅういつして、僅に一二人、道果を得ること有り。九百年に至りて、奴を比丘と爲し、亦婢を尼と爲す。一千年中には、不淨観を聞き、瞋恚して欲せず。千一百年には、僧尼嫁娶かしゅして、毗尼びに毀謗きぼうす。千二百年には、諸の僧尼等、倶に子息有り。千三百年には、袈裟けさしろに變ず。千四百年には、四部の弟子、皆猟師の如し。三宝物を売る。千五百年には、倶腅彌國くせんみこくに二僧有り。互に是非を起して、遂に相ひ殺害す。仍て敎法、龍宮に蔵る」と。『涅槃ねはん』の十八、及び『仁王にんのう』等に、また此文有り。此等の經文きょうもんに準ずるに、千五百年後にはかいじょうあること無し。故に『大集經だいじっきょう』の五十一に言く、「我が滅度の後、初の五百年、諸の比丘等、我が正法に於て、解脱げだつ堅固けんごなり。初に聖果を得、名ずけて解脱と爲す 次の五百年には、禅定ぜんじょう堅固なり。次の五百年には、多聞たもん堅固なり。次の五百年には、造寺ぞうじ堅固なり。後の五百年には、闘諍とうじょう堅固なり。白法びゃくほう隠沒す」と。云云 此意は、初の三箇の五百年は、ついでの如く、戒と定と慧との三法堅固にして住することを得。即ち上に引く所の、正法五百と、像法一千との二時是なり。造寺以後は、幷に是末法なり。故に基の『般若會釋はんにゃえしゃく』に云く、「正法五百年、像法一千年、此一千五百年の後は、行はるの正法滅盡す」と。故に知ぬ、造塔以後は、ならびに末法に屬することを。

問て云く。若ししからば、今の世は正く何の時に當るや。

答ふ。滅後の年代に、多説有りといへども、且く兩説を擧ぐ。一には法上ほうじょう法師等、『周異記しゅういき』に依りて言く、「佛、第五の主、穆王滿ぼくおう まんの五十三年壬申じんしんに當りて入滅す」と。若し此説に依れば、其壬申從り我が延暦二十年辛巳しんしに至るまで、一千七百五十歳なり。二には費長房ひちょうぼう等、魯の『春秋しゅんじゅう』に依りて、「佛、周の第二十一主、匡王班きょうおう はんの四年壬子じんしに當りて入滅す」と。若し此説に依れば、其壬子從り我が延暦二十年辛巳に至るまで、一千四百十歳なり。故に知ぬ、今の時は是、像法最末の時なることを。彼時の行事は、旣に末法に同ず。然れば則ち、末法中に於て、但言敎ごんきょうのみ有りて而も行證ぎょうしょう無し。若し戒法有れば破戒有るべし。旣に戒法無し。何の戒を破するに由りて、而も破戒有らん。破戒さらに無し、何にいはんや持戒をや。故に『大集だいじゅう』に云く、「佛涅槃の後には、無戒、州に滿つ」。云云

現代語訳

本朝沙門最澄撰

そもそも一如〈真理〉範衛はんえい〈準じて従うこと〉して、(世間を)教導する者は(出世間を統べる)法王である。四海に光宅こうたく 〈徳を遍く及ぼすこと〉して、その(徳の)風を世界に吹かせる者は(世間を統べる)仁王である。したがって、仁王と法王とが互いに(その徳を世界に)顕して事物を明らかにし、真諦と俗諦と並びに連携して(仏の)教えを広めていく。そうして仏教は世界に満ち、喜ばしい政治が天下に溢れる。ここに愚僧(たる私最澄)などは、天網〈ここでは律令格式の意であろう〉に従い、厳科〈厳しい刑罰.ここでは特に僧尼令を意図したもの〉を仰いで慎み、いまだ安心する一時すらもないほどである。

ところが、法には三時〈正法時・像法時・末法時〉があって、人には三品〈人の能力差。上品・中品・下品〉がある。化制〈化教と制教.正法と律、すなわち仏教〉の趣旨は、時によって(適切なものが説かれているから時代が異なれば)変わり、(それについての)非難あるいは賞賛の文言も、人によって様々に取捨される。そもそも三古〈儒教における時代観。伏儀の上古、周公の中古、孔子の下古〉の運も、その盛衰は一様でなかった。五五の機〈仏滅後の二千五百年を五百年毎に五つに分け、その時代ごとに異なるとする人々の能力〉では、智慧の高さや悟りの深さに異りがあるのだから、どうして一つの方法によって(人々を)導き、また一つの理でもって(人々を)矯正することなど出来ようか。そこで正法・像法・末法の相違を詳細にし、あるいは僧の破戒と持戒の有り様を明確にする。それを論じる中、(私最澄は)三つの段階を踏んでいる。初めには正法・像法・末法の年代を決定し、次に僧における破戒と持戒を定義し、最後に経典を挙げてその説の正しいことを確認する。

