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「僧尼令」(『令義解』)

「僧尼令」の編纂

「道僧格」と「僧尼令」

「僧尼令」とは、国が仏教の僧尼を統制するための法令で、先に述べたように大宝元年〈701〉に発布された『大宝律令』に含まれ、それがまた改修されて天平宝字元年〈757〉に施行された『養老律令』の編目の一つです。これは、僧尼が国家や社会を混乱させ、あるいは仏教の戒律を犯すことを防ぐためのもので、もし犯す者があった場合には、国家としてこれをいかに罰するかを定めた法規です。

国家が仏教教団の組織や活動について定めた法は、『大宝律令』以前に布かれていた『飛鳥浄御原令』にその原型があったようです。しかし、それが一切現存していないため、その真偽および詳細を知ることは出来ません。

そもそも「僧尼令」は、支那の「道僧格どうそうきゃく」を範としたものです。「道僧格」とは唐太宗の治世、貞観年間〈627-649〉に布かれた、支那の道教における道士・女冠および仏教の僧尼を監督するための法規です。日本では道教の思想はともかくとして、宗教として受容され信仰されることはなかったため、道教に関するものは不要であってこれを廃し、ただ仏教の僧尼についての規定に限定して編纂されたのが「僧尼令」です。

支那では「格」であったのが日本では「令」、すなわち特に官人・役人への教令の一篇として編纂されたのですが、しかし内容的には諸々の罰則が規定されていることからむしろ「律」と言えたものです。なお、「道僧格」は支那でもすでに散逸して現存しておらず、日本の『令義解』などでそのごく一部が僅かに言及されるのみとなっています。

したがって、「僧尼令」がどの程度「道僧格」と同じであるかの正確なところは知られません。それほど大きく異なっていたとは考えにくいものですが、しかしそもそも支那と日本では政治体制や官僚機構が異なっていることから全く同じであることはあり得ません。

仮に「道僧格」における僧尼に対する禁則と「僧尼令」のそれが大同小異だとして、それはただ国家が無闇矢鱈に僧尼を規制・管理しようとした諸規定で占められたものではありません。その内容からすると、仏教に基づきつつ(国を安寧に導く核心思想となることを期待した)国家としても破戒を取り締まり、仏教教団としての綱紀粛正を図るために編纂されたものでもあったことによく注意しなければなりません。

そもそも、「僧尼令」が発布施行されたのは大宝元年であり、それはいまだ鑑真などによって仏教僧としての正統にして唯一の根拠となる戒律(具足戒)が伝来する半世紀も前のことです。これも今までそれほど留意されていないようですが、たしかに認識していなければならない点です。具足戒がいまだ伝えられていない以上、なんらか僧尼を規制する法が国として必要であったのですが、それが無闇に僧尼を縛るだけの無根拠なものであってはなりません。

「僧尼令」は発布にあたり、大安寺にてその内容の講説がなされています。

六月壬寅朔。令正七位下道君首名説僧尼令于大安寺。
(大宝元年〈701〉)六月壬寅じんいん〈1日〉、正七位下道君首名みちのきみおびとなをして「僧尼令」を大安寺〈当時の名は大官大寺.「僧尼令」施行当時は未だ現在の平城京の地にはなく、高市郡夜部村にあって当初は高市大寺と称したが677年に大官大寺と改称〉にて講説させた。

『続日本紀』巻二 大宝元年六月壬寅条
(新訂増補『国史大系』普及版, 『続日本紀』前篇, p.11)

ただ発布するだけではもちろん意味はなく、このようにその内容をまず僧尼を統括する職にある僧に詳説する必要があったのでしょう。これが大官大寺にて行われたということは、僧官など当時の名だたる僧を集めて行われたと思われます。

律師道光

ところで、時代が前後しますが、いまだ「僧尼令」が編纂・施行されていなかった当時、具足戒は未だ伝わっていなかったとは言え、唐で僧の具足戒の根拠としてその主たる位置を『十誦律』に変わり占めていた律蔵『四分律』、および道宣によるその注釈書『行事鈔』を唐で学び、持ち帰った者がありました。遣唐留学僧としては最初に派遣された十三人の一人、道光です。

