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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

真人元開 『唐鑑真過海大師東征伝』

原文

眞人元開撰

大和上諱鑑眞揚州江陽縣人也俗姓淳干齋辨士髠之後也其父先就揚州大雲寺智滿禪師受戒學禪門大和尚年十四隨父入寺見佛像感動心因請父求出家父奇其志許焉是時大周則天長安元年有詔於天下諸州度僧𠊳就智滿禪師出家爲沙彌配住大雲寺後改爲龍興寺唐中宗考和皇帝神龍元年從道岸律師受菩薩戒景龍元年杖錫東都因入長安其二年三月廿八日於西京實際寺登壇受具足戒荊州南泉寺弘景律師爲和尚巡遊二京究學三藏後歸淮南教授戒律江淮之閒獨爲化主於是興建佛事濟化群生其事繁多不可具載日本天平五年歳次癸酉沙門榮叡普照等隨遣唐大使丹墀眞人廣成至唐國留學是年唐開元廿一年也唐國諸寺三藏大德皆以戒律爲入道之正門若有不持戒者不齒於僧中於是方知本國無傳戒人仍請東都大福光寺沙門道璿律師附副使中臣朝臣名代之船先向本國去擬爲傳戒者榮叡普照留學唐國巳經十載雖不待使而欲早歸於是請西京安國寺僧道航澄觀東都僧德淸高麗僧如海又請得宰相李林甫之兄林宗之書興揚州倉曹李湊令造大舟備粮送遣又與日本國同學僧玄朗玄法二人倶下至揚州是歳唐天寚元載冬十月 日本天平十四年歳次壬午也

時大和尚在揚州大明寺爲衆講律榮叡普照至大明寺頂禮大和尚足下具述本意曰佛法東流至日本國雖有其法而無傳法人日本國昔有聖德太子曰二百年後聖教興於日本今鍾此運願大和尚東遊興化大和尚答曰昔聞南岳思禪師遷化之後託生倭國王子興隆佛法濟度衆生又聞日本國長屋王崇敬佛法造千袈裟棄施此國大德衆僧其袈裟緣上繍著四句曰山川異域風月同天寄諸佛子共結來緣以此思量誠是佛法興隆有緣之國也今我同法衆中誰有應此遠請向日本國傳法者乎時衆默然一無對者良久有僧祥彥進曰彼國太遠生命難存滄海淼漫百無一至人身難得中國難生進修未備道果未剋是故衆僧緘默無對而巳大和尚曰是爲法事也何惜身命諸人不去我卽去耳祥彥曰大和尚若去彥亦隨去爰有僧道興道航神崇忍靈明烈道默道因法藏法載曇靜道翼幽巖如海澄觀德淸思託等廿一人願同心隨大和尚去

