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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

最澄『末法灯明記』

訓読

問て云く。諸の經律の中に、広く破戒を制して入衆にっしゅゆるさず。破戒さらに爾なり。何に況や無戒むかいをや。而るに今重ねて末法の無戒を論ず。豈そう無きに自ら以ていたむらんや。

答ふ。此理然らず。正・像・末法の所有の行事は、広く諸經に載す。内外ないげの道俗、誰かひらきてふうせざらん。豈自身の邪活じゃかつ貪求とんぐして、持國の正法を隠蔽おんぺいせんや。但し今の論ずる所は、末法に唯名字みょうじの比丘のみ有り。此名字を世の眞寶しんぼうと爲して、更に福田ふくでん無し。たとひ末法の中に持戒じかいの者有らんも、旣に是恠異けいなり。いちに虎有るが如し。此れ誰か信ずべけん

問て云く。正・像・末の事、已に衆經しゅきょうに見へたり。末法の名字を、世の眞寶と爲すこと、何の聖典しょうてんに出づるや。

答ふ。『大集だいじゅう』の第九に云く、「譬へば眞金を無価の寶と爲すが如し。若し眞金無くんば、銀を無価の寶と爲す。若し銀無くんば、鍮石・偽寶を無価の寶と爲す。若し偽寶無くんば、赤白銅鉄、白鑞鉛錫を、無価の寶と爲す。是の如く、一切世間には、佛寶無価なり。若し佛寶無くんば、緣覚えんがく無上なり。若し緣覚無くんば、羅漢無上なり。若し羅漢無くんば、餘の賢聖衆けんじょうしゅを、以て無上と爲す。若し餘の賢聖衆無くんば、得定とくじょう凡夫ぼんぷ、以て無上と爲す。若し得定の凡夫無くんば、淨持戒、以て無上と爲す。若し淨持戒無くんば、漏戒ろかいの比丘、以て無上と爲す。若し漏戒無くんば、鬚髪しゅほつを剃除し、身に袈裟を著する、名字の比丘、無上寶と爲す。余の九十五種の異道に比すれば、最も第一爲り。まさに世の供を受けて、物の福田と爲るべし。何を以ての故に。能身を破して、衆生に怖畏せらるるが故に。若し護持し養育し安置すること有れば、是の人久からずして、忍地にんちに住することを得ん」と。已上經文 此文の中に、八重の無価有り。所謂、如來と、緣覚と、聲聞と及び前三果と、得定の凡夫と、持戒と、破戒と、無戒の名字と、其次第の如く、各正・像・末の時の無価の寶爲り。初の四は正法の時、次の三は像法の時、後の一は末法の時なり。此に由りて明に知ぬ。破戒・無戒、咸な是、眞寶なることを。

問て云く。伏して前の文を觀るに、破戒名字も、眞寶にあらざること莫しと。何が故に。『涅槃ねはん』・『大集だいじゅう』等の經には、「國王大臣、破戒の僧に供すれば、國に三災さんさい起り、遂には地獄に生ず」と云へり。破戒尚ほしかなり。何に況や無戒をや。爾らば如來一の破戒に於て、或は毀し或は讃す。豈一聖いっしょうの文に、兩判りょうはんの失有らんや。

答ふ。此理然らず。『涅槃』等の經は、且く正法の世の破戒を制す。像末代の比丘に非ず。其名は同じと雖、而も時に異り有り。時に随ひて制し許す、是大聖だいしょうの旨なり。故に世尊に於て、兩判の失無し。

