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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

慈雲尊者

袈裟衣の復古改正

『方服図儀』 ―僧服のあるべき姿

画像:慈雲『法服図儀』

慈雲は、『根本僧制』を著して正法律復興を宣揚した翌々年の寛延四年〈1751〉、高井田長栄寺から居を移していた有馬桂林寺にて『方服図儀ほうぶくずぎ 』なる仏教僧に許された装束いわゆる袈裟衣についての書を著しています。方服とは、四角い服すなわち袈裟衣のことです。それは支那の唐末から宋代以降、方服の製法から着法に至るまで仏陀の教えから程遠いものとなっており、それをまた日本も踏襲し、あるいはさらに各宗派が無根拠に我流をなして澄ましてきたことを問題視し、それを正さんとしてのものでした。

当時の日本で用いられてきた袈裟衣の色・形・大きさ、そしてその着法は、まず経説や律制と明らかに異なり、また古来伝わる如来像やインドの高僧図などに見られるものとは大いに異なっており、そもそも本来皆同一であるはずの衣が諸宗でまるで違うことに対して、慈雲らが根本的疑問を持ったことによります。

もっとも、その誤っていることを慈雲自ら考証して指摘するまでは、慈雲も出家当初から従来正しいとされてきた衣を着用していました。その袈裟衣は当時、(それも実は誤解であったのですが)支那の南山律宗が正統として伝えたものとされていたことから、「南山衣なんざんえ 」などと称されていました。その着用には、多くの場合金属製の環と鈎が用いられ、着装すると左半身が露わとなる(袈裟本来の意義からだけでなく、その外見・実用上からしても)奇妙な形態の衣です。

日本では袈裟衣の下にいわば下着である褊衫へんざんくん(泥洹僧・腰衣・袴)などの内衣をつけ、平安中後期からはさらにその下着として白衣はくえを着ることが一般的となっています。袈裟衣とは本来、三種あるいは二種のそれだけで体全体を覆うべきものであるため、どうやっても半身が露わとなる南山衣は、その本来からして根本的におかしなものとなっています。なぜおかしいと慈雲らは考えたのか。それはまず三国伝来といわれる仏像や、往古の印度や支那の高徳の図像とあきらかに違っていたからであり、また経や律に説かれる着法が出来ないためです。

