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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

戒山『中川寺實範律師伝』

『中川寺實範律師伝』

少将上人 実範

実範じつはん(實範)とは、平安後期の興福寺にて出家した僧で、法相と真言そして天台を修学し、当時完全に廃れて無かった戒律の復興を志して活動し、その没後およそ百年の 嘉禎かてい二年〈1236〉覚盛かくじょう や叡尊ら四人によるその実現の先鞭を付けていた人です。本願上人あるいは中川少将上人などとも称されます。その晩年には浄土教にも傾倒していたことから、日本の浄土教史においても注目されています。

ここに紹介しているそんな実範の伝記『中川寺實範律師伝』は、近世の戒山慧堅かいざんえけんによって著され元禄二年〈1689〉に出版された、震旦〈支那〉および日本における持律・伝律の僧伝集である『律苑僧宝伝りつおんそうぼうでん 』に収録されているものです。戒山は、近世初頭になされた戒律復興の流れを汲む河州野中寺および近州安養寺を中心に活躍した、元臨済宗黄檗派出身の律僧です。

実範の伝記はすでにその遥か以前、虎関師錬こかんしれんが元亨二年〈1322〉に上梓した『元亨釈書げんごうしゃくしょ』巻十三 明戒に六師を挙げる中に撰されていました。そして戒山自身、実範伝を著すにあたり主として『元亨釈書』を範としています。ただし、最も古いなどといっても実範については虎関師錬より一世代早く、実範の法孫としても位置づけられる東大寺戒壇院の凝然ぎょうねんが、『律宗綱要』や『律宗瓊鑑章りっしゅうぎょうかんしょう』そして『三国仏法伝通縁起さんごくぶっぽうでんつうえんぎ』などその著作の処処にて、それほど詳しくはなくとも触れています。

そのようなことからすれば、実範の伝記を紹介するのであれば、むしろ『元亨釈書』のそれを主とすべきものです。しかしながら、詳しくは後述しますが、戒山はただ虎関師錬の文面を少しばかりいら って伝えただけでなく、中世および近世における律宗の伝承を加筆していることから敢えてここではそうしていません。しかし参考までに、まず元となった虎関師錬のそれを前もって示しておきます。

