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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

「明恵上人の手紙」 ―仏弟子のあるべきようわ

原文

上人の御消息ごせうそこ遣ける𠙚、未出之。或云、湯浅権守の許へと云々如來にょらいの在世に生れ遇ざる程に口惜くちをしき事はそうらはざる也。我も人も、在世もし諸聖しょしゃうの弟子、迦葉かせふ舎利弗しゃりほつ目連もくれん等のいませし世に生れたらましかば、隨分に生死しゃうじの苦種を枯し、佛道の妙因を植て、人界にんがいに生れたる思出おもひでとし候べきに、如來入滅の後、諸聖の弟子も皆うしなひ給へる世の中に生れて、仏法の中にをいてひとつの位を得たる事も無て、いたづらしゃうじ徒らに死する程、悲しき事は候はず。昔、仏法の盛に流布して候し世には、在家の人とまをすも皆、或は四菩提しぼだいの位を得て近く聖果しゃうくゎを期するもあり、或は見道けんどうと云、無漏むろの智惠を起て三界さんがいの迷理の煩𢙉ぼんのうたちつくして、預流果よるくゎいふ位を得もあり。或は進て欲界の六品ろくぼん修惑しゅわくを盡して、一來いちらいと云位を得もあり。是までは在家の人も得る位也。此位に至りぬれば、欲界の煩𢙉を断盡て、不還ふげんと云位を得て、其次に色界しきかい無色界むしきかいの煩𢙉を断盡して、阿羅漢あらかんを得なり。或は隨分に修行して菩薩ぼさつ諸位しょいに進むもあり。人間界に生れたらば、如所作しょさを成したらばこそいみじからめ。

煩𢙉悪業あくごうにからめまとはれて徒におひしにするは、何事にも不合してのどかに老死に死ぬとても、思出あるにも候はざる也。皆、前の世に業力ごうりきもよほし置たるにしたがひて、今生こんじゃう安くして死る樣なれども、さりとてもやがて進て生死を出て、佛に成んずるにてもなし。只しずかに飯打食て、きる物多くきて、年よりて死る事は、犬烏の中にもさる物は多く候也。今生安きと云も、又實にも非ず。只おぼへも無して淺間敷あさましくきたなき果報くゎほう、骨肉を丸かし集めたる身の、流る水の留る事無が如くして、念々ねんねんうつきたりて生れ出来ては死なんずる事の近付なる間、其ほどの月日の重なるに隨て、一より二に至り、二より三に至る間をさかりなると云ていみじく悦べ共、さとり深き聖者しゃうじゃの前には、有爲うゐの諸行は轉變てんぺん無常なりと云て、是を大なる苦しみとせり。年わかく盛なりと雖ども、誇べきには非ず。たとへば、遠き道を行に、日のうまの時に成ぬれば、日盛りなれども、すでに日たけぬと云が如し。午の時、無程過行て、日の暮ん事の近付なるか故に、日盛りなりとてもたのむへからず。若き齢、常ならず。念々に衰へ行て、終に盡る事あり。念々消滅の苦みは、上界の果報も下界の果報も、皆同事也。惣て有爲の諸法の中にはこき味の無に、凢夫ぼんぷ愚にして、たしなみて味を求む。三界の中に真の樂みなし。凢夫迷て、苦みの中に於てみだりに樂を求む。喩ば、火の中に入てすずしき事を求め、にがき物の中に於てあま きを求んに、惣て得べからざるか如し。凢夫、無始むしより以來いらい、生るヽ所ごとに夢の中の假の身を守て、幻の如くなる樂を求れ共、生死海しゃうじかいの中に本より樂み無ければ、得たる事も無して、つひくるしうれひの中にのみしずみて、やすき事なし。去は、かヽる果報を不厭しては、すべて安事を得べからざる也。

佛、是を悲て、諸行は無常なり、皆悉く𤞣離おんりせよと勧め給へる也。法華經ほけきゃう、世皆不牢固水沫泡炎。汝等咸應當疾生𤞣離心。此文のこころは、世間は皆破れゆく物也、水にあつまれるあはの如し。如此あやふき世間の中に於て、樂の思を成す事なかれ、皆𤞣離すべしと云る也。

