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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

『雑阿含経』 巻二十九 ―安般念の修習

訓読

《No.801》

かくごとけり。一時いちじほとけ舍衛國しゃえいこく祇樹給孤獨園ぎじゅきっこどくおんに住せり。の時、世尊せそんもろもろ比丘びくに告げたまはく。五法ごほう有り。饒益にょうやくする所多ければ、安那般那念あんなぱんなねんしゅすべし。何等なんらをか五とす。淨戒じょうかい波羅提木叉はらだいもくしゃ律儀りつぎに住し、威儀いぎ行處ぎょうしょ具足して、微細みさいの罪に於て怖畏ふいを生じ、學戒がっかいを受持する。是れを第一と名づく。饒益する所多ければ、安那般那念を修すべし。復た次に比丘、少欲・少事・少務なる。是れを二法と名づく。饒益する所多ければ、安那般那念を修すべし。復た次に比丘、飮食おんじきについて量を知り、多少たしょうちゅう。飮食を為して求欲ぐよくの想を起こさずして、精勤しょうごん思惟しゆいする。是れを三法と名づく。饒益する所多ければ、安那般那念を修すべし。復た次に比丘、初夜しょや後夜ごや睡眠すいめんかずして、精勤・思惟すべし。是れを四法と名づく。饒益する所多ければ、安那般那念を修すべし。復た次に比丘、空閑林くうげんりん中にて、諸の憒閙かいにょうを離る。是れを五法と名づく。饒益多種なれば、安那般那念を修習しゅじゅうすべしと。佛、此の經を説きおわりたまひし。諸の比丘、佛の所説を聞きて、歡喜かんぎ奉行ぶぎょうしき。

《No.802》

是の如く我れ聞けり。一時、佛、舍衛國祇樹給孤獨園に住しき。爾の時、世尊、諸の比丘に告げたまはく。まさに安那般那念をしゅすべし。若し比丘、安那般那念を修習しゅじゅうするに、多く修習しゅじゅうせば、しん止息しそくし、及びしん、止息することを得、かく有り、かん有り、寂滅じゃくめつ純一じゅんいちにして、明分想みょうぶんそうの修習を滿足す、と。佛、此の經を説き已りたまひし。諸の比丘、佛の所説を聞きて、歡喜奉行しき。

《No.803》

是の如く我れ聞けり。一時、佛、舍衛國祇樹給孤獨園に住しき。爾の時、世尊、諸の比丘に告げたまはく。安那般那念を修習しゅじゅうすべし。若し比丘、安那般那念を修習するに、多く修習せば、身・心、止息し、有覺・有觀、寂滅・純一、明分想の修習滿足す。何等をか安那般那念を修習するに多く修習し已らば、身心止息し、有覺・有觀、寂滅・純一にして、明分想を修習し滿足すと為すや。是の比丘、若し聚樂じゅらく城邑じょうゆうに依りて止住し、晨朝じんちょうころもを著けはちを持ち、村に入りて乞食こつじきするに、善く其の身を護り、諸根の門を守り、善く心をけて住し、乞食こつじき已て住處に還り、衣鉢えはつを挙げ、洗足し已る。あるいは林の中、閑房けんぼう、樹の下、或は空露地くうろじに入て、端身たんしん正坐しょうざし、面前めんぜん繫念けねんす。世の貪愛とんあいを斷じ、欲を離れ清淨しょうじょうにして、瞋恚しんに睡眠すいめん掉悔じょうけを斷じ、諸の疑惑を度して、諸の善法に於て心、決定けつじょうすることを得。五蓋煩悩ごがいぼんのうの、心に於て慧力をしてよわらしめ、障礙分しょうげぶんと為て涅槃ねはんに趣かざるを遠離す。内息ないそくを念じては、繫念けねんして善く學す。外息げそくを念じては、息の長き・息の短きに繫念して善く學す。一切身いっさいしんを覺知して入息にっそくし、一切身において入息するを善く學す。一切身を覺知して出息し、一切身において出息するを善く學す。一切身行いっさいしんぎょうむを覺知して入息し、一切身行のむにおいて入息するを善く學す。一切身行のむを覺知して出息し、一切身行のむにおいて出息するを善く學す。 を覺知し、らくを覺知し、心行しんぎょうを覺知す。心行息しんぎょうそくを覺知して入息し、心行息を覺知して入息するを善く學す。心行息を覺知して出息し、心行息を覺知して出息するを善く學す。しんを覺知し、心悦しんえつを覺知し、心定しんじょうを覺知す。心解脱しんげだつを覺知して入息し、心解脱を覺知して入息するを善く學す。心解脱を覺知して出息し、心解脱を覺知して出息するを善く學す。無常むじょう觀察かんざつし、だんを觀察し、無欲むよくを觀察す。めつを觀察して入息し、滅を觀察して入息するを善く學す。滅を觀察して出息し、滅を觀察して出息するを善く學す。是れを名づけて、安那般那念を修して、身止息・心止息し、有覺・有觀、寂滅・純一にして、明分想の修習滿足とする。佛、此の經を説き已りたまひしに、諸の比丘、佛の所説を聞きて、歓喜奉行しき。

