「僧尼令」が施行された大宝二年以降、僧尼が令によく従っていたかと言えば決してそのようなことはなく、しばしば令に違反した者があったことが『続日本紀』の端々に記されています。たとえば「僧尼令」が発布されて二十年後、僧尼を監督すべき僧綱すらまともに機能せず、それに対する太政官からの苦言がなされ、これを取り締まることが奏可されています。
己卯。太政官奏言。内典外敎。道趣雖異。量才揆軄。理致同歸。比來僧綱䒭。既罕都座。縦恣横行。既難平理。彼此往還。空延時日。尺牘案文。未經決斷。一曹細務。極多擁滯。其僧綱者。智徳具足。眞俗棟梁。理義該通。戒業精勤。緇侶以之推讓。素衆由是歸仰。然以居処非一。法務不俻。雜事荐臻。終違令條。冝以藥師寺常爲住居。又奏言。垂化設敎。資章程以方通。導俗訓人。違彝典而卽妨。近在京僧尼。以淺識輕智。巧說罪福之因果。不練戒律。詐誘都裏之衆庶。内黷聖敎。外虧皇猷。遂令人之妻子剃髪刻膚。動稱佛法。輙離室家。無懲綱紀。不顧親夫。或負經捧鉢。乞食於街衢之間。或僞誦邪說。寄落於村邑之中。聚宿爲常。妖訛成羣。初似脩道、終挾姧乱。永言其弊。特須禁斷。奏可之。
(養老六年〈722〉七月)己卯 〈10日〉、太政官が奏言した。
「内典〈仏典〉と外教〈儒教や道教〉とは、その道の趣が異なっているといっても、その才を量って職を司ることなど、その理致は同一であります。この頃、僧綱〈玄蕃寮に属す寺院・僧尼の監督職〉等が都座に旗さして縦恣に横行すること久しく、もはやこれを糺し裁くことすら難しくなっております。(僧綱に任じられた僧徒らは)ただあちこち往還するだけで空しく月日を過ごし、 尺牘〈書簡〉の案文〈審議すべき事案〉は決断することなく放置し、一曹〈一官職〉としての細務〈細々とした事務〉を極めて擁滞〈滞ること〉させることあまりに多くあります。そもそも僧綱とは、智徳を具足した真俗〈出家と在家〉の棟梁である。理義〈道理と正義〉に該通〈該博な知識を有すること〉し、戒業に精勤なる者です。緇侶〈出家者〉はその故に(僧綱の職位に)推讓〈自ら譲って人を推薦すること〉し、素衆〈在家者〉はその為に帰仰〈帰依し鑽仰すること〉するものです。にもかかわらず、その居処が一つでないことを理由に法務を全うせず、雑事ばかり頻りに起こして終には令条〈「僧尼令」〉に違反しております。(そのようなことから以後は)よろしく薬師寺をもって(僧綱職に任じられた者の)常の住居とさせたまえ〈これ以降、機関としての僧綱は薬師寺に置かれ、その職位に任じられた者も同寺に居することとされた〉」
また(太政官は)さらに奏言した。
「化を垂れ教えを設けること〈仏法を広め教導すること〉は、章程〈規則・法式〉に従うことに依ってこそ四方に通じるものであります〈普遍的になること〉。俗を導き人を訓じる〈教え諭すこと〉のに彝典〈常道〉に違ったならば、それが成功することはありません。近頃、(平城)京の僧尼が、その浅はかな知識と軽い智慧でもって巧みに罪福の因果を説きまわり、戒律を練行することなくして都裏の衆庶〈民衆〉を詐誘〈欺き騙して誘うこと。ここでは仏教の名を借りて邪道に導くこと〉しています。内には聖教〈仏教〉を蔑ろにして外には皇猷〈帝による治国の道〉を損なっているのです。遂には人の妻子に剃髪・刻膚〈自らの皮膚を一部剥いで経文などを刻むこと〉させていますが、(そんな者は)ややもすれば仏法と称してたやすく室家を離れ、綱紀に則ること無く、親や夫を顧みることがなくなっております。あるいは経典を持ち鉢を携えて食を街衢〈巷〉の間に乞い、あるいは(あたかもそれが正法であるかのように)偽って邪説を誦し、村邑〈村里〉の中に寄落し聚宿〈集団で泊まること〉することが常態化して、妖訛〈でたらめ。ここでは妖しく邪な思想を吹聴する輩〉が群れをなしております。(その輩共の振る舞いは)初めは(正法の)修道に似たものではありますが、終には姦乱の様相を呈しております。長期的にその弊害を考えてみたならば、特にすべからく禁断しなければなりません」
よって、これを奏可した。
『続日本紀』巻九 養老六年七月己卯条
(新訂増補『国史大系』普及版 続日本紀』前篇, pp.93-94)