釋實範姓藤氏諫議大夫顯實第四子也初投興福寺學相宗又如醍醐寺稟密法于嚴覺先一日覺夢青龍出庭池矯首噴清水翌日語徒曰今日當有受法人汝等灑掃道場果範來由是傾底而付又之横川明賢所問台教範博搜索諸宗而嘆律幢之傾頽乃加心披尋乃念言戒貴傳授我雖精究爭奈無師承何一夕夢自招提寺以銅筧通清水于中川覺以謂是好相也明曉赴招提招提鑑眞後數世院宇廢替僧衆不居庭廡之間半爲田疇範入寺不見比丘傍有禿丁鞭牛耕田範問曰眞公影堂何在禿丁指其所範亦曰此寺無比丘乎對曰我雖不全儀相曩少聽四分戒本範生難遭想就乞禿丁便脱犁放牛洗手畎水將範向影堂中親授範已得戒傳即歸中川寺開律講行羯磨自此戒法亦興初範在忍辱山採花至中川山見地勝形申官建伽藍名曰成身院後移居光明山而終嘗述大經要義七卷貞慶法師稱之
贊曰予見支那本邦之律法相似同矣蓋絶而又興興而又絶其興絶之間世有人乎今考範師之事有人之謂也善哉銅筧之好相也吾佛亦或言之矣
 釈実範、その姓は藤原氏、諫議大夫顕実あきざねの第四子であった。初め興福寺にて出家し法相宗を学び、また醍醐寺において真言密教を厳覺ごんかくに学んだ。その先日、(厳覚は)覚夢に青龍が庭の池から首をもたげて清水を噴き上げるのを見た。そこでその翌日、門弟らに、
「今日、受法の人が来るであろう。お前たちは道場を掃き清めよ」
と言いつけていたところ、果たして実範が訪れ来たったのである。そのようなことから、(厳覚は)その全てを授法したのである。また、横川の明賢みょうけんの元で天台教学を問うた。実範は博く諸宗を学んでから、律幢が頽廃していることを嘆いた。そこで熱心に(律学を)研究したけれども、
「戒とは伝授を貴ぶものである。私がいくら精究したところで、師からの相承が無ければ如何ともし難い」
と考えるに至った。
 ある夜の夢に、唐招提寺から銅筧どうけん〈銅製のとい〉によって清水が中川にまで通じ流れるのを見、目が覚めて、「これはきっと好相に違いない」と思い至った。そこでその翌早朝、唐招提寺を訪れてみると、唐招提寺は鑑眞が没して後すでに数世紀が経ち、堂塔伽藍は荒廃して僧衆はおらず、その境内の半分が田畑となっている有り様であった。実範は寺に入って探してみても、比丘の姿など何処にも無かった。ところが傍に一人の禿丁とくちょう〈禿頭の下男〉があって、牛に鞭打ちながら田を耕していた。そこで実範は、
「鑑真公の御影堂はどこにあるか?」
と尋ねてみると、その禿丁はその場所を指差して示した。実範はまた、
「この寺には比丘はいるのか?」
と聞いてみると、
「私は(比丘として)その儀相〈威儀と外見〉は全く備わっておりませんが、かつて若い頃に『四分戒本』を聞いたことがあります」
という。実範は「遭い難きものに出会えた!」との想いが生じ、その禿丁に(その教授を)乞い願った。すると(その禿丁は)すきを解いて牛を放ち、手を畎水けんすい 〈水路の水〉で洗うと、実範を導いて御影堂の中に入り、懇切に(戒を)授けた。ここで実範は戒伝を得たのである。そこで(実範は)中川寺に帰ると、ただちに律学の講義を開き、羯磨を行じた。これ以降、戒法は再び(日本に)興ったのだった。
 初め実範は忍辱山にんにくせん〈円成寺〉にあったけれども、(仏菩薩に供えるための)花を採ろうとしていた最中、たまたま中川山に至ると、その地の素晴らしいことを見知った。そこで朝廷に上申して伽藍を建て、その名を成身院じょうしんいん とした。その後、居を光明山寺こうみょうせんじに移ってそこで没した。かつて『大経要義鈔』七巻を著したが、貞慶じょうけい法師はそれを称賛している。
 賛じて曰く、私〈虎関師錬〉は支那と本邦の律法(の歴史)を眺めてみると、互いに似て同じである。思うに、絶えてはまた復興され、復興されてはまた絶えるというその興亡の時の流れの間にも、世には必ず「人がある」のだ。今、実範師の事を考えてみると、「人がある」とはまさに師のことである。喜ばしいことである、銅筧の好相である。吾が仏もまた、或いはそのように言うであろう。

『元亨釈書』巻十三 明戒六

以上のように、虎関師錬による実範伝はごく簡単なものです。しかし、後代に著されたほとんどすべての伝記はこれを踏襲しています。

例えば、戒山が『律苑僧宝伝』を上梓する一年前の貞享五年〈1688〉、明から渡来していた黄檗僧、高泉性潡こうせん しょうとん により刊行された『東国高僧伝』には「正伝」の人として実範伝を載せています。が、それは『元亨釈書』の表現をいくらか変え賛を除いただけのものです。戒山は『元亨釈書』だけではなく『東国高僧伝』も明らかに参照していますが、その端々で『東国高僧伝』における高泉の表現を借りています。