訓読

眞人まひと元開がんかい

大和上、いみな鑑眞がんじん揚州ようしゅう江陽縣こうようけんの人なり。族姓は淳干じゅんうさい辯士べんしこんが後なり。其の父、先に揚州の大雲寺だいうんじ智滿ちまん禪師に就て戒を受け禪門を學す。大和尚、年十四、父に隨て寺に入り、佛像を見たてまって心を感動す。よりて父に請て出家を求む。父、其の志を奇なりとして許す。是の時、大周だいしゅう則天そくてん、長安元年、みことのり有て天下の諸州に於て僧を度す。𠊳すなはち智滿禪師に就て出家して沙彌しゃみと爲り、大雲寺に配住す。後改て龍興寺りゅうこうじとす。唐の中宗ちゅうそう、孝和皇帝神龍元年、道岸どうがん律師に從て菩薩戒ぼさつかいを受く。景龍元年、しゃく東都とうとよって、ちなんで長安に入る。其の二年三月廿八日、西京さいきょう實際寺じっさいじに於て登壇とうだんして具足戒ぐそくかいを受く。荊州けいしゅう南泉寺なんせんじ弘景ぐきょう律師を和尚わじょうと爲す。二京に巡遊して三藏を究學くうがくす。後ち淮南わいなんに歸て戒律を教授す。江淮こうわいの閒、獨り化主けしゅ爲り。是に於て佛事を興建して、群生ぐんじょう濟化さいけす。其の事、繁多はんたにしてつぶさに載すべからず。日本天平五年、ほし癸酉きゆうあたる。沙門榮叡ようえい普照ふしょう等、遣唐大使丹墀眞人たじひのまひと廣成ひろなりに隨て唐國に至て留學るがくす。是の年、唐の開元廿一年なり。唐國諸寺の三藏さんぞう・大德、皆な戒律を以て入道の正門と爲す。若し戒を持たざる者の有れば僧中そうちゅうつらね是に於てまさに本國傳戒でんかいの人なきことを知る。仍て東都大福光寺の沙門、道璿どうせん律師を請して、副使中臣なかとみ朝臣あそん名代なしろが舶に附して、先つ本國に向ひ去て、傳戒の者と爲んと擬す。榮叡・普照、唐國に留學して、巳に十載を經、使を待たずと雖とも、早く歸んと欲す。是に於て、西京安國寺の僧道航・澄觀、東都の僧德淸とくしょう高麗僧こうらいそう如海にょかいを請し、又、宰相李林甫り りんぽが兄、林宗りんしゅうが書を請ひ得て、揚州の倉曹そうそう李湊り そうに與て大舟を造り、粮を備て送遣せしむ。又、日本國同學の僧、玄朗げんろう玄法げんほうの二人と倶に下て揚州に至る。是の歳、唐の天寚てんぽう元載冬十月 日本天平十四年歳次壬午也

時に大和尚、揚州大明寺だいめいじに在して衆の爲めに律を講ず。榮叡・普照、大明寺に至て、大和尚の足下を頂禮して、具さに本意を述て曰く、佛法東流して日本國に至る。其の法有りと雖とも傳法の人無し。日本國に昔し聖德太子しょうとくたいし と云人有り。曰く二百年の後、聖教しょうぎょう日本におこらんと。今、此の運にあたる。願くは大和尚、東遊して化をおこし玉へ。大和尚答て曰く、昔し聞く、南岳なんがく禪師遷化の後、しょうを倭國の王子に託して佛法を興隆し、衆生を濟度すと。又聞く、日本國の長屋王ながやのおう、佛法を崇敬して千の袈裟を造て、此の國の大德・衆僧に棄施きせす。其の袈裟のえんの上に四句を繍著しゅうちょして曰く、山川異域さんせんいいき風月同天ふうがつどうてん。諸の佛子に寄せて共に來緣を結すと。此を以て思量するに、誠に是れ佛法興隆有緣の國なり。今我が同法の衆中しゅちゅう、誰か此の遠請おんしょうに應して、日本國に向て法を傳る者の有んや。時に衆、默然として一りもこたふる者の無し。ややひさしふして僧、祥彥しょうげんと云もの有り。進て曰く、彼の國、はなはとおくして生命しょうみょう存し難し。滄海そうかい淼漫びょうまんとして、ももに一りも至ること無し。人身にんじん得難えがた中國ちゅうごく生し難し。進修しんしゅ、未だ備はらず。道果どうか、未だよくせず。是の故に衆僧、緘默かんもくしてこたふこと無きのみ。大和尚の曰く、是れ法事の爲なり。何そ身命しんみょうを惜ん。諸人去らずんは、我れ卽ち去んのみ。祥彥の曰く、大和尚し去らば、げんも亦隨て去ん。ここに僧 道興 どうこう 道航 どうごう 神崇 じんすう 忍靈 にんりょう 明烈 みょうれつ 道默 どうもく 道因 どういん 法藏 ほうぞう 法載 ほうさい 曇靜 どんじょう 道翼 どうよく 幽巖 ゆうげん 如海 にょかい 澄觀 ちょうかん 德淸 とくしょう 思託 したく 等の廿一人有り。心を同して大和尚に隨ひ、去んことを願ふ。

