《No.807》
如是我聞。一時佛住一奢能伽羅林中。爾時世尊告諸比丘。我欲二〈三の写誤であろう〉月坐禪。諸比丘勿復往來。唯除送食比丘及布薩時。爾時世尊。作是語已。即二月坐禪。無一比丘敢往來者。唯除送食及布薩時。爾時世尊坐禪二月過已。從禪覺。於比丘僧前坐。告諸比丘。若諸外道出家。來問汝等。沙門瞿曇。於二月中。云何坐禪。汝應答言。如來二月。以安那般那念。坐禪思惟住。所以者何。我於此二月。念安那般那。多住思惟。入息時念入息如實知。出息時念出息。如實知。若長若短。一切身覺入息念。如實知。一切身覺出息念。如實知。身行休息入息念。如實知。乃至滅出息念。如實知。我悉知已。我時作是念。此則麁思惟住。我今於此思惟止息已。當更修餘微細修住而住。爾時我息止麁思惟已。即更入微細思惟。多住而住。時有三天子。極上妙色。過夜來至我所。一天子作是言。沙門瞿曇時到。復有一天子言。此非時到是時向至。第三天子言。非爲時到亦非時向至。此則修住。是阿羅訶寂滅耳。佛告諸比丘。若有正説。聖住天住梵住學住無學住如來住。學人所不得當得。不到當到。不證當證。無學人現法樂住者。謂安那般那念。此則正説。所以者何。安那般那念者。是聖住天住梵住。乃至無學。現法樂住。佛説此經已。諸比丘聞佛所説。歡喜奉行
《No.808》
如是我聞。一時佛住迦毘羅越尼拘律樹園中。爾時釋氏摩訶男。詣尊者迦磨比丘所。禮迦磨比丘足已。退坐一面。語迦磨比丘言。云何尊者迦磨。學住者爲即是如來住耶。爲學住異如來住異。迦磨比丘答言。摩訶男。學住異如來住異。摩訶男。學住者。斷五蓋多住。如來住者。於五蓋。已斷已知。斷其根本。如截多羅樹頭。更不生長。於未來世。成不生法。一時世尊。住一奢能伽羅林中。爾時世尊。告諸比丘。我欲於此一奢能伽羅林中二月坐禪。汝諸比丘。勿使往來。唯除送食比丘及布薩時。廣説如前。乃至無學現法樂住。以是故知。摩訶男。學住異如來住異。釋氏摩訶男聞迦磨比丘所説。歡喜從座起去
《No.809》
如是我聞。一時佛住金剛聚落。跋求摩河側。薩羅梨林中。爾時世尊爲諸比丘。説不淨觀。讃歎不淨觀言。諸比丘修不淨觀。多修習者。得大果大福利。時諸比丘。修不淨觀已。極厭患身。或以刀自殺。或服毒藥。或繩自絞。投巖自殺。或令餘比丘殺。有異比丘。極生厭患。惡露不淨至鹿林梵志子所。語鹿林梵志子言。賢首。汝能殺我者。衣鉢屬汝。時鹿林梵志子。即殺彼比丘。持刀至跋求摩河邊洗刀時。有魔天住於空中。讃鹿林梵志子言。善哉善哉。賢首。汝得無量功徳。能令諸沙門釋子持戒有徳。未度者度。未脱者脱。未穌息者令得穌息。未涅槃者。令得涅槃。諸長利衣鉢雜物。悉皆屬汝時鹿林梵志子。聞讃歎已。増惡邪見。作是念。我今眞實。大作福徳。令沙門釋子持戒功徳者。未度者度。未脱者脱。未穌息者。令得*穌息。未涅槃者。令得涅槃。衣鉢雜物。悉皆屬我於是手執利刀循諸房舍諸經行處。別房禪房。見諸比丘。作如是言。何等沙門。持戒有徳。未度者我能令度。未脱者令脱。未穌息者令得穌息。未涅槃令得涅槃。時有諸比丘。厭患身者。皆出房舍。語鹿林梵志子言。我未得度。汝當度我。我未得脱。汝當脱我。我未得穌息。汝當令我得穌息。我未得涅槃。汝當令我得涅槃。時鹿林梵志子。即以利刀。殺彼比丘。次第乃至殺六十人。爾時世尊。至十五日説戒時。於衆僧前坐。告尊者阿難。何因何縁。諸比丘。轉少轉減轉盡。阿難白佛言。世尊。爲諸比丘。説修不淨觀。讃歎不淨觀。諸比丘。修不淨觀已。極厭患身。廣説乃至。殺六十比丘。世尊。以是因縁故。令諸比丘。轉少轉減轉盡。唯願世尊。更説餘法。令諸比丘。聞已勤修智慧。樂受正法。樂住正法。佛告阿難。是故我今次第説。住微細住。隨順開覺。已起未起惡不善法。速令休息。如天大雨。起未起塵能令休息。如是比丘。修微細住。諸起未起惡不善法。能令休息。阿難。何等爲微細住多修習。隨順開覺。已起未起惡不善法。能令休息。謂安那般那念住。阿難白佛。云何修習安那般那念住。隨順開覺。1已起未起惡不善法。能令休息。佛告阿難。若比丘。依止聚落。如前廣説。乃至如滅出息念而學。佛説此經已。尊者阿難聞佛所説。歡喜奉行
