《No.801》
是の如く我れ聞けり。一時、佛、舍衛國祇樹給孤獨園に住せり。爾の時、世尊、諸の比丘に告げたまはく。五法有り。饒益する所多ければ、安那般那念を修すべし。何等をか五と為す。淨戒・波羅提木叉律儀に住し、威儀・行處具足して、微細の罪に於て能く怖畏を生じ、學戒を受持する。是れを第一と名づく。饒益する所多ければ、安那般那念を修すべし。復た次に比丘、少欲・少事・少務なる。是れを二法と名づく。饒益する所多ければ、安那般那念を修すべし。復た次に比丘、飮食について量を知り、多少の中を得。飮食を為して求欲の想を起こさずして、精勤・思惟する。是れを三法と名づく。饒益する所多ければ、安那般那念を修すべし。復た次に比丘、初夜・後夜に睡眠に著かずして、精勤・思惟すべし。是れを四法と名づく。饒益する所多ければ、安那般那念を修すべし。復た次に比丘、空閑林中にて、諸の憒閙を離る。是れを五法と名づく。饒益多種なれば、安那般那念を修習すべしと。佛、此の經を説き已りたまひし。諸の比丘、佛の所説を聞きて、歡喜奉行しき。
《No.802》
是の如く我れ聞けり。一時、佛、舍衛國祇樹給孤獨園に住しき。爾の時、世尊、諸の比丘に告げたまはく。當に安那般那念を修すべし。若し比丘、安那般那念を修習するに、多く修習せば、身、止息し、及び心、止息することを得、覺有り、觀有り、寂滅・純一にして、明分想の修習を滿足す、と。佛、此の經を説き已りたまひし。諸の比丘、佛の所説を聞きて、歡喜奉行しき。
《No.803》
是の如く我れ聞けり。一時、佛、舍衛國祇樹給孤獨園に住しき。爾の時、世尊、諸の比丘に告げたまはく。安那般那念を修習すべし。若し比丘、安那般那念を修習するに、多く修習せば、身・心、止息し、有覺・有觀、寂滅・純一、明分想の修習滿足す。何等をか安那般那念を修習するに多く修習し已らば、身心止息し、有覺・有觀、寂滅・純一にして、明分想を修習し滿足すと為すや。是の比丘、若し聚樂・城邑に依りて止住し、晨朝に衣を著け鉢を持ち、村に入りて乞食するに、善く其の身を護り、諸根の門を守り、善く心を繫けて住し、乞食已て住處に還り、衣鉢を挙げ、洗足し已る。或は林の中、閑房、樹の下、或は空露地に入て、端身正坐し、面前に繫念す。世の貪愛を斷じ、欲を離れ清淨にして、瞋恚・睡眠・掉悔・疑を斷じ、諸の疑惑を度して、諸の善法に於て心、決定することを得。五蓋煩悩の、心に於て慧力をして羸らしめ、障礙分と為て涅槃に趣かざるを遠離す。内息を念じては、繫念して善く學す。外息を念じては、息の長き・息の短きに繫念して善く學す。一切身を覺知して入息し、一切身において入息するを善く學す。一切身を覺知して出息し、一切身において出息するを善く學す。一切身行の息むを覺知して入息し、一切身行の息むにおいて入息するを善く學す。一切身行の息むを覺知して出息し、一切身行の息むにおいて出息するを善く學す。 喜を覺知し、樂を覺知し、心行を覺知す。心行息を覺知して入息し、心行息を覺知して入息するを善く學す。心行息を覺知して出息し、心行息を覺知して出息するを善く學す。心を覺知し、心悦を覺知し、心定を覺知す。心解脱を覺知して入息し、心解脱を覺知して入息するを善く學す。心解脱を覺知して出息し、心解脱を覺知して出息するを善く學す。無常を觀察し、斷を觀察し、無欲を觀察す。滅を觀察して入息し、滅を觀察して入息するを善く學す。滅を觀察して出息し、滅を觀察して出息するを善く學す。是れを名づけて、安那般那念を修して、身止息・心止息し、有覺・有觀、寂滅・純一にして、明分想の修習滿足とする。佛、此の經を説き已りたまひしに、諸の比丘、佛の所説を聞きて、歓喜奉行しき。
《No.801》
このように私は聞いた。ある時、仏陀は舍衛国は祇樹給孤独園〈祇園精舎〉に住しておられた。その時、世尊は告げられた。
