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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

「明恵上人の手紙」 ―仏弟子のあるべきようわ

原文

有爲うひ生死界しゃうじかいの中に於て、衆生の願に隨ひて随分に命をのべ、官位を與へたまふと云とも、其は只、人の願ふ事なれば、假令かりそめにすかしこしらへて、其心をゆかしめて終には佛になさんが爲に、暫く與へ給へ共、其をつひ利益りやくにしてさてやみ給ふ事は無き也。終にはかならず、有爲生死の境をこしらへ出して、我とひとしき無上の樂を與へ給んと也。されば今生の事に於ては宿報すくほう決定けつじゃうして佛菩薩の御力も及ばせ給はぬ事あれ共、一度も佛を縁として心を起して名号みゃうがうをも念ずる功德は必、有爲生死の中にして朽ちやむ事は無なり。喩ば、人の食物は、必す米一粒も栗柿一顆にても、腹中に入ぬれは定てふんとなりて腹を通りて出が如し。佛の𠙚に於て作る功德は、小さきも大なるも必ず有爲煩𢙉の腹を通りて、終に生死を盡す極めとなる也。名聞利養みょうもんりやうの爲に作る功德も終には佛の種と成也。されば佛菩薩の利生りしゃうによりて現世の願を滿てたりと云ても、是に依てさてやまんずるにてもなし。喩へば、いとけなきき赤子愚にしてつちくれもてあそびたがるには、其父母いつくしみ深き故に、圡くれをば宝と思はねども、赤子の心をゆかさんが為に、暫く圡くれを與へて其心をゆかす。後にをとなしく成て實の銀金なと云寶を與ふるが如し。終に圡くれを翫しめて、さて止む事はなき也。只一向に諸法の真實の因果は、只佛のみ知給へり。我等か思計るべき𠙚に非ずと信じて、其心に道理を不失ば、生々世々しゃうじゃうせぜに必す無當なる果報をば不得也。

亦、頻婆娑羅王びんばしゃらおう、佛を深く念し奉しに依て、たちまち七重しちじゅうむろを出でざれ共、如來の光明に照されて不還果を得たりき。打任うちまかせて人の思へるは、如來の神力などか七重の室を破りて彼王を取出し給はざりしと。然ども、諸佛慈悲はたゆる事無けれ共、三悪道さんあくだうの果報充滿せり。實に諸法の因果の道理は佛の始て作出し給へるにも非ず。慈悲深くいますとても法性ほっしゃう轉反てんぺんし給べきに非ず。佛の自の位も皆、無量の功德の造り成せる果報也。因果の道理を破りて推てし給へるにもあらず。只、一切世間の所帰依𠙚として、衆生の爲に増上縁ぞうじゃうえんとなりて、苦をき樂をあた給へり。頻婆娑羅王、七重の室を出づべからざりし因縁難ければ、室を不出といへ共、佛の御力にて断ち難き欲界の煩𢙉を断盡て、出難き欲界を出て登り難き聖位に登る事を得たり。さりとて、佛の位に自在ならざる事の有には非ず。凢夫有相の分別のさきへの苦樂の境界は、皆善悪の有漏識の種子しゅうじ現行げんぎょうするが故に事理じりの二位深く隔たり、假實けじつの差別不同して、やまひなと■する橘皮きがはを煎じて飲むには其病、いゆる事有れ共、經を誦し佛を禮するには愈ざるか如し。

皆、無始より以來、虚假こけの妄執深〆、真理を隔て正智を遠ざかりしに依て、増上の意樂いげうを起さヽれは、真法は身に句ひ難き也。喩は夢の中に羅刹らせつの姿を見ておそれを成んに、かたはらに人有て此事を證知して、是は羅刹に非ず、恐るヽ事勿れと云へ共、此眠らん者の恐れやまじ。只、自ら夢の中に此羅刹走り去ぬと見ば、其恐れやむべし。傍に人有て實事を示せ共、ねむりさめての位異なるが故にきく事なし。真妄實躰同じからざるか故に、其恐やまず。自ら夢の中にして、羅刹の姿實ならざれども、恐れ深し。羅刹の𨓖にげ去りぬるも實ならざれ共、よろこびびあり。一種性いっしゅしょうの心相續して起るが故に、不同類ふどうるいの心、現行せざるが故也。されば善根に串習げんじふせし人などの、増上の意樂を起して經巻を讀誦し佛を念ずるに、現前の災障を破りて㤪歒おんてきをも降伏する事のあるは、此人の心力、道理に融するが故に、自ら發す所の善根の相用、佛の増上縁力ぞうじょうえんりきを感するが故に、速疾の利益は有也。是も如此なるべき道理をあやまたざる也。惣じて諸法の中に道理と云者あり。甚深微細にしてたやすく知難し。此道理をば仏も作り出し給はず。又、天人修羅等も不作。佛は此道理の善悪の因果となる樣を覺りて、實の如く衆生の爲に説給ふ智者也。

