原文
律師名實範。姓藤氏。諌議大夫顯實之子也。少出俗。投興福寺學相宗。名震都南。久而登醍醐。稟密法於嚴覺公。先一日覺夢。靑龍出庭池。矯首水面。因囑諸徒曰。今日必有受法人至。若等當𣲌埽以待。果師至。大悦乃竭誠而授焉。又就横川明賢公習台敎。既博諸宗。而嘆律門弗振。極意披尋。乃曰。戒貴師師授受。我雖勤究。柰無師授何。於是詣春日社。約七晝夜慇懃祈禱。期滿之夕。夢自招提寺以銅筧通淨水于中川。寤後以爲好相。
明日至招提。見殿宇荒廢。緇徒寥落。一殘僧畊于田。師問。眞師影堂何在。僧指其處。師曰。柰何無比丘邪。僧曰。我雖不肖。曩曾聽四分戒本來。師大喜。遂就影堂乞爲授受。尋歸中川寺。大小戒律莫不洞貫。於是大開講筵聲彩風行。有志緇侶翕然來歸。自是戒法復興於世。初師在忍辱山。因採花至中川。見境物奇勝。及申官建伽藍。號曰成身院。後移居於光明山終焉。嘗述大經要義七巻。貞慶法師甚稱之。又有戒壇式一巻云。
訓読
律師の名は實範、姓は藤氏。諌議大夫顯實の子なり。少にして俗を出、興福寺に投じて相宗を學び、名を都南に震ふ。久しくして醍醐に登り、密法を嚴覺公に稟く。先の一日、覺夢に靑龍、庭池に出て、首、水面に矯る。因に諸徒に囑して曰く、今日必ず受法の人至ること有るべし。若等當に𣲌埽以待すべしと。果して師至る。大に悦んで乃ち誠を竭して授く。又、横川の明賢公に就て台敎を習ふ。既にして諸宗に博る。而れども律門の振はざることを嘆き、意を極めて披尋して乃ち曰く、戒は師師の授受を貴ぶ。我勤究すと雖も、師授無きを奈何せんと。是に於て春日社に詣り、七晝夜に約して慇懃に祈禱す。期滿の夕、夢に招提寺より銅筧を以て淨水中川に通ず。寤後、以て好相と爲す。
明日、招提に至り、殿宇荒廢して緇徒寥落するを見る。一殘僧、田を畊す。師問ふ、眞師の影堂何に在りやと。僧其の處を指す。師曰く、柰何比丘無きやと。僧曰く、我不肖なりと雖も、曩曾て四分戒本を聽き來る。師大に喜び、遂に影堂に就て乞て授受を爲し、尋て中川寺に歸る。大小戒律、洞貫せざること莫し。是に於て大に講筵を開て聲彩風行す。有志の緇侶、翕然來歸す。是より戒法復た世に興る。初め師、忍辱山に在り。花を採るに因で中川に至り、境物奇勝なることを見る。及ち官に申して伽藍を建つ。號して成身院と曰ふ。後、居を光明山に移して終焉す。嘗て大經要義七巻を述す。貞慶法師甚だ之を稱す。又、戒壇式一巻有りと云ふ。
脚註
實範
生年不明、没年は天養元年〈1144〉。藤原顕実(後述)の第四子であり、上流貴族として家を継ぐべき存在でなかったことから幼少時に藤原氏の氏寺であり依然として強大な権勢を誇っていた興福寺に「出家させられていた」。それは当時、ごく当たり前に貴族の次男以下に行われていた処世の術である。藤原一門でも比較的上流の出であるから、出家としての将来はある程度高位の僧となることが最初から約束されていた。要するに、当時の出家とは名ばかりでその実際は俗界の権門勢家の構図がそのまま大寺院に持ち込まれた、もう一つの俗界であった。
藤氏
藤原氏。
諌議大夫顯實
諌議大夫とは天子(皇帝)に諌言する参議(太政官の官職。公卿)の唐名。実範の父、藤原顕実は参議(従三位)であった。
相宗
法相宗。特に法相唯識を宗義とする一派。奈良期の日本仏教界では中観を宗義とする三論宗と法相宗とのみが実質的に存在しており、権勢を競っていた。平安期となっていわゆる南都六宗といわれる宗派が実際に宗派として存在するようになり、また天台および真言がもたらされて八宗が成立。平安期以降もなお、法相宗は南都において極めて強固な力をもっていた。法相宗には興福寺を初め、元興寺・薬師寺・法隆寺など諸大寺が属したが、その本流は教学的・権勢的にも興福寺であった。平安中期に唐招提寺が廃れ、また東大寺戒壇院における律の相承もおぼつかなくなると、それらは興福寺の管理下に置かれるものとなって、名目上の律の相承は興福寺東西金堂の堂衆らによって行われた。
都南
南都。いわゆる平城京のこと。
醍醐
醍醐寺。
嚴覺
