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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

月潭「中興槇尾山西明寺俊正明忍律師塔銘」

原文

婆伽世尊以一切種智統攝三界必先立戒法大心薩埵以六波羅蜜誘化衆生不能捨律儀固知戒是作佛之階梯濟人之舟航也然本邦律宗権輿于唐鑑眞和上再盛于興正菩薩興正滅後數百年間戒法䆮衰𡪹寥無聞丁此澆季之穐駕大願輪扶起律幢者唯俊正律師其人也師諱明忍俊正其號平安城中原氏子世爲官族父名康雄仕為少内記毋某氏有淑德師生而穎異有神童之譽十六𡻕抱出塵志而親愛繫絆未果所願二十一𡻕決意出家即投高雄晉海僧正薙髪稟受密法勤脩弗懈師恒慨此土律法衰頽志圖興復竟徃南京西大寺咨决持犯於耆宿鞠明究曛頗通其學越偕慧雲友尊二師入梅尾山祈好相依大乘三聚通受法自誓受戒時年二十七及覩槇尾幽邃清絶而卓錫於其間四方學律之輩慕風駢臻未幾大成法社三十一𡻕𤼵別受相承之願欲入大唐尋師孤錫飄然到對馬州以謂先赴三韓次抵中華然以 國禁森嚴故不得踰海姑留寓対陽結屠蘇於茆壇清苦自居經𡻕對人稍知有師呼曰京都道者迄庚戌夏遽染微疾杪夏七日昧爽自知期至執小磬槌敲坐墩驟唱佛號泊然而逝沙弥道依遵治命荼毘于山上収靈骨擔道具獨囬槙峰一衆哀慟如䘮恃怙焉師生于天正丙子寂于慶長庚戌報齢三十有五僧臘一十有五

訓読

婆伽世尊ばがせそん一切種智いっさいしゅちを以て三界を統攝とうしょうするに、必ず先ず戒法を立つ。大心薩埵だいしんさった六波羅蜜ろくはらみつを以て衆生を誘化ゆうけするに、律儀りつぎを捨てること能はず。もとより知る、戒是れ作佛さぶつの階梯、濟人の舟航しゅうこうなることを。然るに本邦の律宗、唐の鑑眞和上がんじんわじょう権輿けんよして、再び興正菩薩こうしょうぼさつに盛んなり。興正の滅後數百年の間、戒法ようやく衰へ𡪹寥りょうりょうとしてきくこと無し。此の澆季のときあたって大願輪を駕して律幢を扶起ふきせる者は、唯だ俊正しゅんしょう律師、其の人のみ。 師のいみな明忍みょうにん、俊正は其のごうなり。平安城の中原氏なかはらうじの子にして世の官族たり。父の名は康雄やすまさ、仕へて少内記と為る。毋は某氏、淑德有り。師生じて穎異えいい、神童のほまれ有り。 十六𡻕、出塵の志を抱くと雖も、親愛繫絆けいはんにして未だ所願を果たさず。二十一𡻕にじゅういっさい、意を決して出家し、即ち高雄の晉海僧正しんかいそうじょうに投じて薙髪ちはつす。密法を稟受ほんじゅして、勤脩ごんしゅおこたること弗し。 師、恒に此の土の律法衰頽すいたいすることを慨き、志して興復をはかる。竟に南京西大寺さいだいじに徃て持犯じぼん耆宿ぎしゅく咨决しけつす。明にまりしてたそがれ を究めて、頗る其の學に通ず。越いて慧雲えうん友尊ゆうそんの二師ととも梅尾山とがのおさんに入て好相こうそうを祈り、大乘三聚さんじゅ通受つうじゅの法に依て自誓受戒じせいじゅかいす。 時に年二十七。槇尾の幽邃清絶ゆうすいせいぜつなるを覩るに及でしゃくを其の間に卓す。四方學律の輩、風を慕て駢臻べんしんし、未だいくばくならずして大ひに法社と成る。 三十一𡻕、別受べつじゅ相承の願を𤼵して、大唐に入て師を尋ねんと欲す。孤錫飄然こしゃくひょうぜんとして對馬州に到る。以謂おもへらく先づ三韓に赴いて、次に中華に抵らんと。然れども國禁森嚴こっきんしんげんなるを以ての故に海を踰ゆることを得ず、しばらく対陽に留寓るぐうす。屠蘇とそ茆壇かやだんに結び、清苦自居す。𡻕を經て、對の人、ようやく師有るを知る。呼で京都の道者と曰ふ。 庚戌こうじゅつの夏に迄でにわかに微疾に染む。杪夏びょうか七日の昧爽まいそう、自ら期の至ることを知り、小磬槌しょうけいついを執て坐墩ざとんたたき、しばしば佛號を唱へて泊然はくぜんとして逝く。 沙弥道依しゃみ どうえ、治命にしたがって山上に荼毘す。靈骨を収めて道具を擔ひ、獨り槙峰まきみねめぐる。一衆哀慟あいどうすること恃怙じこうしなふが如し。師、天正丙子へいしに生れ慶長庚戌こうじゅつに寂す。報齢三十有五、僧臘一十有五そうろういちじゅうゆうごなり。

