世間無常也と云事は、只此人間の果報のみに非ず。惣て四靜慮四無色界の諸天も、皆行苦の悲を離れず、有頂天の八万劫の果報も皆、念々消滅の苦みを離たる事無なり。一人在て、一室の床の上に眠て、千万の苦樂の境界を夢に見れ共、夢中の事は皆、うつヽの前には無が如し。根本無明の眠深して、動轉四相の夢の念を起す。其中の苦樂の境界は皆、實ならざる也。かヽる𠙚にかヽる果報を受たれば、惣て愛着すへき所なけれ共、凢夫、無始生死より以來、性躰も無き煩𢙉業苦の中に於て、我々所執〆分別深して、はかなく假の身を惜に、露の命を守る事たへず。地獄餓鬼畜生は淺間敷き果報なれ共、其も皆、我果報を惜む事は同じ㕝也。如來態と世に出て、有の儘 に道理を説て、生死を出よと勧め給ふ。跡形もなき縁成相續の假なる法を執して、我々所とする事勿れ。此所は只苦のみ多し。是に居たらん限りは、苦患たゆべからず。かヽる苦みの境を捨て離よと教へ給へり。
かヽる果報を受けたるは悲しみなれ共、快き哉や、我等無明の𡖉殻未さけずといへ共、幸に佛の御法の流布せる世に生れ遇て、終に生死の苦患を盡して、佛果無上の樂を得んずる期、在と云事を知ぬ。大なる恱をなすべき也。亦、生死の苦みは、我が受る果報なれ共、無明の睡眠の酔深くして、此果報の拙く苦なる事をも悟らず、大聖慈父無上大覺世尊、世に出でヽ、慇に教へ給へり。教の如に𤞣べし。愚なる者の思べき樣は、諸行無常、有爲皆苦の道理は、佛の教へならずとも、などかは悟らざるべき。華開ては必ず散り、菓結ては定て落つ。盛なる者は衰へ、生ある者は死す。是等は無常なり。亦、打縛殺害等の、不可意の心に叶はぬ事有。是は苦也と、などかは知らざらんなと思つべき事なれ共、凢夫は一分の覺りも無し。只無始薫習の妄識種子より現行の識躰をこり、妄に虚妄の境界を分別して、境界にをひて妄識の動轉するを以て、凢夫の分別と名けたり。是は酒に酔たる時の人の狂 へる心の如し。真の覺りにあらざるなり。去ば、諸法の實理にをきては、實の如く分別する事無也。位、無餘に入れば、二乗の聖者すら、猶し反易㣲細の苦みを不レ知して、増上𢢔のとがに隨ぬ。況や凢夫、實の如く如來所知の法印を知事難かるべし。
又、諸の外道論師の中に教法あり。其中にも分々に常無常等の道理をば説とも、其も佛法の實理をば不レ究〆、或は無想天を計して實の解脱𠙚とし、或は真我を立てヽ常住の躰とす。我が本師釋尊の説き給ふ、諸行無常の法印の道理は、三界所繋の法、皆是無常也。一法として常住なるはなし。亦皆悉く實ならざるが故に、一法として苦みに非ざるはなき也。涅槃は寂靜也。若人、是を證しつれば、即ち法身の躰を得。又退する事なし。彼の外道論宗の中に、冥性に帰して後、猶返て衆生と成と云には不レ同。如レ此の正見は、佛法の力を離れては、爭か発す事を得べき。されば、この諸行無常の道理、一を聞たりとも無量劫の中の思出でとすべし。
昔大王ありき。身に千の穴をゑりて、油を盛て火を燃て婆羅門を供養して、此の道理を聞給へりき。聖敎に説て云、若人、生て百𡻕にして不レ解二生滅法一よりは、不レ如、生て一日にして而得三解二了之一と。實に朽木の如して何となく生らんよりは、覺り深して一日生らんに比べからざる也。已に佛の御教を受て、有爲の果報は皆苦み也と知なば、速に是を可二捨離一思を成べし。我等、自二無始一以來、生死に輪轉せし間、此身を痛り惜んで相離れす、徒に苦患の中に沉み、妄りに樂を求む。喩は歒を養て家に置て、常に歒に悩されんが如し。早く生死の果報を思捨てヽ佛の位を求め頼べし。かヽる果報を不レ捨ば、生々世々の中に苦みの多かるべし。佛の真實の利益は、只是の果報を捨しめて大涅槃の樂を與へ給ふ也。
