VIVEKAsite, For All Buddhist Studies.
Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

慈雲尊者

略年譜

慈雲の生涯

出来事
享保三年
(1718)
1歳 7月28日、大阪中之島高松藩蔵屋敷にて誕生。
父上月安範。母お幸。幼名満次郎。
享保十四年
(1726)
12歳 家に 寄宿していた浪人、武市新蔵の説(朱子学)に影響され、仏教を嫌悪。
享保十五年
(1730)
13歳 7月18日、父安範(圓澄居士)死去。享年66。
11月18日、遺命により法樂寺の忍綱貞紀の元で出家。僧名慈雲忍瑞。
享保十六年
(1730)
14歳 7月、忍綱より『悉曇章』(梵字)を習う。
享保十七年
(1732)
15歳 4月4日、四度加行開白。十八道如意輪法の道場観を修する中、仏教に回心(「今日方に出家の徳を知る」『光尊者伝』)。10月3日結願。
享保十八年
(1733)
16歳 忍綱の命により京都の古義堂に入門、伊藤東涯の元で漢籍・詩文を習う。
享保廿年
(1735)
18歳 印度渡航への想いを致す(「五失三不の歎に倣い、西邁の微志を発す」『血書行願讃』跋)。
元文元年
(1736)
19歳 南都に遊学。三輪山平等寺中之坊静智から『成唯識論』を学ぶ。
11月、河内野中寺に入り、秀巌性賢より沙弥戒を受ける。
『四分律』集法毘尼五百人を読み、初めて菩提心を発す。
元文二年
(1737)
20歳 3月、野中寺にて秀巌より伝法灌頂西大寺流を受ける。
三輪山玄賓庵にて戒龍唯如から秘密儀軌の講伝を受ける。
元文三年
(1738)
21歳 11月18日、河内野中寺にて通受自誓により受具。比丘となる。
元文四年
(1739)
22歳 3月、忍綱から西大寺流の附法灌頂(一流伝受)を受ける。同月20日、さらに両部神道(御流神道)の灌頂を受ける。
8月18日、法樂寺住職の席に就く。
僧名(諱)を慈雲忍瑞から慈雲飲光へ改名(月日未詳)。
寛保元年
(1741)
24歳 8月18日、法樂寺住職の席を法弟、松林閑節に譲る。
9月6日、信州正安寺の大梅禅師のもとで参禅すべく出立。
寛保二年
(1742)
25歳 正安寺にて夏安居を過ごし、そのまま禅堂にて修禅を続ける(「初めて穏当になった」『慈雲尊者法話集』)。
寛保三年
(1743)
26歳 4月4日、大梅禅師から印可を得る。
5月、正安寺から寂門〈後に痴堂覚明として出家〉を従え法樂寺に戻る。
延享元年
(1744)
27歳 4月9日、忍綱の命により高井田長栄寺(西之坊)に入寺。
延享二年
(1745)
28歳 4月、寂門、長栄寺にて沙弥戒を受ける。
10月、長栄寺を結界して律院僧坊とする。愚黙親証、菩薩戒を受ける。
延享三年
(1746)
29歳 7月15日、愚黙、長栄寺にて別受により受具。
寛延二年
(1749)
32歳 1月14日、智興尼、沙弥戒を受ける。
7月、『根本僧制』を著し、「正法律」復興を宣揚。
寛延三年
(1750)
33歳 2月11日、 慧日尼、剃染。
3月、有馬桂林寺に兼住し、4月13日、結界して律院僧坊とする。
12月7日、忍綱貞紀遷化。法臘37、世寿80。
寛延四年
(1751)
34歳 2月11日、 慧日尼、剃染。
3月、有馬桂林寺に兼住。
3月10日、愚黙親証、入寂。法臘4、世寿24。
4月13日、結界して律院僧坊とする。
5月5日、『比丘六物図』を講義。
7月18日、『法服図儀』略本二巻なる(翌宝暦二年に刊行)。
即成覚法、入寂(日時不詳。9月5日以降)。
宝暦元年
(1751)
11月、智興尼・慧上尼、桂林寺にて具足戒を受ける。
宝暦三年
(1753)
36歳 『枝末規縄』を著す。
宝暦四年