脚註

  1. 婆伽世尊ばがせそん

    婆伽は[S]bhagavatの音写、薄伽梵の略で「尊い人」、世尊の意。ここでは仏陀を指す。

  2. 一切種智いっさいしゅち

    仏陀となった者のみに備わる、この上なく最高の智慧。「あらゆるもの」を知り尽くす智慧。ただし、仏教における「あらゆるもの」すなわち一切とは、五蘊および十二処であって、宇宙のあらゆる個別的事象ではない。

  3. 大心薩埵だいしんさった

    大菩提心の薩埵、すなわち大菩薩。

  4. 六波羅蜜ろくはらみつ

    特に大乗の菩薩が必ず修めるべきとされる六種の修行徳目、すなわち布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧。波羅蜜あるいは波羅蜜多とは、[S]pāramitāの音写で「完成」がその原意。支那・日本では伝統的に「到彼岸」、すなわち彼岸に至る(行為)の意である理解されてきた。
    また六波羅蜜とは、菩提を得るための福徳・智慧の二資糧を展開・詳説したものであり、仏教の根本的修行階梯である戒・定・慧の三学に布施・忍辱・精進を加えたもの。

  5. 律儀りつぎ

    [S]saṃvaraの漢訳で、仏教徒それぞれの立場に応じて受持すべき諸々の戒あるいは律。自らの身口の行いについて慎み守るべき諸々の事柄。
    比丘あるいは比丘尼であれば律蔵所説の二百五十戒(律)を、沙弥や沙弥尼であれば十戒、そして在家信者であれば五戒もしくは八斎戒がその律儀となる。

  6. 鑑眞和上がんじんわじょう

    日本に仏教として正規の「戒律」を伝えた初めての人であり、日本における律宗の祖とされる人。
    淡海三船(真人元開)によるその伝記『法務贈大僧正唐鑑真大和上伝記』(『鑑真和上東征伝』)に拠れば、長安元年〈701〉の十四歳のとき智満について沙弥出家し、神龍元年〈705〉すなわち十八歳で道岸の元で菩薩戒を受け、景龍二年〈707〉(二十歳)に弘景を和上として具足戒を受け比丘となったという。鑑真に授戒した道岸と弘景との二人は共に、南山律宗祖道宣に付いて受戒した弟子であった。また、鑑真は天台教学に通じた学匠でもあって、その渡来に際しては戒律関係の書籍だけではなく、初めて日本に天台三大部をもたらすなど、日本における天台教学の普及に一役買っている。それは最澄が天台教学に傾倒する因ともなった。鑑真が五度に渡る渡航失敗に屈すること無く、ついに日本に到達したのは天平勝宝五年十二月廿六日〈754〉。

  7. 権輿けんよ

    物事の始まり。起源。

  8. 興正菩薩こうしょうぼさつ

    鎌倉初期においていわば日本の第一期戒律復興を果たした叡尊律師〈1201-1290〉の、正安二年〈1300〉に伏見上皇より送られた諡号。
    叡尊は始め醍醐寺にて出家し真言密教を修めたが、密教をいくら修めても何の意味も証果も無いことを思い悩んだ。しかし、空海のものとされる『遺誡』における「凡そ出家修道は、もと仏果を期す。更に輪王梵釈の家を要めず。豈況んや、人間少少の果報をや。発心して遠渉せんには、足にあらざれば能はず。仏道に趣向せんには、戒にあらざれば寧んぞ至らんや。必ず須く顕密の二戒堅固に受持して、清浄にして犯なかるべし」などの一節を読んだことにより、持戒せねば仏道はなんら意味をなさず、その証果も決して無いことを確信。戒律復興のために運動し始めることとなった。ついに法相宗の貞慶および戒如の後援により律学を深め、覚盛律師など同志四人で戒律復興が果たした。

  9. いみな

    忌み名。実名。古代の支那において人の死後、その実名を口にすることを憚った習慣があったが、それが生前にも適用されるようになったもの。普段は実名(諱)は隠して用いず、仮の名(通名)として字(あざな)を用いた。その習慣が日本にも伝わり、平安後期から鎌倉期頃には僧侶においても一般化した。奈良期、平安初中期の僧にはこの習慣はない。