「世間は無常である」という事は、ただこの人間〈人の世界〉の果報だけではありません。すべて色界の四禅天や四無色界の諸々の天も、全て行苦〈存在すること自体の苦しみ〉に基づく悲しみから離れられず、有頂天〈天界の最高の場所〉における八万劫という(長大な寿命の)果報もすべて、瞬間瞬間に消滅する苦しみから離れられることはありません。人あって一室の床の上で睡っている間に、千万回も苦楽の境界に生死する夢を見ても、夢の中の事はすべて、現実ではないようなものです。根本無明〈四聖諦・縁起に対する無知〉という眠りは深く、移り変わって生・住・異・滅する夢を見る。その中の苦楽の境界はすべて実無いものです。このようなところにこのような果報を受け、全て何一つとして愛着すべき事物などないにもかかわらず、(我々)凡夫は、無始の初めから生死流転し続けて以来、実体があるわけでもない煩悩と業と苦の中で、「我である」・「我が物である」と執着し分別して、はかない仮の身を惜しんで、朝露のような命を守ることだけ続けています。地獄・餓鬼・畜生は惨めな果報でありますが、それでも皆、自らそこで得た命を惜しむ事は同じです。如来はあえて世間に現れ、ありのままに道理を説かれ「生死を出よ」とお勧めになったのです。跡形もない、原因と条件によって形成・維持されるに過ぎない仮初めの事物に執着して、我・我が物とすること無いように。この世はただ苦しみのみ多いばかりであります。ここに居る限りは、苦しみ悩むことが無くなることはありません。そのような苦しみの境涯を捨て離れよ、と(如来は)お教えになったのです。
このような果報を受けていることは悲しむべき事とはいえ、なんと嬉しいことでしょうか、我々の無明という卵の殻はいまだ裂けてはいませんが、幸いにも仏の御教えが流布する世に生まれ遇い、終いには生死の悩み苦しみを尽くして、仏果というこの上ない安楽を得る可能性があるという事を知ったのです。大いに喜ばしいことです。ところで、生死の苦しみは、我が受ける果報でありますが、無明という睡眠の酔いは深く、この果報が拙く苦しみであるのを悟りはしません。大聖慈父無上大覚世尊〈釈迦牟尼仏〉は、この世に現れられ、(すべて無常・苦であることを)丁寧にお教えになりました。この教えの如くに(儚きこの果報を)厭わなければなりません。愚かな者の考えることは、「諸行無常・有為皆苦の道理など、仏の教えに依らないでも、どうして悟れないことがあろうか。華が開けば必ず散り、実を結べば定めて落ちる。勢い盛んな者は衰え、生きる者は死ぬ。これらは無常である。また、打ち縛られたり殺害されたりするなど思っても見ず、願い下げのこともある。これは苦であろう。(仏の教えなど聞かずとも)どうして知らないことがあろうか」などと思うことでしょうが、凡夫は一つとして覚っているわけでもないのです。ただ無始の昔から染みつけ蓄えてきた意識の奥底の惑いの種から、自ら迷いの世界を自ら形成しておきながら、思慮無くこれを真実の世界と考え、五感で感じ心で思ったことにあれこれ捕らわれる独りよがりを、凡夫の分別と名づけるのです。これは酒に酔った時の人の狂った心の様なもの。真の悟りではありません。それゆえに、諸々の事物の真なる有り様について、実の如くに分別することはないのです。その境地が、完全でこの上ない悟りの境地に到ったならば、(声聞・縁覚という)二乗の聖者ですら、いまだなお変化する極めて微細な苦しみを知り尽くすことが出来ず、増上慢の過失を犯しているのを知るでしょう。ましてや凡夫には、実の如くに如来が悟り極められた法印を知るなど出来ないことであります。
また、諸々の外道の論師もそれぞれ教義がありはします。その中にも部分的、一面的に常・無常などの道理を説いているものがありますが、それも仏法が示す真理を極めたわけでもなく、或る者は無想天に生まれ変わることをもって真実の解脱の境涯とし、或る者は真我を立てて常住不変の実体としています。我が本師釈尊の説かれた、「諸行無常」という法印の道理からすれば、三界に生きとし生けるものをつなぎ止め縛り付けるいかなる事物は、すべて無常です。一つとして常住不変のものはありません。また、すべては悉く実体なき空虚なものであるからこそ、一つとして苦しみでないものがないのです。涅槃は(苦しみを離れた)寂静の境地です。もし、人が涅槃を証したならば、たちまち法身の体を得て、ふたたび退転することはありません。かの外道論宗の中で言うような、「(死んで)冥性に還った後、また再び返って生けるものとなる」などというのとは同じではありません。(諸行無常・涅槃寂静など)このような正しい知見は、仏法の力を離れて、どうして得ることが出来るでしょうか。(いや、そんな事は出来ないのです。)それゆえにこの諸行無常の道理を、その一片でも聞いたのならば、無量劫の輪廻し続けた甲斐とすべきものです。
