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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

『槇尾山略縁起并流記』

原文

槇尾山流記 智本書之

大檀越

正二位内大臣征夷大将軍源綱吉公
母君桂昌院殿宗子大夫人

槇尾山御再興之儀
元禄十二己卯年八月日被 仰出
本庄因幡守藤原宗資 奉
木下清兵衛尉平信真
書翰ニテ申給

一 八月五日之尊書同十四日來着某即太子堂居住依之木下清兵衛屋敷即日參井川喜兵衛殿對談槇尾登山之儀示合即槇尾人を遣

一 十五日井川喜兵衛殿同道ニテ槇尾山登山普請之様子有増相續申入候事
本堂之儀六間四面被 仰下従此方御願申候者桁行七間半梁行五間半瓦葺被為 成下候様来御申遣可被下由頼入候事

一 十六日喜兵衛殿ヨリ即江戸願之通具被申遣候

一 十一月朔日木下清兵衛殿従江戸上京

一 同七日木下清兵衛殿ヨリ太子堂使者給依之御屋敷参候處槇尾山御建立并御買附弐拾石之御加増拝領之儀被 仰渡予此仰蒙難有大慶不斜奉存先御礼申伸罷歸
即槇尾人を遣

一 八日木下清兵衛殿槇尾登山内田屋喜右衛門大工源兵衛御共也 忍拙茂登山界内見分之上ニテ普請之様子被申付候事

一 九日高雄栂尾并現光寺人を遣

一 十日木下清兵衛殿御礼に行超然房同道此日木屋与左衛門屋敷ニテ槇尾山本堂釿初在之

一 十一日雲松房登山

一 十二日江戸
三之御丸様之御礼本庄安藝守様迄書翰ニテ申遣界外之衆中廻状ニテ御普請御買附拝領之儀申遣

一 十三日京都兩御奉行所御造榮被為成下候内證断之御礼申上

一 元禄十三庚申年正月十三日本堂屋敷地取水盛相極

一 本堂新造桁行七間半梁行五間半四方縁側幅五尺長九間二尺横廣五間四尺御拜升形手𢮿タバサミ 此方願之通リニ被為成下事
 千手觀音安置之壇新造
本尊釈迦如來之佛壇出組并
須弥壇御厨子結構出来
 明忍律師厨子御修覆
 本堂棟札別有之

一 鎮守八幡大菩薩 
下遷宮元禄十三庚申年三月朔日
御殿御修覆大床欄干上葺
鳥居玉垣并拜殿新造
上遷宮六月十五日相勤即一日開帳

一 經藏新造長三間廣ニ間也

一 方丈桁行六間梁行五間四方縁
側挽直食堂客殿茶所月直寮
間取御修覆

一 庫裏新造桁行七間半梁行五間取合廊下部屋共ニ間四間水棚廂竹縁物置取込共間半五間半附タリ男部屋湯殿共一間三間

一 惣門新造棟門作一丈二尺瓦葺

一 上座寮新造三間五間半

一 西學寮十二間御修覆

一 鐘樓堂挽直御修覆

一 大橋新造長九間幅一間

一 風呂御修覆

一 小屋挽直御修覆

一 六月廿三日巳刻上棟岩倉善峯僧衆両人并今宮神主為賀儀登山

一 六月晦日堂供養即布薩説戒相勤從夫三十日之間釈迦如來開帳為結縁男女令參詣事

一 七月晦日為御禮智本無寂江府發足八月十一日參着翌日土産品々以木下清兵衛殿致献上候事

一 帶留中日々之御馳走九月三日三之御丸様ニテ御齋被下即智本御對面之上ニテ三歸并大日眞言光明真言御授其後所持之五鈷受持之大衣御所望ニテ御頂戴被遊候御事 附タリ次間ニテ御殿中之女中不残三歸真言被受候事

一 同日御暇乞申上同七日江戸發足傳馬人足ニテ道中御馳走之事

一 從巳二月下旬四月中旬迄川岸石垣出来

(張紙)「金百両 川岸修理料」

元禄十四年夘月日 輪番 智本(印)