問て云く。若し爾らば、何ぞ『涅槃』等の經は、但正法所有の破戒を制止して、像・末の僧に非ずと知らんや。

答ふ。引く所の『大集』所説の八重の眞寶の如きは、是其証なり。皆當時の無価の寶爲るが故に。但正法の時には、破戒の比丘、清淨の衆を穢すが故に、佛固く禁制して衆に入らしめず。然る所以ゆえんは、『涅槃ねはん』第三に云く、「如來、今無上の正法を以て、諸王・大臣・宰相・比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷に付屬す。是の諸國王・大臣、及び四部のしゅ、當に諸學人等を觀励して、増上の定・戒・智慧を得しむべし。若し是の三品さんぼんの法を學せず、懈怠し破戒して、正法を毀しる者有らば、王者・大臣、四部の衆、當にねんごろに治すべし。是の如き王臣等は、無量の功德を得て、當に小罪有ること無かるべし」、「我が涅槃の後、其方面に隨ひ、持戒の比丘有りて、正法を護持し、法を壞する者を見ては、即ち能く駈遣くけんし、呵嘖かしゃく懲治ちょうじせん。是我が弟子、眞の聲聞なり。當に知るべし。是の人は福を得ること無量なり」、「若し善比丘ありて、法を壞する者を見て、置きて呵責し駈遣し擧處こしょせずんば、當に知るべし。是の人は佛法の中の怨なり」と。又『大集經だいじっきょう』の二十八に云く、「若し國王有りて、我が法滅するを見、捨てて擁護せずんば、無量世に於て、施・戒・慧を修すも、ことごとく皆滅失して、其國内に三種の不祥事を出し、乃至命終みょうじゅうして大地獄に生ず」と。又同經どうきょうの三十一に云く、「佛の言く、大王、如法の比丘一人を守護して、無量の諸の悪比丘を護らざれ。我れ今、唯二人の掌護を聽す。一には羅漢らかん八解脱はちげだつを具す。二には須陀洹しゅだおんの人なり」と。云云 是の如きの制文、往往に數多すうたなり。皆是正法の時の制文にして、像末敎に非ず。然る所以は、像季・末法には、正法を行ぜざれば法のおかすべき無し。何ぞ毀法きぼうと名けんや。戒の破すべき無し。誰か破戒と名けんや。又其時の大王には、行の護るべき無し。何に由りてか三災を出し、及び施・戒・慧を失せんや。又、像・末の時には、證果の人無し。如何して彼に二聖を護るを聽すことを明さんや。故に知ぬ、上の所説は、皆正法の世、持戒有るの時、破戒有るに約するが故なることを。

現代語訳

《問》 諸々の経律の中に、広く破戒〈重大な律儀を破ること。あるいは破ったその僧〉を制して、入衆〈僧伽の成員とすること〉を許していない。破戒自体そもそも許されないのだ。ましてや無戒〈戒を受けずに僧を自称すること、あるいは僧を自称する者〉は言うまでもない。ところが、今重ねて末法における無戒を論じている。どうして瘡蓋もないのに、自ら傷つけようというのか。

《答》 その言い分は誤っている。正法・像法・末法それぞれの行事は、広く諸々の経に載っている。内外ないげ の道俗で、それらを開き読まない者など無いであろう。どうして(僧でありながら)自身の邪活を貪り求め、国家を安んずる正法を隠蔽させることがあろうか。ただ今(私が)論じているのは、末法にはただ「名字みょうじの比丘」のみが有る、ということにある。この名字(の比丘)を世における真の宝とする以外、他に(世間に平安という実りをもたらす)福田ふくでんは無いのだ。たとえ末法において持戒の者があったとしても、もはやそれは怪異けい〈漢音では「かいい」〉である。市中に虎が現れるようなものだ。それを誰が信じるというのか

《問》 正法・像法・末法の事が、すでに諸経に説かれているのを見ることが出来た。では末法における名字(の比丘)を、世の真の宝とすることは、いずれの聖典に出ているのか。

《答》 『大集経』巻九に、「譬えば純金を無価の宝とするようなものである。もし純金が無ければ、銀を無価の宝とする。もし銀が無ければ、真鍮や偽の宝をもって無価の宝とする。もし偽の宝も無ければ、赤白色の銅や鉄、白銅・鉛・錫を、無価の宝とする。そのように、あらゆる世間では、仏法は無価である。もし仏法が無ければ、縁覚が無上である。もし縁覚が無ければ、阿羅漢が無上である。もし阿羅漢も無ければ、その他の賢者・聖者の衆をもって無上とする。もしその他の賢者・聖者の衆も無ければ、得定の凡夫をして無上とする。もし得定の凡夫もなければ、浄持戒(の比丘)を無上とする。もし浄持戒が無ければ、漏戒〈破戒に同じ〉の比丘をもって無上とする。もし漏戒も無ければ、(戒を受けてもおらずして)髭と髪を剃り、身に袈裟衣をまとっただけの名字の比丘を無上とする。他の九十五種の異道と比したならば、(名字の比丘であっても)最も第一である。まさに世間の供養を受け、物の福田となるであろう。なんとなれば、出家者と言いながら形ばかり・名ばかりであるというその存在が、衆生から怖れられるためである。もし(そのような名字の比丘を)後援し、養育し、大切にしたならば、その人は久しからずして無生法忍の境地に至るであろう」以上、経文からの引用 と説かれている。この文の中に、八重で無価(の宝)が説かれている。いわゆる①如来と、②縁覚と、③(阿羅漢たる)声聞と、④および前三果〈預流・一来・不還〉と、⑤得定の凡夫と、⑥持戒の比丘と、⑦破戒の比丘と、⑧無戒の名字(の比丘)とが、この順序のまま、それぞれが正法・像法・末法という時における無価の宝である。初め四つは正法の時の、次の三つは像法の時の、最後の一つが末法の時(の無価の宝)である。これによって明らかに知られるであろう、破戒・無戒(の比丘)であっても、みな実に真の宝であることが。