脚註

  1. 眞人まひと元開がんかい

    奈良時代の公家で優れた文人。淡海三船(おうみのみふね)〈722-785〉。大友皇子の玄孫。もと御船王(みふねおう)と称していたが、天平年間のいつ頃かに大安寺の道璿のもとで出家、元開となって仏典を修学。しかし、天平勝宝三年〈751〉、勅により還俗させられ、同時に臣籍降下して淡海真人の姓を贈られ淡海真人三船となる。その翌年、唐留学生に指名されるが、後に病を理由に辞し官人として仕えた。天平勝宝八年〈756〉、聖武上皇崩御の直後に藤原仲麻呂に朝廷誹謗の罪で誣告され、禁固刑を受ける。その後許されてからは、地下の公家として次第に出世し、宝亀三年〈772〉に大学頭、そして文章博士を歴任。当時、石上宅嗣と共に「文人之首」と称された(『続日本紀』)。最終官位は刑部卿従四位下。
    本書の底本では淡海三船とせず真人元開とされているためそれに一応従っているが、当時すでに還俗しているため僧名の元開を真人姓と共に称することは時系列的にも仏教的にも不適切。本書を著したのは還俗して久しく、また文人として名声を得ていた宝亀十年〈779〉の淡海三船であって元開ではない。なお眞人を「しんじん」と訓じることは、道教における仙人あるいは支配者、仏教では仏陀あるいは阿羅漢を意味するものとなるため不適。あくまで八種の姓の一である「まひと」と訓じなければならない。

  2. いみな

    実名。諱とは「忌み名」であって、往古の支那において(特に高貴もしくは偉大な業績を為した)人の死後にその実名を口にすることを憚った習慣があったが、それが生前にも適用されるようになったもの。普段は実名(諱)は隠して用いず、その位階や官名、あるいは居所名や字(あざな)など通称を用いた。

  3. 揚州ようしゅう

    古代支那に存在した九州の一(『周礼』・『尚書』説)。北は淮水から南は南支那海にかけての一帯。栄叡・普照が唐にあった天宝年間〈742-〉は広陵郡と改称されていたが、後の乾元元年〈758〉にまた揚州の名に復している。現在の江蘇省淮安市から揚州市一帯。

  4. 江陽縣こうようけん

    揚州が管轄した七県の一。現在の江蘇省揚州市広陵区周辺。

  5. さい辯士べんしこん

    淳于髠(じゅんう こん)。春秋戦国時代の斉国の人。斉王の娘婿であったといい、好学博識の人で稷門の一人。また非常な能弁であったとされる。『史記』滑稽列伝の最初に挙げられる人。

  6. 大雲寺だいうんじ

    大雲経寺。『大雲経』を附会してその根拠とした武則天が、武周革命により唐朝を中止して周朝を称した後、全国の各州に遍く建立した官寺の称。したがって、ここでは揚州の大雲寺の意。
    聖武天皇による日本の国分寺は武則天の大雲寺(およびその後の中宗の龍興寺、玄宗の開元寺)に倣った制。

  7. 大周だいしゅう則天そくてん

    武則天(則天武后)。武則天が武周革命により唐朝を中断し、古の周王朝の復興を謳って周を国号としたことによる名。

  8. 沙彌しゃみ

    [S].Śrāmaṇera / [P].Sāmaṇeraの音写。いまだ具足戒を受けていない、ただ十戒を受持する男性出家者。数え十四歳からなることが出来る見習い僧。勤策男または求寂などと漢訳され、小僧、雛僧などとも呼称される。

  9. 龍興寺りゅうこうじ

    武則天の失脚後、復権して唐を再興した中宗が武則天の大雲寺の制に倣い、同じく全国各州にそれぞれ一ヵ寺建立あるいは設置した官寺の称。国忌法要を行じることを主目的としたという。新たに建立するより既存の寺院を改称したものが多かったようであるが、ここで「後改て龍興寺とす」とあるように、実際揚州では大雲寺を改めて龍興寺としていた。

