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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

「明恵上人の手紙」 ―仏弟子のあるべきようわ

原文

諸佛如來、衆生の苦相を観じて利益りやく方便はうべんまうけ給ふ事、ひまなし。人こそ愚にしてにはかに病なとのおこりたるをば苦みと思て、自ら苦聚くじゅうづもれたるをは不知。喩ば、犬のよき食物をば得ずしてくそくらはんとするに、こと犬の來て屎を奪て食せしめざるをば苦と思て、屎をくひ得つれば樂の思をなして、自らの果報の淺間鋪あさましく、心つなたきをば苦みと思はざるが如し。是は其心つたなくして苦聚の中に埋れたるをば不知也。諸佛如來の衆生を縁として大悲だいひおこし給ふ事は、必しも病などするを糸惜いとほしがり給ふにも非ず。有爲有漏の業果の境界を出ずして、はかなく愚なるを深く哀み給ふ。されば定性じゃうしゃうニ乗にじゃう聖者しゃうじゃ無餘依むよえの位に至りて、永く分叚ぶんだんの果報を盡すといへ共、深教大乗の心によるに、反易へんにゃく生死しゃうじの報、未まぬかれ。されば、如來の慈悲もすくひ給ふ事無して、必ず八萬大劫の滿位を待て、佛乗の法門を授て究境くきゃうの位に導き給ふ。何に況や生死の苦海に輪轉りんてんし出る事を得ぬ衆生に於てをや。たとひ病もせず、いみじくて國王の位に登り、天上の果報を受くとも、佛のすこしきも樂なりと思召おぼしめしてたゆませ給事は無也。只、法性ほっしゃうの因果改まらずして因縁を待まつばかり也。されば、佛の我が名を念ぜばわれゆきて救はんと仰らるヽは、ながれほとり渡守わたしもりなどの舟のちんを取て人を渡すが如には非ず。只、佛に不思議の功德います。其名を念ずるに力を得て、増上縁と成て衆生をたすけたまふ也。喩ば、飯の人に向ひて我れ食べし、汝が命をのべんと云か如し。是は飯が我身を嫌ふ事は無けれ共、飯を身の中に食入つれば、増上縁と成て人の命を延ぶ。されば、我を食と云んが如し。諸佛の甚深の道理は、只佛のみよくしり給へり。あふぎて信をなすべき也。なまこざかしく兔角とかく我とあてがふ事はわろき也。

如來は是れ我父母也、衆生は子也。六道ろくどう四生ししゃうに輪轉する共、如來と衆生とは親子の中かはる事なし。世間の親子は生をかふるに隨てかはりもて行。六道の衆生は皆三種の性德しゃうとく佛性ぶっしゃう有が故に、皆佛の子也。故に如來自ら、我は父也、汝は子也とちぎり給へり。我等、大聖慈父の御かほをも見奉らずして末代悪世に生る事は、先の世に佛の境界に於てこのもしく願はしき心も無りし故也。一向に渇仰かつがうをなさば必、諸佛に親近しんごんし奉りて、不退の益を得べき也。生死の果報を得るも、生死の境界を願ふ心の深ければこそ生死界にも輪轉する樣に、佛の境界を願ふ心深ければ、亦、佛の智惠を得る也。只、生死界をばわろき大願を以て造り、涅槃界をばよき大願を以て造る也。去ば華嚴經けごんきゃう、應清淨欲求無上道と云へり。清淨しゃうじゃうの欲と云は佛道を願ふ心也。佛道に於て欲心深き者、かならず佛道を得也。されば能々よくよく大欲たいよくを起して、是を便として生々世々しゃうじゃうせぜ値遇ちぐうし奉て、佛の本意ほいを覺り明めて、一切衆生を可導也。此のことわりを知りをはりなば何事かはわびしかるべき。欲に清淨の名を付る事は、世間の欲の名利みゃうりふけりて、いつまでも心にもちひつさぐる欲の如にはなし。佛の境界を深くこのもしく思ふ大欲無ければ、佛法に遇ふ事無し。佛法にあはざれば、生死を出る事なし。かヽる故に、暫く此の大欲にすがりて佛法をきき明らむれば、自ら秘蔵しつる佛法も、大切なりつる大欲も、共にあとはらひてうする也。加樣かやうに跡も無き事をば清淨と云也。よって清淨の欲と名けたる也。かしければ、筆に隨ひ口にまかせて申也。恐惶きょうくわう謹言きんげん。建仁二年十月十八日 高辯かうべん于時紀州在田郡糸野ノ山中也