勧修寺長吏、東寺二長者を勤めた貴族僧。参議源基平の子。勧修寺の信覺から広沢流を、また小野曼陀羅寺(随心院)の範俊から伝法灌頂を受けて小野流の正嫡となった。嚴覺はこれを寛信・宗意・増俊などに伝えたが、寛信は勧修寺流を、宗意は安祥寺流を、増俊は随心院流を創始するなど、いわゆる小野三流を生み出すきっかけとなった。実範もまた嚴覺から受けた法流をもって中川流の祖とされた。
明賢公
天台僧。出自等未詳。恵心僧都源信の法流末の人、すなわち平安後期の浄土教信奉者であったという。
台教
天台教学。法相宗と天台宗とは教学的に不倶戴天の敵同士であったが、それは互いに一切交流せず、まったく没交渉であったということは意味しない。最澄と徳一とのいわゆる三一権実論争という激しい論戦後、その両者が没した頃から人的交流はしばしばなされており、またむしろ教学的に敵対していたからこそ両者互いの教義を学んでいた面もある。
時代が下って宋代、日本の鎌倉期ともなると、律宗は天台と法相とを融和したようなもの、いやむしろ天台の法華開会の思想を全面的に取り入れて再解釈したものとなる。よって、律僧らにはそのような法相と天台の教学的対立など問題とせず、諸宗兼学する者が多くあった。
この問題は少々混み合っているが、日本における律宗には大きく西大寺一門と東大寺戒壇院一門・唐招提寺一門・泉涌寺一門とがあり、前者と後三者とは教義的にいわば対立することとなる。が、それは律を法相的に解釈するか天台的に解釈するかの違いによるとされるようになる。鎌倉後期ともなると、律宗のうち最も世間から信仰され支持されていた法相系の西大寺一門は傍系であり、その他三者が本流であるとされることになる。しかし、そもそも道宣を祖とする南山律宗は法相か天台かでいえば法相系であって、そのような見方は元来正しくない。南宋代に南山律宗を再興した元照による天台思想でもって道宣による『四分律』の注釈書の一つである『行事鈔』を再解釈した『行事鈔資持記』等多くの新来の典籍、そして当時の日本ではすでにその多くを失ってしまっていた道宣の著書が改めて鎌倉期初頭に俊芿によって日本に持ち込まれ、これが以降の律学の徒に重用され、専ら支持されたことによって、そのような見方が生まれた。
戒は師師の授受を貴ぶ
戒はともかくとしても、律については「貴ぶ」どころか直接の師資相承がなければ成立しない。
まず、そのように実範が考えたとする戒山の記述は、虎関師錬『元亨釈書』「実範伝」に「範博搜索諸宗、而嘆律幢之傾頽。乃加心披尋。乃念言戒貴傳授。我雖精究爭奈無師承何」とあるに基づいたものである。実範は、続いて「我勤究すと雖も、師授無きを奈何せん」と考えたとされているが、その認識は正しい。当時、およそ「自誓受戒によって具足戒を受け得る。比丘となり得る」などという主張は、平安の初めに最澄が主張したものにさして変わらぬもの、すなわち極めて異常でなものであり、到底受け入れられるものではなかった。後代、実範の後裔を自認する者から、ただ三聚浄戒をのみ、しかも自誓で受けることにより比丘となり得るなどという説を唱える者(覚盛)が出るが、そのような説について実範は明瞭に異を唱えていたことは実に皮肉な話である。
春日社に詣り
戒山が参照した実範伝は、鎌倉後期の元亨二年〈1322〉に著された『元亨釈書』で間違いないが、その中に実範が春日社に参詣したなどという一節は無い。また、同じく実範伝を載せる高泉性潡の『東国高僧伝』は、やはり『元亨釈書』を範としたものであるが、そこにも春日社についての記述はない。よって、この一節は、戒山が律宗独自の伝承を挿入したものと言える。ではこの伝承がいずこから来たものであるかと尋ねると、撰述年代および作者不明の『唐招提寺解』の所伝に行き着く。実範が唐招提寺を戒脈を求めて訪れることとなるきっかけとして春日社における七日間の参籠とその結願の日の霊夢があったとは、その書に伝えるところである。この説はまた、貞享元年〈1684〉、東大寺真言院の亮然重慶によって撰述された『律宗図源解集』に踏襲されて述べられている。
