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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

最澄『末法灯明記』(偽書)

原文

本朝沙門㝡澄撰

夫範衞一如。以流化者法王。光宅四海。以埀風者仁王。然則。仁王法王。互顯而開物。眞諦俗諦。逓因而弘敎。所以玄籍盈乎宇内。嘉猷溢乎天下。爰愚僧等。率容天網。俯仰嚴科。未遑寧處。然法有三時。人亦有三品。化制之旨。依時興替。毀讚之文。遂人取捨。夫三古之運。盛衰不同。五五之機。慧悟又異。豈據一途齊。復就一理整乎。故詳正像末之階降。或彰破持僧之行事。於中有三。初決正像末。次定破持僧之事。後擧敎比例。

初決正像末者。諸説不同。且述一説。大乘基。引賢劫經言。佛涅槃後。正法五百年。像法一千年。此千五百年後。釋迦法滅盡。不言末法。準餘所説。尼不修八敬而懈怠故。法不更増。故不依彼。又涅槃經。於末法中。有十二萬大菩薩衆。持法不滅。此據上位故亦不用。

問云若爾者。千五百年之内行事如何。

答按大術經。佛涅槃後。初五百年。大迦葉等七賢聖次第住持。正法不滅。五百年後。正法滅盡。至六百年。九十五種外道競起。馬鳴出世。伏諸外道。七百年中。龍樹出世。摧邪見幢。於八百年。比丘縱逸。僅一二人。有得道果。至九百年。奴爲比丘。亦婢爲尼。一千年中。聞不淨観。瞋恚不欲。千一百年。僧尼嫁娶。毀謗毗尼。千二百年。諸僧尼等。倶有子息。千三百年。袈裟變白。千四百年。四部弟子。皆如獵師。賣三寶物。千五百年。倶腅彌國有二僧。互起是非。遂相殺害。仍敎法藏於龍宮也。涅槃十八。及仁王等。復有此文。準此等經文。千五百年後。無有戒定慧也。故大集經五十一言。我滅度後。初五百年。諸比丘等。於我正法。解脱堅固。初得聖果名爲解脱 次五百年。禅定堅固。次五百年。多聞堅固。次五百年。造寺堅固。後五百年。鬪諍堅固。白法隠沒。云云 此意。初三箇五百年。如次。戒定慧三法堅固得住。即上所引。正法五百。像法一千。二時是也。造寺以後。幷是末法。故基般若會釋云。正法五百年。像法一千年。此一千五百年後。行之正法滅盡。故知。造塔以後。幷屬末法。

問云若爾者。今世正當何時。

答滅後年代。雖有多説。且擧兩説。一法上法師等。依周異記言。佛當第五主穆王滿五十三年壬申入滅。若依此説。從其壬申至我延暦二十年辛巳。一千七百五十歳。二費長房等。依魯春秋。佛當周第二十一主匡王班四年壬子入滅。若依此説。從其壬子至我延暦二十年辛巳。一千四百十歳。故知。今時是像法最末時也。彼時行事。旣同末法。然則。於末法中。但有言教。而無行證。若有戒法。可有破戒。旣無戒法。由破何戒。而有破戒。破戒尚無。何況持戒。故大集云。佛涅槃後。無戒滿州。云云

訓読

本朝沙門㝡澄撰

一如いちにょ範衛はんえいして、以てく者は法王ほうおうなり。四海に光宅こうたくして、以てふうを垂るる者は仁王にんおうなり。然れば則ち、仁王と法王と、互にあらはして物を開き、眞諦しんたい俗諦ぞくたいと、たがひに因りて敎を弘む。所以ゆえ玄籍げんしゃく宇内うだいちて、嘉猷かゆう、天下にあふる。ここに愚僧等、天網てんもうに率容し、嚴科ごんか俯仰ふごうす。未だ寧処ねいしょするにいとまあらず。然るに法に三時さんじ有り、人に亦三品さんぼんあり。化制けせいの旨、時に依りて興替こうたいし、毀讃きさんの文、人をひて取捨す。夫れ三古さんこの運、盛衰同からず。五五ごごの機、慧悟又異り、豈一途いっとに據りてすくひ、復一理に就きて整へんや。故にしょうぞうまつの階降をつまびらかにし、或は破持僧の行事をあらはす。中に於て三有り。初には正・像・末を決し、次には破持僧の事を定め、後には敎を挙げて比例す。

