「阿留辺畿夜宇和」とは、中世鎌倉期初頭の京都を中心に活躍した明恵上人高弁の遺した言葉として伝えられた、『梅尾明恵上人遺訓』(以下、『遺訓』)の異称です。その異称とされた理由は、『遺訓』の冒頭に「人は阿留辺畿夜宇和と云七文字を持つべきなり」という言葉から始まることに基づきます。そしてそれは、本書の全編に貫かれる、明恵の信条を端的に表したものとなっています。
本書において「あるべきやうわ(あるべきようわ)」は「阿留辺畿夜宇和」と漢字にて記されていますが、これは当時の仮名文によく見られる漢字の音だけを当てた、いわゆる万葉仮名に倣ったもの、真仮名です。したがって、当てられているそれぞれの漢字は、呉音と漢音の混成にて用いられていますが、ただ音を表すのみであって、何らの意味も込められたものではありません。
なお、『遺訓』は明恵自身が筆したものではありません。その成立については、本書の題目の割注に「文暦二年乙未夏の比より始て人の聞き持てるを集て記之。定で誤あらん歟」とあり、その末尾には「嘉禎四年戊戌六月二日 於高山寺閼伽井小坊書是猶随求出可書加之 遺弟非人沙門高信」とあります。この記述に従えば、『遺訓』とは、その弟子であった高信が、明恵が亡くなった寛喜四年〈1232〉一月十九日から三年後の文暦二年〈1235〉より人々からその言葉を聞き集め、嘉禎四年〈1238〉に編纂成ったものとされます。
中世当時、書はただ写本によって漸く世に広まるもので、しかもそれは社会の限られた界隈においてのこと。そもそも当時の識字率は、現代日本に比せば著しく低く、公家や出家、そして一部の武士以外には書を読み得る者はありませんでした。しかし、明恵の存在と言葉自体は中世の当時からよく知られていたようで、やや後の時代の叡尊や無住、吉田兼行、そして日蓮でさえ注目し、なんらかの形で言及されています。その頃から明恵の行業と言葉とは、超宗派的に仏家の中で語り継がれていたのです。
特に「あるべきようわ」という端的な七文字で表された言葉が天台宗に与えた影響は大きく、それを比叡山は「あるべきやうに」、園城寺は「あるにまかせて」、安居院では「みのほどをしれ」などと亜流の七文字でそれぞれ主張するに至り、それを「七字の口伝」などと称するようになっています。もっとも、天台において「あるべきように」であるとか「あるにまかせて」などと改変されたそれはいわゆる中古天台における、およそ仏教から遠く離れた極端な本覚思想を背景にして言われたものであって、明恵の本意に倣って言われたものでは到底ありません。
当時、いや、これはいま現代においてもなお全く同様に言えることであるのですが、世に「仏教」として喧伝されるもののほとんど多くは、およそ仏教とは名ばかりで僧形の痴人らに捻じ曲げられ、自身らの拙い在り方、卑しい有り様をなんとか肯定しようとした僻事に過ぎない。そんな彼らの言う仏教とは、ひいてはその昔の天台にていわれた「七字の口伝」とはただ渡世の術、俗世における処世術の一環と堕したものであったと言って良い。
若し近代の学生の云ふ様なるが実の仏法ならば、諸道の中に悪き者は、仏法にてぞ有ん。
もし近代〈近頃〉の学生〈学僧〉らの言うようなのが本当の仏法〈仏陀の教え。仏陀が悟り世に開示した真理〉であるならば、諸々の道〈諸思想・諸宗教〉の中で悪しきものは、他ならぬ仏法であるのに違いない。
高信『栂尾明恵上人遺訓 (阿留辺畿夜宇和)』
そしてやはり、現代においてもなお、この「阿留辺畿夜宇和」という明恵の言葉を「あるべきようは?」などと疑問形に読んだ上で、「自らのあるべき姿・在り方は何かを内省し、本来の自分らしさを探求すべきことを言ったものである」だとか、「その時、その場において「どのようにあるべきか」を自身に問いかけ、その答えに沿うように生きようという教え」であるなどと解釈し、それがさも真であるかのように公言する者が少なくありません。
笑止千万。蒙昧ここに極まれり。
それら明恵を慕い、あるいは知ると自称する市井の徒らによる理解は、失笑を誘うに余りある、筋違いも甚だしいものです。それはむしろ近代以降、特に現代に一層加速した古典の素養の喪失や伝統的価値観の崩壊により知的・文化的に軽佻浮薄となった世情に迎合し、それを反映した、愚かに過ぎる珍釈と言わざるを得ない。