近世、俊正明忍によって果たされた戒律復興の流れの中で、日本における戒律相承には「戒律が廃れた時には春日明神がこれを護持して次なる復興を俟つ」などという伝承されるが、それはおそらく、俊正の最初からそのように言い出されたものではなくて、元禄の頃の槇尾山から言われ出されたものであろう。事実、元禄年中に著された『槇尾山略縁起并流記』に、俊正律師と慧雲律師とが邂逅した場所が何故か三輪山から春日社に変化して伝えられている。そのように春日社とされたその故は、当時著された『律宗図源解集』などの説が次第に広まる中で、俊正が叡尊だけでなく明恵上人を敬慕していたという事実があり、その明恵と春日神との奇譚が多く伝わっていたことに依ったのであろう。そしてさらに、俊正ら五人が自誓受戒したその場所が、梅尾山高山寺の春日・住吉の祠前であったことから、戒律の伝承についてその一門の者らが諸説の「整合性」を付けた結果であったと思われる。
招提寺
唐招提寺。
一殘僧
唐招提寺に一人残存していたという僧について、『元亨釈書』には「一残僧畊于田(一人残った僧が田を耕していた)」などという表現ではなく、「傍有禿丁鞭牛耕田(禿頭の下男が田を牛にむち打ちながら耕していた)」とある。そもそも『元亨釈書』が伝えるところでは、「院宇廢替僧衆不居。庭廡之間半爲田疇。範入寺不見比丘(堂塔は荒廃して僧は不在であり、境内の半分は田畑と化しており、実範が唐招提寺を訪れた時には比丘など見る影もなかった)」というのであって、実範はその「禿丁」を僧などと全く見なしていなかったという。これは後代の律宗の徒からすると受け入れがたい屈辱的表現であったろうが、むしろその故に当時の唐招提寺の有り様を率直に示し伝えるものと言える。
しかるに『東国高僧伝』では、高泉は『元亨釈書』の「院宇廢替僧衆不居」を「見殿宇荒廢。緇徒寥落」と言い換えた上で、さらに「禿丁」を「一残僧」といわば柔らかく表現している。そのような表現を戒山もまた採用しているのである。
なお、ここにいう一残僧とは戒光なる名の人であったと唐招提寺は伝えるが、元禄十四年〈1701〉、唐招提寺の子院の一つ能満寺義澄により編纂された『招提千歳伝記』では「我雖不敏曩嘗聽四分戒本于戒光和上」としており、戒光から『四分戒本』を聞いたことのある名もない僧とする。実際、『招提千歳伝記』は戒光を第十四祖とし、第十五祖に「一般老徳」であるとして、その第十六祖に実範の名を上げる。これは鎌倉後期の凝然によって著された『律宗綱要』巻下にて「實範上人即住唐招提寺。値一般老徳傳受四分戒本」と伝える所を受けてのことである。
一方、これを物語調に伝える作者・撰述年代不明の『唐招提寺解』には、「我云戒光大。先師之時分猶律學不怠。當此身不居學窻。空送光陰。雖然如形可奉授律敎。古雙紙一帖取出。塵打拂指置上人前。是則四分比丘戒本也」などと、その僧こそ戒光であったとしている。要するに、唐招提寺にても伝承に混乱がある。いや、これは伝承と言うよりも、事実を記録することを目的とするか、宗門の正統性など面目を立たせることなどを目的とするかといった、その書を著した者の動機や立場による違いが現れたものと言ってよいか。しかし、『唐招提寺解』の所伝は少々怪しく、全面的に信じるには値しない。しかしながら、卍元師蛮は『本朝高僧伝』において『唐招提寺解』の説を賛において採用し、「殘僧者戒光大德」と断定している。
なお、中世から近世までの西大寺系の律宗における戒脈の伝承においても、「豊安贈僧正→道静律師→仁階→眞空→眞暻→戒勝→壽高→増恩→安談→喜寛→歴悰→空茂→戒光大徳→実範大徳」と、戒光より実範が受けたとされている。やはり戒脈に「一般老徳」などと不明の人を挙げることは憚られたのであろう。
眞師の影堂
鑑真の御影堂。
比丘
[S]Bhikṣuあるいは[P]Bhikkhuの音写。玄奘による新訳の音写では苾蒭[びっしゅ]という。本来「(食を)乞う者」の意であるが、仏教の正式な男性出家者を指す語。数え歳で二十歳以上であるなどその他の諸条件を備えた上で、具足戒(律)を受けて初めてなることが出来る。