  10. ごう

    諱以外に普段用いた名前。字(あざな)に同じ。あだ名、通名。僧侶においてはこれを仮名(けみょう)ともいう。たとえば明恵上人高弁や慈雲尊者飲光で言えば、明恵や慈雲が字(号)であり、高弁や飲光が諱。

  11. 中原氏なかはらうじ

    平安中期に始まる古い家系で明経道または明法道を家学とし、大外記あるいは少外記を世襲した地下の公家。

  12. 二十一𡻕にじゅういっさい、意を決して出家し

    ここで月潭は明忍が出家した年齢を二十一としている。けれども、先行する伝記である堯遠『行状記』および日政『行業記』では元禄四年(廿四歳)となっている。月潭自身の手による『行業曲記』では元禄二年(廿一歳)を以て明忍出家の年であるとし、ここでもそれをそのまま踏襲したのであろう。
    私見では、明忍が真に出家として活動しだした年としては『行状記』ならびに『行業記』説が正しい。あるいはそれ以前からすでに明忍は朝廷の公務に着きながらも僧形の在家者(近住)あるいは形同沙弥となっており、それを月潭は出家したものと捉えたのかもしれない。月潭はそれ以前の説を否定し、自ら修正したつもりであったのであろうが、しかし、諸々の点から二十一歳出家説は正しくないと考えられる。

  13. 晉海僧正しんかいそうじょう

    守理晋海。京都の清原氏(広澄流)出身、清原枝賢の次男。長男は後に清原氏を改め舟橋氏を称してその祖となり、また『慶長日件録』を遺してことでも著名な舟橋秀賢(ふなはし ひでかた)の父、清原国賢(きよはら くにかた)。すなわち、晋海は舟橋秀賢の叔父であった。
    当時、多くの公卿の嫡子以外がいずこか仏門に入らされていたように、高尾山法身院に預けられ出家。後に仁和寺第二十世厳島御室任助親王から灌頂を受け、これをまた南御室覚深親王に伝えた。南北朝時代の天文年間〈1532-1555〉に兵火で甚だ荒廃していた高雄山神護寺の復興に尽力するに際しては、徳川家康の帰依を受け寺領千五百町歩(三百戸)を下賜され、また寺の三里四方の山林を伽藍復興の為にと与えられて復興の財とした。神護寺(高雄山寺)の法身院をその居としていたため当時は「法身院」あるいはただ「僧正」と称されている(実際の僧位は権僧正)。天正十六年〈1588〉、大覚寺にて誠仁(さねひと)親王の第二王子、空性法親王(大覚寺宮)の師となって得度授戒している。『慶長日件録』からは、晋海が非常に頻繁に秀賢宅に出入りあるいは秀賢が神護寺を訪れ、しきりに消息のやり取りをしていたことが知られる。秀賢はまたその次男を晋海に預けている。
    清原氏と中原氏とが非常に近い関係にあったこともあってか、明忍は幼少期から晋海の元に預けられ、その学問の師であった。明忍の出家に際してその和上となって以降は、むしろ明忍から戒律復興への熱情に影響を受けてその良き理解者で後援者となり、平等心王院の復興に全面的に経済的支援をしている。そして実際に戒律復興に際してはそれに参加して一同志とすらなっていた。律師が逝去した翌年の慶長十六年三月二日に遷化。

  14. 薙髪ちはつ

    髪を剃ること。剃髪に同じ。

  15. 密法を稟受ほんじゅし...

    真言密教を受法し、その修法と修学に怠ることがなかったということ。ただし、ここでの密教を受法とはその初歩であり、入門の修行に過ぎない四度加行を修めたことを云う。
    ここで戒山は、明忍が密教にここで打ち込んだかのように記しているが、実際は明忍自身が晋海のもとで修めたそれについて、「十八道ヲ開白シ四度加行セリソレモ猶カタチノミナル有樣ナリ本意ナケレハ」でまったく満足出来るものでなかったと考えていたと、『行状記』に伝えられる。明忍は自身なりに加行を真剣に取り組んだのであろうけれども、それは自身の目指す出離の証果をその兆しをすら見出すものでなかったのであろう。そもそも、明忍がその跡を辿ろうとした鎌倉期の叡尊が興律を志したのも、持戒を欠いた状態で密教を修めても何ら「仏教として」意味をなさないことについて思い悩み、ついにそれが全く持戒・持律を等閑視したことに起因することを気づいたことによる。ここで明忍は、期せずして中世の叡尊と似た経緯を辿っていた。