訓読

槇尾山まきのおさん流記るき 智本ちほんこれを書す。

正二位しょうにい内大臣ないだいじん征夷せいい大将軍源綱吉みなもとのつなよし
母君もくん桂昌院殿けいしょういんでん宗子そうし大夫人だいぶにん

槇尾山まきのおさん御再興の儀、
元禄げんろく十二己卯年八月日、おおせ出られ、
本庄ほんじょう因幡守いんばのかみ藤原宗資ふじわらのむねすけたてまつる。
木下清兵衛尉せいべえのじょう平信真たいらののぶざね
書翰しょかんにて申したまわる。

一.八月五日の尊書そんしょ、同十四日に來着らいちゃくくれがし、即ち太子堂たいしどう居住いじゅう。之によりて木下清兵衛屋敷へ即日まいり、井川喜兵衛きへえ殿へ對談たいだん。槇尾へ登山の儀、示し合せ、即ち槇尾へ人をつかわす。

一.十五日、井川喜兵衛殿へ同道にて槇尾山、登山。普請ふしんの様子、有増あらまし相ひ續き申入れそろこと。
本堂の儀、六間ろっけん四面しめんと仰せ下せられるり、此のかた、御願ひ申しそうらふは桁行けたゆき七間半・梁行はりゆき五間半瓦葺かわらぶきくだされ候よう、来り御申おもうつかわし下さるべくよし、頼み入り候こと。

一.十六日、喜兵衛殿より即ち江戸へ願ひの通り、つぶさに申し遣せられ候。

一.十一月朔日ついたち、木下清兵衛殿、江戸より上京。

一.同七日、木下清兵衛殿より太子堂へ使者を給ひ、之に依て御屋敷おやしきへ参りそうらところ、槇尾山御建立ごこんりゅうならびに御買附おかいつけ、弐拾石の御加増ごかぞう拝領の儀、仰せ渡せられ、、此の仰せをこうむること有り難く、大慶たいけいななめならず存じたてまつる。先の御礼申し伸べ、まかかえる。
即ち槇尾へ人を遣す。

一.八日、木下清兵衛殿、槇尾へ登山。内田屋喜右衛門きうえもん、大工源兵衛げんべえ御共なり。にんせつせい、登山。界内かいない見分けんぶんの上にて普請の様子、申し付けられ候こと。

一.九日、高雄たかお栂尾とがのお、并びに現光寺げんこうじへ人を遣す。

一.十日、木下清兵衛殿へ御礼に行く。超然ちょうねん、同道。此の日、木屋与左衛門よざえもん屋敷にて槇尾山本堂、釿初ておのはじめこれあり。

一.十一日、雲松うんしょう、登山。

一.十二日、江戸三之御丸さんのおまる様への御礼。本庄ほんじょう安藝守あきのかみ様まで書翰しょかんにて申し遣す。界外かいげ衆中しゅちゅう廻状かいじょうにて御普請ごふしょう御買附おかいつけ拝領の儀、申し遣す。

一.十三日、京都りょう御奉行所おぶぎょうしょ御造榮ごぞうえい成し下し為さられ候ふ内證ないしょうことわの御礼、申しあぐる事。

一.元禄十三庚申年正月十三日、本堂屋敷、地取ぢど水盛みずも相ひ極る。

一.本堂、新造。桁行七間半・梁行五間半。四方縁側えんがわ、幅五尺長さ九間二尺、横廣さ五間四尺。御拜ごはい升形ますがた手𢮿たばさみ作り 此方こなた願ひの通りに成し下し為さられる事。
 千手觀音安置の壇、新造しんぞう
本尊釈迦しゃか如來の佛壇出組でぐみならび須弥壇しゅみだん御厨子おずし、結構に出来しゅったい
 明忍みょうにん律師厨子、御修覆ごしゅふく
 本堂棟札むなふだ、別にこれ有り。

一.鎮守八幡はちまん大菩薩 
下遷宮げせんぐう元禄十三庚申年三月朔日
御殿ごてん、御修覆、大床おおどこ欄干らんかん上葺うわぶき
鳥居とりい玉垣たまがき并に拜殿はいでん、新造。
上遷宮じょうせんぐう六月十五日相ひ勤め、即ち一日開帳かいちょう