現代語訳

上人の御消息ごしょうそく〈手紙〉にこうある。宛先はいまだどこか不明である。一説には、湯浅権守藤原宗重にあてられたものという。 如来の在世に生まれ遇わなかったこと程に残念な事はありません。私も人も、(釈尊)在世、もしくは諸々の聖なる弟子方、迦葉かしょう〈Mahā-Kassapa〉舎利弗しゃりほつ〈Sāriputta〉目連もくれん〈Moggallāna 〉などのおられた世に生まれていたならば、分に応じて生死の苦しみの種を枯らし、仏道の優れた因を植えて、人として生まれた甲斐もあったことでしょうに。如来入滅の後、諸々の聖なる弟子も皆亡くなった世の中に生まれ、仏法の中において一つとして悟りの階位を得る事も無く、空しく生まれ虚しく死ぬことほど悲しいことはありません。昔、仏法が盛んに流布していた世では、在家の人であっても皆、あるいは四菩提〈四善根〉の位を得て近い将来、聖果に至るであろう者もあり、あるいは見道といって、無漏むろ〈煩悩の無いこと〉の智恵を起こし、三界において真理に迷える煩悩を断ち尽くして、預流よるsotāpanna 〉果という位を得る者もありました。あるいはさらに進んで欲界における(九品くぼん煩悩のうち)六品ろくぼんの煩悩を尽くして、一来いちらい〈sakadāgāmin〉果という位を得る者もありました。これまでは在家の人も得られる位です。この位に至ったならば、欲界の煩悩を断ち尽くして、不還ふげん〈anāgāmin〉果という位を得て、その次に色界・無色界の煩悩を断ち尽くし、阿羅漢あらかん〈arahanta〉果を得るのです。あるいはさらに随分と修行して、菩薩〈Bodhisatta〉の諸位に進む者すらありました。人間界に生まれたならば、このような行いをなしてこそ、大したものであるでしょう。

煩悩や悪業にからめとられ、虚しく老いて死ぬのは、何か殊更な苦難もなく、のどかに老いて死んでいけたとしても、(人の生を受けた)甲斐にはなりません。皆、前の世での業の力によって、今世での生涯を安らかに送って死ねた様ではあっても、であるからといって、やがて漸漸と生死輪廻を出て仏になるわけでもなし。ただ静かに飯をよく食らい、着る物も多く着て、年を取って死ぬだけならば、犬や烏の中にもそのようなものは多くあります。今世の生涯が大した苦もない平安無事なものであったとしても、それは真実平安なものではありません。ただ何の自覚も無しに浅ましく、穢らしい果報として得た、骨や肉で構成されたこの身体が、あたかも流れる水が留まることのないように、一瞬一瞬に移り変わって生まれ出てから死へ漸漸と近付いていく間、その月日を重ねていくに随って、一から二に至り、二から三に至ることをもって「盛んだ」のと言ってたいそう喜ぶけれども、悟ること深い聖者にとっては、「有為の諸行は生滅変化する、無常なるもの」と言って、(世人が喜ぶ)これらを非常なる苦しみであるとされるのです。年若く、(体力・気力とも)盛んであったとしても、誇るべきことではありません。喩えば、遙か遠くを目指す途上で、その日のうまの時〈11:00-13:00〉を迎えたならば、太陽は真上に位置して陽光盛んな時であるけれども、「嗚呼、すでに日が終わろうとしている」と言うようなものです。午〈昼〉であっても、(時は)程無く過ぎ去って、日が暮れるのが近付いてくるからこそ、日差しが盛んであったとしても(時を)頼みとしてはならないようなものです。若い歳など、常のものではありません。瞬間瞬間に衰えてゆき、終には尽き果てるものです。瞬間瞬間に失っていくことの苦しみは、上界の果報であっても下界の果報であっても、皆同じ事です。すべて有為の諸法には、(味わうべき価値ある)美味など無いのに、凡夫は愚かにも、好んで(この世に)味を求める。三界の中に真の楽しみはありません。凡夫は迷い惑って、苦しみの中において乱りに楽を求めるのです。喩えば、火の中に入って涼しさを求め、苦い物の中に甘さを求めても、決して得られないようなものです。凡夫は、無始よりこのかた、生また所ごとに得た仮初めの身体を守りつつ、幻の如き安楽を求めますが、生死という海の中には初めから真の安楽などないのですから、結局何も得ることは無く、終に苦しみ愁いの中にのみ沈んで、悩みの尽きることはありません。したがって、そのような果報を厭わなくては、決して平安を得ることは出来ません。