初に正・像・末を決すとは、諸説同からず。しばらく一説を述べん。大乘の賢劫經げんごうきょう』を引きて言く、「仏涅槃の後、正法五百年、像法一千年、此千五百年の後、釈迦の法滅盡す。末法を言はず」と。所説しょせつに準ぜば、「尼、八敬はっきょうを修せずして懈怠けたいするが故に、法更に増せず」と。故に彼に依らず。又、涅槃經ねはんぎょうに、「末法中に於て、十二万の大菩薩衆有りて、法を持して滅せず」と。此は上位に拠るが故に亦用ひず。

問ふて云く。若し爾らば千五百年の内の行事は如何。

答ふ。大術經だいじゅつきょうあんずるに、「仏涅槃の後、初の五百年には、大迦葉だいかしょう等の七賢聖しちけんじょう次第に住持して、正法滅せず。五百年の後、正法滅尽す。六百年に至りて、九十五種の外道げどう競ひ起る。馬鳴めみょう出世して、諸の外道を伏す。七百年中に、龍樹りゅうじゅ出世して、邪見のはたくだく。八百年に於て、比丘縱逸じゅういつして、僅に一二人、道果を得ること有り。九百年に至りて、奴を比丘と爲し、亦婢を尼と爲す。一千年中には、不淨観を聞き、瞋恚して欲せず。千一百年には、僧尼嫁娶かしゅして、毗尼びに毀謗きぼうす。千二百年には、諸の僧尼等、倶に子息有り。千三百年には、袈裟けさしろに變ず。千四百年には、四部の弟子、皆猟師の如し。三宝物を売る。千五百年には、倶腅彌國くせんみこくに二僧有り。互に是非を起して、遂に相ひ殺害す。仍て敎法、龍宮に蔵る」と。涅槃ねはん』の十八、及び仁王にんのう等に、また此文有り。此等の經文きょうもんに準ずるに、千五百年後にはかいじょうあること無し。故に大集經だいじっきょう』の五十一に言く、「我が滅度の後、初の五百年、諸の比丘等、我が正法に於て、解脱げだつ堅固けんごなり。初に聖果を得、名ずけて解脱と爲す 次の五百年には、禅定ぜんじょう堅固なり。次の五百年には、多聞たもん堅固なり。次の五百年には、造寺ぞうじ堅固なり。後の五百年には、闘諍とうじょう堅固なり。白法びゃくほう隠沒す」と。云云 此意は、初の三箇の五百年は、ついでの如く、戒と定と慧との三法堅固にして住することを得。即ち上に引く所の、正法五百と、像法一千との二時是なり。造寺以後は、幷に是末法なり。故に基の般若會釋はんにゃえしゃくに云く、「正法五百年、像法一千年、此一千五百年の後は、行はるの正法滅盡す」と。故に知ぬ、造塔以後は、ならびに末法に屬することを。