一.經藏きょうぞう、新造。長さ三間・廣さニ間なり。

一.方丈ほうじょう、桁行六間・梁行五間。四方縁側、なお食堂じきどう客殿きゃくでん茶所ちゃじょ月直寮がつじきりょう、 間取り御修覆。

一.庫裏くり、新造。桁行七間半・梁行五間取合い廊下・部屋へや共にニ間に四間。水棚みずだなひさし竹縁たけえん物置ものおき取込とりこみ共、間半五間半。つけたり、男部屋おとこべや湯殿ゆどの共に一間に三間。

一.惣門そうもん、新造。棟門むねもん作り。廣さ一丈二尺。瓦葺。

一.上座寮じょうざりょう、新造。三間に五間半。

一.西學寮さいがくりょう、十二間。御修覆。

一.鐘樓堂しょうろうどう、挽き直し御修覆。

一.大橋おおはし、新造。長さ九間・幅一間。

一.風呂ふろ、御修覆。

一.小屋こや、挽き直し御修覆。

一.六月廿三日巳の刻、上棟じょうとう岩倉いわくら善峯よしみね僧衆そうしゅ両人、并に今宮神主こうぬし賀儀がぎの為、登山。

一.六月晦日みそか、堂供養。即ち布薩ふさつ説戒せっかい、相ひ勤む。それより三十日の間、釈迦如來開帳の為、結縁けちえん男女なんにょに參詣せしむ事。

一.七月晦日、御禮の為、智本ちほん無寂むじゃく江府こうふ發足ほっそく。八月十一日、參着。翌日、土産みあげの品々、以て木下清兵衛殿、献上致し候こと。

一.帶留たいる中、日々の御馳走。九月三日、三之御丸様にて御齋おとき下せらる。即ち智本へ御對面の上にて三歸さんき、并に大日だいにち眞言光明こうみょう真言御授おさずかり。其の後、所持の五鈷ごこ、受持の大衣だいえ御所望ごしょもうにて御頂戴ごちょうだい遊ばされそうろう御事おんこと。 附たり、次のにて御殿中の女中じょちゅう、残らず三歸・真言受けられ候こと。

一.同日、御暇おいとまひを申し上る。同七日、江戸發足ほっそく傳馬てんま人足にんそくにて道中、御馳走ごちそうの事。

一.の二月下旬從り、四月中旬まで、川岸石垣、出来。

(張紙)「金百両 川岸修理料」

元禄十四年夘月うづきの日 輪番 智本(印)

脚註

  1. 流記るき

    後世に「流し留める記録」。一般に、奈良・平安時代以来、諸寺が毎年国家に報告した財産目録である「流記資財帳」を云うが、ここでは桂昌院からの寄進によって旧来の諸堂を修復しさらに新築して伽藍を整備していった顛末を記録したもの。

  2. 智本ちほん

    智本理澄。丹州の人。明暦四年〈1658〉四月五日受具。槇尾山平等心王院第十四代衆首。大山崎神照院(現存するが廃寺に等しい)の住持として入った。正徳六年正月十五日寂。世寿八十六、夏臈五十八。

  3. 大檀越だいだんおつ

    檀越は[S/P] dānapatiの音写で施主の意で、転じて篤信者を指す。多大な寄進をなす施主、後援者。

  4. 桂昌院殿けいしょういんでん宗子そうし大夫人だいぶにん

    京の八百屋仁右衛門の次女、関白二条光平の家司本庄宗利の養女で名は宗子。徳川第三代将軍家光の側室となり、第四代将軍綱吉の生母となる。秋野、お玉の方と称す。桂昌院は綱吉没後に出家した法名。綱吉が将軍に就任した当時は、江戸城三之丸に居したことから「三之御丸様」と称された。