現代語訳

有為うい〈因縁生起したもの.因と縁により形づくられたもの〉の生死の世界の中で、(仏菩薩が)生ける物の願い通りに長生きさせられ、官位を与えて下さったとしても、それはただ、人が願う俗なることであって、かりそめに少しばかり為さられ、その(俗なる)心を満足させて、終には仏にさせる為にしばらく与えられただけであり、それを最終の利益りやくとして止められてしまうことはありません。ついには必ず、有為の生死の境涯を抜け出させ、仏ご自身が得られたのと等しい無上の楽をお与えになるのです。それゆえ今生の事については、宿世の果報がすでに決定して動かしがたくなり、仏菩薩のお力も及ばせられない事がありますが、ただ一度であっても仏を縁として発心し、その名号をも念じる功徳は、決して有為生死の中にあって無駄になることはありません。喩えば、人の食べ物は、必ず米一粒でも栗・柿一個であっても、腹の中に入れば、定めて糞となって腹を通って出てくるようなものです。仏のもとで作る功徳は、それが小さくとも大きくとも、必ず有為煩悩という腹を通って、終には生死を尽くす極めとなります。名誉や利得の為に作る功徳であったとしても、ついには仏となる種となるのです。ですから、仏菩薩の生ける者を利される行いによって、現世の願いが叶えられたとしても、それで(仏菩薩のお導きが)止むわけもありません。喩えば、幼い赤子が愚かにも土塊で遊びたがるのに対し、その父母は(我が子に対する)慈しみ深いために、土くれを宝とは思いはしませんが、赤子の心を満足させる為に、しばらく土くれを与えてその心を満足させるのです。後に(その子が)大きくなってから本物の銀や金などという宝を与えるようなものです。泥で遊ばせてそれで終わることはありません。ただ一向に諸々の事物の真実なる因果は、ただ仏のみがお知りのこと。我等が思い計れることではないと信じて、その(自らの)心に道理を失わなければ、生々世々しゃうじゃうせぜに決して不当な果報を受けることはないでしょう。

また、頻婆娑羅王びんばしゃらおう〈Bimbisāra. 摩伽陀国王〉が仏を深く心に念じ申し上げたことによって、たちまち七重の獄室から出られはしませんでしたが、如来の光明に照らされ不還果を得ています。ありふれて人が考えるならば、「如来に神通力というものがあるならば、どうして七重の獄室を破って頻婆娑羅王を救い出されなかったのだ」というでしょう。しかしながら、諸仏の慈悲に限りなどありませんが、(世には)三悪道に堕すべき果報が充満しています。実に、諸法の因果の道理は仏が始めて作り出されたものなどでありません。いくら慈悲深くあられても、事物の真実をひっくり返すことなど出来はしないのです。仏という自らの位も、すべて無量の功徳を積まれてきた果報です。因果の道理を破って無理をおされたなどということではありません。ただ、すべての世界が帰依する因として、生ける物を導く優れた縁となって、苦を抜き楽を与えられるのです。頻婆娑羅王は、七重の獄室を脱することの出来ない因縁が強くあり、獄室を脱することは出来はしませんでしたが、仏の御力によって断ち難い欲界の煩悩を断ち尽くし、脱し難い欲界を脱して、登り難い聖者の位に登る事が出来たのです。そうは言っても、仏という位に自在ならぬことが有るわけではありません。凡夫の(実在せぬものを)有ると分別する結果としての苦楽の境界は、すべて善悪の有漏識〈阿頼耶識〉種子しゅうじ〈行為がその果を引き起こす、阿頼耶識に潜む因子〉現行げんぎょう〈種子が事象として顕現すること〉するものですから、事と理との二つは深く隔たり、仮と実との異なりは同じでないため、病など■〈欠字〉するのに橘皮きがわを煎じて飲んだならばその病が治ることはあっても、経を読み、仏を礼拝しても(その病が)癒えることはないようなものです。

皆、無始よりこのかた、虚仮の妄執を深くして、真理から隔たって正智から遠ざかっている為に、高く優れた願望を起こすことがなく、まことの法が身に備わることがないのです。喩えば、夢の中で、(ある人が)羅刹〈悪神〉の姿を見て恐れおののいているのを、(その者が寝ている)傍に人があってそのことに気づき、「それは羅刹ではない。怖がる必要はない」と言ったとしても、その眠っている者の恐れが止む事はないでしょう。ただ、自ら夢の中でその羅刹が走り去った、と思ったならば始めて、その恐れは止むでしょう。傍に人があって本当の事を教えたとしても、夢中と覚醒時(の意識)は異なるために聞く事などありません。真妄実体は同じでないため、その恐れが止むことはありません。自らが夢の中にあっては、羅刹の姿は現実のものではなくとも、(夢の中では事実として)恐怖は深いのです。羅刹が逃げ去ることも現実ではなくとも、喜びがあります。(それが例え、夢の中の真実でないことであっても、それを実と認識する)一種性の心が相続して起こるため、(それを虚妄であって実でないとする)不同類の心は現行しないためであります。それ故に善根に串習する人が、優れた意楽いぎょう〈意欲〉を起こして経巻を読誦し、仏を念じると、現前の災厄を打ち破り怨敵おんてきをも降伏することがあるのは、その人の心力が道理と相応するからであって、自ら発した善根の姿・働きが、仏の増上縁ぞうじょうえん〈事象が生起するのに間接的・補助的に助ける条件〉と感応することによって、速疾なる利益があるのです。それもこの様になるべくしてなる(因縁生起という)道理をはずれることはありません。総じて諸法の中には道理というものがあります。それは甚だ深く玄妙であってたやすく知られるものではありません。その道理は仏が作り出されてはいません。また、天人や修羅などが作り出されたのでもありません。仏はこの道理の善悪の因果となる様を悟られて、実の如くに生けるものの為にお説きになった智者です。