昔ある大王がありました。身に千の穴をあけ、そこに油を注いで火を燃やして婆羅門を供養して、この(諸行無常の)道理を聞かれたと言います。聖教〈経典〉にこの様に説かれています。「もし、人が生きて百歳となってなお生滅の法を理解出来なければ、まったく及びもしないことである。生まれて一日であっても生滅の法を理解することには」と。あたかも朽ち木のように、何となく薄ぼんやりと生きるよりは、覚り深くしてただ一日でも生きることに比べるべくもないことです。すでに仏の御教えを受け、有為〈因縁生起したもの.因と縁により形づくられたもの〉の果報は全て苦しみであると知ったならば、速やかにこれに対する執着を捨て去るべきことを思うべきです。我等が無始よりこのかた生死に輪転し続けた間、この身をいたわり惜しんで離れず、むやみに苦しみ悩みの世界に沈んでなお、みだりに(得られもせぬ)楽を求めてきたのです。喩えば、仇を養って家に居座らせ、常に仇に悩まされるようなもの。速やかに生死の果報を疎い離れて、仏の悟りを願い求めるべきです。このような果報を捨てなければ、生生世世の中に苦しみ続けることでしょう。仏の真実の利益は、ただこの果報を捨てさせて、大涅槃という楽を与えることにあります。
二つの意があり、一つは天の所在、二つにはいわゆる四つの禅という修定の境地の一つ。ここでは前者であり、色界を構成する四禅天、すなわち諸禅天・第二禅天・第三禅天・第四禅天の総称。静慮は、[S].dhyāna / [P].jhānaの漢訳で、その音写が禅那。▲
色界の上位、無色界を構成する、空無辺処・識無辺処・無処有処・非想非非想処の四天から成る。ここにはもはや色身がなく、ただ受・想・行・識のみある。▲
仏教は一切皆苦といい、命あるものにとって、この世のいかなるも畢竟苦しみでしかないと説く。そして、その苦しみを苦苦・壊苦・行苦の三種に大別する。苦苦とは、肉体的痛みや苦しみ。壊苦は、老いる事や壊れる事など変化することに伴う苦しみ。行苦は、存在すること自体の苦しみ。最初の二つの苦は、一般にも了解され易いが、最期の苦は、容易には見がたく理解しがたいと言われる。▲
天界のもっとも上に位置する世界。これに二種ある。色界の第四天、色究竟天を指す場合。次には、無色界の第四処、非想非非想天で文字通りの有頂天であり、三界の最も上にあるもの。ここでは後者の意。▲
劫は、[S].kalpa / [P].kappaの音写で、劫波あるいは劫簸の略。長大な宇宙的長さの時間の単位。▲
命ある者が生死輪廻して留まることがない、その根本原因。無明とは事物の本質・真理を知らないこと。事物の本質、真理とは四聖諦および縁起のこと。▲
すべて事物の、移り変わって生滅変化する有り様を表した語。動転は移り変わること。四相は生・住・異・滅、すなわち生成・存続・変化・消滅の意。▲
衆生は煩悩に基づく業(行為)によって生死流転し、それはついに苦をのみもたらすこと。惑・業・苦の三道。▲
我と我所。我とは、自我の本質としての永遠不滅の霊魂・個我、[S].ātman / [P].attaの漢訳。仏教では、すべての事物に永遠不滅の我など認められず、すべては消滅変化してやまないものと説く。私という意識は心相続の上にある仮初のものに過ぎない。しかしその私を「我」であるとして恒常普遍のものとし、その我に属する事物を同じく「我がもの」として執することを我所という。▲
生ける物が生死輪廻するには、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の五趣あるいは六種の在り方があってこれを六道輪廻と言い、それから修羅を除いたものを五趣輪廻と言う。このうち、地獄・餓鬼・畜生の境涯は、中でも特別苦しく忌むべきものとされ、これを三悪趣と言う。
巷間、「三途の川を渡る」という言葉は「成仏する」・「彼岸に渡る」の意味で用いられる事があるが、それは三悪趣に生まれ変わらないという意であって、成仏するのとは全く異なる。▲