現代語訳

諸仏如来は、生ける物の苦しむ姿を観察されて(苦を脱して悟りへ向かわしめる)利益や方法を設けらつづけております。人こそ愚かであって、急に病が起こったのを苦しみであると思うことはあっても、自ら苦しみの世界にあることには気づきません。喩えば、犬が良い食い物を得られず、糞を食べようとしているところに、別の犬が来てその糞を奪ってしまい食べられなくなったのを苦しみであると思って、糞を食べられれば楽になれただろうにと考えこそすれ、自らの(そのような犬として)果報の浅ましく、心が拙いのを苦しみとは考えないようなものです。これはその心が拙くて苦しみの世界の中で埋もれもがいていることに気づかないからこその事。諸仏如来が生ける物に対して大悲を発されるのは、必ずしも(生ける物が)病などになるのを不憫に思われたからでもありません。有為にして有漏〈煩悩のあること 〉の業果(たる生死流転の)世界を脱することができない、はかなく愚かなのを深く哀れたからです。それゆえに定性じょうしょう二乗〈縁覚乗・声聞乗〉の聖者が無余依むよえ〈聖者の境涯に到って死ぬこと 〉の位に到ったならば、分段〈六道に生死流転すること 〉の果報は尽くしたとは云うものの、深遠なる教えたる大乗の心に拠れば、(二乗の聖者であっても)変易へんにゃく生死しゃうじ〈仏果を得るまで、その願力などによって六道に流転し生死すること〉の報いからはいまだ逃れてはいないのです。如来の慈悲もこれを救われる事は無いものの、いずれ必ず八万大劫(という長大な時)を待って仏陀に等しい悟りを得る教えを授けられ、究極の位に導かれるのです。ましてや生死の苦海に輪転して脱し得ない生ける物であれば猶更のことです。たとえ病もせず、いみじくも国王の位にすら上り、あるいは天上に生まれ変わる果報を受けたとしても、仏が少しでも楽であろうからと思われて怠らせられることはありません。ただ、法性の因果が変わる事など無く、(その果報をもたらす)因縁(が備わるの)を待ってのことだけです。その故に、仏が「我が名を念じれば(その者の元に)私が行って救うだろう」と仰っているのは、河の畔の渡し守などが船賃を取って人を渡すような事ではありません。ただ、仏には不可思議の功徳があります。その御名を念じれば力を得て、増上縁となって生ける物を助けられるのです。喩えば、飯が人に向かって「私を食べなさい。汝の命を永らせよう」と言うようなものです。それは、飯が我が身を嫌う事は無いけれども、(我々は)飯を身体の中に食べて入れれば、それが増上縁となって人の命を永らせます。そのようなことから「私を食べなさい」と言うようなものです。諸仏の甚深なる道理は、ただ仏のみよくお知りになっています。仰いで信じるべきであります。生半可に小賢く、あれこれ我とあてがう事は悪いことです。

如来とは我々の父母、生ける物はその子です。六道の中を四生として輪廻流転してはいても、如来と生ける物との親子の仲が変わる事はありません。世間の親子は生まれ変わるに従って変わるものです。六道の生ける物はみな、三種の生来の仏性を備えていることから、皆が仏の子です。故に如来ご自身が「私は父であり、汝は子である」とお約束されています。我々が大聖慈父のお顔をすら拝見することも出来ず、末代の悪世に生まれた事は、過去世において仏の境界に於いて好ましく、願わしい思いなど無かったためです。一向に(仏の教えを)仰ぎ慕えば、必ず諸仏の世に生まれて親しみ近づくことが出来、不退転の利益を得るでしょう。生死の果報を得ることは、生死の境界を願う心が深いからこそ生死界に輪廻流転するように、仏の境界を願う心が深ければ、また仏の智慧を獲得し得るのです。ただ、生死界を(自らが自らの)悪しき大願によって造り、涅槃界を(自らが自らの)善き大願によって造るのです。そのことから、『華厳経』に「まさに清浄の欲を起こして無上道を志求すべし」と説かれています。清浄の欲というのは、仏道を願う心のこと。仏道において欲心が強い者は、必ず仏道を成就するでしょう。それゆえ、よくよくその大欲を起こし、それを便りとして生々世々に(仏の)値遇し奉り、仏の本意を覚り明めて、すべての生ける物を導かなければなりません。この理を知ったならば、何の戸惑うことがあるでしょう。欲に「清浄」の名を付ける事は、世間の欲の名聞利養に耽って、いつまでも心を閉じ塞ぐ欲と同じようではありません。仏の境界を深く好ましく思う大欲が無ければ、(生死輪廻する中で)仏法に出遭うことはありません。仏法に遇わなければ、生死を脱する事はありません。この故に、しばらくこの大欲にすがって仏法を聞き、(その意を)明らめたならば、自ら秘蔵している仏法も、大切な大欲も、互いを除きあって終いには跡形もなくなるでしょう。そのように(悪しき業果はもとよりそれ自体の)跡をすら残さないことを、清浄と言います。したがって「清浄の欲」と名づけるのです。慌ただしいため、筆に従い口に任せて申しました。恐惶謹言。建仁二年〈1202 〉十月十八日 高弁 この時がしたためられた時上人は紀州在田郡糸野の山中にあったという。