(1754)
37歳 春、『神儒偶談』を著す。
宝暦五年
(1755)
38歳 4月23日、萬愚覚賢没。法臘・世寿未詳。
宝暦八年
(1758)
41歳 『有部衣相略要』一巻(真別処妙瑞序・成連院真源跋)なる。
河内額田不動寺にて『南海寄帰内法伝解繿鈔』七巻を著す。
生駒山中に雙龍庵(七葉巌)を結んで隠棲。
宝暦九年
(1759)
42歳 根来寺常明僧正より地蔵院流を相承。
明和三年
(1766)
49歳 1月、鑑真の昔に倣った千衣裁製開始。第一衣なる。
7月、法を照堂護明に付嘱。
明和五年
(1768)
51歳 護明の筆受により『七九略鈔』五巻および『七九又略』一巻を編纂。
明和八年
(1771)
54歳 6月22日、『悉曇相承口説』二巻なる。
信者の懇請により、京都阿弥陀寺に入寺。
安永二年
(1773)
56歳 宮中の女御女院等に十善戒を授ける。
11月、義文尼および慧琳尼に請われ、以降十善を講じ始める。
観心寺槇本院から高貴寺を付嘱される。
安永三年
(1774)
57歳 3月2日、『十善之系統』を開明門院に上る。
長栄寺を護明に譲って隠居。
4月、額田不動寺を寄附される。
安永四年
(1775)
58歳 雙龍庵に移る。
秋、『十善法語』十二巻の編纂なる。
安永五年
(1776)
59歳 河内高貴寺に移住。
安永八年
(1776)
62歳 畳峰法護・明堂諦濡、高貴寺にて受具。
安永九年
(1776)
63歳 明堂諦濡、高貴寺にて灌頂を受ける。
8月17日、照堂護明、阿弥陀寺にて入寂。法臘22、世寿46。
天明元年
(1781)
64歳 7月23日、松林閑節入寂。法臘40、世寿67。
夏、『十善法語』を再校して『人となる道』初編を編纂。
天明三年
(1783)
66歳 『表無表章随文釈』五巻を著す。
宮中にて開明門院を度し、哲堂元光とする。
12月8日、長栄寺本堂(吉祥殿)焼失。
天明六年
(1786)
69歳 高貴寺僧坊を「正法律一派総本山」として幕府より認可される。
秋、『高貴寺規定』十三ヶ条制定。
天明八年
(1788)
71歳 夏、『無題章』を著す。以降、神道研究に専心。
寛政四年
(1792)
75歳 高貴寺を結界して律院僧坊とする。
『伝戒記』一巻を著す。
寛政七年
(1795)
78歳 5月、高貴寺にて両部曼荼羅を講伝。
菩提華祥瑞の筆受により『両部曼荼羅随聞記』二巻なる。
寛政八年
(1795)
79歳 阿彌陀寺にて再び両部曼荼羅を講伝。
菩提華祥瑞の筆受により『両部曼荼羅随聞記』六巻なる。
寛政十年
(1797)
81歳 『神到要頌』一篇を作る。
6月、阿彌陀寺にて道俗の為に神道を伝受する。
寛政十一年
(1797)
82歳 智幢法樹、高貴寺にて受具。
10月2日、『神道三昧耶戒式』一巻を著す。
寛政十二年
(1800)
83歳 比登農古乃世ひとのこのよ』一巻・『数息観大要』を著す。
5月、『金剛般若経』講経。
享和元年
(1801)
84歳 3月29日、畳峰法護、入寂。法臘25、世寿66。
享和三年
(1803)
86歳 1月1日、順翁紹應、長慶寺にて入寂。寿不詳。
『理趣経講義』三巻なる(漢訳から梵語への還元を試行)。
文化元年
(1804)
87歳 8月上旬、長栄寺にて発病。
9月21日、療養のため阿弥陀寺に移る。
12月22日夜半、講経の準備中に阿弥陀寺にて遷化。

《注》本年譜は、『正法律興復大和上光尊者伝』をはじめ『開山大和上生縁筆記』・『慈雲大和上御自筆履歴』に基づき、および稲城信子『日本における戒律伝播の研究』を参照し、『慈雲尊者全集』首巻にある長谷宝秀氏による「慈雲尊者伝私見」を大いに参考に、慈雲の諸著作あるいは諸弟子の筆記した書などにある所伝により制作した。

愚衲覺應 拝記