  10. 道岸どうがん律師

    南山律宗祖道宣の高弟の一人。光州の人。中宗が崇敬し、その皇后は道岸から受戒したという。

  11. 菩薩戒ぼさつかい

    菩薩戒には、『菩薩善戒経』・『菩薩地持経』・『瑜伽師地論』に基づく三聚淨戒の一環としての瑜伽戒(地持戒)と、『梵網経』(および『菩薩瓔珞本業経』)に基づく十重四十八軽戒(十重禁戒)、『方等経』に依る二十四戒など幾種類かの系統がある。その中、鑑眞がここで受けたのは『瑜伽論』に基づく三聚淨戒、すなわち瑜伽戒であったろうと思われる。日本中世の凝然もまた、これは中世に変質した律宗の見方に基づいたものであるけれども、その著『三国仏法伝通縁起』巻下にて「鑒眞隨道岸律師受菩薩戒。卽是三聚通受之法」と述べ、それが『瑜伽論』に基づくものであったとする所見を述べている。そのような見方が正しかったであろうことは、最澄の弟子光定が戒壇院にて具足戒を受けて三ヶ月後に三聚淨戒を受けていたことが補強している。実は鑑真渡来以降、比丘となる僧は戒壇院にて三師七証・白四羯磨によって正しく具足戒を受けていたことはその戒牒が残っていることにより確実であるが、菩薩戒については多くの資料が残っていない。そもそも戒牒とは具足戒を受けたことに對する官制(公的)の証明書であって菩薩戒に関するものではない。そして菩薩戒を受けることは官の規定にない。したがって、往時に誰がどのようにどの系統の菩薩戒を受けたかを具体的に伝える資料はほとんど無いのである。しかしながら、鑑眞一行がまた梵網戒を講じており、それが聖武および孝謙天皇に強い影響を与えていたこともまた確実である。いずれにせよ、瑜伽戒と梵網戒とが当時一体どのような形で授けられていたか、今も分明でない。

  12. 東都とうと

    洛陽。後漢・魏・西周・北魏・隋など歴代王朝が都とした街。唐は長安を都とし、洛陽を陪都(副都)として東都と称した。現在の河南省西部。

  13. 西京さいきょう

    長安の別称。唐の都。また西都とも。

  14. 登壇とうだん

    受戒のため戒壇に上がること。戒壇は、特に具足戒の授受のために設けられる一定の区画で、支那では一般に他より一段高くして設置された。特に南山律宗では、宗祖道宣がこれを三聚浄戒に因んで三段に築くのがインド以来であるとした。しかし、インドおよびその周辺に三段戒壇の遺構は全く無く、そもそも律蔵に物理的「壇」を設けよとする規定も無いため、何をどう思い込んだものかそれは道宣による誤解であった。
    なお、一般に何であれ戒を授けるのに戒壇を築いて登壇する必要があるとされるが、本来的には誤認。特に菩薩戒の授受に戒壇上である必要はない。戒壇とは、あくまで律の規定を厳守してただ「具足戒」を授受するために設定される物理的結界であって、具足戒以外にその必要は無く、その規定もいずれの菩薩戒経にも無い。

  15. 具足戒ぐそくかい

    比丘たること(比丘性)を具えること。
    非常によく誤解されているが、具足戒を受けることと二百五十戒といわれる250ヶ条の禁則を受けることは決して同じではない。受具足戒とは「比丘であることを承認されること」であって、その場で二百五十ヵ条の禁則が逐一教え示され授けられることではない。それら諸項目は、受具した後に、自らの和上から教授されて日々漸々として身に具えるべき行儀であり知識。その細則を比丘律儀または二百五十戒という。
    三師七証などといわれる最低十人の比丘衆、僧伽のもとで、白四羯磨という律藏の規定に從った法式によって行って初めて承認される。

