律令とは、支那に始まった国家の基本法です。律は刑罰について、令は一般行政についての規定で、これに追加・補足した法令を、格・式と言います。
日本はその唐における規模に倣い、七世紀以来、律令格式を定めようとして八世紀初頭に律令が編纂され、それに遅れること一世紀から二世紀に格式が制定されていきます。律令は発布されたものの、しかしその法の網は精密でなくその抜け穴がいくつもあり、また時流によって社会も変化し多様となって、種々の問題が生じていたようです。そこでいそぎ時勢に対応した格と式との制定が求められています。
丙辰。勅。《中略》
律令格式者。錄當今之要務。具庶官之紀綱。並是窮安上治民之道。尽濟世弼化之宜。《中略》
正三位中納言兼文部卿神祇伯勲十二䒭石川朝臣年足奏曰。臣聞治官之本。要據律令。爲政之宗。則湏格式。方今科條之禁。雖著篇簡。別式之文。未有制作。伏乞作別式。与律令並行。
(天平宝字三年〈759〉六月)丙辰〈22日〉。勅す。《中略》
「律令格式とは、現今の要務を記した庶官の紀綱を具えたものである。ならびにそれは、上を安んじて民を治める道を窮めたものであり、世を済い化を助けるに最も適宜なものである」《中略》
正三位中納言兼文部卿神祇の伯勲十二等石川の朝臣年足、奏して曰く、
「臣が聞きますに、『官を治める本は要ず律令に拠り、政を為す宗は則ち格式を須いる』とのことであります。まさに今、科条の禁は篇簡に著されてはいますが、別式の文は未だ制作されておりません。伏して乞い願うことには別式を作って、律令と並び行われますことを」
『続日本紀』巻二十二 天平宝字三年六月壬子条
(新訂増補『国史大系』普及版, 『続日本紀』前篇, pp.263-264)
この条には、淳仁天皇が当時の官人の腐敗、特に人事が濫用されていたことに苦言を呈し、それを引き締めるための勅と、中納言石川年足の奏が伝えられています。当時の法は、これはむしろいつの世も変わらないことと言えますが、いわゆる「網、呑舟の魚を漏らす」ものであったのでしょう。その中、律令格式とはいかなるものであるかの当時の認識が見られます。
そこでまた、律令格式とはいかなるものか、それぞれの違いがごく簡潔に表されているのが『弘仁格式序』です。
盖聞。律以懲粛為宗令以勸誡為本。格則量時立制式則補闕拾遺。四者相須𠯣以垂範譬猶寒暑𨓝以成嵗昏旦逓而育物
聞くところによると、「律は懲粛〈懲らしめ、戒めること〉をもって宗とし、令は勧誡〈善を勧め、悪を戒めること〉を以て本とし、格はすなわち時を量 って制を立て〈時代・時勢に即した追加法令〉、式は則ち闕けたるを補い遺れるを拾う〈律令の補足〉」ということである。これら四つは、相互に用いることで範を垂るに充分なものである。譬えば、寒暑𨓝って歳をもたらし、昏旦〈朝夕〉逓って物を育てるようなものである。
『弘仁格式序』(『類聚三代格』)
これをよりわかりやすいよう、表にすれば以下の通り。
律 | 懲粛 | 刑罰 |
---|---|---|
令 | 勧誡 | 教令 |
格 | 量時立制 | 単行法(臨時詔勅) |
式 | 補闕拾遺 | 施行細則 |
日本で格式が公布されるのは平安期、桓武帝の「延暦交替式」以来のことであり、その最初は支那の律あるいは令に倣ったものが編纂され施行されていました。以上のように律令格式はそれぞれ異なる位置づけがなされたものではあります。しかし、日本では厳密にその相異が意識され、それぞれ厳密に編纂されたわけでは必ずしもありません。
そもそも、律令制を布く国家すなわち支那では本来、科挙というすこぶる難関な試験を突破した精鋭の官僚らにより、天子(皇帝)を頂点とした官僚機構が作られ、政がなされていました。しかし、日本は科挙という制度抜きに導入しています。そもそも天皇が血統であり、また日本の貴族には臣籍降下や降嫁によってその血統を引く者があり、支那と同様の科挙を導入することは出来いという事情もあったのでしょう。
ただ、日本が目指した律令制の導入は、本来のそれと比べたならばおかしなものであったと言えます。法典は当時先進文明の中心地であった唐のそれを模倣したけれども、その運営はほとんど世襲による貴族というのですから、導入当初から世襲の弊害、血族による恣意的な権力掌握という問題をたやすく生じさせるものでした。
もっとも、世襲を主とすることには短所しか無いとは言えず、特に当時の日本社会の構造からすれば、世襲であるが故に円滑に政治が行い得る、あるいはその継承・教育が容易いという面も確実にあったと言えます。科挙という超難関を突破するごく一部の精鋭が政を担ったとしても、むしろその故に専横がまかり通ります。難関を突破するだけの能力のある者が人格的にも超然としているなどということは決してなく、いずれにせよ人が一度権力を握ったならば暴走や腐敗にたやすく傾くことは歴史が証明しています。
ただし、科挙の制を除いて導入された律令制はその後、いわゆる院宮王臣家や寺院に富と力が集中するようになって崩壊していきます。
天武天皇が、未だ体系的成文法無き日本を唐代の支那に倣った法治国家、文明国家とするべく律令制定の詔を発したのが天武天皇十年〈681〉。これによって、律令としては不完全ながらも、天武天皇没後の持統天皇三年〈689〉、ついに「 飛鳥清御原令」全二十二巻が発布されます。
そして、唐の『永徽律令』に倣い、律令としてより完成したものを目ざして、刑部親王や藤原不比等などによって編纂され、まず「令」が成立したのが文武天皇四年〈700〉。翌年の大宝元年〈701〉に施行されています。施行に際しては諸官人および僧綱、諸国の役人に対し、その内容について講義が行われています。そして「令」に遅れること一年、大宝元年〈701〉に「律」が成立し、翌二年〈702〉には発布されています。それがいわゆる『大宝律令』であり、日本初の独自の律令であったと考えられているものです。
といっても、唐代の支那の模倣であった律令には日本の国情にそぐわない点があったようで、『大宝律令』が制定された後も藤原不比等を中心とした官人らはその改修作業を進めています。しかし、養老四年〈720〉に不比等が死亡したことによりその作業は中断。その後、孝謙天皇代の天平宝字元年〈757〉、不比等の孫である藤原仲麻呂 主導のもとに改修され、ここにようやく新しい律令『養老律令』が施行されます。一般に、『養老律令』は『大宝律令』の細かい点をいくぶんか改修したに過ぎず、その大枠は結局ほとんど同じであったと云われています。
ただし、「飛鳥浄御原令」と『大宝律令』・『養老律令』のいずれもそれ自体としては現存していません。しかしながら、『養老律令』はその公撰の注釈書『 令義解』および私撰の『令集解』に、ほとんど全文が収録されており、今もその内容を知る事が出来ます。
本稿で紹介している「僧尼令」は、『令義解』に注釈として割注がなされ収録されたものです。『令義解』は公的になされたものであって法的効力を持ったものではありますが、編纂されたのは『大宝律令』が施行されて一世紀以上も後の淳和天皇代、天長十年〈833〉のことです。そしてそれはあくまで天平宝字元年〈757〉に施行された『養老律令』における「僧尼令」に対するものであるため、必ずしも『大宝律令』施行当時の理解や運用そのままではないであろうことに注意する必要があります。