仏は、これを憐れに思われ、「諸行は無常なり、皆ことごとく厭離おんりせよ」とお勧めになったのです。『法華経』に「世は皆、牢固ならず、水沫泡炎の如し。汝等、咸く応に疾く厭離の心を生ずべし」と説かれます。この文の意味は、「世間のすべては壊れゆくものである、それは水面にあつまった泡のようなもの。そのような、あやうい世間の中に於いて、楽を求めて得ようなどという思いをなさず、すべてを厭離しなさい」というものです。

脚註

  1. 如來にょらい

    [S/P].Tathāgataの漢訳。仏十号(如来十号)といわれる仏陀の十ある異称のうちの一つ。明恵がここでいう如来とは、特に釈尊のこと。
    漢訳では、tathāを如(そのように)、gataを去(去った者)と解し、その初期には如去なる訳も当てられた。やがて、これは仏陀という存在に対する理解に関わるものであった、Thathāgataは、tathā(そのように)とāgata(来た)からなる語とされ、そのように来た者・かくの如く来た者として、如来という訳がなされ定着した。南伝のパーリ語の伝統では、この語に八種の解釈を与えている。
    日本では現在、これに人格完成者などといった訳をあてた学者(中村元)がある。しかし、わかりやすいようでいて実は意味不明であり、ただ語感が軽薄になっただけである。したがってむしろ伝統的な如来との訳に従った方がよいであろう。英訳でも、その訳に混乱が見られ、結局現代はこれをどう訳して良いか未だわからないようである。

  2. 迦葉かせふ

    [S].Mahākāśyapa / [P].Mahākassapaの音写。摩訶迦葉の略。バラモン階級出身で釈尊成道後、三年ほどで弟子となった。きわめて厳格にして清貧なる修行生活を貫いたことから、頭陀第一と称えられる。同名の僧が他にも多数あったことから、特に「偉大な」を意味するmahāを名前に冠して呼称される。釈尊滅後には僧伽を取りまとめ、釈尊の残された教え(法)と定め(律)とを五百人の比丘と共に確認・編集した、いわゆる結集の中心人物。禅宗では、支那で偽造された偽経にもとづき、釈尊から以心伝心して教えを継いだ人と見なされている。
    南方の伝承によれば、カーシャパ尊者は大変な長寿を全うしたという。仏滅後の結集の時、その齢120歳であったなどと伝えられる(仏典における120歳という表現は、実年齢をいうものでなくて長寿であったという意)。そしてまた、その生涯を閉じるまで尊者は横になって寝ることがなかった、と言われる。それは十二頭陀あるいは十三頭陀行の一つである。北方の伝承の一説によれば、迦葉は滅度していないという。いまだKukkutagiri(鶏足山)に、三昧に入ったまま包まれてあり、釈尊の次の仏陀である弥勒仏の下生を待っている、と言われる。

  3. 舎利弗しゃりほつ

    [S].Śāriputra / [P].Sāriputtaの音写。「Śārīのputra(子)」という意で、実名はUpatissaであったという。バラモン階級出身。釈尊の弟子の中、もっとも智慧優れていたとされる。釈尊成道後、まもなく弟子となった初期の弟子の一人。はじめ釈尊当時に多く存在した沙門の一人、仏教で言う六師外道のうちの一人である懐疑論者Sañjayaに師事し、その高弟であった。しかし、初転法輪にて悟りを得た五群比丘の一人、Aśvajitt(Assaji / 馬勝)が静かに托鉢する姿を見て心打たれ、その師とその教えを訪ねる。そして、彼からいまだ初心で詳細に法は説けないがと、ただいわゆる法身偈「諸法従縁生 如来説是因 是法従縁滅 是大沙門説」を聞いた。この一偈の意とするところをたちまち悟り、釈尊に帰依することを決意。親友であったMaudgalyāyana(目犍連)と共に、仏門に入って比丘となった。その智恵の高さから、しばしば釈尊にかわって説法することもあったという。釈尊の実子Rāhulaが出家したときはその和上となり、受具足戒以降もその指導にあたった。自身の寿命が尽きようとしていることを悟った尊者は、釈尊にいとまごいをした後、実母のいる生地に返って説法し、静かにその生涯を閉じた。一説には、釈尊の死に先立つこと数ヶ月であったという。