  16. 西大寺さいだいじ

    孝謙天皇開基の和州(奈良)の寺院。平安期に衰退して興福寺の管轄下に置かれ、鎌倉期の叡尊により中興された後に独立した。以来、律宗(西大寺系)の中心寺院の一つとなるが、室町期には再び頽廃。近世には律の実行は失われ、ただ教学としての律学をのみ伝え修める場となっていた。

  17. 持犯じぼん

    持戒と犯戒。律儀を護持するに際しての詳細。

  18. 耆宿ぎしゅく

    学識高い老人。

  19. 慧雲えうん

    明忍と共に戒律復興を果たした人。和泉国出身。諱は蓼海(りょうかい)。もと法華宗僧ながら、その堕落を嫌って脱宗していた。ここに「観行即の慧雲」と称されたとあるが、『律苑僧宝伝』巻十五「慧雲海律師伝」では、観行とは止観のことであって衆中で止観に最も詳しかったというによる。
    慶長十五年〈1610〉、明忍が対馬において客死した後、平等心王院の第二世住持となる。戒律復興の騎手としてただ明忍のみが著名であるが、実際として明忍が具体的に後進を指導したという実績はほとんどなかった。それはほとんど慧雲が主として担ったのであり、また槇尾山の僧坊としての基礎を築いたのも彼であった。しかし、慧雲もまたその翌十六年三月二日あるいは翌々年の十七年二月二日、高雄山神護寺にて示寂。行年は明らかでない。

  20. 友尊ゆうそん

    明忍と共に戒律復興を果たした人。諱は全空。もと慧雲と同じく法華宗徒であったというが脱宗して西大寺僧となっていた。慶長十五年〈1610〉六月二日、明忍に先んずること五日前に示寂。

  21. 梅尾山とがのおさん

    京都嵐山の北西にある栂尾山高山寺。鎌倉期の昔、明恵上人によって勧請されていた春日社の前において自誓受戒したと伝えられる。なぜ春日社の前かと言うに、日本の律家では、日本で戒律が廃れた際には春日明神がこれを護るという伝承に基づく。明恵上人の夢に春日明神が頻繁に現れ、様々に上人を外護したという伝承にも由来するのであろう。

  22. 好相こうそう

    夢や白昼夢あるいは現実に現れる何か好ましい現象・事象。持戒した上で修禅や礼拝を日々に繰り返す中に見るべきものとされる。ここで何故明忍らが「好相を祈る」、すなわちその好相を得るために修行したのかといえば、『梵網経』や『占察経』に戒を犯した者や戒を失った者、あるいは戒を得ていない者はまず必ず「好相を得なければならない」と規定されているためであり、そうしなければ受戒は成就しない、とされているためである。実際に叡尊や覚盛らは各々自誓受戒する前、礼拝・修禅を幾日も繰り返し修め、好相を得ていた。
    ただし、律の観点からすれば、それを正統な手段で受けることが可能な状態であれば「好相を得る」必要など全くなく、そもそも好相などという語自体、一切言及されない。好相とはあくまで大乗にて言われる、しかも極めて限定された中で説かれるものであることに注意。

  23. 三聚さんじゅ

    三聚浄戒の略。六波羅蜜のうち戒波羅蜜の具体。
    『華厳経』や『菩薩善戒経』などにて説かれ、『瑜伽師地論』(および『菩薩地持経』)や『摂大乗論』など主として唯識系の論書においてその具体的内容が詳説された、大乗の立場からあらゆる戒および律を律儀戒・摂善法戒・饒益有情戒の三種に包括したもの。むしろ日本においてその解釈があまりに多様となり、時に曲解され空理的となってその理解が困難となった。

  24. 通受つうじゅほうの法

    三聚浄戒を受けることにより、律と菩薩戒とを総じて(通じて)受けてしまおうという、鎌倉初期の覚盛によって発案され実行された受戒法。律蔵および印度以来の菩薩戒の授受に関する規定に従ったならば絶対にあり得ない、むしろ否定され続けてきた受法。元来通受とは、「僧俗が通じて(共通して)受けるもの」という意味であったが、覚盛によって「三聚浄戒を通じて(まとめて)受ける」という意味に変じられた。よってここでいう通受とは、比丘となるための具足戒(律)を三聚のうち律儀戒に配し菩薩戒を後二の戒に当てて、まとめて受けることの意。