この『続日本紀』の記述からは、当時の僧綱(僧正:義淵、大僧都:観成、少僧都:辨静、律師:神叡)すらもまともに機能していなかった様子が見え、またおそらくは行基の教団が相変わらず「僧尼令」を無視し、妖しげな布教活動を行っていたことが伺えます。有名な「小僧 行基」と名指しして批判したのは養老元年四月壬辰条〈717〉においてのことですが、それから五年を経ても依然として街に跋扈する教団を取り締まることは出来なかったようです。
一昔前、戦前戦後の昭和期における史学者らは一般に、例えばその「第五 非寺院条」に基づいて、「僧尼令」とは国家が僧尼を一方的に規制して寺院に押し込め、社会における自由な救済活動や教化を妨げたものかのように考え、これを批判的に見て云う向きが非常に強くありました。一昔前の古代の歴史を解説する書籍には、おおよそ行基は当初「弾圧」であるとか「抑圧」されたかのように記されていることでしょう。しかし、そのような見方は昭和期の学会における思想的傾向が強く反映されたものであって、必ずしも正しいとは言えない、時として全く不正確なものです。
政治的・精神的に追い詰められていたであろう当時の聖武天皇が、その危機を打開するために打ち出した大仏建立の悲願を達成するための助けとして行基を引き立てる以前、行基を中心とする集団が今で言うカルト教団を形成していたことは間違いありません。このような事態は現代においてすら政治の世界で見られることでありますが、むしろ聖武天皇は、行基が強力な求心力をもってカルト教団を形成していたからこそ、その力を頼みとしたようにも思われます。行基教団には土木技術を有する者があり、その求心力にまかせて架橋などしていたことが知られます。
そこで行基は、それまで反社会的・カルト的教化活動を展開していたものの、その非法の数々は不問とされた上に突如として僧綱の、しかも行基のために新設された大僧正という位に補任されています。これによって行基は、その行業の一大転換をなしたのであろうと思われます。
(大僧正に補任される以前から、例えば菩提達磨などが難波津に到来した際に迎え出ていることからすると、すでに聖武天皇との一定の近しい関係は築かれていたようです。)
行基が官僧となったことにより、それまでのように街での怪しげな狂信的教化に励むのではなく、仏教をその核としようとする天皇・国のため、ひいては民のために、法に則って公にその力を振るうようになったと考えられます。このような表現は不適切かもしれませんが、その意味では、行基とは幕末・維新における清水の次郎長の、幕府や新政府と交わる以前と以降のようなものでしょう。
行基への評価は、聖武天皇により引き立てられ東大寺大仏建立の一助となったという権威のもと、時代が立つに連れ大きくなり、やがて数々の伝説を生じさせてむしろその実態を不明とさせたものです。
結局、僧尼を監督する国法が敷かれたとて、繰り返しの言となりますが、当時はいまだ仏教として僧たることの唯一の根拠となる具足戒が伝えられておらず、ただいくつかの菩薩戒を根拠として僧であることの(不当な)根拠としていたため、それで僧徒が仏教僧としての正しい姿になる筈もありませんでした。実は、当時の僧がどのようにして出家し受戒していたかは未だよくわかっていません。当時の仏教界の状況からすると、おそらくは『瑜伽師地論』に依拠し三聚浄戒を受けることに依って受具としていたと推測されますが、しかしそれを確実とする史料が一つとしてないのです。
もっとも、鑑真渡来当時、『占察経』に基づいて自誓受戒し、それを以て受具足戒としていた僧徒が多くあったことが思託『延暦僧録』から知られ、それが元で鑑真らからの受戒を受容するかどうかの諍論が巻き起こっています。しかし、『占察経』はおそらく玄昉が初めて日本にもたらしたものであって、それほど昔から依行されていたものとは思われず、それ以前がどうであったかはまるでわかりません。玄昉の帰朝は鑑真渡来のおよそ二十年前、天平七年〈735〉のことです。
具足戒が伝えられるのは天平勝宝六年〈754〉、その二十年余り前に興福寺の栄叡と普照が戒師招聘のために派遣され、その請いに応えた鑑真が渡来してからのことです。鑑真の渡来によって日本で始行された受具足戒が正規の僧(比丘)になる者に対して国法としても義務化されたことにより、仏教および国法の両面から、ついに制度としては完備するようになっています。