《No.807》
是の如く我れ聞けり。一時、佛、一奢能伽羅林中に住しき。爾の時、世尊、諸の比丘に告げたまはく。我れ二月坐禪せんと欲す。諸の比丘、復た往来すること勿れ。唯だ送食の比丘及び布薩時を除く。爾の時、世尊、是の語を作し已て、即ち二月坐禪したまふに、一比丘も敢へて往来する者無し。唯だ送食、及び布薩時を除くのみ。爾の時、世尊、坐禪したまふこと二月過ぎ已て、禪より覺め、比丘僧の前に於て坐し、諸の比丘に告げたまはく。若し諸の外道出家、来たりて汝らに沙門瞿曇は二月中に於て云何が坐禪せしと問はば、汝まさに答へて言ふべし。如来は二月、安那般那念を以て坐禪思惟して住したまへりと。所以者何、我れ此の二月に於て安那般那を念じ、多く思惟して住せり。入息の時、入息を念じて実の如く知り、出息の時、出息を念じて実の如く知る。若しは長し、若しは短しと。一切身を覺して入息するを念じるを実の如く知り、一切身を覺して出息するを念じるを実の如く知る。身行、休息して入息するを念じるを実の如く知り、乃至、滅して出息するを念じるを実の如く知る。我れ悉く知り已て、我れ時に是の念を作さく。此れ則ち麁なる思惟に住せるなり。我れ今、此の思惟に於て止息し已て、當に更に餘の微細を修習して而も住することを修すべし。爾の時、我れ麁なる思惟を息止し已て、即ち更に微細の思惟に入り、多く住して而も住せり。時に三の天子の極上妙色なる有り。夜を過ぎて我が所に来至せり。一天子、是の言を作さく。沙門瞿曇、時到れり。復た一天子有りて言く。此れ時到るに非ず。是の時の至るに向へるなり、と。第三の天子言く。時到れりと為すに非ず、亦た時の至るに向へるにも非ず。此れ則ち修に住せるなり。是れ阿羅訶の寂滅せるのみ、と。佛、諸の比丘に告げたまはく。若し正說せば、聖住・天住・梵住・學住・無學住・如來住有り。學人の得ざる所は當に得べし。到らざるは當に到るべし。證せざるは當に證すべし。無學人の現法樂住とは、謂く安那般那念なり。此れ則ち正說なり。所以者何、安那般那念は、是れ聖住・天住・梵住、乃至、無學の現法樂住なればなり。佛、此の經を説き已りたまひしに、諸の比丘、佛の所說を聞きて、歡喜奉行しき。
《No.808》
是の如く我れ聞けり。一時、佛、迦毘羅越の尼拘律樹園の中に住しき。爾の時、釋氏摩訶男、尊者迦磨比丘の所に詣り、迦磨比丘の足に礼し已て退きて一面に坐し、迦磨比丘に語て言はく。云何が、尊者迦磨、學住とは即ち是れ如來住と為すや。學住異り、如来住異ると為すや。迦磨比丘答へて言はく。摩訶男、學住異なり、如来住異なる。摩訶男、學住とは、五蓋を斷じて多く住することなり。如来住とは、五蓋を已に斷ずと已に知ることなり。其の根本を斷ずること多羅樹の頭を截るが如く、更に生長せず、未来世に於て不生法を成ずるなり。一時、世尊、一奢能伽羅林中に住しき。爾の時、世尊、諸の比丘に告げたまはく。我れ此の一奢能伽羅林中に於て二月坐禪せんと欲す。汝、諸の比丘、往来せしむること勿れ。唯だ送食の比丘及び布薩時を除く。廣說すること前の如し。乃至、無學の現法樂住なればなり。是を以ての故に知る。摩訶男、學住異なり、如来住異なることを。釋氏摩訶男、迦磨比丘の所説を聞きて歓喜し、座より起て去りき。
《No.809》