《問》 慎んで先ほどの(『大集経』の)文を観ると、破戒名字(の比丘)も真の宝でないことは無い。(では)何が故に、『涅槃経』や『大集経』などの経には、「国王・大臣が破戒の僧に供養したならば、国に三災が起こり、遂には(来世、)地獄に転生する」と説かれているのか。破戒(の比丘)ですらそのようである。まして「無戒(の比丘)」であれば、さらに言うまでもない。ならば、如来は「破戒(の比丘)」について一方では批判し、他方では賞賛していることになる。どうして一聖〈一仏陀〉の文において、両判〈二律背反〉の過失があろうか。(如来がそのような過失を犯すはずがないであろうに。)

《答》 その言い分は誤っている。『涅槃経』などの経は、仮に正法の世における破戒を制したものである。像法・末法の比丘についてではない。(比丘という)その称は同じであっても、時代によって異なりがあるのだ。時代に従って禁止されたり許可されたりするのが、大聖〈釈尊〉のご趣旨である。したがって世尊において、両判の過失などない。

《問》 もしそうであるとしても、どのように『涅槃経』などの経が、ただ正法(の時)における破戒を制止したものであって、像法・末法における僧についてではないと知り得るのか。

《答》 引用した『大集経』所説の八重の真宝が、まさにその証左である。すべてがその時代に応じた無価の宝であるのだから。ただし、正法の時には、破戒の比丘は清浄なる衆〈僧伽〉を穢すものであるから、仏は固く禁制して衆に入らせられなかったのだ。その根拠は、『涅槃経』第三に、「如来は今、無上の正法をもって諸々の王・大臣・宰相・比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷に教え授けた。それら諸々の国王・大臣、および四部の衆〈比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷〉は、まさに諸々の学人などに説き勧め、増上の定・戒・智慧とを獲得させよ。もしこれら三品の法〈三学〉を学ぶことなく懈怠し、破戒して正法を誹謗する者があれば、王者・大臣、四部の衆は、まさにねんごろにその行いを改めさせよ。そのような王者・大臣などは、無量の功徳を得て、まさに極ささいな罪もあることは無いであろう」、「我が涅槃の後には、その方面(それぞれの土地土地)に持戒の比丘があって正法を護持し、(僧伽の中に)法を歪める者があれば、ただちに駈遣くけん〈別住させること〉し、呵嘖かしゃく〈厳しく叱り、諫めること〉し、懲治ちょうじ〈律によって相応の処断すること〉するであろう。それこそ我が弟子、真の声聞〈教えを聴く者。弟子〉である。まさに知るべきである、その人は福を得ること無量であると」、「もし善比丘があって、法を歪める者を見ても、それを放置し、駈遣くけんし、呵嘖かしゃくし、挙処こしょ〈罪であることを指摘して処断すること〉もせずにおく者があれば、まさに知るべきである、その人は仏法における怨である」と説かれている。また『大集経』の巻二十八に、「もし国王あって我が法の滅するのを見、捨ておいて擁護しなければ、無量世において施・戒・慧を修したとしても、ことごとく皆(その功徳は)滅失して、その国内に三種の不祥事〈三災〉を出し、乃び命終みょうじゅうした後は大地獄に生じる」とある。また、同経どうきょうの巻三十一には、「仏は『大王よ、如法の比丘一人を守護して、無量の諸々の悪比丘を護ってはならない。私は今、ただ二人を掌護することを聴す。一つには阿羅漢あらかん八解脱はちげだつを備えたものである。二つには須陀洹しゅだおんの人である』と説かれた」とある。このような制文は、往往にして数多あまたである。皆それらは正法の時の制文であって、像・末教ではない。その根拠は、像季・末法には、正法を行じられないのであれば、法としておかすべきもの自体が無いのだ。どうしてそれを毀法きぼう と言えようか。戒として破すべきものが無いのである。誰がそれを破戒と名づけるであろうか。また、その時の大王には行として護るべきものも無い。何に由って三災を出し、及び施・戒・慧を失うことがあろうか。また、像法・末法の時には証果の人も無い。どうやって彼に二聖を護ることを聽されたと明されたのであろうか。したがって、知られるであろう、上の所説はすべて、正法の世において持戒(の比丘)がある時には破戒のあることに対したものである、ということから(ただ正法における破戒を制止し、像法・末法における僧についてではないと、知り得るの)でだ。