問て云く。若ししからば、今の世は正く何の時に當るや。

答ふ。滅後の年代に、多説有りといへども、且く兩説を擧ぐ。一には法上ほうじょう法師等、周異記しゅういきに依りて言く、「佛、第五の主、穆王滿ぼくおう まんの五十三年壬申じんしんに當りて入滅す」と。若し此説に依れば、其壬申從り我が延暦二十年辛巳しんしに至るまで、一千七百五十歳なり。二には費長房ひちょうぼう等、魯の春秋しゅんじゅうに依りて、「佛、周の第二十一主、匡王班きょうおう はんの四年壬子じんしに當りて入滅す」と。若し此説に依れば、其壬子從り我が延暦二十年辛巳に至るまで、一千四百十歳なり。故に知ぬ、今の時は是、像法最末の時なることを。彼時の行事は、旣に末法に同ず。然れば則ち、末法の中に於て、但言敎ごんきょうのみ有りて、而も行證ぎょうしょう無し。若し戒法有れば破戒有るべし。旣に戒法無し。何の戒を破するに由りて、而も破戒有らん。破戒さらに無し、いかいはんや持戒をや。故に大集だいじゅうに云く、「佛涅槃の後には、無戒、州に滿つ」。云云

脚註

  1. 眞諦しんたい俗諦ぞくたい

    諦は真理の意。仏教では、真理に二つの階層を設ける。真諦とは出世間における、言葉で表現し得ない究極の真理。俗諦は言葉にて語り得る、世間一般にて承認されている道理。
    少々不適当かもしれないけれども、これを物理学の話で例えると俗諦とはニュートンに代表される古典物理学であり、真諦とは量子力学にて観察される真理。いずれも数式にて一応表現できるものであるから、量子力学を真諦とすることは妥当でないかもしれないが、ときに全く矛盾するも互いに真理ではあるという点では適当であろうか。

  2. 玄籍げんしゃく

    仏典、または仏教自体。

  3. 宇内うだい

    世界。

  4. 嘉猷かゆう

    喜ばしい道。ここでは善政の意。

  5. 天網てんもう

    天道。天が地の有り様を見て漏らすことがないのは、隅々にまで巡らした網のようなものであることの謂。『老子道徳経』「天網恢々、疎にして漏らさず」。
    ここでは律令格式という法の網が、日本の隅々にあますことなくめぐらされていることを言わんとしたもの。

  6. 嚴科ごんか

    厳しい刑法、刑罰。ここでは特に「僧尼令」を意図したものであろう。『末法灯明記』の偽作者が、平安中後期の当時ほとんどまったく空文化して機能しなくなっていた「僧尼令」に言及し、あたかも最澄の当時に書かれたものであるかのように偽装したもの。
    そもそも「僧尼令」が実効性あるものであった平安初期の当時であっても、それによって僧尼が「未遑寧處」となることなど無かった。むしろ最澄自身も「僧尼令」に一部抵触することを行っていたが、「僧尼令」が厳密に運用され、僧尼がこれを固く遵守していたということは無かったことが『続日本紀』など史書から伺える。したがって、そのような「僧尼令」の実際を知らぬ後代の者が大仰に「未遑寧處」などといったのである。

  7. 寧処ねいしょ

    安寧に居られる場所。安らぎの場。

  8. 三時さんじ

    釈尊が滅度されて後の時代を、正法・像法・末法と三分割した時代観。時代が下る毎に仏教が純粋に行われなくなり、ついには滅びるなどとする説を表する語。

  9. 三品さんぼん

    人の能力や立場などの上下・優劣を、上品・中品・下品の三つに分類したもの。

  10. 化制けせい

    律宗における用語で、化教と制教の二教。化教は、釈尊による対機説法で個々に示された教え。制教は、僧伽の運営・存続、ひいては仏教久住のために広く敷かれた律などの教え。すなわち、仏教を二分して言った語であって法(Dharma)と律(Vinaya)に同じ。

  11. 三古さんこ

    支那の儒教における聖人達が活躍した昔を三にわけたもの。伏儀の上古、周公の中古、孔子の下古。

  12. 五五ごごの機

    機は能力の意。五五は釈尊滅後の二千五百年を五百年毎に五つの時代(解脱堅固・禅定堅固・多聞堅固・造寺堅固・闘諍堅固)に分けた五五百歳における、人々の機根(能力)。
    ただし、異本には「後五の機」とあり、その場合は五五百歳の最後となる闘諍堅固、すなわち末法における人々の機根ということになろう。