  5. 本庄ほんじょう因幡守いんばのかみ藤原宗資ふじわらのむねすけ

    本庄宗資。桂昌院の異母弟。桂昌院と非常に仲が良かったらしく、綱吉の母となって後は順次取り立てられ、ついに常陸国笠間藩五万石の大名となった。
    もっとも、桂昌院が槇尾山再興を決めたまさにその月、元禄十二年〈1699〉八月十六日に宗資は死去している。したがって、宗資の仲介は形ばかりのことで、その采配には直接関与していなかったと思われる。

  6. 木下清兵衛尉せいべえのじょう平信真たいらののぶざね

    藤原宗資の家臣。桂昌院による寺社への寄進など意向はまず本庄宗資に伝えられていたようであるが、その実行はほとんど木下清兵衛が任されていた。当所、江戸に居を構えて京に往還していたが、後に京にて屋敷を構え居住した。

  7. 尊書そんしょ

    手紙の尊称。尊翰に同じ。

  8. 太子堂たいしどう

    現在は京都五条にある太子堂白毫寺か?白毫寺は東山大谷に創建された寺院であったが、江戸初頭、家康により知恩院の拡張がなされたときに当地に移転させられている。ここで「某」が智本を意味するものであれば当時、白毫寺は槇尾山に縁のある寺であったか。

  9. 井川喜兵衛きへえ

    委細未詳。木下清兵衛の屋敷にて対談していることからするとその家人であったか。あるいは普請奉行か。
    清兵衛に同じく、当時の京における寺社の折衝の場にまま見られる名。

  10. 六間ろっけん四面しめん

    間面記法により建物の規模を表した語。六間四面とはその四面が六間の方形ということでなく、桁行六間・梁行二間である母屋の四方に庇が廻らされていることを表し、実際の大きさとしては桁行八間・梁行四間。

  11. 桁行けたゆき七間半・梁行はりゆき五間半

    桂昌院は六間四面(桁行六間・梁行二間の四方に庇が付いた建物)規模の本堂を建立しようと考えていたが、平等心王院の衆僧は何故かそれより一回り大きく、特殊な規模を求め、後にその通り許された。
    現存する平等心王院本堂は実際その如きの規模と成っているが、一般的な本堂の造りと異なって内部が桁に沿って三分とされている。何故に往時の衆僧らがそのような構造としたのか、この『流記』からも明瞭でない。

  12. 内田屋喜右衛門きうえもん

    未詳。あるいは大工の棟梁の名か。

  13. にん

  14. せつ

    智本理澄。

  15. せい

  16. 高雄たかお

    高雄山神護寺。
    平等心王院は元来、神護寺末の子院であり近世には荒廃しておそらく寺名のみ残すのみであったが、近世における神護寺中興の祖であり明忍の師であった晋海僧正によって再興された。律院僧坊として再興された後、幕府の許しを得て律宗寺院として独立したが、その後も神護寺とよく交通していたのであろう。

  17. 栂尾とがのお

    栂尾山高山寺。
    平等心王院の北側に位置し、同じく神護寺末の子院であった寺。中世、明恵上人が開いて居していたことで著名。近世の律宗再興の立役者であった明忍らは高山寺の鎮守前にて自誓受戒した。

  18. 現光寺げんこうじ

    現在の京都府木津川市加茂町加茂町にある寺院。元禄十年〈1697〉に槇尾山末の律宗寺院として再興された。

  19. 超然ちょうねん

    超然惠照。槇尾山衆僧の一人。元禄二年〈1689〉二月七日自誓受具。槇尾山にて五夏を過ごした後、宇治元通寺の住持として入った。宝永五年九月三日寂。

  20. 釿初ておのはじめ

    木工事を開始するときに行なう儀式。

  21. 雲松うんしょう

    雲松実道。槇尾山衆僧の一人。了恵元如の弟子。寛文三年〈1663〉二月廿五日、明忍伝の執筆を深草の元政に依頼したその友、省我唯空ら四人と共に自誓受具。槇尾山にて五夏を過ごした後、宇治田原の巌松院に入寺した後、加茂現光寺に転じてその住持となった。宝永二年四月廿二日寂。

  22. 本庄ほんじょう安藝守あきのかみ

    本庄資俊。本庄因幡守宗資の次男。父宗資の没後、家督を継いで笠間藩主となる。後に綱吉から松平姓を与えられ松平資俊と改称。移封され遠江浜松藩七万石の初代藩主となった。