佛滅後二千七百年。賢聖湮沒魔外勃興。支那日本之傳敎。其遵奉佛諸制也或鮮矣。豈啻不遵其所制哉。動稱隨方知時。嗚呼如來三達智之所照。有故作不通澆末之制。而俟後人凡愚之改張乎。《中略》 夫佛陀立制懃懃其至。列聖傳持蹇蹇其勗。吁悠悠生死之人。何其看之平平。若夫惡馬合杙棄之者。諸佛威神不能爲汝。《中略》
且如袈裟衣則佛佛同等之章服。彌之十方通之三世。固無異議。其有異議者特是魔外之屬耳。《中略》 唱滅於雙樹而能事畢。加之鶏足峯合。則迦葉擎持應彌勒之興世。罽賓跡熄。則商那智願盡於釋迦之遺法。是故裁製違法則著著結罪。受用順敎則念念成德。得失兩分昇墜路渺。聊語未能詳。有志者請擇而精之
仏滅後二千七百年、(往時の)賢聖けんじょう〈賢者と聖者〉は湮没して(今や)魔外が勃興している。支那・日本の伝教〈仏教を伝えてきた僧〉に、仏陀の諸制を遵奉した者は決して多くはなかったように思われる。むしろただその所制に遵ぜぬばかりか、ややもすれば「隨方知時ずいほうちじ〈地方や時代の異なりを建前として、恣意的・御都合主義的な改変・改悪を良しとすること〉と称するものさえある。嗚呼、如来の三達智が照らされた所に、 ことさら澆末ぎょうまつ に通用しない制が作され、後人や凡愚の改張〈改変・創作〉を俟つことなど有り得ようか。(いや、ありはしない。)《中略》
そもそも仏陀が立てられた制は懃懃として尽くされたものである。そして列聖〈先師・先徳〉によるその伝持は蹇蹇けんけん〈忠義を尽くす様子〉として努められた。ああ、悠悠たる生死しょうじの人〈生死輪廻を繰り返して取りとめない者〉は、どうしてそれ〈仏陀の制に従わず、あるいは改悪している僧ら〉を看ること平平としていられるのか。あたかも悪馬のくいを合わせて棄てるような者よ、諸仏・威神であっても汝の為に出来ることはない。《中略》
かつ袈裟衣の如きは、すなわち仏仏同等の章服である。十方にわたり三世に通じる、もとより異議無きものである。もし異議ある者は特に魔外に属したものに過ぎない。《中略》
(仏陀は)入滅することを双樹〈沙羅双林〉にて宣言され、為すべきことを為されてその生涯を終えられた。加之しかのみならず鶏足けいそくの峯〈Kukkuṭapādagiri. 鶏足山. ガヤーの南東に位置する岩山。摩訶迦葉は鶏足山の間にて入定しており、彌勒の下生を待っていると伝説される〉の間において迦葉は(釈尊の袈裟衣を)擎持けいじして弥勒仏の出世に応じ、罽賓けいひん〈カシミール〉の跡を熄めて商那〈Śāṇavāsa(商那和修). 阿難の弟子の一人でありUpagupta(優婆毱多)の師であったとされる高徳〉の智願は釋迦の遺法を尽くした〈『付法因縁伝』にある商那和修の袈裟衣にまつわる話を意図した一節〉。このようなことから、(袈裟衣の)裁製が法に違えたものであれば著著〈非法の袈裟衣を着る毎〉に罪を結し、受用が教えに順じたならば念念〈瞬間瞬間〉に徳となる。その得失は二つに分かれ、その昇墜の路ははるかである。(『方服図儀』を著して袈裟衣の如法の姿について)聊かながら述べたけれども、未だその詳細を極めてはいない。有志の者よ、どうか斟酌してこれをさらに詳しくせよ。

慈雲『方服図儀』略本 巻上(『慈雲尊者全集』, vol.6, pp.1-4)

慈雲は、印度から直接ではなく常に支那における仏教を範としてきた日本においてもまた、その僧達の姿形はあるべき姿とは似て非なるもの、まがいものであるとして、諸々の律蔵や注釈書あるいは古い仏像・仏画に至るまでくまなく調査し比較研究。そこで慈雲は、律蔵で制定されている本来の袈裟の形や大きさ、そしてその素材や色から縫い方・着け方に至るまでその根拠を逐一示し、さらに図版を載せるなど懇切丁寧にまとめたのでした。その図を描いたのは、柳沢家の家臣にして当時一級の文人画家であり、慈雲の信奉者でもあった柳沢淇園やまぎさわ きえん柳里恭りゅう りきょう)。

慈雲はこれをもって当時としては考えられうる限り、釈尊による定めに則した袈裟衣とその着方とを世に示したのです。

実は、仏制に乖いて諸宗それぞれが手前勝手な装束を着ていることを批判し、その本来の姿を取り戻そうとしたのは日本の慈雲が始めてのことではありません。それは南宋代の支那において南山律宗を中興しようとした 元照がんじょうにおいて既に行われていたことでした。

歴觀經論。遍覽僧史。乃知聖賢踵跡。華竺同風。今則偏競學宗。強分彼此。且削髮既無殊態。染衣何苦分宗。負識高流。一爲詳鑑。況大小乘教。竝廣明袈裟功徳。願信教佛子。依而奉行
 様々な経論を歴観し、種々の僧史を遍覧してみれば知られるのである、(古の)聖者・賢者らは(先達の行業をこそ)倣って行われて、中華も天竺もその風儀を同じくしていたことが。 しかるに今の者は偏向して自宗をこそ学び競うのみであり、強いて(仏制に乖いて衣の色・形・大きさを)彼れ此れと異ならせている。一応、頭髪を剃ることは異ならせないのであれば、一体どうして染衣だけ敢えて宗によって(その色・形・大きさを)変えるのか。
 負識の高流〈有智の高徳〉よ、いま一度(比丘六物について)詳しく諸仏典を参照せよ。言うまでもなく、大乗・小乗の教えは同じく、そして広く袈裟の功徳を明かしている。願くは教えを信ずる仏子らよ、(仏制・聖典にこそ)依って行いたまえ。

