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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

明恵『阿留辺畿夜宇和』

『阿留辺畿夜宇和』解題

『栂尾明恵上人遺訓』

画像:明恵上人(『集古十種』)

阿留辺畿夜宇和あるべきようわ』とは、中世鎌倉期初頭の京都を中心に活躍した明恵上人高弁の遺した言葉として伝えられた、『栂尾明恵上人遺訓とがのおみょうえしょうにんいくん』(以下、『遺訓いくん』)の異称です。その異称とされた理由は、『遺訓』の冒頭に「人は阿留辺畿夜宇和あるべきようわいふ七文字ななもじたもつべきなり」という言葉から始まることに基づきますが、それはまた本書の全編を貫く、明恵の精神を端的に表したものとなっています。

(本稿では当初の題目『栂尾明恵上人遺訓』ではなく、今もよく知られ親しまれている『阿留辺畿夜宇和』の異称をもって表題としていますが、解題では本来の『遺訓』の称を用います。)

「あるべきようわ」を「阿留辺畿夜宇和」と漢字で記してありますが、これは当時の仮名文によく見られる漢字の音だけを当てた、いわゆる万葉仮名まんようがなに倣ったもの、真仮名まがなです。したがって、当てられているそれぞれの漢字に意味はありません。

そもそも『遺訓』は、寛文五年〈1665〉二月、喜海きかい『栂尾明恵上人伝記』上下巻に付録され、初めて出版されたものです。『遺訓』は、やや後に『伝記』から別出して出版されており、その際には『明恵御詞抄みょうえごししょう』と題されています。以来、世間に広く明恵という人の存在とその言葉が知られるようになり、今に至るまで僧俗に親しまれています。

久しく続いた戦乱の世が明けた慶長から江戸幕府の開幕以降、天下太平の世における江戸・大阪・京都はもとより地方の大名各家における好学の勢いは庶民においても同じで、盛んに学者などが新たな書を執筆し、また往古の書が取り沙汰されて、旺盛にその木版印刷による出版が町人によってなされた時機です。その流れの中で『遺訓』は『栂尾明恵上人伝記』に併せて出版されたのでした。

当時、仏教は往時の力も影響力も全く失い、儒教の朱子学や古学、そしてまた復古の高まりから国学が勃興したことにより、その双方から強烈な批判にさらされて、邪教邪信の扱いとなっていました。しかし、古代から中世にかけ信仰され続けた仏教がたちまち消滅するということはなく、巷間の習俗や俗信の中に没しつつ、また寺請制度の中に組み込まれたことに依り、内容的には仏教の皮を被った儒教に基づく祖先崇拝を商売道具として存続しています。そんな中で出版され、世間一般でも知られるようになった明恵という人の生涯は、実におどろくべき清廉かつ強烈なもので、またその『遺訓』の主題となる「あるべきようわ」という言葉自体は、当時の思想界の主流である儒教、なかでも朱子学のいう秩序とも撞着しないものとなっています。

もっとも、『遺訓』自体の成立は、その題目の割注として「文暦二年乙未夏の比より始て人の聞き持てるを集て記之。定で誤あらん歟」とあり、その末尾には「嘉禎四年戊戌六月二日 於高山寺閼伽井小坊書是猶随求出可書加之 遺弟非人沙門高信」とあります。したがって『遺訓』は、その弟子であった高信こうしんが、明恵が亡くなった寛喜四年〈1232〉一月十九日から三年後の文暦二年〈1235〉より人々からその言葉を聞き集め、嘉禎四年〈1238〉に編纂したものであるとされます。

実際、明恵の存在と言葉はすでに中世の当時からよく世間に知れ渡っており、同時代の叡尊や無住、兼行、そして日蓮でさえ注目し、引用しています。その頃から明恵の行業と言葉とは、超宗派的に仏家の中で語り継がれていました。特に「あるべきよわ」という端的な七文字で表された言葉が天台宗に与えた影響は大きく、それを比叡山は「あるべきやうに」、園城寺は「あるにまかせて」、安居院では「みのほどをしれ」などと亜流の七文字でそれぞれ主張するに至り、それを「七字の口伝」などと称するようになっています。