初めに正法・像法・末法の年代を決定するが、これには諸説あって不同である。(今は)仮にその一説を述べていく。大乗の〈法相宗祖。玄奘の高弟〉は、『賢劫経』を引用して「仏涅槃の後、正法は五百年間、像法は一千年間、この千五百年の後に釈迦の法は滅びる。末法など説かれていない」と言っている。(基の)他の所説によれば、「比丘尼が、八敬法を修めず懈怠けたい するために、(本来は一千年正しく伝えられ行われたはずの)仏陀の教えが長く世に行われなくなる」とある。(基は末法を解いていない。)したがって基の説は採らない。また『涅槃経』には、「末法の中に於いても、十二万の大菩薩衆があり、法を保って滅亡しない」と説かれている。これは(「大菩薩」という修行を相当に積んだ)上位の者について特に言われたことであるから、また採用しない。

《問》 もしそうであるならば、(正法と像法の)千五百年の間における行事〈僧尼の行い・有り様〉はどのようであろうか。

《答》 『大術経』を調べたならば、「仏涅槃の後、初めの五百年間は、大迦葉など七人の賢者・聖者が次々と現れ、正法が滅びることはない。その五百年が後、正法が滅びる。(仏滅後)六百年に至って、九十五種の仏教以外の思想を説く者が競うように現れる。(しかし、)馬鳴が世に現れて、諸々の外道を屈服する。七百年後には、龍樹が現れて邪見のはたくだく。八百年になると、比丘は放縦となって、わずかに一人、二人のみ道果を得ることがある。九百年に至ると、(律に背いて)奴を比丘とし、婢を比丘尼とする。一千年後には、(僧尼は)不浄観について聞くと、これに怒って修めようとしない。一千百年には、僧も尼も結婚するようになり、律を誹謗する。千二百年には、諸々の僧尼らは、いずれも子供をもうける。千三百年には、(僧尼の着用する衣の色である)袈裟〈壊色.特に赤褐色〉は白に変わる。千四百年には、四部の弟子〈比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷〉は、皆あたかも(殺生を生業とする汚らわしい)猟師のようになり、三宝の所有物を売り飛ばす。千五百年後には、俱睒彌国〈Kauśāmbī. 古代印度の都市〉に二人の僧があって互いに論争となり、ついに互いに殺害するまでに至る。これによって教法〈仏教〉は竜宮に隠れてしまう」とある。『涅槃経』の巻十八および『仁王経』などに、またこの文がある。これらの経文の所説に従えば、千五百年後には、戒・定・慧〈三学.仏教修行の総称〉は有ることはない。したがって『大集経』の巻五十一に、「我が滅度の後、初めの五百年間は、諸々の比丘達は、我が正法において解脱堅固である。初めの聖果を得る事を、名づけて解脱という。 次の五百年間は、禅定堅固である。次の五百年は、多聞堅固である。次の五百年は、造寺堅固である。後の五百年には、闘諍堅固となって、白法びゃくほう〈仏教〉は隠れ没する」とある。この(『大集経』の一節の)意味は、(仏滅後)初めの三つの五百年間はついでの如くに、戒と定と慧との三法は堅固であって(世に)行われる。すなわち、先に引用したところの、正法五百年と像法一千年との二つの時が、それである。造寺(の後の二つの五百年)以降は、いずれも末法である。したがって、基の『般若会釈はんにゃえしゃく 』に、「正法五百年間、像法一千年間、この一千五百年の後は、それまで行われていた正法は滅び去る」とある。このことから知られるであろう、造寺以降はいずれも末法に属することが。

《問》 もしそうであるならば、今の世〈本書の設定上は最澄の平安初期〉はどの時代にあたるのか。

《答》 滅後の年代に多説あるけれども、今は一応、二つの説を挙げる。一つには、法上法師などは『周書異記しゅうしょいき』を根拠として、「仏は(周の)第五代王、穆王滿ぼくおう まんの五十三年壬申じんしん〈BC.949〉に入滅した」という。もしこの説に依れば、その壬申より我が(朝における)延暦二十年辛巳〈801までで一千七百五十年である。二つには、費長房ひちょうぼうなどが魯の『春秋』に依って、「仏は周の第二十一代主、匡王班きょうおう はんの四年壬子じんし〈BC.609〉になって入滅した」と主張する。もしこの説に依れば、その壬子より我が延暦二十年辛巳までで一千四百十年である。これによって知られるであろう、今の時はまさに、像法最末の時代であることが。その時の行事は、すでに末法と同じである。それはつまり、末法の中においては、ただ言葉として教えがあるだけで行証〈修行と証果〉は無いということである。もし戒法があるならば破戒もあるであろう。(しかしながら、)既に戒法は無い。何れの戒を破ったことに由って、破戒だというのか。破戒はすでに無いならば、どうして持戒がありえようか。したがって、『大集経』には、「仏涅槃の後には、無戒〈戒を受けたことが無い者〉が世界にあふれる」と説かれている。