元照『仏制比丘六物図』(T45, .p.897c)

慈雲が先程挙げた一節の中で「支那日本之傳敎。其遵奉佛諸制也或鮮矣」と言っているのは、自身の僧服の歴史に関する見立てに加えて、この『仏制比丘六物図ぶっせいびくろくもつず』(以下、『六物図』)における元照の当時の嘆きと批判とに基づいたものであったと思われます。『六物図』は中世鎌倉期に入宋し、天台や律そして禅などを学び帰った泉涌寺の俊芿しゅんじょうにより日本にもたらされた典籍で、以来日本の律僧や禅僧により珍重されよく学ばれています。

画像:慈雲『方服図儀』に示された正しい袈裟の着装法

しかし、そこで慈雲はそんな『六物図』の所説を残らず踏まえた上でより詳しく、さらに袈裟衣の復古の姿ばかりではなくその印度以来の着方をも世に示そうと『方服図儀』を著したのでした。

ところで、東南アジアや南アジアの国々において仏教、特に上座部が深く信仰されてきた地でもその法脈に栄枯盛衰があって、時に僧伽が頽廃し持戒持律の者が少なくなった際にはやはり戒律復興運動が幾度か生じています。そんな時、ほとんど通じて見られるのは、袈裟衣の製法あるいは着法が正されることです。慈雲の『方服図儀』などにおける方服を是正し復古せんとする活動は、まさにそれと軌を一にするものです。

慈雲がいくら『方服図儀』により明瞭な根拠と合理的な袈裟衣の本来を示したところで、それで従来の僧徒がたちまち威儀を正し改めることなどありはしません。しかし、慈雲はそれをそのまま済ましてはいません。自身が改正し示した袈裟衣を普及させるため、天平の昔に長屋王が伝戒師を招聘するため支那に贈った袈裟衣一千領を目にしたことにより、鑑真が渡来を決意したというその昔に倣って「千衣裁製」を発願。これは慈雲の正法律復興に賛同し、追随した多くの人の協力により、なんと四十年余りの時をかけて成し遂げられています。

もっとも、慈雲は『方服図儀』を著したことによって本寺であった野中寺から除籍されるなど、その行為は当初はなはだ異端視されています。というのも、当時の律宗において如法とされていた袈裟衣の形態は、栄西や俊芿しゅんじょうなど入宋した僧により平安末期から鎌倉期初頭に支那から持ち帰られたもので、以来それこそ正統なる装束であると考えられていたためです。それを慈雲が「改正した」ということは、彼らからすると許せるものではなかったのでしょう。

平安中後期から鎌倉期にかけ、すでに日本では往古の袈裟の形など僧徒にはすっかり忘れ去られ、矮小化された奇妙な形の布きれを、ただ名称ばかり「袈裟(威儀五条)」と称して僧徒一般が着用していました。そのような中、栄西を初めとする幾人かの渡宋僧により大陸からもたらされた衣は当初、当時通用していた威儀五条に比して相当に大きく目新しい、むしろ異様なものとしてすら受け止められています。しかし、律僧と禅僧の存在が大きくなっていくとともに、その着する衣は「まさに正しい、本来の袈裟衣」だと認識されていったのでした。

いまだ葉上房の阿闍梨と申しける時、宋朝に渡りて、如法の衣鉢を受け佛法を傳ふ。歸朝の後、寺を建立の志御坐しけるに、天下に大風吹いて損亡の事ありけり。世間の人の申しけるは、此風は異國の樣とて、大袈裟大衣きたる僧共、世間に見え候。彼衣の袖のひろく、袈裟の大きなるが、風はふかする也。 かくのごとくの異躰の仁、都の中をはらはるべきなりと申しける《後略》
(栄西が)いまだ「葉上房の阿闍梨」と称していた頃、南宋に渡って如法の衣鉢を受け仏法を(日本に)伝えた。帰朝の後、(京都で)その寺を建立する志をお持ちであった時、天下に大風が吹いて大きな被害が出た。そこで世間の人々が云うには、「この風は(この国の尋常なものではなく)どうも異国の樣である」とし、さらに「(近頃の京都には)大袈裟・大衣を着た僧達が、世間に見えだしている。彼らの衣の袖が広く、袈裟は大きいのが、この風を吹かせたのだ。あのような異体の人は、都の中から追放しなければならない」と話した 《後略》