また、『律苑僧宝伝』より十二年後の元禄十四年〈1701〉、唐招提寺の子院の一つ能満寺義澄ぎちょうにより編纂なった『招提千歳伝記しょうだいせんさいでんき 』巻上之一にも実範伝を載せています。しかし、義澄もやはり『元亨釈書』そして『律苑僧宝伝』のそれらを踏まえ、その上で戒山の説に批判を加えた賛を付けています。唐招提寺系の律宗の人からすると、西大寺から槇尾山の系統の律宗における伝戒相承に関する見方が気に入らなかったようです。

そして、『招提寺千歳伝記』が刊行された翌年の元禄十五年〈1702〉、臨済僧の卍元師蛮まんげんしばんにより、なんと三十年あまりの歳月を費やしてそれまでの僧伝・史料を集大成し著された『本朝高僧伝』にもまた、「和州中川寺沙門實範伝」として実範伝が載せられています。

平安後期から鎌倉初期における仏教界隈

実範の生年および行年は不明ながら、その没年は天養元年〈1144〉九月十日。

実範は、藤原顕実あきざねの第四子として誕生した後、当時の貴族の子弟で継ぐべき家の無い二男・三男以下などがいわば処世の術として寺に出されることが一般的であったように、幼少の頃から出家させられていました。その出家のために入った寺とは、藤原氏の氏寺にして法相宗の本拠であり、当時の日本で最も権勢を誇っていた大寺院の一つ、興福寺です。

その興福寺で出家したことにより、実範は法相を学び深めています。藤原氏の本流では無いにしても比較的高位の家柄出身であった実範は、すでに将来の僧界における一定の地位が保証された身でした。当時の日本における僧界は、俗界における権門勢家の構造の引き写しともいうべき「もう一つの俗界」に過ぎません。例外も勿論ありますが、その出自が大きく物を言う世界であったのです。

もっとも、たとい出自が良くとも学問を積み、維摩会や最勝会などの論議法会の講師や読師として出仕することが出来ねば出世することなど叶わないため、そのような貴族僧らは必然的に、処世の一環としてではあっても仏学に日々励み、その素養を深めていったのでした。そして、処世の一環などといっても、彼らは仏教を信仰していなかったなどということはなく、一応信じてはいました。しかし、ここが人の面白さであり悲しさというものでしょうけれども、その仏教にて説かれた通り行うことなどまるでありませんでした。

当時の事情を生々しく、といっても実範よりやや後の鎌倉前期のことですけれども、深い仏教の素養をもって時に滑稽に、または冷笑的に、あるいは讃えて伝える諸宗兼学の僧、無住一円による『沙石集』では以下のように伝えています。