  13. 支那唐代は長安大慈恩寺の学僧。玄奘の門下となって印度から持ち帰られた唯識の重要典籍『成唯識論』の翻訳に協力。後にその注釈書『成唯識論述記』や『大乗法苑義林章』などを著し、法相宗の開祖とされる。諡号は慈恩大師。大乗基、窺基、基法師などと称される。

  14. 賢劫經げんごうきょう』を引きて言く

    基『観弥勒上生兜率天経賛』「賢劫經云。人壽一千二百歳釋迦始生都史。人壽一百歳出世作佛。都史天壽四千歳人間當五十六億七千萬歳。正法五百年。像法一千年。不論末法」(T38, p.276b)。

  15. 所説しょせつ

    窺基『金剛般若論会釈』(以下、『般若会釈』)「佛初記別正法一千年像法一千年。末法一萬年。由度女人。滅減正法唯五百年。於中兩説。一云正法。今者但五百年由度女人。減五百年。歳雖説八敬不減正法。由彼不行正法還滅」(T40, p.736a)を言ったものか。

  16. 八敬はっきょう

    八敬法の略。釈尊がその養母、摩訶波闍波提(マハーパジャーパティー)から女性の出家の聴しを阿難尊者を介して再三に渡って乞われ、ついに許された際、その絶対条件として提示された、比丘尼たる者が終生必ず保たなければならない八つの規定。八重法、八不可超法とも。
    その八つとは、①(比丘尼がその)法臘百歳であっても(法臘)一歳に満たない比丘に対して礼拝・奉迎等しなければならない。②比丘を罵ったり謗ったりしてはならない。 ③比丘の罪・過失をみても、それを指摘したり、告発したりしてはならない。④式叉摩那として二年間過ごした後に具足戒を受ける。⑤僧残罪を犯した比丘尼は、半月別住したのち、比丘・比丘尼の両僧伽で懺悔しなければならない。⑥半月毎に比丘のもとに教誡を受けなければならない。⑦比丘のいない場所で、安居してはならない。⑧安居が終われば、比丘のもとで自恣を行わなければならない、というもの(ただし、律蔵によって内容と順序に若干の相違がある)。
    仏陀が女性の出家を許された際、女性が出家したことによって千年は正しく伝わったはずの教え(正法)が、半分の五百年になるであろうとされた。

  17. 涅槃經ねはんぎょう

    曇無讖訳『大般涅槃経』(以下、『涅槃経』)巻十八「爾時凡夫各共説言。哀哉佛法於是滅盡。而我正法實不滅也。爾時其國有十二萬諸大菩薩善持我法」(T12, p.474a)の取意引用であろう。慧厳訳『涅槃経』にもこれと全同の一節がある(T12, p.716a)。