無住『沙石集』巻十

ここで無住が「如法の衣鉢」と言い、また「袈裟の大きなる」と云っているのは、まさにその証です。この話は後に虎関師錬の『元亨釈書』にも載せられており、当時もある程度よく知られたものであったのでしょう(世に慣用句として云われる「大袈裟」なる表現はこの話に基づきます)。実際、栄西は南宋にて学び持ち帰った僧服についてこれを如法とし、当時の乱れに乱れた僧の衣装を、律に基づいたものに正そうと努力しています(『出家大綱』)。

とはいえ、たとえば鎌倉期に制作された法相六祖坐像などは天平の昔の遺作に倣い、忠実にその昔の袈裟衣や内衣を再現して制作され、興福寺に祀られています。そのような往古の袈裟と当時の袈裟衣の違うことを、制作した康慶など仏師らだけが気づき知っていたという筈はない。したがって当時の僧徒も自身らが着用する衣とその昔のものとが明らかに違うことは意識されていたはずです。旧来の堕落していた僧徒らがそれを知ったとして、正す意志など無かったことは理解できます。しかし、ここが非常に不思議であるのですが、当時戒律復興を果たし、その袈裟衣など僧の装束の正統についても確実に意識を向けていた、しかも興福寺に深く縁のあった覚盛や叡尊などの律僧らが、天平の昔に範を取ろうとしなかった、あるいはその考証をせず新来の袈裟衣を無批判に正統として受け入れていたのがどうにも解せません。

その後、特に臨済宗に関しては、南宋から威儀の崩れた禅僧が次々渡来し、しかも師家として迎えられてその模範とされるようになると、瞬く間に日本の臨済僧もその非法に倣うようになっています。室町に入るまでには「伝法衣」と称される、しかしその実どこが「伝法」なのか不明な、豪華で歪な形の衣が流行しています。禅宗において衣は嗣法の証として重要視されますが、その衣が歪んでいったのと同調するかのように、その教えがただ奇を衒っただけの文化的遊戯となっていったのは、律儀と仏教との関係からいえば当然といったことになるのでしょう。

なお、ここで無住が「彼衣の袖のひろく」と謂っているのは、唐末頃に支那で考案され宋代流行するようになっていた直綴じきとつについての言です。直綴とは、褊衫へんざんくんの上下をつなぎ合わせて簡略にしたものです。当時の律僧や禅僧は、これは栄西や叡尊も含めてのことですが、実は直綴など非法の俗服であって着てはならないと述べており、栄西らが直綴を着ていたとは考えられません。