神明道心貴給事
南都ニ学生有ケリ学窓ニヒチヲクタシテ蛍雪ノ功年ツモリテ硯学ノキコエアリケリ或時春日ノ御社ニ参籠ス夢ニ大明神御物語有リ瑜伽唯識ノ法門ナント不審申シ御返答有ケリ但シ御面ヲハ拝セス夢ノ中ニ申ケルハ修学ノ道ニタツサハリテ稽古年久ク侍リ唯識ノ法燈ヲカカケテ明神ノ威光ヲ増奉ル然ハカクマノアタリ尊体ヲモ拝シ慈訓ヲモ承ル是一世ノ事ニハ侍ラシト宿習マテモ悦ヒ思ヒ侍ニ同御貌ヲ拝シタテマツリタ ラハイカハカリ歓喜ノ心モフカク侍ラント申ケレハ誠ニシユカクノ 功ノ有難ク覚フレハコソカク問答モスレ但シ道心ノナキカウタテ サニ面ハムカヘタウモナキナリト仰有トミテ夢サメテ慚愧ノ心ロ肝ニトオリクワンキノ涙袖ニアマリテ覚エケリマコトニ仏法ハ何レノ宗モ生死ヲ解脱センタメナリ名利ヲオモフヘカラス然ニ南都北嶺ノカクリヨノ風儀ヒトヘニ名利ヲ先途ニ思テ菩提ヲヨソニスル故ニ或ハ魔道ニ落或ハ悪趣ニ沈ニコソ口惜キ心ナルヘシト テヤカテ遁世ノ門ニ入テヒトスチニ出離ノ道ヲ勤ケル
神明〈神〉は道心を貴ばれること
 南都にある学生がくしょう〈学僧〉があった。(法相宗興福寺の)学窓〈学問所〉に入って以来、蛍雪けいせつ〈苦労して学問に励むこと〉の功年積もって「碩学せきがく」とまで称賛されるまでとなっていた。
 ある時、春日の御社に参籠したところ、その夜の夢に(春日の)大明神が現れて語りかけられた。そこで(その学生は)瑜伽唯識の法門について充分に理解出来ない点などご質問したところ、そのお答えを下されたのである。しかしながら、そのお顔を拝見することは出来なかった。そこで、夢の中で(その学生は春日明神に)話しかけ、
「修学の道に携わって稽古して、その年数もずいぶん長くあります。唯識の法灯をかかげて(春日の)神明の威光をさらに増し奉りました。そのようなことから、このように目の当たりに(春日明神の)尊体をも拝することができ、その慈訓をも承わることも出来たのでしょう。これはきっとこの一生涯の事ではなく、きっと宿習〈過去世にて積んだ業〉の果報であろうと悦び、思っております。(そこで御体だけではなく、)同じようにその御顔をも拝し奉ることが叶ったならば、どれほど歓喜の心が深くなるか想像もつかないほどです」
と申し上げたところ、(春日明神は)
「誠に(そなたの)修学の功が稀有なほど(優れている)と思ったからこそ、このように(そなたの唯識の不審な点について)問答してやったのである。しかしながら、(そなたは学問は優れていても)道心など無く、それが嘆かわしく嫌であるから、顔までは見せたくはない」
と仰せられたのを最後に、そこで夢が覚めたのである。そして(その学生は明神から「お前は学は優れているが道心は無い」と言われたことへの)慚愧〈自他に対して恥じること〉の思いで肝を冷やし、また(明神と見えて言葉を交わした上にその導きに預かったことへの)歓喜の涙で袖が濡れそぼつほどとなった。(そこでその学生は、)
「実に仏法とは、何れの宗であっても生死流転から解脱するためのものである。名聞利養〈名声と財産〉を願い求めるものではない。その筈がしかし、南都〈六宗〉北嶺〈天台宗〉の学侶らの風儀といえば、ひたすら名聞利養を得ることをこそ目的としており、菩提〈悟り〉を得ることなど端から問題外としているために、ある者は魔道に落ち、ある者は悪趣〈地獄・餓鬼・畜生。いわゆる三途〉に沈むばかりである。実に情けないことである」
と(考え至り)、やがて遁世の門〈大寺院を含めた俗世を離れ、持戒・持律し修禅に励む僧のあり方〉に入って、ひたすら出離の道を勤めるようになった。

無住一円『沙石集』巻一下

この話は、それまではただ立身出世や名利を求めて仏学に励み、すでに名を挙げていた学僧が、夢の中で春日明神から告げられた言葉で目が覚め改心し、ついに遁世僧となるといういわば成功例というか、称賛される内容となっています。しかしこれは、それが全く普通で無かったからこそ成立する話であって、むしろ当時の僧は一般に「名利ヲ先途ニ思テ菩提ヲヨソニスル」ものであったことの証であると考えて間違いないものです。

実際、『沙石集』ではその全体を通して、およそそれどころでは無いほど堕落した僧らの有り様がむしろごく当たり前のものとされていたことが様々に描写され、これを著者無住は嘆きつつも淡々と伝えています。