  4. 目連もくれん

    [S].Maudgalyāyana / [P].Moggallānaの音写。目犍連の略。その実名はKolitaであったとされる。バラモン階級出身。舎利弗とならび称される、仏陀の直弟子中もっとも優れていた一人。舎利弗と同じく懐疑論者サンジャヤの高弟であったが、舎利弗と共にその元を去って仏門に入った。特に神通力に秀でていた為に、神通第一と称される。しかし、その最期は、ジャイナ教徒らの企みによって撲殺された。目蓮は、神通によって事前にこれを知り、初めその難を逃れる。しかし、それがいくら避けても避けられ得ない業果であることを知り、次にはあえて逃げることが無かったという。南方の伝承にしたがえば、その避けがたい業果とは、尊者は前世において悪妻と共に企み、老いて盲い、邪魔になった両親をあざむいて林に誘い出し、撲殺したことによるものと註解される。釈尊の死に先立つこと数ヶ月であったといい、舎利弗とほぼ同時期にその生涯を終えている。北方の伝承では、少しく異なる話を伝える。

  5. 四菩提しぼだい

    四菩提なる語は無い。三菩提の誤写かと思われようが、それでは意味が通らない。したがって、四善根を指したものであろう。説一切有部(有部)の修道階梯のうち、聖者の境涯の手前である加行位における、法念住を修める位であって賢者の境涯。
    明恵はこれより以下、特に『倶舎論』の説に基づき、悟りの階梯について述べていく。

  6. 聖果しょうくわ

    四双八輩の証果。預流・一来・不還・阿羅漢の四種の階梯があり、それぞれにその境地の直前にある向と、その境涯に到った果の二種がある。したがってこれを四双八輩あるいは四向四果という。その詳細については後の注を参照。

  7. 見道けんどう

    預流向。有部において聖者の階梯はまた見道・修道・無学道の三道に分類され、聖者の初階である預流向は見道とされる。見道に達した者は、たちまち八忍七智を生じ、真理(四聖諦)を自ら目のあたりに見る境涯であることから、見道という。預流果から阿羅漢向までは修道という。

  8. 無漏むろ

    汚れの無いこと。漏(āsrava)は流転の意で、いわゆる煩悩のこと。

  9. 三界さんがい

    仏教の世界観を示す言葉で、全世界あるいは全宇宙の意。この世界(宇宙)は、欲界・色界・無色界の三つからなっており、すべての生き物は解脱しない限り、三界いずれかに輪廻し続ける。もっとも、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天のうち、天以外のすべては欲界に属す。天もその下級の一部が欲界に属すとされる。

  10. 預流果よるくゎ

    預流とは[S]/srotāpanna(srotāpatti) / [P].sotāpanna(sotāpatti)の訳。また入流とも。音写では須陀洹という。聖者の流れに入った最初の位であることから、預流といわれる。
    四向四果あるいは四双八輩の最初の位。ある境地に向かって修行中の段階を「向」といい、修行によって到達した境地を「果」と言う。ここでは預流果であるから、預流の境地に到達した者のこと。邪見がなくなり、因果と輪廻について疑いがなく、正しく理解した者(上座部の教学では、人が預流向の段階に到達したとして、一秒にも満たない次の瞬間には預流果を得るとされる為、実質上そこにあるのは果のみ)。

  11. 六品ろくぼん修惑しゅわく

    六品とは、九種に分類される欲界の煩悩、いわゆる九品煩悩(九品惑)のうちの六種。すなわち、①貪使煩悩・②瞋使煩悩・③癡使煩悩・④増上貪瞋癡結使煩悩・⑤無明住地所摂煩悩・⑥見道所摂煩悩。修惑とは思惑あるいは事惑とも言い、預流果から阿羅漢向において断ずべき、諸々の煩悩。そのうち、六品の煩悩を断つことによって一来に達する。