  23. 界外かいげ衆中しゅちゅう

    槇尾山平等心王院を構成する現前僧伽の僧界(いわゆる境内)でない他地に住まう、平等心王院に属し本寺(本山)としてその名を連ねている比丘達。当時、平等心王院には幾多の末寺があって、その出身者らが住持を務めていた。

  24. 京都りょう御奉行所おぶぎょうしょ

    京都町奉行。所司代や上方郡代からその職掌を分出し、京の東西二箇所に設置された職位で、その役所。

  25. 内證ないしょうことわ

    公的でない内々での決裁。

  26. 地取ぢど

    地面の区画割り。

  27. 水盛みずも

    当時の土地測量法の一つで、水盛台という器具(角材)に水を張って水準基準面を定めること。

  28. 御拜ごはい

    建物の前面に屋根を突き出した部分。建物の階の前に二本の柱を立てて作りかけた庇(階隠)。向拝とも。

  29. 升形ますがた

    柱頭などにある方形または長方形の木。枡、斗形とも。

  30. 本尊釈迦しゃか如來

    平等心王院の本尊はいわゆる清涼寺式釈迦如来立像。中世以来、清涼寺式釈迦如来は特に律宗律院の本尊として多く造営され尊崇された。
    清涼寺の釈迦如来立像は、平安中期に東大寺の僧奝が北宋から帰朝する際に請来したもので、元は印度の優填王が釈尊の不在を嘆いて作らせたと伝説される、揚州開元寺の栴檀像を摸刻したもの。中世に復興された律宗(特に叡尊)がいわば釈尊回帰を志向したことや、末法思想が流行したことにより、印度に起源をもつとされた三国伝来の姿すなわち釈尊の往時の姿を写したものとして非常な信仰を集めた。重要文化財として現存。

  31. 出組でぐみ

    柱頭に付して桁を支えるために組まれた部材。斗栱の一形式。

  32. 鎮守八幡はちまん大菩薩

    平等心王院の鎮守。現存。

  33. 經藏きょうぞう

    経典・律蔵・論書など仏典の収蔵庫。平等心王院では本堂右隣に建立された。現存。

  34. 方丈ほうじょう

    元来は一丈四方(約3m四方)の粗末な小部屋を意味する語で、『維摩経』の維摩居士がその神通力によって方丈に八千人の菩薩と五百人の声聞を招き入れたという一章に基づく。転じて禅宗などで住職の庵室を意味するようになった。
    ここでは平等心王院の衆僧らの生活空間の総称としていわれている。現存。本堂の左側に位置し、本堂とは渡り廊下で繋がる。

  35. なお

    反りやねじれ、変色などある木材に鉋掛けなどして矯正・刷新すること。傷んだ縁側を解体し、その板に鉋をかけて綺麗にしたのであろう。

  36. 食堂じきどう客殿きゃくでん茶所ちゃじょ月直寮がつじきりょう

    平等心王院の「方丈」内に区画された諸室。

  37. 庫裏くり

    庫院とも。寺院の厨房や倉庫などに当たる建物。現存。方丈の左隣に位置。
    律院であれば、その一角は(精舎の境内を構成する)結界から除外されなければならない。

  38. 惣門そうもん

    正門。清滝川(鳴滝川)にかかる橋を渡って、坂を上がる先に位置する。現存。

  39. 上座寮じょうざりょう

    衆僧のうち上座ら(すでに五夏を過ごして阿闍梨位となった比丘)の住まう僧坊。往時、惣門の左右に中室と東室の二坊あったようであるがそのいずれか。いずれも現存しない。

  40. 西學寮さいがくりょう

    受具し比丘となって五夏を経過していない、和上あるいは阿闍梨に依止することを要する比丘らの住まう僧坊。往時は西室といわれ、庫裏の左側、西北に位置した十二間の長屋。その造りは唐招提寺の僧坊に似通ったものであったようである。現存しない。