たとえば栄西よりやや下った時代の叡尊は直綴についてこのように言っています。

一、袈裟幷直突事
《中略》
凡ハ直突ナンドニシタラウゾ、キヨウモ候ヌベケレドモ、訛シタル物デ候間、某キ候ナバ人皆シ候ナウズト存テ、不着候。祇支覆肩衣ハ、阿難尊者、閻浮第一ノミメヨシ、乞食シテヲワシマスヲ、水汲ム女人、胸膚ヲ見テ起欲心、無余念、ヲウタルトヤラウ、ダイタルトヤラウ子ノ頭ヲツメキテ候ケルニヨテ、僧ニハ阿難尊者一人ニユルサル。其ノ後ユリタル間、サ程ミメヨカラヌモ着テ候。唐朝デ頸ヲトキ合テ着テ候タルヲ女人ドモ見テ、此僧ノ色ハ白、彼ハ黒シナンド申合タル間、初ハ右ノ袖ヲ付タ。此モ猶訛シタレドモ、直突ハナニヽモ不付間、仏法ノメツ相也。
一、袈裟ならびに直突〈直綴〉について
《中略》
そもそも(弱った身体のために)直突などにしたならば着ることも出来たでしょう。けれども、(直突は)誤った物でありますし、私が着用したならば他の皆も着はじめるであろうと思って、着はしませんでした。僧祇支や覆肩衣は、阿難尊者が閻浮提第一の美男子で、乞食されている時に、水汲み女がその胸肌を見て欲情を起こして我を忘れ、背負っていたか抱いていたかした我が子の頭を(井戸の水中に)沈めたという事件があったことから、僧では阿難尊者ただ一人に(覆肩衣の着用が)許されました。その後、(他の僧らも覆肩衣の着用が)許されたため、それほど見た目が良くない者でも着ています。唐の時代、(僧らが僧祇支と覆肩衣とを)首元を緩く着ていたのを、女人らが見て、「この僧の(胸元の)色は白い。あれは黒い」などと言い合ったため、初めは右の袖を付けた。これも(褊衫はそのようにして出来た)なお誤ったものではありますが、直突は何にも基づかないものですから、(それを着ることは)仏法の滅相というものです。

『興正菩薩御教誡聴聞集』

叡尊は支那にてどのように褊衫が作られたかの認識を示した上で、その本来からすれば誤ったものでありながらも一応の根拠と故事に基づいたものとして許容しつていますが、直綴にいたっては全く論外としています。僧服としてその根拠がまったく無いためです。このような細かな点においても叡尊における持戒への意識の程を知ることが出来るでしょう。

実は直綴については宋でもすでに問題になっていた、要するに「だらしのない俗服」であり、まともな禅僧、例えば道元の師であった如浄もこれを着用してはならないとしていました。

堂頭和尚慈誨云。上古禪和子皆著褊衫也。間有著直綴者。近来都著直綴。乃澆風也。蓑欲慕古風則須著褊衫。今日參内裏之司必著褊衫。傳衣時受菩薩戒時亦著褊衫。近來參禪司家謂著褊衫是律家兄弟服者乃非也。不知古法人也。
堂頭和尚〈如浄〉が慈誨して言われた、
「上古の禅和子ぜんなす〈禅僧〉は、みな褊衫を著けていた。稀に直綴を著る者もあった。近来は皆が直綴を著けているが、それは澆風〈誤った風習〉である。汝も古風を慕うというのであれば、須く褊衫を著けよ。今日も内裏に参ずる僧は必ず褊衫を著けている。伝衣の時、あるいは菩薩戒を受ける時も、また褊衫を著けるのだ。近来、参禅する司家らが『褊衫を著るのは律宗の兄弟服である(禅家が著るものではない)』などと言うのは誤っている。古法を知らない人々である」

道元『宝慶記』

ところが、その訓戒を確かに自ら聞いて記してまでいた道元は、帰国後それを全く無視して直綴を用いだしています。実際のところ、直綴が上下分かれた褊衫・裙に比べて必ずしも便利ということはなく、これは視点や好みにも依りますが、むしろ直綴のほうが不便が多いとすら言えるので、それはただ当時の流行りに乗ってのことであったのでしょう。道元が直綴を用いたことにより、彼を祖とする洞上の禅僧の中でもなし崩しに直綴が流行して今に至ります。今や曹洞宗だけでなく臨済宗など禅宗において、褊衫へんざんがどのようなものかを知る者すらほとんどなくなっています。

禅宗では手巾(腰条)を必ず直綴など内衣の上に腰の位置で巻き着けますが、そもそも直綴など上下連なった内衣の上に紐を巻く必要性も必然性もないため、それはおそらく褊衫と対で付けなければならない裙を着用するための腰紐の名残であるのでしょう。

堂頭和尚於大光明藏示云。行李交衆之時。裙袴之腰條皆強緊結之也。稍經多時更無力之勞也。
堂頭和尚〈如浄〉は、(天童山景徳寺の方丈)大光明蔵にて言われた、
「修行するために修行僧らに交わる時には、裙袴の腰条〈腰紐〉を、強く堅く結ぶのである。やや時間が経って(緩んだ腰条を)更に結び直す労を無くすためである」