  18. 大術經だいじゅつきょう

    『摩訶摩耶経』巻下「佛涅槃後。摩訶迦葉共阿難結集法藏。事悉畢已。摩訶迦葉於狼跡山中入滅盡定。我亦當得果證。次第隨後入般涅槃。當以正法付優婆掬多。善説法要如富樓那廣説度人。又復勸化阿輸迦王。令於佛法得堅固正信。以佛舍利廣起八萬四千諸塔。二百歳已。尸羅難陀比丘。善説法要。於閻浮提度十二億人。三百歳已。青蓮花眼比丘。善説法要度半億人。四百歳已牛口比丘。善説法要度一萬人。五百歳已寶天比丘。善説法要度二萬人。八部眾生發阿耨多羅三藐三菩提心。正法於此便就滅盡。六百歳已。九十六種諸外道等。邪見競興破滅佛法。有一比丘名曰馬鳴。善説法要降伏一切諸外道輩。七百歳已。有一比丘名曰龍樹。善説法要滅邪見幢然正法炬。八百歳後。諸比丘等樂好衣服縱逸嬉戲。百千人中或有一兩得道果者。九百歳已。奴為比丘婢為比丘尼。一千歳已。諸比丘等聞不淨觀阿那波那瞋恚不欲。無量比丘。若一若兩思惟正受。千一百歲已。諸比丘等。如世俗人嫁娶行媒。於大眾中毀謗毘尼。千二百歳已。是諸比丘及比丘尼。作非梵行。若有子息。男為比丘。女為比丘尼。千三百歳已。袈裟變白不受染色。千四百歳已。時諸四眾猶如獵師。好樂殺生賣三寶物。千五百歳。俱睒彌國有三藏比丘。善歳法要徒眾五百。又一羅漢比丘。善持戒行徒眾五百。於十五日布薩之時。羅漢比丘。昇於高座説清淨法云。此所應作此不應作。彼三藏比丘弟子答羅漢言。汝今身口自不清淨。云何而反説是麤言。羅漢答言。我久清淨身口意業無諸過惡。三藏弟子聞此語已倍更恚忿。即於座上殺彼羅漢。時羅漢弟子而作是言。我師所説合於法理。云何汝等害我和上。即以利刀殺彼三藏。天龍八部莫不憂惱。惡魔波旬及外道眾踊躍歡喜。競破塔寺殺害比丘。一切經藏皆悉流移至鳩尸那竭國。阿耨達龍王悉持入海。於是佛法而滅盡也」(T12, pp.1013b-1014a)の略抄引用であろう。
    本文に「奴爲比丘。亦婢爲尼(奴を比丘と為し、亦婢を尼と為す)」とあって、仏教が荒廃しだした時代の証とされているがこれには理由がある。それは、奴隷の者(つまり誰かに所有されている状態の者)が比丘になることは出来ず、それは律の禁じるところの行為のためである。現役の役人・軍人、奴隷や負債を抱えている者、なんらかの感染症を患っている者等は、比丘あるいは比丘尼になれない。それら比丘・比丘尼になれない諸々の条件は「遮難」と言われ、その条件のうちいずれか一つでも抵触したら人は比丘または比丘尼になることが出来ない。人が出家して比丘となるために具足戒を受けるときは、それら諸条件に抵触しないかを必ず尋ねられる。にも関わらず、その様な者を比丘や比丘尼にするのは、律の規定を僧伽あるいは授戒に関わる比丘達が守らず、秩序が全く乱れていることを示している。なお、律の規定する諸条件に抵触していながら欺いて具足戒を受け比丘となった者が、後に虚偽であったことが発覚した場合は、その時点で比丘の身分を失い僧伽から追放される。
    これに続いて様々に「比丘・比丘尼にあるまじき行為」の数々が列挙され、時代の荒廃していく様を予言として描いている。皮肉なことに「不浄観(この世のすべては不浄であることを知る修習)を欲せず、これに怒る」・「僧侶でありながら妻帯する」・「律を(不要だ、時代錯誤だなどと)そしる」・「僧侶でありながら子供をもうける」・「白い袈裟を着用する」など、それらすべてが、少なくとも日本においてまさに現実のものとなっているから面白い。

  19. 七賢聖しちけんじょう

    仏滅後、僧伽を主導して仏法を伝えたとされる、摩訶迦葉・阿難・優波掬多・尸羅難陀・青蓮華眼・牛口・宝天の七人の比丘(『摩訶摩耶経』・『三論玄義』・『法苑珠林』説)。

  20. 九十五種の外道げどう

    世界のあらゆる九十六種の諸思想・宗教から仏教を除いたもの。
    本来、外道には九十六種あると云われ(『長阿含経』「梵網経」)、それは六師外道にそれぞれ十五人の弟子が各個に独自の思想を展開したとされることによる(6+6×15=96)。