『遺訓』の内容は、明恵が主として僧侶、その門弟に対してのことであったのでしょうけれども、おりおりに説いた短い言葉の集成で五十二篇からなります。それは、みずからの宗教的信条を吐露したものから、いかにして仏教を修行すべきかの心得を、当時の仏教者のありさまを痛烈に、そして様々に批判しつつ述べられたもので、漢文ではなく平易な仮名でつづられた、いわゆる仮名法語かなほうごです。

近世後期、仏教復興を「正法律」の名のもと図った慈雲尊者も、その著『十善法語』の中で当時の僧徒の堕落、そして「世間にて説かれている仏教が非仏教であること」を批判するのに『遺訓』を引用しています。

「あるべきようわ」とは

『遺訓』に通徹する思想を端的に表した言葉、「あるべきようわ」とは、戒も律も守らず、俗人以上に俗な生活を送ってまったく恥じることのなかった当時の僧、これは現在も相変わらずのことでありますが、彼らに対して示した痛烈な批判の言葉でもありました。

当時の僧たちの有り様とはどのようなものであったか。それは、この『遺訓』の全体を読むことによってもある程度は知ることは出来ますが、明恵上人没後半世紀ほど時を経た弘安六年〈1283〉成立の、無住一円むじゅういちえんによる仏教説話集『沙石集しゃせきしゅう』にある以下の歌からも伺い知ることが出来るでしょう。

遁世とんせいの とんは時代にかきかへむ 昔はとん 今はとん
遁世の「遁」は、時代で書き換えられた。昔は(俗世から)のがれる、今は(俗世を)むさぼる。

無住『沙石集』三

「遁世」とは、本来は出家すること、あるいは出家者を意味する言葉です。しかし、古代の平安中期から中世の鎌倉期にかけては、すでに僧として出家した者が出家社会の俗気を厭うてそこから抜け出す、いわば「二度目の出家」を意味する語となっています。そのような僧は当時、「遁世僧」と称され、対して俗的出家世界に属する僧で官職についていたのを「官僧」と呼んでいました。

官僧の多くは、貴族の次男以下の庶子が家を継げず、当然官位も継ぐことも出来ないことから処世の術として出家しただけの者で締められていました。もっとも、たといどのような出自であれ、当時の出家社会での昇進、すなわち朝廷から官位を受けたり学侶として名声を高めて扶持を受けるには、偏に学問を修めることにあり、興福寺の維摩会ゆいまえや薬師寺の最勝会さいしょうえなど竪義りゅうぎといわれる問答を伴う大法会に論者として出仕することが必須でした。

そもそも公家出身であるということは、出家以前から教育を受けており、一定の素養を備えているということですが、そんな彼らは(仏教の目指す出世ではなく)僧の社会という俗世間での出世のため必死に学問を積んでいたようです。その全ての者が揃って堕落を極めていた、ということはなく、明恵より二世代先の中川の少将上人実範じつはんや同時代で明恵と親交のあった笠木の解脱上人貞慶じょうけいなど、いずれも藤原氏の出であって学侶であった人です。その両人共に、その時代の堕落を嘆き、戒律復興の為に力を尽くしてた人として語り継がれているます。

とは言え、それはごく一部の例外で、一般的な官僧・学侶は仏教をある程度確かに学びはするものの、あくまで生業としての僧、処世術として出家の立場にある者がほとんどでした。それ以外の、出自も知的にも劣った僧で、なんら仏典に根拠が無い、あるいは手前勝手な解釈によった説を仏教だと吹聴する底辺の者は五万とありました。その出自の貴賤問わず、およそ当時の僧徒らの頽廃した様を、無住は『沙石集』にて傍から生々しく、厳しい批判的観点から、そして時に滑稽に語り伝えています。

(本稿にて紹介している『遺訓』に興味を持って読む人、これを愛好する人は、併せて無住の『沙石集しゃせきしゅう』および『雑談集ぞうたんしゅう』を読まれることを強く推奨します。これらの書により、当時の出家社会の有り様を知ることが出来るのは勿論、無住の教養の高さと、彼がいかに深く仏教を理解していたかを伺うことが出来ることでしょう。)