四分戒本
『四分律』の波羅提目叉(prātimokṣa)である『四分律比丘戒本』。
波羅提目叉とは、仏陀によって規定された比丘の為すべきでないこと、あるいは為すべきことの集成である律蔵の枢要を抽出してまとめたもの。それが戒律の根本であり、ひいては仏教の根本であることから意訳され「戒本」といわれる。しばしばそのような奇説を述べる者があるが、「戒がまとめて書かれた本であるから戒本」などという意味ではない。
他に別解脱・処処解脱・随順解脱などと漢訳されるが、それは各自が受けた戒律に従うことによって身および口によって為される悪から離れることができる、すなわちその戒律の一項が制する悪から各別に解脱していくことからその様に訳される。
中川寺
実範創建の成身院を本寺とした寺院。後述。
大小戒律
大乗および小乗における戒と律。支那および日本で主流であった『四分律』を「小乗の律である」とする見方が支那以来日本でも一部あったが、南山律宗では『四分律』自体がまず「分通大乗(部分的に大乗に通じるもの)」であるとし、さらにこの律はやはり大乗の空を不完全ながらも説く成実宗伝持のものであるとして理解し、依行してきた。
そもそも「大乗律」などというものは存在しないが、大乗独自の戒としては『瑜伽論』および『持地経』所説の瑜伽戒(四重四十三軽戒)、ならびに『梵網経』所説の梵網戒(十重四十八軽戒)および『瓔珞経』所説の十重禁戒が、支那および日本で菩薩戒として最も重用された。
実範の戒律理解がどこまでのものであったかその詳細は知られない。しかし、その作である『戒壇式』(後述)を見たならば、範師が『四分律』はもとより道宣の『行事鈔』や『戒壇図経』および当時所伝の諸典籍を通覧していたことが知られる。特に、実範が『戒壇式』にてただ三聚浄戒を受けることに依って比丘となることはあり得ないとしていることは注目すべき点であろう。
是より戒法復た世に興る
中世および近世の戒律復興において、たといそれが実際に復興されたものではないとしても、実範を中世の戒律復興の嚆矢とする見方が一般的である。この遺志を継いだ貞慶門下から覚盛および叡尊などが排出されるためである。
忍辱山
大和国忍辱山円成寺。現在の奈良県奈良市忍辱山町にある古刹。寺伝では元は平安京は東山鹿ヶ谷にあったという藤原氏縁の寺院であったと言うが、延喜年間、当地を訪れた円成寺僧正益信により同じく建てられたものという。京の円成寺は応仁の乱で消失して廃絶され無い。
成身院
大和国中川(現:奈良市中の川町)に実範によって建てられた寺院。中川寺成身院とも。中川寺には成身院を初めとして数々の子院があったという。その位置は直線距離で興福寺から東北東に3.5km、若草山から北北東に2kmほどの場所にあったが、明治期起こった廃仏毀釈によって完全に打ち壊され廃絶。その正確な古址について確かな記録が残されていないため、確実にどの場所にあったか不明。かろうじて実範の墓塔といわれる五輪塔が現存しているため、おそらくその周辺にあったろうと推定されている。もっとも、その現存する五輪塔自体、明治期に別の場所に移動され保管されていたものであり、後に「ここにあったであろう」などという場所に再配置されたものである。
いま推定されるその立地条件を見ると、いわゆる大伽藍を構え得る地ではない。が、現存する指図からすると一定規模の密教寺院であったようで、しかもその本尊や曼荼羅など高名な仏師や画僧による壮麗なものであったと伝えられる。それも実範が藤原氏の上流出身であったからこそのことで、資金的な後援には事欠かなかったのであろう。
成身院があったと思わられる場所は興福寺からさほど遠くもなく人の行き来もたやすく、すなわち諸々の情報や物資も集まりやすく、その故にまったく修禅に適した理想的な地であったと言える。そしてそれはまったく密教寺院であって、これを創建した当時の実範が、どれほど密教に傾倒していたかが知られるであろう。中川寺はその後、成身院を中心とした真言・天台・法相を兼学する寺院となったという。