  21. 馬鳴めみょう

    Aśvaghośa(アシュヴァゴーシャ).起源100年頃の印度僧にして偉大な詩人。支那以来、日本でも『大乗起信論』の著者としても尊敬される。

  22. 龍樹りゅうじゅ

    Nāgārjuna(ナーガールジュナ).2-3世紀の南印度僧。もと説一切有部の僧と思われるが、後に『中論』・『十二門論』・『廻諍論』など諸々の論書を著し、大乗の二大学派となる中観派の祖となる。日本では中観派に限らず、大乗における最も重要な論師、八宗の祖として称えられる。

  23. 毗尼びに

    [S/P]vinayaの音写。律のこと。

  24. 袈裟けさしろに變ず

    袈裟とはそもそも[S]kaṣāyaの音写で、汚れた色・濁った色の意であり、特に赤黒色をいった。漢訳では壊色とされる。袈裟とは衣装の名ではなく、色の名である。したがって、「白い袈裟」というのは「白い黒」と言っているようなもので、言葉としても全くありえない。実際、出家者は身にまとう衣の色は袈裟すなわち壊色でなくてはならないと規定されるが、ここではその衣の色が在家者を表す白に変じた物を出家者が付けるようになるとされる。すなわち、在家と出家の区別がつかなくなるとの意。これは『摩訶摩耶経』の一節であるが、それは見事に日本における現今の僧職者の有り様を予言したものとなっており、その全てが見事なまでに実現している。

  25. 倶腅彌國くせんみこく

    [S]Kauśāmbī/[P]Kosambīの音写。印度古代の都市で、[S]Vatsa/[P]Vaṃsaの首都。

  26. 涅槃ねはん』の十八

    曇無讖訳『涅槃経』巻十八「當爾之時我諸弟子。正説者少邪説者多。受正法少受邪法多。受佛語少受魔語多。善男子。爾時拘腅彌國有二弟子。一者羅漢。二者破戒」(T12, p.473c)。拘腅彌国に、阿羅漢と破戒僧との二人の僧があり、それぞれを信奉するグループがあった。しかし、破戒僧が、「自分は阿羅漢であり波羅夷罪を犯してもかまわない」との説を仏陀が入滅するときに直接聞いたと主張。これに対し、真の阿羅漢が「涅槃時に仏陀はそのようなことを説いておらず、波羅夷罪を犯しても罪とならないなどという主張は非法である」と反論すると、破戒僧を信奉する人々によって、阿羅漢は殺害されてしまったという。 上記『摩訶摩耶経』の説く仏滅後1500年の状況が、権威ある(?)『涅槃経』にも説かれていることを言いたいのであろう。

  27. 仁王にんのう

    『仁王般若波羅蜜護国経』(以下、『仁王経』)「佛告波斯匿王。我誡勅汝等。吾滅度後。八十年八百年八千年中。無佛無法無僧。無信男無信女時。此經三寶。付囑諸國王四部弟子受持讀誦解義。爲三界衆生開空慧道。修七賢行十善行。化一切衆生。後五濁世比丘比丘尼四部弟子。天龍八部一切神王國王大臣太子王子。自恃高貴滅破吾法。明作制法制我弟子比丘比丘尼。不聽出家行道。亦復不聽造作佛像形佛塔形。立統官制衆安籍記僧。比丘地立白衣高坐。兵奴爲比丘受別請法。知識比丘。共爲一心親善比丘爲作齋會。求福如外道法。都非吾法。當知爾時正法將滅不久」(T8, p.833b)を指しているのであろう。しかし、「吾滅度後。八十年八百年八千年中。無佛無法無僧。無信男無信女時」とあることからも、これをもって「仏滅後1500年」で末法が到来するという論拠にはなり得ない。不適切な援用である。

  28. かいじょう

    持戒と修禅と智慧に関する修学。これを一般に、増上戒学・増上意学・増上慧学の三学という。まず、戒を保った生活を送った上で、止観を行い、その結果到達した特定の心的状態において事物の真実を見極め、智慧を得て養うという、仏道修行の基本的枠組みにして大原則。