そもそも当時、実は必ずしも「あるべきようわの七文字」と限って明恵自身は言っておらず、また他から認識されてもおらず、「あるべきようの六文字」とする言説もあって一定していませんでした。無論、七文字であれ六文字であれ、いずれにせよその意味するところに変わりなどありません。明恵は「阿留辺畿夜宇和」を「あるべきようは?」などという疑問符の付く不安定で曖昧模糊とした、あるいは内省的意味で言ってはいないのです。
そしてまたそれは、明恵に独自独特の思想を言い表したものでも実はない。「阿留辺畿夜宇和」とは明確な価値基準、理想像を背景とした言葉であって、まぎれもなく仏典や漢籍の古典に確かに基づいたものです。「その時その場で自ら問いかけるもの」であるとか、「自らなんとなく心中であれこれ考え探求する」などといった、頼りなくいい加減なものでは決してありません。
子曰、吾嘗終日不食、終夜不寝、以思、無益、不如學也。
子曰く、吾れ嘗て終日食らはず。終夜寝ねず。以て思ふ。益無し。學ぶに如かずと。
子〈先生。孔子〉は言われた、
「私はかつて(何かわからぬことがあれば)終日食事することもなく、終夜寝ることすらせず思案に明け暮れた。そうして結局、わかったことがある。(自ら独り思案したところで)益は無い。(古の道、古典を)学ぶに及ぶものはないと」
『論語』 衛霊公第十五
それはいかなることかは、明恵自ら遺した諸々の著作、そして伝記にて語り伝えられた明恵の生涯や、なにより明恵が深く学んでその血肉とした仏教の経典や論書、また儒教の経典を渉猟することによって明らかに知られるでしょう。
さて、『遺訓』が世間一般に広く知られるようになったのは江戸時代、寛文五年〈1665〉二月、明恵の伝記の一つである喜海『梅尾明恵上人伝記』上下巻に付録され、初めて出版されてからのことです。『遺訓』はそこでまた、やや後に『伝記』から別出して出版されており、その際には『明恵御詞抄』と題されていました。
久しく続いた戦乱の世が明けた慶長から江戸での開幕以降、天下太平の世における江戸・大阪・京都はもとより地方の大名各家における好学の勢いは庶民においても同じで、盛んに学者などが新たな書を執筆し、また往古の書が取り沙汰されて、旺盛にその木版印刷による出版が町人によってなされた時機です。その流れの中で『遺訓』は『梅尾明恵上人伝記』に併せて出版されたのでした。以来、世間に広く明恵という人の存在とその言葉が知られるようになり、今に至ってもなお人々に親しまれています。
近世当時、仏教は往時の力も影響力も全く失い、儒教の朱子学や古学、そしてまた復古の高まりから国学が勃興したことにより、その双方から強烈な批判にさらされて、ともすれば邪教邪信の扱いとすらなっていました。とはいえ、古代から中世にかけ信仰され続けた仏教がたちまち消滅するということはなく、多くの場合、巷間の習俗や俗信の中に没しつつ、また寺請制度の中に組み込まれたことに依って僧徒らの堕落に歯止めがかかることもなく、内容的には儒教に基づく祖先崇拝を仏教の皮を被せた俗世の生業として存続しています。
安土桃山から江戸期において、仏教僧らの頽廃した有り様は、儒学者や国学者からだけでなく伴天連など毛唐の異邦人らからすら批判の対照となっています。
そんな中で出版され、世間一般でも知られるようになった明恵という人の生涯は、実におどろくべき清廉かつ強烈なものであったことでしょう。また、『遺訓』の主題となる「あるべきようわ」という言葉、その思想は、当時の思想界の主流である儒教、なかでも朱子学のいう秩序とも撞着するものでありませんでした。
『遺訓』の内容は、明恵が主としてその門弟、身近な出家者らに対してのことであったのですけれども、おりおりに説いた短い言葉の集成で五十二篇からなります。それは、みずからの宗教的信条を吐露したものから、いかにして仏教を修行すべきかの心得を、当時の仏教者のありさまを痛烈に、そして様々に批判しつつ述べたものです。またそれは、漢文ではなく平易な仮名でつづられた、いわゆる仮名法語となっています。
近世後期、仏教復興を「正法律」の名のもと図った慈雲尊者も、その著『十善法語』の中で当時の僧徒の堕落、そして「世間にて説かれている仏教が非仏教であること」を批判するのに『遺訓』を引用しています。
『遺訓』に通徹する思想を端的に表した言葉、「あるべきようわ」とは、戒も律も守らず、俗人以上に俗な生活を送ってまったく恥じることのなかった当時の僧、これは現在も相変わらずのことでありますが、彼らに対して示した痛烈な批判の言葉でもありました。