  16. 荊州けいしゅう

    古代支那に存在した九州の一(『周礼』・『尚書』説)。北は荊山から南は衡陽にかけての一帯。栄叡・普照が唐にあった天宝年間〈742-〉は江陵郡と改称されていたが、後の乾元元年〈758〉にまた荊州の名に復している。現在の湖北省一帯。

  17. 和尚わじょう

    [S]upādhyāya / [P]upajjhāyaなどがコータンなど中央アジアの胡語に転訛した語の音写。先生の意。和上とも。正確な音写は鄔波馱耶(うぱだや)。
    仏教では特に、具足戒を受けてから十年以上経過しており、經と律に通じて後進を育てるに足る徳ある者で弟子を実際にとった僧、すなわち師僧の称。

  18. 榮叡ようえい

    興福寺僧。美濃国出身。生年不詳。榮睿(栄睿)とも。
    第九次遣唐使多治比広成に從って入唐した留学僧。元興寺の隆尊による請いを受けた舎人親王の働き掛けにより、国家として伝戒師を招聘することがその課せられた任務であった。入唐後、洛陽に入って間もなく大福先寺にて定賓らに従って受具し比丘となった。後、揚州大明寺で鑑真に出逢って来朝を請い、共に日本に渡ろうとする中で客死。同じく入唐した普照より年長で、おそらくは学徳もより高かったと思われる。

  19. 普照ふしょう

    興福寺僧。出自・生沒年不詳。栄叡と共に伝戒師請来の任を帯びて入唐した留学僧。『続日本紀』に記される行業(ぎょうごう)はその別名とされるが未詳。
    入唐後、洛陽に入って間もなく大福先寺にて定賓らに従って受具し比丘となった。栄叡が途中で客死したため、独り最期まで鑑眞を日本に請来するまでその行動を共にした僧。日本帰国後、すでに比丘となって十年を過ぎまたその理解も充分であったため、聖武上皇から唐僧に並んで「和上」の称を得ている。鑑真ら唐僧一行の爲に働き、日本で鑑眞等が舊僧に向かい入れられ、その元で受戒することを説得するなど、その影で最大にして不可欠の貢献を果たした人。後に西大寺に入ってその大鎮に任じられた。

  20. 丹墀眞人たじひのまひと廣成ひろなり

    丹墀は多治比とも。多治比広成。左大臣多治比嶋(たじひのしま)の五男。聖武天皇により第十次遣唐大使に任じられた公卿。

  21. 三藏さんぞう

    訳経僧。本来は経蔵・律蔵・論蔵に大別されるの仏典の総称であるが、転じて支那に請来された仏典の翻訳に携わった僧の称ともなった。

  22. 僧中そうちゅうつらね

    ここで「僧中」とは僧伽の意。具足戒を受けて比丘となっていない者は、いかなる者でも仏教僧として認められず、僧伽の成員として迎えられないこと。これに大乗も小乗も関係なく、日本でしばしばなされる大乗であるから律は不要などという主張はまったく通用しない。この『東征伝』の比較的冒頭にて、わざわざこのような一節を入れているのは、日本の旧僧らに対して仏教僧の正統とは何たるかを示し、旧来の自誓受戒で良しとしたあり方・思想に対して釘を指すことを目的としたものであったと考えられる。
    なお中世、道元は比叡山出身であって具足戒を受けておらず比丘でなかったことから、宋代の禅寺にてまさに「僧中に齒ず」の現実を突きつけられて入衆を拒絶されている。しかし、道元は理不盡にもそれに反論して甚だしい無理を押し通してごねまくった。おそらくその処置に困り果てた僧徒らは外国人であるからとして仕方なく受け入れたのであろう。

  23. 是に於てまさに本國傳戒でんかいの人なき...