仏教のニ大学派の一つ、瑜伽行唯識派では、生けるものの意識は八階層からなると説くが、その第七番目の意識たる末那識のこと。八階層とはすなわち、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識。 末那とは[S].manasの音写であるが、一般的にいわれる第六意識と区別するために音写が用いられる。より深層の第八阿頼耶識を対象として、これを真実在のものとして我執する識であり、我見・我慢・我愛・我痴を常に伴う迷い汚れの心。したがってこれを染汚意とも言う。第六意識が、睡眠時や昏睡してその働きを停止しても覚醒時に依然として自己同一性をたもつのは、この第七識ならびに第八識が存在して常に働いているからとされる。
ここから以下、明恵は唯識における教理に触れつつ、仏教を説いていく。▲
第八阿頼耶識に伏蔵される、あらゆる心身の事象・事物を発現させる因子。また現在の行為が、後の結果・果報をもたらすのに、第八識に潜伏したもの。それをまた習気(じっけ)という。▲
第八阿頼耶識に伏蔵されていた種子が、その機縁を得て、実際に事物・事象として発現すること。▲
唯識学派は、すべての存在・事象のあり方を、遍計所執性・依他起性・円成実性の三性に分かって見る。依他起性とは、他に依って起こるあり方、すなわち縁起生であることを言う。そして、遍計所執性は実体のない存在に実体があると執着する心と対象と、その誤認に基づく存在のあり方。円成実性は事象の真の姿、真如をいう。そこで「虚妄の境界を分別」とは、依他起なるものを遍計所執すること、あるいは依他起性の虚妄分別なることを示した語。▲
三乗あるいは五乗のうち、独覚(縁覚)乗と声聞乗。▲
増上慢。自身がいまだ悟りを得ていないにも関わらず、悟りを得たと誤解し、おごり高ぶること。▲
仏教以外の思想家・宗教家。釈尊在世当時、よく知られた六人の外道があって、これを六師外道といった。すなわち、業報思想を否定し、いかなる道徳も非道徳をなしても未来にそれが影響する事はないと、道徳否定論を説いたプーラナ・カッサパ。あらゆるモノは、地・水・火・風・苦・楽・生命という七種の要素によって構成された物であって、これらこそが実在するものであり、「人という物」は存在しない。よって、例えば人を刀で一刀両断にしても、それはただ、七つの要素によって構成された人間の間を、これまた刀という七つの要素で出来た刀が通過したに過ぎず、生命を壊す事にはならない、などと主張したパグダ・カッチャーヤナ。生き物は、霊魂・地・水・火・風・虚空・徳・失・苦・楽・生・死の12種の要素からなっており、それらはすべて過去・現在・未来においてどのようになるか定められており、生き物がそこで自由意志を持つ事などありえず、すべては宿命によってなるべくしてなる、という徹底的な運命論・宿命論を説いた、アージーヴィカ教のマッガリ・ゴーサーラ。すべては地・水・火・風という要素によって構成されており、これらこそが実在で、業報・因果などなく、故にどのような努力をしても怠惰や悪行を重ねても意味はない、という唯物論を説いたアジタ・ケーサカンバラ。すべての形而上学的問題について判断中止する懐疑論を説いたサンジャヤ・ペーラティプッタ。すべての物事は多面的であり、絶対的あるいは一方的な判断を下すべきでなく、常に物事は相対的に理解すべきであるという不定主義、相対主義を主張したニガンダ・ナータプッタ。▲
色界の四靜慮(四禅天)の第四禅天に属する九天の一つ。▲
恒常普遍なる実体としての「我」。不変なる自己同一性の主体。▲
仏教が真実であること、あるいはある思想が真理であることを示す特徴、標識。諸行無常・一切皆苦・諸法無我・涅槃寂静の四法印、あるいは涅槃寂静を除いた三法印。▲
法(真理)そのもの。普遍にして不変なる真理自体。▲
ウパニシャッドに説かれた五火二道説。外道において説かれた輪廻説の一。五火は人がこの世にいかにして再生するかを、五つの儀式に用いる火によって説明したものであり、二道は人が死後、もし解脱したならば神道を取り、祖道を取れば再び人として再生することをいう。
明恵は仏教ばかりでなく、外道の教学についての知識も、それはおそらく『倶舎論』や『中論』を読んでのことであろうけれども、有していたことを示したもの。▲