しかしながら、鑑真の渡来と帰化は当時の僧徒万人から歓迎されたものでは必ずしも無く、また後に僧界に非常に根深い軋轢を起こしていたことが知られます。その大きな理由の一つとして考えられるのは、当時の日本における氏族制度的ありかた、いわゆる強固な縁故主義は寺家にも蔓延していたことです。そのようなあり方と鑑真らが日本にもたらし目指したインドから支那における仏家のあり方との齟齬・衝突があったのであろうと予想されます。
実際、そのような寺家にはびこる縁故主義が元で、特に後進すなわち新比丘の育成が妨げられるなどしていたことが『東征伝』や『鑑真和上三異事』などの記述から知られます。実はそれが鑑真が私寺として唐招提寺を創建した動機となっており、その「招提」([S]caturdiśāの訛略。「四方」の意)なる寺名がそれを物語っています。
俗法として律令(「僧尼令」)が整備され、それから半世紀遅れながらも仏法として具足戒が伝えられたことにより、ようやく日本における僧尼は仏教僧本来のあり方を取り得る状態になりました。
しかしながら、平安最初期に最澄がただ梵網戒を受けることによってのみ比丘と成り得るし、大乗の僧はそうあるべきだとする主張を展開したことにより、むしろ仏教の内側から、それまで非常に長い時日と多くの僧俗の努力によりようやく築き上げられた受戒制に亀裂が入れられています。
その何が問題であったかというに、最澄は実はそのような主張を宗教的信条からなしたのではなく、自身がもたらし立ち上げた天台宗滅亡の危機を打開するために考案した、純粋に政治的主張であったことです。なんとなればそれは、最澄が云うような印度以来の正統性など皆無であって、その主張の根拠がいずれも杜撰な牽強付会したものでした。そのような最澄の主張は、「鑑真以前への先祖返り」と云うべきものに他なりません。彼の主張はそれまでの帝や僧俗の労苦を水泡に帰そうとするものでした。
したがって当時、最澄の主張が仏教的に認められることはついにありませんでした。しかし、最澄がその晩年、様々な点において失意のうちに死んだことに一部の公卿から同情が寄せられ、政治的に許されたのが比叡山の大乗戒壇でした。比叡山は念願の大乗戒壇なるものの建立にこぎ着けますが、延暦寺初代座主となった義真が没するやたちまち、二代座主の位を巡り円澄と円修で争って収集がつかなくなっています。結局、朝廷の介入によって円澄が座主とされましたが、その後は円仁と円珍の門流が争い、殺し合いにまでいたるなど大乗戒どこ吹く風の様相をかなり早い段階で見せています。
そんな大乗戒壇問題に対し、南都諸宗はあくまで反対をしていましたが、しかし彼らも結局、これは律令体制が弱体化していく時期とも重なるのですけれども、鑑真が没して百年後には、すでに「僧尼令」も鑑真のもたらした具足戒および律学もまったく形骸化し無意味となって、ただ形式上のものに過ぎなくなっています。南都北嶺のいずれにおいても、僧徒は堕落の一途を辿るようになったのでした。
これははるかに時代を遷した近世江戸期に至っても同様で、幕府は形骸化してまったく意味をなさなくなって久しい「僧尼令」とは別に、さまざまな法度を発布してなんとか僧尼の堕落と非法を制しようとしていますが、結局その最後まで手を焼いています。
「僧尼令」は、明治五年四月廿五日〈1872〉に「自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事 但法要ノ他ハ人民一般ノ服ヲ着用不苦候事(今より僧侶の肉食・妻帯・蓄髪等勝手たるべし事。ただ法要の他は人民一般の服を着用して苦しからず候事)」という、「太政官布(第133号)」が発布されるまで、一応有効な法律でした。その期間、実に1171年間。しかし実際に機能したのは二世紀にも満たないごく短期間に過ぎません。
けれども、特に古代における仏教やそれにまつわる社会を見る時、「僧尼令」における諸法規を念頭にし、さらに当時の僧綱など官職の構成や位置づけ、そして度牒・戒牒など僧徒の国家における諸制度を踏まえておくことは不可欠のことです。
小苾蒭覺應 (Ñāṇajoti) 稽首和南