  25. 自誓受戒じせいじゅかい

    現前の師を立てず、誰にも依らずして、「自ら戒を受けることを誓う」ことによる受戒法。一般にこれが可能なのは在家の五戒および八斎戒に限られる。しかし、大乗経において、といってもそれはただ『占察善悪業報経(占察経)』(T17. P904c)に限られるのであるけれども、自誓受によっても「正しく受戒」出来ることとされている。
    しかしながら『占察経』は、はるか天平の昔に日本仏教界に諍論を生じさせていたものでもあった。その問題とは、鑑真により正規の具足戒がもたらされた際、従来の僧正など官位についていた僧らが、大和上による伝戒とその受戒をいわば拒否したことである。鑑真大和上のもとで具足戒を授戒することについて、彼らはすでに正統な仏教僧であっていまさら具足戒など受ける必要はない、と難色を示したのであった。その根拠としたのが前掲の『占察経』であった。けれども結局、当初反抗の構えを見せていた、それ以前のいわば相似僧らは鑑真に対して一応弟子の礼をとって、その授戒を受け入れた。すなわち、『占察経』に基づく自誓受戒(による比丘としての受戒の正統性)は、いわば天平の昔に否定されていた。ところが、鎌倉期のどうやっても正統な方法で受具することが叶わなくなっていた当時、戒律復興をなんとか果たそうとした覚盛によって、過去に否定されていたはずの『占察経』、および法相の諸典籍を根拠に自誓受具の正当性が主張され、ついに実行された。その自誓受によって戒律復興を果たした四人のうちの一人が叡尊であった。後に覚盛は唐招提寺に、叡尊は西大寺に入り、それぞれ拠点にして新たな律宗の展開をみせる。もっとも、叡尊と覚盛の戒律について見解・見どころはかなり異なっており、それが現代に至るまでの律宗における唐招提寺・東大寺戒壇院・泉涌寺と西大寺の間の軋轢の元の一つとなった。 なお、ここでは自誓受戒をしたのが明忍・慧雲・友尊の三人であったとされているが、実はこれに晋海および玉圓空溪なる僧も加わっており、総勢五人で自誓受戒している(『自誓受具同戒録』西明寺文書)。そもそも三人で自誓受戒というのは道理に合わない。僧伽が成立するには最低四人の比丘がその成員として必要であるから、それは必ず四人以上でなされるべきものである。事実、叡尊らの自誓受戒もはじめ四人によってなされたのである。この四人というのは偶然の数字ではなく、そうでなければならないという背景があった。

  26. 駢臻べんしん

    ならび集まること。雲集すること。

  27. 別受べつじゅ

    本来の具足戒の受法。まず遮難と言われる諸々の条件を備え、また一般に三師七証と言われる十人以上の比丘から白四羯磨(びゃくしこんま)による具足戒の受戒。通受および自誓受は本来ありえないものであり、日本においてのみ行われた異例なものであって、律蔵や印度の論書などには一切見られない方法であった。

  28. 屠蘇とそ

    抖擻のことか?粗末な小屋の意であろう。

  29. 茆壇かやだん

    現在の対馬市厳原町(いずはらまち)にある久田道(くたみち)東側に広がる低山の中腹の古名。この山間を萱谷と昔呼んだというが、萱壇というその名称は、中腹にある平坦な萱の生い茂る地の名であることによるのであろう。土地ではこれを「かやんだん」などと称したこともあったという。

  30. 杪夏びょうか

    旧暦の六月。

  31. 沙弥道依しゃみどうえ

    道依明全。明忍が対馬に向かった際、ただ一人随行した人。ここで月潭は道依を息慈(沙弥)であったとしている。けれども、当時道依は沙弥では無かった。なんとなれば、西明寺に伝わる文書の一つ『禅語採要』(沙弥名籍)には、道依は賢俊良永と共に賢俊律師没後の慶長十五年十月に入衆、すなわち沙弥となったことを伝えるためである。
    そもそも明忍が旅に出る時、随行する者が沙弥であっては浄人として用をなさない。従って道依は浄人すなわち在家信者として随行し、対馬での律師の生活を助けたと見て違いない。あるいは道依は近住、寺に住まう禿頭の人であったかもしれない。なお、道依が比丘となったのは慶長十六年〈1611〉であり、賢俊を含めた他十名と共に自誓受具してのことであった。元和二年〈1616〉八月廿七日没。

  32. 恃怙じこ

    両親。

  33. 僧臘一十有五そうろういちじゅうゆうご

    僧臘とは比丘となってからの年齢。法臈・夏臈に同じ。
    ここで月潭は沙弥となってからの年数をも僧臈として数え、明忍の臈を十五であったとしているが正しくない。沙弥は非正式の出家者であり、その故にその年数を僧臘として一般に数えない。明忍の僧臘は正しくは七あるいは八であった。

明忍律師について

明忍伝