  29. 大集經だいじっきょう』の五十一

    『大方等大集経』(以下、『大集経』)「於我滅後五百年中。諸比丘等。猶於我法解脱堅固。次五百年我之正法禪定三昧得住堅固。次五百年讀誦多聞得住堅固。次五百年於我法中多造塔寺得住堅固。次五百年於我法中鬪諍言頌白法隱沒損減堅固」(T13, p.363b)。ただし、この一節は現存の『大集経』において巻五十一でなく、巻五十五にある。

  30. 般若會釋はんにゃえしゃく

    基『金剛般若論会釈』「言後分者明非正法一千年内即證果時。言後五百年者。於其像法一千年内行欲滅時。非初五百年行盛興時。此後分四。一後時。初五百年。二後分。次五百年。三後五百歳。第三五百年。四正法將滅時分轉時。第四五百年。即行正法。後將滅時」(T40, p.736b)の取意引用であろう。先に基の説を取らないとしておきながら、ここで先に引いた基の書を持ち出してその根拠とする態度はまったく不適当・不合理のいわゆる「ご都合主義」であって、紛れもない我田引水と言わざるを得ない。

  31. 法上ほうじょう法師

    支那の南北朝時代(6世紀頃)、地論宗南道派の中心的人物。僧統(日本で言う僧綱)の長(大統)として僧尼・寺院を統括する立場にあった。漢訳経典の目録『衆経目録』(現存しない)の編者。

  32. 周異記しゅういき

    『周書異記』。支那周代における、正史には記載されない異聞が記されたもの。唐代の初め、儒教に対する仏教の優位性を主張する為に偽作されたものという。現存しない。
    したがって、法上の著作も『周書異記』も現存しないため、直接確認できない。しかしながら、668年成立の『法苑珠林』では、仏滅を「周穆王五十三年」(T53, p.378b)とする『周書異記』の説を挙げている。これによって、間接的にその様な説のあった事が知られる。また、これは8世紀末に編された禅宗の史書であるが、『歴代法宝記』に「周書異記曰。昭王甲寅歳佛生。穆王壬申歳佛滅」(T51, p.179a)との説を挙げている。穆王五十三年は西暦で言えば紀元前949年。

  33. 穆王滿ぼくおう まん

    紀元前十世紀、支那の西周時代の周王。名を満といった。ここでは「第五の主」とされているが、『史記』によって初代文王から数えると満は第六代となる。

  34. 費長房ひちょうぼう

    四川省成都の人。若くして出家するも、北周の武帝の廃仏にあって強制的に還俗させられた。その後、隋の文帝に召されて都の長安に入り、翻経学士(在家の翻訳官)として訳経に従事。漢訳経典の目録『歴代三法記』十五巻を著した。
    ここで引用されるのは、その『歴代三宝記』から「佛以匡王四年壬子二月十五日後夜。於中天竺拘尸那城入般涅槃」(T49, p.23c)の一節。

  35. 春秋しゅんじゅう

    支那春秋時代の史書であり、儒教における聖典、五経の一つ。魯の史家が遺した記録に孔子が加筆したとされる、魯の隠公元年(前722)から哀公十四年(前481)までの編年史。後にその注釈書として『公羊伝』・『穀梁伝』・『左氏伝』の三伝が作られた。

  36. 匡王班きょうおう はん

    紀元前七世紀初頭の春秋時代の周の王で、名を班といった。

  37. 大集だいじゅう

    現存する『大集経』にこの通りの一節はない。また類似する一節もない。『大集経』の説く末法の趣意を言っているにしても飛躍に過ぎる。あるいは「從是以後於我法中。雖復剃除鬚髮身著袈裟。毀破禁戒行不如法假名比丘」(T13, p.363b)の下りを指しているか。いずれにせよ杜撰な引用である。あるいは著者の参照した経本にこの一文があったか。

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