現代語訳

《No.801》

このように私は聞いた。ある時、仏陀は舍衛国しゃえいこく祇樹給孤独園ぎじゅきっこどくおん〈祇園精舎〉に住しておられた。その時、世尊は告げられた。
比丘びくたちよ、五法がある。利益りやくすること多き安那般那念あんなぱんなねん〈[P]ānāpāna sati〉修習しゅじゅうすべきである。何をもって五とするであろうか。浄戒・波羅提木叉はらだいもくしゃ律儀りつぎに則り、威儀・行処具足して、微細みさいなる罪にも畏れを生じ、学戒を受持することが第一である。利益りやくすること多き安那般那念を修習すべきである。また次に比丘たちよ、少欲・小事・少務であること、これが第二である。利益りやくすること多き安那般那念を修習すべきである。また次に比丘たちよ、飲食おんじきについて量を知り、多からず少なからずの適量を摂ること。飲食するに(必要以上に)欲を起こさず、精勤しょうごん思惟しゆいする。これが第三である。利益りやくすること多き安那般那念を修習すべきである。また次に比丘たちよ、初夜・後夜にも睡眠を貪らず、精勤・思惟すべきである。これが第四である。利益りやくすること多き安那般那念を修習すべきである。また次に比丘たちよ、閑静な林の中にて、諸々の喧噪を離れること。これが第五である。利益りやくすること多き安那般那念を修習すべきである」
と。仏陀がこの経を説き終わられたとき、諸々の比丘は、仏陀の所説を聞いて歓喜かんぎ奉行ぶぎょうした。

《No.802》

このように私は聞いた。ある時、仏陀は舍衛国しゃえいこく祇樹給孤独園ぎじゅきっこどくおんに留まっておられた。その時、世尊は告げられた。
「比丘たちよ、まさに安那般那念あんなぱんなねん修習しゅじゅうすべきである。もし比丘が安那般那念を修習して習熟すれば、身体は止息し、心が止息して、じん〈[P]vitakka. 粗雑な思考〉あり〈[P]vicārā. 微細な思考〉あり、寂滅・純一にして、明分想みょうぶんそうの修習を満足する」と。仏陀がこの経を説き終わられたとき、諸々の比丘は、仏陀の所説を聞いて歓喜かんぎ奉行ぶぎょうした。

《No.803》

このように私は聞いた。ある時、仏陀は舍衛国しゃえいこく祇樹給孤独園ぎじゅきっこどくおんに留まっておられた。その時、世尊は告げられた。
「比丘たちよ、まさに安那般那念あんなぱんなねん修習しゅじゅうすべきである。もし比丘が安那般那念を修習して習熟すれば、身体は止息し、心が止息して、じんありあり、寂滅・純一にして、明分想みょうぶんそうの修習を満足するであろう。何を以て、安那般那念を修習すること久しくなれば、身体は止息し、心が止息して、尋あって伺あり、寂滅・純一にして、明分想の修習を満足する、と言うであろうか。この比丘が、もし村落や市街に住み、晨朝じんちょうに衣をまとって鉢を持ち、村に入って托鉢乞食する時、よくその身の振る舞いを正し、諸々の感覚を制して、心をゆるがせにせず、托鉢を終えて住処に帰り、衣と鉢を片付け、足を洗い終わる。あるいは林の中、空屋、樹の下、または空き地に入って身を直くして正座〈[P]vitakka. 粗雑な思考〉し、面前に意識を向けてよく気をつける。世俗の貪愛とんあいを断じ、欲を離れ清浄にして、瞋恚しんに睡眠すいめん掉悔じょうけを断じ、諸々の疑惑を離れて、善なる法について確信を得るに至る。五蓋煩悩ごがいぼんのう〈貪・瞋・睡眠・掉悔・疑〉という、心において智慧の力を弱らせ、涅槃に趣かせない障礙しょうげとなるものから離れる。
内息ないそく〈吸う息. 吸気〉を念じ、(息の長いこと・息の短いことに)念をけて学ぶ。外息げそく〈吐く息. 呼気〉を念じ、息の長いこと・息の短いことに念を繋けて学ぶ。一切身いっさいしんを覚知しつつ入息にっそくし、一切身(を覚知する)にて入息を学ぶ。一切身を覚知しつつ出息し、一切身(を覚知する)にて出息することを学ぶ。一切身行いっさいしんぎょうが静まっていることを覚知しつつ入息し、一切身行が静まっていつつ出息することを学ぶ。一切身行が静まっていることを覚知しつつ出息し、一切身行が静まっていつつ出息することを学ぶ。を覚知しつつ(入出の息をする)、らくを覚知しつつ(入息の息をする)、心行しんぎょうを覚知(しつつ入息の息を)する。心行が静まっていることを覚知しつつ入息し、心行が静まっていることを覚知しつつ入息することを学ぶ。心行が静まっていることを覚知しつつ出息し、心行の静まっていることを覚知しつつ出息することを学ぶ。しんを覚知しつつ(入出の息をする)、心悦しんえつを覚知しつつ(入出の息をする)、心定しんじょうを覚知(しつつ入出の息をする)する。心解脱しんげだつを覚知しつつ入息し、心解脱を覚知しつつ入息することを学ぶ。心解脱を覚知しつつ出息し、心解脱を覚知しつつ出息することを学ぶ。無常むじょうを観察しつつ(入出の息をする)、(愛欲の)だんを観察しつつ(入出の息をする)、無欲むよくを観察(しつつ入出の息を)する。めつを観察して入息し、滅を観察しつつ入息することを学ぶ。滅を観察して出息し、滅を観察しつつ出息することを学ぶ。これを、安那般那念あんなぱんなねんを修して、身体は止息し心が止息して、じんありあり、寂滅・純一にして、明分想みょうぶんそうの修習を満足することという」
仏陀がこの経を説き終わられたとき、諸々の比丘は、仏陀の所説を聞いて歓喜かんぎ奉行ぶぎょうした。