とは言え、無住の当時は、実範や貞慶の流れから出た叡尊や覚盛らによってすでに戒律復興が果たされ、それぞれ西大寺と唐招提寺を中心として正統な僧が多数あった時代です。相変わらず堕落した僧も多くあり、またそれまでとは異なる類の法然や親鸞の浄土教や日蓮の法華教団などが跋扈する時代ではありましたが、無住自身は叡尊の門流に連なって律や密教を熱心に修め、また併せて禅も学んでいた人でした。

しかしながら明恵の場合、無住に先行することおよそ一世紀の人であり、いまだそのための素地を貞慶や栄西など幾人かの僧が作ろうとしてる最中のことであって、その中の一人として数えられるべき僧です。そのような時代の中、ただ世間での処世のために出家した仏教も学んでも修行を疎かにする僧や、僧を自称しながらまるで仏教など知らず修めぬ名ばかりの僧らを厳しく批判し、自らはその真を探り求めた孤高の人が明恵です。その門弟らには出家の本来、仏教の何たるかを教えるために、常日頃口にしていたというのが「あるべきようわ」です。

また、「あるべきようわ」という言葉は、承久の乱〈1221〉に代表される動乱が相次ぎ、公家から武家へと政治形態の一大転換期にあって、人心乱れに乱れていた当時、僧でない俗の人々に対しても説かれ、通用する言葉でもあって、その故に多くの耳目を引き付けたものです。

時代は移り変わり、社会も人もそのありかたを変えていくものですけれども、どこまでいっても人は人です。「あるべきようわ」は、それが語られてから800年の月日を経た現代においてもなおその言葉と精神は通用するものであり、また今の人の心にも強く響くものであるでしょう。この「あるべきようわ」という尊い七文字の正体を、世間の出来るだけ多くの人が知ることに本稿が寄すことを強く願い、ここに『遺訓』の原文に稚拙な現代語訳を添えて示すばかりです。

非人沙門覺應

凡例

一.本稿にて紹介する『栂尾明恵上人遺訓』『阿留辺畿夜宇和』)は、寛文五年〈1665〉、上村次郎右衛門により刊行された『栂尾明恵上人伝記』付録の『栂尾明恵上人遺訓』を底本としている。

一.底本における和文字はすべて片仮名によるが、本稿の原文ではこれをすべて平仮名に改めている。また底本の句点の位置は原則としてそのまま写したが、これを適宜に読点に改めている。また、底本では総じて文末に句点が無いが、現代の規則に従って付加している。

一.本稿に翻刻した原文には、底本にある漢字は現代の常用漢字に改めず、可能な限りそのまま用いている。これにはWindowsのブラウザでは表記されてもMacでは表記されないものがある。ただし、Unicode(またはUTF-8)に採用されておらず、したがってWeb上で表記出来ないものについては代替の常用漢字を用いた。

一.現代語訳においては読解に資するよう、適宜に常用漢字に改めている。また、読解を容易にするため原文に無い語句を挿入した場合がある。この場合、それら語句は括弧()に閉じてそれが挿入語句であることを示している。しかし、挿入した語句に訳者個人の意図が過剰に働き、読者が原意を外れて読む可能性がある。そもそも現代語訳は訳者の理解が十分でなく、あるいは無知・愚かな誤解に由って本来の意から全く外れたものとなっている可能性があるため、注意されたい。

一.現代語訳はなるべく逐語訳し、極力元の言葉をそのまま用いる方針としたが、その中には一見してその意を理解し得ないものがあるため、その場合にはその直後にその簡単な語の説明を下付き赤色の括弧内に付している(例:〈〇〇〇〉)。

一.底本においても振られているルビはそのまま用いた。さらには、難読あるいは特殊な読みを要する漢字を初め、今の世人が読み難いであろうものには編者の判断で適宜ルビを加えて付した。

一.補注は、特に説明が必要であると考えられる語句などに適宜付し、脚注に列記した。

懸命なる諸兄姉にあっては、本稿筆者の愚かな誤解や無知による錯誤、あるいは誤字・脱字など些細な謬りに気づかれた際には下記宛に一報下さり、ご指摘いただければ幸甚至極。

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