光明山の上人
光明山寺。現在の京都府木津川市山城町綺田付近にあった大寺であるが近世初頭に全く廃絶して現存しない。藤原氏縁の興福寺末の寺院で、往時は相当規模の大伽藍を構え、数多の子院が立ち並ぶ大規模な寺院であったとされる。実範が活動した寺院はやはりほとんど藤原氏縁故の寺院であった。
大經要義七巻
大経要義鈔』。実範の理解による『大日経』の概説書。現存。この書は後代、様々な真言の学僧らにも注目され、しばしば引用されており、実範の真言理解の深度が知られる良本となっている。
貞慶法師
法相宗僧。久寿二年〈1155〉生、建暦三年〈1213〉没。弁官すなわち尚書であった藤原貞憲の子。幼くして興福寺に入り頭角を顕すが、出自が藤原氏とは言え失脚没落した家であって甚だ貧しく、初めは他と同様に論議法会の役をこなすことで僧界での出世を志したようであるが、他の貴族僧らからその貧しさを嘲られるなどする中、それらの奢侈・金満志向を嫌い、ついに興福寺を出て笠置に遁世。以降、(興福寺や東大寺などの官僧に対比される)遁世僧として法相教学および戒律復興に尽力するうち、朝廷からの信仰を獲得。法然が自身独自の浄土教を宣揚するに対して『興福寺奏状』を起草してこれに反対した。浄土教が世に広まることに対抗して、持戒持律を自ら行ってまた人にも勧めつつ、釈迦(舎利)信仰・弥勒信仰を鼓舞した。同時代の明恵上人や三輪上人と親交があった。
貞慶は戒律復興のため、まず律学を振興するべく、その拠点として興福寺に常喜院を建立。これは弟子となって出家した覚真(藤原長房)の後援によるもので、そこに弟子戒如を当てて能化とし、廿人を定員として学徒を集め、律学を教授した。そもそも何故、戒律復興(この時点では東大寺戒壇院の本来的機能の修復)を志す者が興福寺東西金堂の堂衆であったかというに、当時東大寺戒壇院を管掌していたのが興福寺であったためである。彼らは戒律など実質的に全く滅んでない中でも、中身を伴わない儀式儀礼としては授戒を時折執行しており、それを担当していたのが金堂の堂衆であった。そしてその中に覚盛などがあった(叡尊は醍醐寺にて真言を受法受学した後、常喜院の律学に参加)。ただし律学といっても、それはただ学問上・文字上で律を学ぶということに過ぎなかったようで、それがどのようなものであったかをやや後代の『沙石集』では滑稽に、冷笑的に伝えている。それを今見たならば確かに失笑を誘う、いわば喜劇に他ならないものであった。
しかしながら、たとえ最初はそのようなものであったとしても、それから時をそれほど経ぬ嘉禎二年〈1236〉、覚盛・叡尊・円晴・有厳により、自誓受戒という手段であったが戒律復興が現実のものとして果たされる。そのような経緯から、中世および近世の戒律復興の戒脈に実範そして貞慶の名が連ねられている。もっとも戒脈では、実範から貞慶に直接伝わったということではなく「実範→蔵俊→覚憲→貞慶→戒如」となっている。
戒壇式一巻
実範による戒壇院での受具の法式を記した『東大寺戒壇院受戒式』、保安三年〈1122〉八月四日撰。実範が戒壇院における受具足戒の法式を正すべく記したもの。
『招提千歳伝記』によれば、実範はこの『戒壇式』を永久四年〈1116〉に撰し、翌五年〈1117〉三月、実際に戒壇院において行尊・覺行など受者三十八人に受具したという。しかし、それは誤伝である。『戒壇式』にて実範自身がこれを著したのが保安三年〈1122〉であると明記しているのであるから、『招提千歳伝記』の所伝はありえるはずもない。『招提千歳伝記』自体、義澄の誠を尽くした力作と言うべき、今となっては貴重な書の一つとなっているけれども、中世から近世における唐招提寺の伝承は信用し難いものが多く、それを多分に受けて成っている以上は『招提千歳伝記』の所伝もそのすべてをそのまま信じることは出来ない。
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