道元『宝慶記』

尊者の『方服図儀』において示された「復古・改正された袈裟」はその後、天台宗寺門派の 顕道敬光 けんどうけいこう や曹洞宗の 黙室良要 もくしつ ろうよう などの僧や 狩野一信 かのう かずのぶ など画師にも大きな影響を及ぼし、彼らの著作や作品にそれが明瞭に現れるようになるなど広く普及しています。というのも、慈雲の著述には南山衣が「全く誤ったものである」と人に首肯させるに足る明瞭な、しかも数多くの典拠・根拠が種々に示されていたためでした

(江戸中後期以降の高僧図像をそのような知識を以て比較して見たならば、慈雲の影響を受けた人とそうでなかった人とが明瞭となります。これは現代においても言えることで、僧服についての知識を有せず、またその実際の考証をしていない者の作品は細部において全く成っていません。)

偏袒右肩と通肩

画像:慈雲『方服図儀』 通肩

そもそも、袈裟の着法には場合によって使い分けるべきとされる二つの法があります。一つは右肩を顕わにする偏袒右肩へんだんうけんと、もう一方は両肩を覆い隠す通肩つうけん との二種です。偏袒右肩とは、尊敬を表すべき対象、例えば自分より上座の僧を前にした時や読経あるいは諸々の僧伽における儀式にてすべき着法です。それは在家者を前にした時にはすべきでない着方です。対して通肩は、托鉢や信者の家に招かれるなどして市街・村落を行く時や修禅を行う際、あるいは在家信者に説法する時にすべき着法です。これらは律蔵において厳密に規定されており、諸々の経典の中でもそのように着分ける比丘の姿が伝えられています。

ちなみに、日本に伝えられている印度僧、たとえば龍樹〈Nāgārjuna〉などの肖像は大抵、通肩の姿で描かれています。また慈雲自身の肖像や坐像では、修禅している姿は通肩、説戒(布薩)している際の図は偏袒右肩と画師により描き分けられており、これは画師もその異なりを承知してのことです。

もともと、日本はもとより支那・朝鮮における仏教史上においても、通肩の着法が研究されたことはあれ行われたことは、インドなど南アジアからの渡来僧を除いてはあまり無かったようです。いや、インドなど南アジアからの渡来僧がしばしば、そして比較的多くあった支那に確かに伝わってはいました。唐代初頭の道宣が著した、新たに比丘となったものが備えるべき威儀を書き連ねた入門書『教誡新学比丘行護律儀』(『教誡律儀』)に、「通肩に被着してはならない場合」を二箇条挙げていることからすると、少なくとも道宣の当時は通肩に着ることがあったと考えられます。

在寺住法第四全三十一条...
 十三不得通肩被袈裟。
《中略》
對大已五夏闍梨法第七全二十二条...
 二不得通肩被袈裟經云。比丘對佛僧及上座不得通肩披袈裟。死入鐵鉀地獄
寺にあって住する法 第四全三十一条...
 第十三条:通肩に袈裟を被てはならない。
《中略》
大已五夏闍梨〈夏安居を五度、難なく過ごし基本的な知識・行儀を備えた比丘〉に対面する法 第七全二十二条...
 第二条:通肩に袈裟を被てはならない。経に「比丘は仏僧及び上座に対面するのに通肩に袈裟を被てはならない。死後には跌鉀地獄に入るであろう」とある。

道宣『教誡新學比丘行護律儀』(T45, p.870a-871b)

しかしながら、支那には隋代や唐代の古き高僧図像などの遺作が極めて少なく、あっても通肩姿のものは稀も稀であって、当時の僧服を美術などから伺うことがほとんど出来ません。六世紀初頭頃に支那へ禅を伝えたと伝説される菩提達磨の肖像には通肩(裹頭)に着た形式のものが伝わっていますが、著名なもので言えばそれくらいなもので、しかも古い作品は残っていません。結局、その後の支那において袈裟の被着法は定着せず、南宋にて道宣の遺志を継ごうとした元照の時代にはすでに完全に失伝していたものらしく、当然今に伝わってもいません。