是の如く我れ聞けり。一時、佛、金剛の聚落の跋求摩河の側なる、薩羅梨林中に住しき。爾の時、世尊、諸の比丘の為に不淨觀を説き、不淨觀を讃歎して曰く。諸の比丘、不淨觀を修するに多く修習せば、大果・大福利を得。時に諸の比丘、不淨觀を修し已て、極めて身を厭患し、或は刀を以て自殺し、或は毒薬を服し、或は縄にて自ら絞り、巌より投じて自殺し、或は餘比丘をして殺めしむ。異比丘の極めて厭患を生じ、不淨を露はすを悪む有り。鹿林梵志子の所に至て、鹿林梵志子に語て言く。賢首、汝、能く我を殺さば、衣鉢は汝に属せん。時に鹿林梵志子、即ち彼の比丘を殺し、刀を持ちて跋求摩河の邊に至りて刀を洗う。時に魔天有り、空中に於て住し、鹿林梵志子を讃じて言く。善哉、善哉。賢首、汝無量の功徳を得たり。能く諸の沙門釋子の持戒の有徳をして、未だ度せざる者は度し、未だ脱せざる者は脱し、未だ蘇息せざる者に蘇息することを得せしめ、未だ涅槃せざる者に涅槃を得せしめたり。諸の長利・衣鉢・雑物悉く皆、汝に属せり、と。時に鹿林梵志子、讃歎を聞き已て悪邪見を増し、是の念を作く。我れ今、真実に大なる福徳を作せり。沙門釋子の持戒の有徳をして、未だ度せざる者は度し、未だ脱せざる者は脱し、未だ蘇息せざる者に蘇息することを得せしめ、未だ涅槃せざる者に涅槃を得せしめたり。衣鉢・雑物悉く皆、我に属せり、と。是に於て手に利刀を執り、諸の房舎・諸の經行處・別坊・禪坊を循り、諸の比丘を見ては、是の如く言を作せり。何等の沙門をか持戒有徳なる。未だ度せざる者を我れ能く度せしめん。未だ脱せざる者は脱せしめん。未だ蘇息せざる者は蘇息せしめん。未だ涅槃せざる者は涅槃を得せしめん。時に諸の比丘に身を厭患せる者有って、皆房舎を出で、鹿林梵志子に語て言く。我れ未だ度すること得ず。汝、當に我を度すべし。我れ未だ脱すること得ず。汝、當に我を脱すべし。我れ未だ蘇息すること得ず。汝、當に我をして蘇息することを得せしむべし。我れ未だ涅槃を得ず。汝、當に我をして涅槃を得せしむべし、と。時に鹿林梵志子、即ち利刀を以て彼の比丘を殺し、次第して、乃至、六十人を殺めり。爾の時、世尊、十五日の説戒の時に至て、衆僧の前に坐し、尊者阿難に告げたまはく。何なる因、何なる縁もて諸の比丘、転た少く、転た減じ盡くるや、と。阿難、佛に白して言さく。世尊、諸の比丘の為に不淨觀の修するを説き、不淨觀を讃歎したまふ。諸の比丘、不淨觀を修し已て、極めて身を厭患す。廣說して、乃至、六十の比丘を殺せり。世尊、是の因縁を以ての故に、諸の比丘、転た少く、転た減じ転た盡きしむなり。唯だ願はくは世尊、更に餘の法を説いて、諸の比丘の聞き已て、智慧を勤修し、正法を樂受し、正法に樂住せしめたまへと。佛、阿難に告げたまはく。是の故に我れ今次第して説かん。微細住に住し、随順して開覺せば、已起・未起の悪不善の法を速やかに休息せしむ。天の大雨の、起・未起の塵を能く休息せしむが如し。是の如く比丘、微細住を修さば、諸の起・未起の悪不善の法を、能く休息せしむ。阿難、何等をか微細住を多く修習し、随順して開覺せば、已起・未起の悪不善の法を能く休息せしむと為すや。謂く安那般那念に住するなり、と。阿難、佛に白さく。云何が安那般那念住を修習し、随順して開覺せば、已起・未起の悪不善の法を能く休息せしむるや、と。佛、阿難に告げたまはく。若し比丘、聚落に依止すること、前に廣說せるが如し。乃至、滅において出息するが如く念じ、而も學するなり、と。佛、此の經を説き已りたまひしに、尊者阿難、佛の所説を聞きて、歡喜奉行しき。
対応するパーリ経典ではIcchānaṅgala。これがいずこに存した場所であるのか本経からは不明であるが、増支部のいくつかの経典によればKosalaにあった場所のようである。▲
Icchānaṅgalasuttaでは二ヶ月ではなく三ヶ月。そしてその三ヶ月とは、雨安居の期間を指している。漢訳の「二」は三の写誤であろう。▲
諸比丘が托鉢で得た食を分け、(仏陀の元に)運ぶ比丘。▲
[P]uposatha ([S]upoṣadha). 一ヶ月のうち新月・満月の日の二回行われる、波羅提木叉をあるいは唱え、あるいは聞いて僧伽の清浄性を確認・維持するための重要な儀式。説戒とも。当該地域の現前僧伽すべての比丘が参加しなければならず、一人でも不参加のものがあれば、その布薩は不成立・無効となる。一人の上座比丘が波羅提木叉を暗唱するのを、その他比丘が静聴して行われる。