律學者の學と行と相違の事
唐の龍興寺の鑒眞和尚、聖武天皇の御宇、本朝に來て、南都の東大寺、鎭西の觀世音寺、下野の藥師寺、三の戒壇をたて給ひ、毘尼の正法をひろめ、如法の受戒を始め行ぜしかども、時うつり儀すたれて、中古より只名ばかり受戒というて、諸國より上りあつまりて、戒壇はしりめぐりたるばかりにて、大小の戒相もしらず、犯制の行儀もわきまへず。わづかに臈次をかぞへ、虚しく供養をうくる僧寶になりはてて、持齋持律の人跡たえぬる事をなげきて、故笠置の解脱上人、如法の律儀興隆の志深くして、六人の器量の仁をえらびて、持齋し律學せしむといへども、時いたらざりけるにや、皆正躰なき事にてありけれども、堂衆の中に器量の仁を以て、常喜院と云ふ所にて、夏中の間、律學し侍り。持齋すべき供料なんどはからひおかる。夫も夏をはれば、持齋もせずして、如法の儀なかりけるに、近比かの學者の中より發心して、如法の持律の人、世間におほし。かの本願上人の御志の感ずる所にや。
律学者の学と行とが相違している事
 唐の龍興寺の鑑真和尚は、聖武天皇の御宇に本朝に到来し、南都の東大寺・鎮西の観世音寺・下野の薬師寺に三つの戒壇を建てられ、毘尼〈vinaya. 律〉の正法を広めて如法の受戒を始め行じられた。
 けれども、時代が移るとその儀は廃れてしまい、中古〈平安時代〉よりただ「名ばかり受戒」と云って、(僧となろうとする者が)諸国より(東大寺に)上り集まって、(戒を授受する両人共に自身らが何をしているかも解らず)戒壇の上を走り巡るだけのこととなった。(そのような者らは、戒壇院で受戒したといっても形式ばかりのことで)、大乗〈菩薩戒〉・小乗〈律〉の戒相〈戒律の具体的内容〉も知ることはなく、犯制ぼんせい〈僧侶としての禁則〉の行儀をわきまえてもいない。(夏安居が終われば)ようやく臈次〈比丘としての席次。安居を過ごした回数〉を数えるばかりで、(比丘としての内実など全く無いにもかかわらず、)虚しく供養を受けるだけの(偽の)僧宝に成り果たのである。
 持斎持律の人跡が絶えてしまっている事を嘆いた故笠置かさぎの解脱上人〈貞慶〉は、如法の律儀を興隆する志を深くし、六人の器量〈才知優秀〉の人を選抜して、持斎〈持戒〉・律学させた。しかしながら、その時機にはまだ至っていなかったのであろう、その皆がまるで本来からかけ離れた有様であった。そこでまた、(興福寺東西金堂の)堂衆の中から器量の人を選んで常喜院という所にて、夏中げちゅう〈夏安居の三ヶ月〉の間、律を学ばせ、(常喜院にて)持斎させるための供料〈運営費〉など工面したのである。しかし、それも夏〈安居〉が終わったならば、(常喜院の律学に参加していた者等が)持斎することなどなく、如法の儀など行われることはなかった。
 ところが近頃〈嘉禎二年以降〉、その(常喜院の)学者の中から発心して如法の持律の人〈覚盛等〉が出たことにより、今や世間に多く見られるようになった。これは、かの本願上人〈実範〉の御志の果報というものであろう。

無住『沙石集』巻三

すでに戒律復興が一定の成功を修めていた時代の無住は、まず平安中後期の仏教者の有り様がどのようであったかを伝え、しかしそれからようやく戒律が復興していった様をごく簡単に記し、その嚆矢として本願上人すなわち実範の名を挙げています。

しかし同時に、実範以降(の三世代)における律学者の有り様を以上のように伝え、そう思うようにことが進んだわけでもないことを述べています。実は無住もまた、復興された戒律を受けたその流れにあった人で、さらに真言そして禅を修めていました。そんな無住にとって実範という人の存在は大きなもので、「かの本願上人」と言っていることからも、当時その名がよく知られた人であったことがわかります。