不佞が愚考するには、支那において僧祇支を改変し考案された襟や袖の付けられた褊衫の上に袈裟衣を通肩に着ることは不都合であったこともその原因の一つであったろうと思っています。これは実際に着てみたならば直ちにわかることですが、褊衫の上に衣を通肩に着ると襟と袖が非常に邪魔となり、甚だ着心地が悪くなって全く実用的でありません。卑近な表現をもってすれば、、首周りがゴワゴワして収まりがつかず、また襟や袖が衣に引っかかり内衣も着崩れてしまうのです。

また、支那にも印度以来の僧祇支そうぎし泥洹僧ないおんそう も確かに伝わって当初用いられていましたが、(伝承では宮中の女官により)褊衫が考案されて以降、僧祇支が積極系に着用されることは無かったようです。僧祇支というもののあること、その形態などは少なくとも元照の時代までは伝わっていたことは確かですが、当時すでにその本来や着法が全く忘れられ誤って用いられていると元照は批判しています。

なお、慈雲は袈裟衣だけでなく、褊衫はやはり支那で誤ったものとして、僧祇支や泥洹僧もまた復元しており、布薩や受戒など羯磨を要する法要の場などで着用していました。ただし、褊衫でなく僧祇支をこそ用いたのは、中世の叡尊においてすでに試みられていたことです。彼ら戒律復興に力あった僧は、先に述べたようにこれは国の内外問わず、その外儀においても復古せんとすることは全く共通しています。

したがって、慈雲が行った袈裟衣の改正は、それによってその色形など外形的な復古がなされたばかりでなく、通肩という仏制に則した僧として正式な袈裟の着法が出来るようになった点においても、支那・朝鮮・日本の三国史上稀な一大功績と評価できることでした。

画像:慈雲『方服図儀』 通肩での修禅の姿

慈雲の没後、やや時を隔てた明治の世となるころ、慈雲の弟子智幢法樹に就いて受具し、後に長谷寺能満院を律院とした光雲海如により、慈雲の改正した如法衣一千領が造られ僧徒に施されています。また、当時吹き荒れた廃仏毀釈の嵐に対抗し、仏教復権運動を行った釈雲照によっても、尊者のそれに倣った千衣裁製が行われています。いずれも慈雲を直接は知らないやや後代の人で、その直弟子から受戒・受法した僧によるものでしたが、しかしその業績を深く敬慕し、せっかく復された如法衣の普及を願ってのことでした。

もっとも、明治期も慈雲の当時と同じく海如や雲照などによるこの動きは律宗の人々からすれば実に苦々しい行為であったようで、唐招提寺の遠藤證圓は雲照とそれに影響された真言宗徒を犬呼ばわりした上で「節操がない」と批判しています〈唐招提寺編『唐招提寺』学生社〉

しかし、南山袈裟を正統であるとする律宗の主張はすぐに破綻するものです。奈良期当時に造られた鑑真像や義淵像で表現されている袈裟衣や正倉院が今に伝える聖武天皇(勝満)のいくつかの袈裟衣と南山衣とは全く違うためです。慈雲は当然、広く仏典や史書を渉猟するだけでなく、さらにそれらも参考資料として、古き衣の考証を行ったのでした。

とは言え、今では慈雲が復古改正した袈裟衣は「如法衣にょほうえ」、つまり釈教に従った、法の如くの衣と称され、真言宗や天台宗などにおいて用いられています。あるいは、旧来の誤った袈裟である南山袈裟なんざんえをまた「四分袈裟しぶんげさ」などと云うことがあるのに対し、慈雲が後に『根本説一切有部衣相略要』という著作を遺していることなどから、如法衣をして「有部袈裟うぶげさ」などとも呼ぶ者があります。しかし慈雲が元にしていたのはあくまで『四分律』であり、この称は不適切なものです。

なお、曹洞宗には、これは当時から現代に至るまで慈雲を信奉する人が比較的多くあり、今も如法衣をあつらえて護持する者すらあります。これは現代の澤木興道が慈雲の信奉者で、如法衣を自ら裁縫して被着していたことに基づくことであると思われます。しかし、曹洞宗では公式の場でそれを用いることが認められていません。