当時の僧たちの有り様とはどのようなものであったか。それは、この『遺訓』の全体を読むことによってもある程度は知ることは出来ますが、明恵上人没後半世紀ほど時を経た弘安六年〈1283〉成立の、無住道暁(一円)による仏教説話集『沙石集』にある、以下の一節からも伺い知ることが出来るでしょう。
古ヲ以テ鏡ト𬼀今ノ丗ヲ見ニ。興廢誠トニコトナリ。古ノ遁丗ノ人ハ佛法ニ心ヲソメテ。丗間ノ萬事ヲワスル。近代ハ丗間ノ名利ヲワスレズ𬼀。佛法ハスタルヽニコソ。カヽルマヽニ。遁丗ノ名ノミ有テ遁丗ノマコ トナシ。丗ニアテハ人ニモシラレズ。名利モナキ人遁丗門ニ入テハ。中々名モ利モ有マヽニ。カナラズ道心ニアラ子共。タヽ度丗ノタメニ遁丗スル人。年々ニオホク見ヘ侍ニヤ。サレバ當丗ハ遁丗ノ。遁ノ字ヲアラタメテ。貪丗トカクベキニヤ。コノ心ヲ思ツヽケ侍リ遁丗ノ遁ハ時代ニカキカヘン。昔ハ遁ル今ハ貪ル。
(いまだ仏法が盛んであった)古を以って鏡〈手本・基準〉として今の世を見たところ、その(仏法が)興んであった時と、廃れた時とは誠に異なっている。古の遁世〈出家〉の人は、仏法に心を染めて世間の万事を忘れていた。近代は世間の名利を忘れず、仏法は廃れてしまったのだ。そうしたまま(今や)「遁世」の名のみあって「遁世のまこと」は無い。世にあっては人にも知られず名利も無い人が、遁世門に入ったならば、なかなかの名も利もあるようになる(場合がある)ため、(その「成功例」に倣わんとして)決して道心によってではなく、ただ渡世のために遁世する人が年々多く見えるようになったようである。ならば当世〈今の世〉では、遁世の「遁」の字をあらためて「貪世」と書くべきではなかろうか。このような考えを思い続けている。遁世の「遁」は時代に書き換えん 昔は遁る 今は貪る
無住『沙石集』巻三下「栂尾の上人の物語の事」(梵舜本)
(別項にて無住『沙石集』巻三「栂尾の上人の物語の事」の全文を対訳にて紹介している。参照のこと。)
「遁世」とは、本来は出家すること、あるいは出家者を意味する言葉です。しかし、古代の平安中期から中世の鎌倉期にかけては、すでに僧として出家した者が頽廃した出家社会の俗気を厭うてそこから抜け出す、いわば「二度目の出家」および「俗化した出家社会からさらに出家した僧」を意味する語となっています。そのような僧は当時、「遁世僧」と称され、対して俗的出家世界に属する僧で官職に就いていたのを「官僧」と呼んでいます。
官僧の多くは、貴族の次男以下の庶子が家を継げず、当然官位も継ぐことも出来ないことから処世の術として出家しただけの者で締められていました。もっとも、たといどのような出自であれ、当時の出家社会での昇進、すなわち朝廷から官位を受けたり学侶として名声を高めて扶持を受けるには、偏に学問(宗学)を深く修めなければならず、ついには興福寺の維摩会や薬師寺の最勝会など竪義といわれる問答を伴う大法会に論者として出仕することが必須となっています。
そもそも、公家出身であるということは、出家以前から教育を受け一定の素養を備えているということですが、そんな彼らは(仏教の目指す出世では決してなく)僧の社会という俗世間での出世のため必死に学問を積んでいたようです。その全ての者が揃って堕落を極めていた、ということでは必ずしもなく、例えば明恵より二世代先の中川の少将上人実範や同時代で明恵と親交のあった笠木の解脱上人貞慶など、いずれも藤原氏の出であって学侶であった人です。そしてその両人共に、当時の堕落を嘆き、戒律復興の為に力を尽くしてた先人として語り継がれ、尊敬されています。
とは言うものの、それはごく一部の例外で、一般的な官僧・学侶は仏教をある程度学びはするものの、あくまで生業としての僧、処世の術として出家の立場にある者がほとんどであったようです。それ以外の、出自も知的にも劣った僧で、なんら仏典に根拠が無い、あるいは手前勝手な解釈によった説を仏教だと吹聴する底辺の者は五万とありました。その出自の貴賤問わず、およそ当時の僧徒らの頽廃した様を、無住は『沙石集』にて傍から生々しく、厳しい批判的観点から、そして時に滑稽に語り伝えています。
(本稿にて紹介している『遺訓』に興味を持って読む人、これを愛好する人は、併せて無住の『沙石集』および『雑談集』を読まれることを強く推奨します。これらの書により、当時の出家社会の有り様を知ることが出来るのは勿論、無住の教養の高さと、彼がいかに深く仏教を理解していたかを伺うことが出来るでしょう。そしてその筆致から、仏教の真を、この明恵の遺訓『あるべきようわ』と同様に、無住から間接的に学び取ることもあるに違いありません。)