脚註

  1. 宿報すくほう決定けつじゃう

    前世、宿世あるいは今世に自分がなした行為の報いが機が熟したこと。それが発現するに十分な諸条件が整うこと。また、それが現在の自分に、いかんともしがたい結果として顕れること。
    その為された行為が悪しきものであれば、苦しみの報いが、善いものであれば、安楽な報いとなって現れる。いったん、その報いが発現するに十分な諸条件が整い、機が熟してしまえば、これをいくら避けようとしても、誰であってももはや避けらることは出来ない。

  2. 名号みゃうがう

    仏・菩薩の名。明恵の当時は阿弥陀の念仏が流行しかけていたが、明恵は特に釈尊を思慕し「南無本師釈迦牟尼佛」などと唱えていた。

  3. 頻婆娑羅王びんばしゃらおう

    頻婆娑羅は、[S/P].Bimbisāraの音写。釈尊在世時の古代インドで、強大な国の一つであったMagadha(摩訶陀)国の王。在位550AD-491AD(一説に491AD-459AD)。Magadhaの首都を[S].Rājagrha([P].Rājagaha / 王舎城)に定め、当時思想的・経済的に最も先進の繁栄した都市の一つとなって、その周辺には様々な宗教家・思想家達が活動していたという。釈尊は出家後、ただちに訪れた都市でもある。その時、釈尊はいまだ成道以前で仏陀ではなかったが、托鉢中の釈尊を見かけ、その容貌の優れたことを認めたビンビサーラ王は、出家生活をやめて自国の重要なポストに就くことを勧めたとされる。その後、釈尊成道後に再び出会った王は、仏教の庇護者となって時時に釈尊に会いに行き、その教えに沐した。仏教教団いわゆる僧伽で最も重要な儀式の一つ布薩は、この王の勧めにより、バラモン教で行われていたものを取り入れ、仏教的に改変したもの。
    王には一人の王子があった。名を[S].Ajātaśatru([P].Ajātasattu / 阿闍世)と言う。Ajātaśatruは、釈尊の従兄弟であったといい釈尊の教団の一員として出家していた」[S/P].Devadatta(提婆達多)にそそのかされ、父王であるBimbisāraを、首都Rājagrhaの監獄に幽閉。ついにこれを餓死させて、自ら王位に就いたという。父殺しをそそのかしたデーヴァダッタは、釈尊を殺害して自身が教団の統率者となろうとするも失敗。釈尊を殺そうとして準備した毒によって命を落とした。伝承では生きながらに地獄に堕ちた、などと言われる。

  4. 七重しちじゅうむろ

    Bimbisāraが、実子Ajātaśatruによって幽閉された獄室。伝承では七重に囲まれた厳重な、そして過酷なものであった言われ、Bimbisāraはその獄室のなかで餓死したという。この監獄跡地と伝説される場所が、現在もRājagrha(現ラージギル)にあって保存されている。

  5. 三悪道さんあくだう

    六道のうち地獄・餓鬼・畜生。特に苦しみ多い境涯であるということから、三悪道あるいは三悪趣と言われる。

  6. 法性ほっしゃう

    すべての存在は仮に現象しているに過ぎない、いずこかに実体を持つものなどではなく、不安定・不完全で刹那毎に生滅変化して止まないもの、という真理を指す語。実相、真如などと同義。

  7. 増上縁ぞうじゃうえん

    事物が生じる際に間接的・補助的にこれを助ける、あるいはそれが生じることを妨げないすべての消極的力・条件。

  8. 苦をき樂をあた

    抜苦与楽。慈悲の伝統的定義。もっとも与楽は慈、抜苦は悲の意。

  9. 事理じりの二位

    事は相対的な区別・差別しえる現象。理はすべての事物に普遍なる真理。

  10. 假實けじつ

    現象と本質。事理とほぼ同様の意。

  11. やまひなど■するに

    底本の寛文五年版および宝永六年版ともに欠字。

  12. 意樂いぎゃう

    何事かを為そうとする意志。望み。楽は願うの意。これを「いらく」と読んではならない。

  13.  

    どのように訓じれば良いか不明。あるいは「かなひ」か。

  14. 羅刹らせつ

    [S].rākṣasaの音写。インド神話に登場する一族で、夜に墓場に現れ、人肉を喰らう悪の権化。しかし、仏教では、仏陀に帰依してその守護神の一つとされる。

  15. 不同類ふどうるい

    共通性のない類、同じ要素を持たないもの。

  16. 串習げんじふ

    繰り返し行うこと。習慣的・日常的に行うこと。

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