ただし、慈雲が正法律復興の初期に復古改正した如法衣が今やよく知られ、また広く用いられるようになったとは言え、肝心かなめの色・形・大きさ、そして着用法は早くも忘れ去られ、あるいは完全に無視されています。その大体が体格に対して小さきに過ぎるちんちくりんな衣を、また妙ちくりんな着方でまとって澄ましているのです。それはおそらく、慈雲の遺した袈裟をもとにその寸法など形態だけを写し取り、「これはかの慈雲尊者の正しいお袈裟の形だ」などと表面的なことのみ伝え、それをまた京都の法衣屋などが手本として複製していったことによるのでしょう。

袈裟衣で重要であるのはその色形だけでなく、実用的にはその寸法が非常に大きな意味を持ちます。したがって、法衣屋などが共通規格で作る出来合いのものでなく、本来は各人がそれぞれの体格に合わせたものでなければ意味がありません。

もっとも、体格といっても太さでなく身長(手の長さ)の問題であるため、今で言うS/M/L/LLという規格が設けられたものである程度は合いはします。実際、東南アジアやチベットでは、ほとんどそのような出来合いが用いられています。しかし、ここが大きな違いであって、その故に問題となるのですが、日本の法衣屋が標準としている袈裟衣の大きさは、もはや小人用こびとようであるとすら言える小さきに過ぎたものとなっています。そこで仮に大・中・小の規格が設けられていたとしても、例えば低身長の人が大を着けたとしても、いずれにせよチンチクリンであってまともな格好とはなりません。

ところが、今の僧職者はその「まとも」が何かをまったく知らず自ら調べようともしないために、そもそもそういうものなのだと思い込み、やはり「これはかの慈雲尊者のお袈裟を写した、アリガタイ本来のものだ」などと澄ますばかりとなっているから笑えません。いや、失笑を禁じえない。

画像:中西誠應『画像須知』

尊者の身長は当時としては標準的な五尺余りであったようですから、その衣の寸法通りを写してもそれが現代人の体格に合うわけがない。袈裟衣といっても僧の服である以上これは言うまでもないことですが、その大きさはそれぞれの人によって異なる体格に合わせて仕立てなければならない。実際、何を基準として袈裟衣の大きさを決定すべきかの詳細な制が律蔵にあります。しかし、そのような常識も踏まえず、また律の規定も知らぬことにより、その核心たる慈雲による復古の精神も写すことも伝えることも出来なかった。

さらに、慈雲がその製法と同等に重要であるとして強調し、当時ようやく初めて日本で行われるようになった通肩の着法もまた完全に無視されています。今やその何たるかを知る者も、ましてや実践する者など絶無です。いや、そもそも言葉自体すら知らぬ者がほとんどとなっています。袈裟衣の正式な規格、そして内衣のなんたるかとその正しい着方は、僧はもとより仏師や仏画師、法衣屋などにとってもその細部に至るまで拘るべきものの筈です。

しかし、これは近世から現代に至るまでの仏像や仏画などを見ていると、袈裟衣(方服)というものについてよく理解せず造られ書かれた実に杜撰な作品が相当数みられます。対して慈雲を知った者らによるそれは、見事にその細部が表現されています。例えば江戸後期に著された『画像須知がぞうしゅち』は現代のまともな仏師や仏画師ならば必ず座右に必携の書としている著名なものですが、これも慈雲がなければありえなかった書です。

袈裟衣について、ほとんど根拠が無いばかりか仏教として非法ですらある独自のものを宗派それぞれがこしらえて自らそれに拘泥固執し、以て伝統・正統であるとむしろ誇る者が跋扈しているのは今も変わりありません。畢竟、慈雲のそれを形ばかり真似して如法衣と称し用いている者も、その寸法にしろ着法にしろまったく実の伴わないものとなり、慈雲がせっかく改正したそれとは異なる、と言うより仏陀の定めに再び違えたものとなって平然とされているのは、まことに残念なことです。

非人沙門 覺應