  41. 鐘樓堂しょうろうどう

    惣門を抜けて東室の北側、その並びに位置した。今の西明寺(平等心王院)の鐘楼とは位置が異なる。

  42. 大橋おおはし

    清滝川(鳴滝川)にかかる橋。今は掛け替えられて鉄骨モルタル造りでペンキで朱塗りされている。

  43. 風呂ふろ

    惣門を入る手前右側に位置した風呂小屋(蒸し風呂?)。現存しない。

  44. 小屋こや

    おそらくは庫裏の左隣に位置した小屋であろう。用途不明。現存しない。

  45. 布薩ふさつ説戒せっかい

    [S] upavasatha / [P] uposatha. 新月と満月の日の毎月二回、必ず同一の区域・境界に住まう仏教僧らが一処に集って行わなければならない儀式。およそ二百五十箇条からなる律の学処を簡便に挙げ連ねた波羅提木叉(戒本)を、その区域にある長老比丘一人が暗誦し、それをその他比丘らが静聴することにより、その僧伽が清淨であることを確認する、僧伽において最重要な儀式の一つ。布薩はまた説戒とも称される。
    一般に、これを僧らが懺悔するための儀式と説明されるが誤り。布薩に参加する以前に、僧はすべて懺悔すべき罪がある場合は懺悔していなければならない。もし容易に懺悔出罪が出来ない罪を犯した者は布薩に参加することが出来ず、追放されるか比丘としての権利を一時的に剥奪され別住しなければならない。

  46. 無寂むじゃく

    無寂玄清。槇尾山衆僧の一人。元禄十二年〈1689〉三月十九日自誓受具。後に法諱を晃徧と改名。平等心王院第十九代衆首を務めた後、調子瑞泉寺に入寺して住持した。享保十七年四月十一日寂。
    江戸には二人で発ったとここで云われるが、現実に比丘らのみで旅に出ることは考えがたく、他に随行の浄人が一人二人あったと考えるべきであろう。

  47. 江府こうふ

    江戸。

  48. 三之御丸様

    桂昌院の綱吉存命時の称。江戸城三の丸に居していたことに依る。

  49. 三歸さんき

    仏陀・仏法・僧伽の三宝に対して帰依することの表明。三帰依の略。

  50. 大日だいにち眞言

    大日如来の真言。これに金剛界大日と胎蔵大日との別で二種ある。金剛界は「oṃ vajradhātu vaṃ」、胎蔵は「avirahūṃ khaṃ」で、日本ではそれぞれ訛誤して「おん ばざらだとばん」、「あびらうんけん」と本来の音とは程遠く伝えられている。

  51. 光明こうみょう真言

    不空羂索毘盧遮那仏大灌頂光明真言。大日如来の真言の一つ。oṃ amogha vairocana mahāmudra maṇi padma jvala pravartaya hūṃ.
    日本では「おん あぼきゃべいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん」と、本来の発音から程遠く訛誤して伝わる。

  52. 五鈷ごこ

    五鈷金剛杵、五鈷杵。密教にて使用される法具。如来の五智を象徴的に武器としたもの。五寸から八寸ほどで多く金銅製であり、その両端が五つに分かれる。

  53. 大衣だいえ

    [S] saṃghāṭi / [P] saṅghāṭi. 一般に九条から二十五条の条数で構成される、比丘が外出時に携え着用すべき衣。音写して僧伽梨、意訳して外衣、入王宮聚落衣とも。
    ここで智本は桂昌院に乞われるままに自らの大衣を与えているが、それは彼自身が三衣の一つを欠いた状態になることを意味する。そのままでは不離三衣学処の違犯となり、京までの帰途につくことは一般に律僧として不可となる。それを回避する方法もあって律蔵に説かれているけれども、智本はその事態にどう対処していたのかまでは不明。

  54. 傳馬てんま人足にんそく

    伝馬も人足も当時の交通制度。伝馬は道中の各宿・駅などに備えられ、公用輸送を担った馬。人足は各宿・駅の間を、荷物の運搬など力仕事に従事する労働者、あるいはその制度を意味する。智本達は桂昌院の意向により「御用」に同じ待遇で江戸からの帰路につけたようである。

明忍律師について

明忍伝