脚註

  1. 方便はうべん

    手段・方法。特に仏・菩薩あるいは仏教の行者が、衆生を教え導くための様々で巧みな手段。仏の教えに誘い入れるための一時的な、仮に設けられる教え。

  2. 大悲だいひ

    生ける者を憐れみ、その苦しみを和らげ無くそうとする思い。特に仏陀や菩薩がもつ実効性あるもの。何ら実効性を伴わない普通の人の悲は小悲という。

  3. 定性じゃうしゃう

    定まった性質。悟りには高低浅深さまざまあるとされるが、そのうちある程度の悟りまで得られるかを定める性質。

  4. ニ乗にじゃう

    縁覚と声聞。ここでは声聞定性と縁覚定性の、いわゆる小乗とされる悟りのみ得られることが定まった者の意。

  5. 無餘依むよえの位

    悟りを得てのちに死ぬこと。悟りを得たことは、心にあらゆる煩悩を離れ、精神的な悪しき業果が断たれることを意味するが、それでもその者にはいまだ以前の業果としての身体は残っており、それを有余依という。しかし、その身体も死を迎えれば以前の物理的業果から完全に解放されることになるため、仏陀や阿羅漢の死をもって無余依という。

  6. 分叚ぶんだんの果報

    六道輪廻を繰り返し生死変化する果報を受けること。寿命や姿・形に限りがあることから分断という。分断生死とも。

  7. 反易へんにゃく生死しゃうじ

    変易生死。解脱して三界の生死を離れたと思われる二乗の聖者が、しかし未だ有するとさえる微細な生死。大乗において、声聞・縁覚の聖者は完全な悟りを得ていないが故にいまだ生死を完全に離れた者ではないとみる説があるがそれを示す言葉。

  8. 我が名を念ぜばわれゆきて救はん

    当時勃興した新宗教としての浄土教を念頭においているか。当時流行し始めた浄土教では「南無阿弥陀仏」と阿弥陀仏の名号を唱える者の元には、その臨終の時、阿弥陀仏ならびにその眷属が迎えにいって西方極楽浄土へ導く、などと説いて回っていた。明恵は、法然の説いた浄土思想に強い批判を加えたが、しかしそれは『阿弥陀経』を否定してのことではなく、法然の一向念仏という思想とその実行を非難したのであった。

  9. 六道ろくどう

    地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の、生死輪廻における六つの生存の在り方。

  10. 四生ししゃう

    生ける物の誕生の仕方を四つに分類したもの。すなわち、胎生・卵生・湿生・化生の四つ。それぞれ、母胎の中で身体を形成し生まれるもの。卵として産み落とされ、その中で身体を形成するもの。湿気の多い場所から生まれるもの。物理的性交と受精などの過程を経ず、突如として生まれるものを意味する。胎生は、人間を含むほ乳類など。卵生は、魚類・は虫類・両生類・鳥類など。湿生は虫など、(卵から生まれたものに違いないが)特にジメジメした場所に湧くもの。化生は、天人や地獄の住人、あるいは中有における存在のあり方とされる。なお、仏教では植物は意識を持たないものであり、よって輪廻しないと考えられているから、いずれの範疇にも入らない。

  11. 三種の性德しゃうとく佛性ぶっしゃう

    吉蔵や慧遠、あるいは智顗など、支那の学僧によって唱えられた仏性に三種あるという説に基づいた語。仏性とは生ける物が備える仏陀と成り得る可能性。ただし、明恵がここでいずれの学僧の説に基づいていったかは不明。

  12. 華嚴經けごんきゃう

    佛馱跋陀羅訳『大方広仏華厳経』巻十四 兜率天宮菩薩雲集讃仏品第二十「智慧王所説 欲爲諸法本 應起清淨欲 志求無上道」(T9, p.486a)。

  13. 大欲たいよく

    輪廻を厭いて仏法を希求し、悟りを得ようとの強い願い。仏教では、欲すなわち何事かを欲する感情すべてが十把一絡げに否定すべきものである、などとは説かない。欲を無くそう、とすることも欲である。これを否定すれば何も出来ないであろう。ただの欲求はchanda(欲)といい、いわゆる煩悩としての欲求はrāga(貪)という。

  14. 高辯かうべん

    明恵の諱(実名・忌み名)。当時、公家や僧などは普段は字(仮名)を用いて生活したが、その著作や印信などでは諱を記し用いた。

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