    本書は、栄叡と普照がこの時初めて「本国伝戒の人無ことを知る」としている。しかし彼ら以前、隨代から幾多の日本の僧徒で支那に留学し二十年から三十年にも渡って滞在し帰国した者があり、本朝に伝戒の人が無いのをここで栄叡等が初めて気づいたなどということはあり得ない。思託『延暦僧録』の栄叡伝および普照伝、そして『東大寺要録』などにも、彼らが伝戒しえる律師僧を招聘する勅を奉じていたことが伝えられているため、やはりこの一節は表現としては不正確で誤解を生むものである。
    なお、栄叡と普照はここで道璿に請うて日本へ送っているが、自身らはその後も十年を唐で過ごし、そうして伝戒師を改めて探すべく行動している。この事実は、彼らは伝戒師招聘だけがその与えられた任務であったのでなく、特に律学を研究することが課せられていたであろうことを示唆している。比丘となって十年を経たならば、弟子(沙弥)をとって後進を指導する資格が得られるためである。

  24. 道璿どうせん律師

    天平八年〈736〉、天竺僧菩提僊那〈Bodhisena〉ならびにベトナム僧仏徹らと共に日本に来朝した支那僧。洛陽の大福光寺に住して相部宗の定賓から律を受学していた。栄叡・普照もまた同寺において定賓を和上として具足戒を受け比丘となっている。そこで栄叡と普照は伝戒のため来朝を請い、それに応えたのが道璿であったが、比丘独りでは受具を成立するための員数(十比丘以上)をそもそも満たさなかった。唐に来たって早々に道璿を誘ったのは、自身らが乗船した第九次遣唐使の帰国便に載せるためであって、そもそも「とりあえず」のことでもあったであろう。
    来朝後は南都の大安寺西唐院に住して華厳・天台・禅・律を講じているが、最澄の師行表はこの門下。本書を著した淡海三船もまた、帝の勅によって還俗する以前、道璿の弟子として出家し、元開として修学していた。天平勝宝三年、隆尊と共に僧綱職の律師に任じられた。日本華厳宗では初伝の人、禅宗では第二伝の人として挙げられる。

  25. 江淮こうわい

    長江以北、淮河以南の地域一帯。江蘇・安徽・湖北・江西周辺。

  26. 群生ぐんじょう

    生けるものども。生命あるもの全て。衆生、有情に同じ。

  27. 中臣なかとみ朝臣あそん名代なしろ

    中臣名代(なかとみのなしろ)。第十次遣唐使多治比廣成の副使として派遣された公家。天平五年〈733〉八月に蘇州に漂着。翌六年四月に洛陽に入り玄宗皇帝に謁見した。その後、帰朝の際に漂流して失敗すること一度。ようやく日本に還ったのは天平八年八月であった。

  28. 高麗僧こうらいそう如海にょかい

    高麗が朝鮮初の統一王朝として成立するのは十世紀初頭〈918〉。したがって如海は高麗僧ではなく、渤海あるいは新羅の僧いずれかであったとする学者がある。もっとも、『日本書紀』および『続日本紀』に「高麗」の称は幾度となく現れ、そこに属する僧や人の往来のあった記録が多々あることから、高麗僧であったとして差し支えないであろう。
    如海は後に自身が軽んじられたと立腹して鑑真一行を裏切り、官に誣告して一行を捕縛させている。後にそれが讒言であることが発覚すると還俗の上、杖刑に処された。

  29. 倉曹そうそう

    官庫(特に食料庫)を管理する官吏。

  30. 玄朗げんろう

    入唐留学僧。栄叡と普照と帰国を共にしようと合流した人。本寺・出自等、すべて未詳。

  31. 玄法げんほう

    入唐留学僧。栄叡と普照と帰国を共にしようと合流した人。本寺・出自等、すべて未詳。

  32. 聖德太子しょうとくたいし

    推古天皇代の摂政。用明天皇と穴穂部閒人皇后と閒に生まれた皇子。馬小屋にて生を受けたとされることから厩戸皇子とも言われる。推古十一年〈603〉に冠位十二階の制を、翌十二年〈604〉には日本最古の成文法『十七条憲法』を制定して中央集権国家を築くための礎を築いた。また同十五年〈607〉には、小野妹子らを隋に派遣し、隋からあらゆる先進の文化を輸入せんとした。仏教の篤信家であったといい、南都の法隆寺や浪速の四天王寺を建立した。また、みずから『法華経』・『勝鬘経』・『維摩経』をそれぞれ注釈した『三經義疏』を著したと伝えられているが、その内容は相当に仏教に造詣が深くなければ書き得るものでない。以上のことから古来、日本の仏教者には聖徳太子を敬う者が多くある。