「比丘たちよ、五法がある。利益すること多き安那般那念〈[P]ānāpāna sati〉を修習すべきである。何をもって五とするであろうか。浄戒・波羅提木叉律儀に則り、威儀・行処具足して、微細なる罪にも畏れを生じ、学戒を受持することが第一である。利益すること多き安那般那念を修習すべきである。また次に比丘たちよ、少欲・小事・少務であること、これが第二である。利益すること多き安那般那念を修習すべきである。また次に比丘たちよ、飲食について量を知り、多からず少なからずの適量を摂ること。飲食するに(必要以上に)欲を起こさず、精勤・思惟する。これが第三である。利益すること多き安那般那念を修習すべきである。また次に比丘たちよ、初夜・後夜にも睡眠を貪らず、精勤・思惟すべきである。これが第四である。利益すること多き安那般那念を修習すべきである。また次に比丘たちよ、閑静な林の中にて、諸々の喧噪を離れること。これが第五である。利益すること多き安那般那念を修習すべきである」
と。仏陀がこの経を説き終わられたとき、諸々の比丘は、仏陀の所説を聞いて歓喜し奉行した。
《No.802》
このように私は聞いた。ある時、仏陀は舍衛国は祇樹給孤独園に留まっておられた。その時、世尊は告げられた。
「比丘たちよ、まさに安那般那念を修習すべきである。もし比丘が安那般那念を修習して習熟すれば、身体は止息し、心が止息して、尋〈[P]vitakka. 粗雑な思考〉あり伺〈[P]vicārā. 微細な思考〉あり、寂滅・純一にして、明分想の修習を満足する」と。仏陀がこの経を説き終わられたとき、諸々の比丘は、仏陀の所説を聞いて歓喜し奉行した。
《No.803》
このように私は聞いた。ある時、仏陀は舍衛国は祇樹給孤独園に留まっておられた。その時、世尊は告げられた。
「比丘たちよ、まさに安那般那念を修習すべきである。もし比丘が安那般那念を修習して習熟すれば、身体は止息し、心が止息して、尋あり伺あり、寂滅・純一にして、明分想の修習を満足するであろう。何を以て、安那般那念を修習すること久しくなれば、身体は止息し、心が止息して、尋あって伺あり、寂滅・純一にして、明分想の修習を満足する、と言うであろうか。この比丘が、もし村落や市街に住み、晨朝に衣をまとって鉢を持ち、村に入って托鉢乞食する時、よくその身の振る舞いを正し、諸々の感覚を制して、心をゆるがせにせず、托鉢を終えて住処に帰り、衣と鉢を片付け、足を洗い終わる。あるいは林の中、空屋、樹の下、または空き地に入って身を直くして正座〈[P]vitakka. 粗雑な思考〉し、面前に意識を向けてよく気をつける。世俗の貪愛を断じ、欲を離れ清浄にして、瞋恚・睡眠・掉悔・疑を断じ、諸々の疑惑を離れて、善なる法について確信を得るに至る。五蓋煩悩〈貪・瞋・睡眠・掉悔・疑〉という、心において智慧の力を弱らせ、涅槃に趣かせない障礙となるものから離れる。
内息〈吸う息. 吸気〉を念じ、(息の長いこと・息の短いことに)念を繋けて学ぶ。外息〈吐く息. 呼気〉を念じ、息の長いこと・息の短いことに念を繋けて学ぶ。一切身を覚知しつつ入息し、一切身(を覚知する)にて入息を学ぶ。一切身を覚知しつつ出息し、一切身(を覚知する)にて出息することを学ぶ。一切身行が静まっていることを覚知しつつ入息し、一切身行が静まっていつつ出息することを学ぶ。一切身行が静まっていることを覚知しつつ出息し、一切身行が静まっていつつ出息することを学ぶ。喜を覚知しつつ(入出の息をする)、楽を覚知しつつ(入息の息をする)、心行を覚知(しつつ入息の息を)する。心行が静まっていることを覚知しつつ入息し、心行が静まっていることを覚知しつつ入息することを学ぶ。心行が静まっていることを覚知しつつ出息し、心行の静まっていることを覚知しつつ出息することを学ぶ。心を覚知しつつ(入出の息をする)、心悦を覚知しつつ(入出の息をする)、心定を覚知(しつつ入出の息をする)する。心解脱を覚知しつつ入息し、心解脱を覚知しつつ入息することを学ぶ。心解脱を覚知しつつ出息し、心解脱を覚知しつつ出息することを学ぶ。無常を観察しつつ(入出の息をする)、(愛欲の)断を観察しつつ(入出の息をする)、無欲を観察(しつつ入出の息を)する。滅を観察して入息し、滅を観察しつつ入息することを学ぶ。滅を観察して出息し、滅を観察しつつ出息することを学ぶ。これを、安那般那念を修して、身体は止息し心が止息して、尋あり伺あり、寂滅・純一にして、明分想の修習を満足することという」
仏陀がこの経を説き終わられたとき、諸々の比丘は、仏陀の所説を聞いて歓喜し奉行した。