もっとも、無住の当時は、実範や貞慶の流れから出た叡尊や覚盛らによってすでに戒律復興が果たされ、それぞれ西大寺と唐招提寺を中心として、仏教の正統とされる僧、いわゆる比丘となった者が多数あった時代です。相変わらず堕落した僧も多くあり、それどころか仏教からもはや逸して極めて特殊な思想を世に喧伝した、法然や親鸞の浄土教や日蓮の法華教団などが跋扈するようになった時勢となっていました。そんな中、無住自身はあくまで仏教の正統、伝統的規範から逸脱せず、実は叡尊の西大寺系の律宗の門に連なっており、律や密教を熱心に修め、また併せて禅も学んでいた人でした。
しかしながら明恵の場合、無住に先行することおよそ一世紀の人であり、いまだ戒律復興のための素地を実範を初め貞慶や栄西、俊芿など幾人かの僧が作ろうとしてる最中のことであって、その中の一人として数えられる僧です。そのような時代の中、ただ世間での処世のために出家した仏教も学んでも修行を疎かにする僧や、僧を自称しながらまるで仏教など知らず修めぬ名ばかりの僧らを厳しく批判し、自らはその真を探り求めた孤高の人が明恵です。その門弟らには出家の本来、仏教の何たるかを教えるために、常日頃口にしていたというのが「あるべきようわ」です。
また、「あるべきようわ」という言葉は、承久の乱〈1221〉に代表される動乱の相次ぐ、公家から武家へと政治形態の一大転換期にあって人心乱れに乱れていた当時、僧でない俗の人々に対しても説かれ、通用する言葉でもあって、その故に多くの耳目を引き付けたものです。
時代は移り変わり、社会も人もそのありかたを変えていくものですけれども、どこまでいっても人は人です。「あるべきようわ」は、それが語られてから800年の月日を経た現代においてもなおその言葉と精神は通用するものであり、また今の人の心にも強く響くものであるでしょう。この「あるべきようわ」という尊い七文字の正体を、世間の出来るだけ多くの人が知ることに本稿が寄すことを強く願い、ここに『遺訓』の原文に稚拙な現代語訳を恥を忍びつつ添えて示すばかりです。
非人沙門覺應
一.本稿にて紹介する『梅尾明恵上人遺訓』(「阿留辺畿夜宇和」)は、寛文五年〈1665〉、上村次郎右衛門により刊行された『梅尾明恵上人伝記』付録の『梅尾明恵上人遺訓』を底本としている。
一.底本における和文字はすべて片仮名によるが、本稿の原文ではこれをすべて平仮名に改めている。また底本の句点の位置は原則としてそのまま写したが、これを適宜に読点に改めている。また、底本では総じて文末に句点が無いが、現代の規則に従って付加している。
一.本稿に翻刻した原文には、底本にある漢字は現代の常用漢字に改めず、可能な限りそのまま用いている。これにはWindowsのブラウザでは表記されてもMacでは表記されないものがある。ただし、Unicode(またはUTF-8)に採用されておらず、したがってWeb上で表記出来ないものについては代替の常用漢字を用いた。
一.現代語訳においては読解に資するよう、適宜に常用漢字に改めている。また、読解を容易にするため原文に無い語句を挿入した場合がある。この場合、それら語句は括弧()に閉じてそれが挿入語句であることを示している。しかし、挿入した語句に訳者個人の意図が過剰に働き、読者が原意を外れて読む可能性がある。そもそも現代語訳は訳者の理解が十分でなく、あるいは無知・愚かな誤解に由って本来の意から全く外れたものとなっている可能性があるため、注意されたい。
一.現代語訳はなるべく逐語訳し、極力元の言葉をそのまま用いる方針としたが、その中には一見してその意を理解し得ないものがあるため、その場合にはその直後にその簡単な語の説明を下付き赤色の括弧内に付している(例:子〈先生。孔子〉)。
一.底本においても振られているルビはそのまま用いた。さらには、難読あるいは特殊な読みを要する漢字を初め、今の世人が読み難いであろうものには編者の判断で適宜ルビを加えて付した。
一.補注は、特に説明が必要であると考えられる語句などに適宜付し、脚注に列記した。
懸命なる諸兄姉にあっては、本稿筆者の愚かな誤解や無知による錯誤、あるいは誤字・脱字など些細な謬りに気づかれた際には下記宛に一報下さり、ご指摘いただければ幸甚至極。
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