  33. 南岳なんがく禪師

    慧思(515-577)。支那南北朝代の僧で、天台大師智顗の師。晩年に南岳に住していたことから南岳慧思と呼ばれる。支那天台宗第二祖として挙げられる人。『大乗止観法門』などを著した。

  34. 長屋王ながやのおう

    天武天皇の孫。高市皇子を父に、名部皇女を母に持つとされる皇孫。養老・神亀年閒に右大臣から左大臣にまで進み政治の実権を握ったが、謀反の疑い有りと讒言され、天平元年〈729〉に自害した。

  35. 滄海そうかい淼漫びょうまん

    蒼海原が限りなく広いこと。

  36. 人身にんじん得難えがた

    六道あるいは五趣輪廻する中で、人身すなわち人としてこの世に生まれい出ることが甚だしく困難で稀であること。「盲亀浮木の喩え」をもってしばしば強調される。『雑阿含経』巻十五「佛告阿難。盲龜浮木。雖復差違。或復相得。愚癡凡夫。漂流五趣。暫復人身。甚難於彼」(T2, p,108c)。

  37. 進修しんしゅ

    徳を進め、学を修めること。ここでは仏教の修行を積んでその徳を身に備えること。

  38. 中國ちゅうごく

    文明国。辺国・蕃国(非文明国)の対概念。
    『四十二章経』「佛言。夫人離三惡道得爲人難。既得爲人去女即男難。既得爲男六情完具難。六情已具生中國難。既處中國値奉佛道難。既奉佛道値有道之君難。生菩薩家難。既生菩薩家以心信三尊値佛世難」(T17, p.723c)
    支那人にとっての中国とは中夏、すなわち中原(黄河の中・下流域)一帯であって、その四方は蛮夷の地であった。また、支那に仏教が伝わって後、その仏教徒にとって中国とは中印度の仏陀生誕の地であった。

  39. 道果どうか

    仏道修行の果報として、賢者・聖者の階梯に昇ること。修行の成果として幾分でも悟りを得ること。

  40. 緘默かんもく

    押し黙ること。

  41. 思託したく

    沂州(きしゅう)の人。俗姓王氏。生没年未詳。玄宗皇帝の勅によって出家し、鑑真の元で受戒受学した。最初は台州の開元寺にあって後に天台山国清寺に移る。しかし、ここで記されているように、鑑真が栄叡・普照の請いを受けた時には揚州大明寺に鑑真と共にあったのであろう。あるいは鑑真渡海の志を聞いて天台山から急遽馳参したか。ここで列挙された唐僧のうち、結局日本まで付き従ったのは思託ただ一人であった。日本では自ら天台沙門と称しており、律学だけでなく天台教学にも通じていたようである。大安寺西唐院にあった道璿の後を受けて入り、漢語にて律学の講説を行ったことは、その後の奈良諸大寺に相承された律宗の基となっている。
    鑑真の滅後、思託はその伝記『大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝』(以下『大和上伝』)三巻を著していたが、どうやらそれが過剰に冗長でまたその文章も好ましいものでなかったらしく、当代随一の文人とされた淡海三船に再執筆を自ら依頼。三船は『大和上伝』を元に本書を編じている。ただ『大和上伝』は散逸してなく、いくつかの書にその逸文がわずかに伝わるのみとなっている。思託はまた『延暦僧録』を著しているが、それは日本最初の僧伝。ただし、これも散逸して現存せず。わずかにその部分が『日本高僧伝要文抄』などに収録されたのみとなっている。それでもなお非常に貴重な古代を知るうえで第一級の史料の一つとされる。

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