  12. 一來いちらい

    一来は[S].sakrdāgāmin / [P].sakadāgāmiの漢訳で、斯陀含と音写される。人がこの境地に至って死を迎えると、次は天界に生まれ変わって安楽な生活を送りつつ修行を完成させ、その後また一度だけ人として生まれ変わってついに阿羅漢果を得るということから一来という。

  13. 不還ふげん

    [S/P].anāgāmiの漢訳で不還とされ、また阿那含と音写される。一来果を得ても未だ断じ切れていない欲界の九種煩悩のうち残りの三種煩悩を断じることによって達する。ここに到達した者は、その死後もはや人間に転生することはなく、天界において最後に残った微細な煩悩を断じて阿羅漢になるという。

  14. 阿羅漢あらかん

    [S].arhan(arhat) / [P].arahattaの音写。尊敬・供養を受けるに値する者の意とされ、応供と漢訳される。仏陀の異称の一つでもある。
    経説に従えば、この境地を得たとき、修行者は五神通あるいは六神通と言われる神通力すべてを備え、自身が解脱したことを明らかに知り、また自他の過去世・未来世のあり方が見通せるようになるという。部派の教義では、阿羅漢が人の得られる最高の境地であり、ここに達したとき、人は輪廻から完全に解脱するとされる。大乗の見地からすると、小乗における最高の境地としての阿羅漢は、生死輪廻から解脱しはしたものの、慈悲に欠け、あるいは慈悲が弱くて方便も果たさず、いまだ完全な智慧を得るに至っていないと言われる。あるいは煩悩障は断たが、いまだ所知障は断ち得ていない者ともされる。

  15. 菩薩ぼさつ諸位しょい

    菩薩は、[S].Bodhisattva / [P].bodhisattaの音写である菩提薩埵の略で、悟りを求める者の意。声聞乗においては悟りを開く以前、前世において福智の二資糧を積集していた釈尊を指す語。菩薩乗ではそれに加え、大乗の悟りを求めて修行する者をもそう呼称する。
    菩薩の諸位(諸々の階梯)には、一説には十地といい声聞の四向四果が一部含まれる(『大智度論』説)。また他に『華厳経』に基づいて広く五十二地の階梯が説かれる。

  16. 業力ごうりき

    業は、[S].karma / [P].kammaの漢訳で、原意は行為。仏教ではさらに「現在なした行為が、未来に結果をもたらす働き」という意味を持たせる。その意では「行」ともいわれる。ここで業力とはまさにそれを意味する。

  17. 念々ねんねん

    一瞬一瞬。ここでの念とは、漢語として「思い」であるとか、「忘れないこと」・「注意深いこと」を意味する[S].smṛti / [P].satiの漢訳としての念でなく、「極めて短い時間」・「瞬間」を意味する[S].kṣaṇa / [P].khaṇaの漢訳としての念。

  18. うまの時

    午前11時から午後1時までの2時間。今言われる正午とは、午の刻の正中、すなわち12時であるから正午という。

  19. 凢夫ぼんぷ

    愚かな人。真理を達見していな者。賢者・聖者の境涯に達していない人。いわゆる凡人。[S].pṛthagjana / [P].puthujjanaの漢訳。

  20. 無始むし

    遥かに遠い昔。仏教は、この世のあらゆる存在は因縁(原因と条件)によって生滅を繰り返すものであって、その因を遡っても果てはなく、すなわち始まりは無いと説く。すべては生・住・異・滅の四相を示すものであり、したがってこの宇宙にも誕生があったが、しかしそれはそれ以前の宇宙の業果としてあるのであって、やはりその根源的始まりは無い。

  21. 生死海しゃうじかい

    無始の昔から生滅を繰り返し、生死流転して果てしないことを海に喩えた語。寄せては返す波のように、果てしない海原のように、そこであらゆる生命がただ漫然と生死を繰り返す様を表した語。

  22. 法華經ほけきゃういはく

    鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』巻六 隨喜功徳品第十八「世皆不牢固 如水沫泡焔 汝等咸應當 疾生厭離心」(T9, p.47b)。

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