第四十代天武天皇御宇白鳳四年乙亥四月請僧尼二千四百餘人大設齋會。僧尼雖多未傳戒律。天武天皇御宇詔道光律師爲遣唐使令學律藏。奉勅入唐經年學律。遂同御宇七年戊寅歸朝。彼師即以此年作一巻書名依四分律抄撰録文。即彼序云。戊寅年九月十九日大倭國浄御原天皇大御命勅大唐學問道光律師撰定行法已上 奥題云。依四分律撰録行事卷一已上。淨御原天皇御宇已遣大唐令學律藏。而其歸朝與定慧和尚同時。道光入唐未詳何年當日本國天武天皇御宇元年壬申至七年戊寅歳者。厥時唐朝道成律師滿意懷素道岸弘景融濟周律師等盛弘律藏之時代也。道光定謁彼律師等習學律宗。南山律師行事鈔應此時道光賷來。所以然者。古德記云。道宣律師四分律鈔自昔傳來。而人不披讀空送年月。爰道融禪師自披讀之爲人講之。自爾已後事鈔之義人多讀傳。已上取意。
 第四十代天武天皇の御宇〈672-686〉、白鳳四年乙亥いつがい〈675〉四月、僧尼二千四百余人を請して大いに斎会〈僧尼に対する昼食の供養〉が設けられた。もっとも、僧尼の数は多くあったけれども未だ戒律は伝わっていなかった〈正統な仏教僧尼が不在であったことの指摘〉。そこで天武天皇の御宇、詔して道光律師を遣唐使(の一員)として律蔵を学ばせることとした。(そのため道光は)勅を奉じて入唐し、年を経て律を学んだ。そして遂に同御宇七年戊寅〈678〉、帰朝した。その師〈道光〉はそこでこの年、一巻の書を著して『依四分律抄撰録文えしぶんりつしょうせんろくもん』と名づけた。その序には「戊寅ぼいん〈678〉九月十九日、大倭国浄御原天皇の大御命、大唐学問道光律師に勅して行法を撰定した」已上とあり、その奥題には「『依四分律撰録行事』卷一」已上とある。淨御原天皇きよみはらのすめらみこと〈天武天皇〉の御宇、すでに大唐に(道光を)遣わして律蔵を学ばしめていたのであり、その帰朝は定慧和尚と同時であった。もっとも、道光が入唐したのは何年のことであったか未だ詳らかでない。
 日本国天武天皇の御宇元年壬申じんしん〈672〉から七年戊寅歳〈678〉に至るまでの当時は、唐朝にて道成律師・満意・懷素・道岸・弘景・融濟・周律師等により、盛んに律蔵が広まっていた時代である。道光は定めてそれら律師等にまみえ、律宗を習学したのであった。南山律師〈道宣〉の『行事鈔ぎょうじしょう』はまさにこの時、道光により賷来せいらい〈もたらされること。将来〉されたのである。その然る所以は、『古徳記』〈未詳〉に「道宣律師の『四分律鈔』は昔〈道光〉より伝来していたけれども、人々は(それを)披読することはなく、空しく年月を経ていた。しかし、ここに道融禅師〈聖武天皇代、良弁に請われて梵網布薩の説戒師を為したという僧〉が自らそれを披読し、人々の為にそれを講じた。それより以後、『行事鈔』の意義は人が多く読み伝えるようになった」已上取意とあることに基づく。

凝然『三国仏法伝通縁起』巻下
(新版『大日本佛教全書』 vol.62, pp.17c-18a)

こう伝えるのは奈良期からすれば遥か後代の鎌倉中期の学僧、凝然ではありますが、彼にによれば、当時いまだ正統な伝律は無かったものの、律学は道光によって一応すでにもたらされていたとされます。道光による『依四分律抄撰録文』なる書も、凝然の当時は未だ伝わっていたようであることから、これは一応信頼してよい記述であると考えられます。ただし、道光によって初めて本邦にもたらされた、律学に必須の典籍の一つ『行事鈔』が広く読まれ研究されることはなく、そもそも律蔵が講じられることもなかった、とされています。

もっとも、この『三国仏法伝通縁起』における凝然の所伝と『日本書紀』(以下、『書紀』)における道光の入唐に関する記事とは、些かの齟齬があります。『書紀』では道光が遣唐使に交じって入唐したのは白雉四年〈653〉のこととされており、ならばそれは天武帝ではなく孝徳帝の代となるためです。入唐の時期について、その年代が白雉か白鳳か、孝徳帝か天武帝かの混乱があるのです。当時、留学僧がわずか三年の短期間で帰国することは有り得なかったため、『三国仏法伝通縁起』の記述は不正確なものとなっています。とはいえ、いずれにせよ道光という僧が派遣されたことは確実です。

なお『書紀』の所伝が正しいとすれば、それは奇しくも鑑真が日本に来朝するちょうど百年前のことで、それまで朝廷が僧尼の無戒なる状態にただ手を拱いていたわけではなかったことの一例です。道光は、持統天皇八年〈694〉四月頃に逝去していますが、その時には律師の職にあったことが知られます。

◯庚午。贈律師道光賻物。
◯(持統八年〈694〉四月)庚午〈17日〉、律師道光に賻物ふもつ〈死者の遺族に贈られる金品〉を賜われる。

『日本書紀』巻卅 持統八年四月庚午条
(新訂増補『国史大系』, vol.1, pt.2, p.422)

それがいつからのことかは不明であるものの、唐で律学を修めていたという道光が律師に任官していたことは、この数年後に施行される「僧尼令」の編纂に少なからぬ影響を及ぼしていたと考えてしかるべきです。

留学僧といえば、道昭(道照)〈629-700〉などは、唐で玄奘に師事し、同じ部屋にて起居させるほど寵愛されて唯識や『倶舎論』を直接学んでいた、とされます。その伝承の真偽はともかく、当時の唐で長年滞在するのに具足戒を受けず、また持戒の行儀を学ばずにいたとは考えられないことで、道昭など留学僧たちは必然的に戒律について最低限の教養と行儀を備えていたと見なければなりません。

道昭は、唐に滞在すること七年ばかりの斉明天皇六年頃〈660〉に帰国し、日本に初めて法相宗を伝えています。なお、この説は少々怪しいように感じられるものですが、道昭は文武二年十一月十五日に大僧都に任じられ、それが僧官として大僧都の初出だったとされています(『七大寺年表』説)。

したがって、「僧尼令」編纂に際し、そのような留学僧やすでにもたらされていた律蔵の知識も当然、その内容に影響を与えていたと考えるべきことです。律蔵以外にもまた、いつ頃かは不明なものの、七世紀のうちには確実に日本にもたらされていた、『梵網経』所説の菩薩戒いわゆる「梵網戒」の規定も「僧尼令」の内容に反映されていることは注意しておくべきことです。

目次

  1. 「僧尼令」とは
  2. 「僧尼令」の編纂
  3. 「僧尼令」発布後

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