パーリの対応経典では布薩についての言及がない。パーリ経典では、釈尊は諸比丘とは別の結界にて一人で雨安居を過ごし、ために諸比丘らと共に布薩する必要が無かったということであろう。対して『雑阿含経』では、釈尊は諸比丘と同一の結界にあって、しかし諸比丘から離れた閑静な場所にて過ごされていたと伝える。故に釈尊も諸比丘らと共に布薩を行じる必要があったことになる。
ところで、およそすべての辞書、そして僧職の人や学者までもが、布薩とは仏教の出家修行者の懺悔をする儀式などと説明しているが、それはまったく誤りである。なんとなれば、布薩には、なんらか罪を犯して懺悔(出罪)していない比丘は参加できないためである。罪を犯した比丘は、布薩に参加する前に、それが出罪可能なものであれば懺悔告白を済ましておかなければならない。また、それが出罪不可の波羅夷罪であれば問答無用で還俗、あるいは僧残の重罪であれば、その比丘は一定期間、界外にて別住しなければならず、布薩に参加できないためである。万一、波羅提木叉を聞いている途中で自身が罪を犯していたことに気づいた比丘は、布薩が終了して後に、他の比丘に対して懺悔告白する。▲
仏教以外の教義を信奉する出家修行者。外道とは[S]tīrthika(anyatīrthya)の訳で、仏教以外の教義・思想見解。パーリ経典の対応箇所では「aññatitthiyā paribbājakā(外道の出家修行者)」。▲
[P]samaṇa ([S]śramaṇa). 「努める人」の意。特に出家修行者。
仏陀ご在世の当時、インド社会にはそれまでのバラモン教の思想にしばられない自由思想家たち、いわば新興の宗教家・哲学者らがあって出家生活をおくっていた。そのような人々を、旧来の婆羅門に対して、沙門と呼んだ。釈尊もその中の一人であった。今はもっぱら仏教の出家修行者を意味する言葉となった。▲
[P]Gotama ([S]Gautama). 釈尊の俗姓。▲
パーリ経典の対応箇所には、ここから天子が登場するまでの話に対応する一節がない。▲
[S/P]deva. 天人、神霊。仏教では生命のありかたに、天・人・(修羅)・畜生・餓鬼・地獄の五種あるいは六種を数える。人より勝れて力あり、安楽なる存在であるが同じく死すべき者であって万能なる存在などではないとされる。
この天子が現れて云々する一節は、パーリの安般相応の諸経典には見られない。▲
時とは「死の時」、「寿命(命根)の尽きるとき」。釈尊が定に入っているところに三人の天子が現れ、それぞれが「死んでいる」「今まさに死ぬところ」「深い定に入っているだけ」とそれぞれの所見をのべている。
この一節について、『大毘婆沙論』は以下のように注釈している。「又彼經說。時有三天端嚴殊妙過於夜分來至我所。第一天言此已命過。第二天言此當命過。第三天言此非已死亦非當死。然住勝定寂靜如是。問彼是何天寧作異說。答是欲界天根品異故。謂鈍根者作如是念。此大沙門無入出息身不動搖無思作業必已命過。若中根者作如是念。此大沙門猶有煖氣身不爛壞。雖非已死而當命過。若利根者曾見諸佛及聖弟子入如是定。心不動後時還出故作是言。此非已死乃至廣說」(T27, p.136c)。
深い定に入っている者をして、周囲の者が「死んでいる」と勘違いした、ということは仏典の所々に説かれている。例えばDN. Mahāparinibbānasuttaには、釈尊が涅槃される直前、滅尽定に入ったのを阿難尊者は「釈尊は般涅槃された」と勘違いしたことを伝えている。▲
[P]arahan ([S]arhat). 阿羅漢。声聞乗における最高の境地にして最終目標。▲
パーリ経典では、ariyavihāra(聖住)・brahmavihāra(梵住)・tathāgatavihāra(如来住)のみが挙げられている。それらは要するにĀnāpānassatisamādhi(安那般那念三昧)を讃え修飾した言葉。
この一節について、『大毘婆沙論』では「又彼經說佛告苾芻。若有問言。云何聖住。云何天住。云何梵住。云何佛住。云何學住。云何無學住。應正答言。謂持息念。所以者何此持息念能令學者證所未證。能令無學者得現法樂住。此持息念不雜煩惱故名聖住。自性光淨故名天住。自性寂靜故名梵住諸佛多住故名佛住。學所得故名為學住。無學得故名無學住學者由此得勝現觀斷除煩惱故名證所未證無學者由此得不動心解脫故名得現法樂住。有說。此持息念。是聖所有能引聖性故名聖住。廣說乃至。是無學所有能引無學性故名無學住。學者由此能證阿羅漢果故名證所未證。無學者由此住四種樂故名得現法樂住。四種樂者。一出家樂。二遠離樂。三寂靜樂。四三菩提樂。問此持息念是非學非無學。何故名為學無學住。答學無學者身中有故」(T27, pp.136c-137a)と非常に長々とこの一節を解釋している。その解釈の内容はともかく、如来住ではなく仏住としている点とその順序が本経の所説と異なっている。
『成実論』では「問曰。何故念出入息名為聖行天行梵行學行無學行耶。答曰。風行虛中虛相能速開導壞相。壞相即是空。空即是聖行。故名聖行。為生淨天故名天行。為到寂滅故名梵行。為得學法故名學行。為無學故名無學行」(T32, p.356a)と、如来住を言わないものの、各語について何故そのように言われるかの解釈を加えている。『大毘婆沙論』ならびに『成実論』が、『雑阿含経』(漢訳の原典と同様のもの)に依拠して安般念を説いている証となるものの一つ。『大毘婆沙論』が如来住ではなく仏住としている点、『成実論』が如来住に言及していない点は、それらの依拠した原典、あるいは参照当時にはその語が異なったり無かったりした為か。▲
[P]sekha ([S]saiksa). 学ぶ人。いまだ全き悟りに至っていない者。四双八輩のうち阿羅漢果を除く七種の聖者のこと。パーリ経典の対応箇所では「sekhā appattamānasā」。▲
もはや(煩悩を滅ぼすために)学び行ずるべき事柄の存しない人。悟りに至った者。阿羅漢あるいは辟支仏、仏陀。▲
[P]diṭṭhadhammasukhavihāra ([S]dṛṣṭadharmasukhavihāra). 伝統的に「この世(現世)における安楽なる境地」を意味するものとされる言葉。dṛṣṭadharmaという語は、直訳すれば見法であるが、一般に現法・現世と解され、また止の別名(七名)の一つとされる。▲
[P]Kapilavattu ([S]Kapilavasthu). 迦毘羅衛とも。北インドはヒマラヤ山脈南嶺にあった釈尊の故国。現インド・ネパールの国境付近。現在のこの一帯は荒涼たる乾燥地帯で、ただ田畑が広がるばかりで文字通り何も無い。
釈尊誕生の地ルンビニーは現ネパール領内に確実な場所としてあり、釈尊誕生の地として公園が整備されているが、ぼんやりと無闇にだだっ広い地となっている。▲
尼拘律は[P]nigrodha ([S]nyagrodha)の音写で菩提樹(クワ科の常緑樹)。バニヤン樹。尼拘律の林園。▲
[S/P]Mahānāma. 釈迦族の王族の血統にあった人で、仏陀釈尊の従兄弟であったという人。釋氏は釈迦族出身であることを示す。彼は出家者でなく、あくまで篤信の在家信者であった。しばしば摩訶男は法についての質問を仏陀やその弟子にして疑問を晴らしている。本経に対応するパーリ経典の題はKaṅkheyyasuttaであるが、それを訳せば「疑惑経」あるいは「疑問経」。摩訶男の(素朴な)疑問が主題となっている小経。▲
Lomasakaṃbhiya (Lomasavaṅgisa). パーリ仏典にてもこの経以外に登場しない名の僧。▲
学人の境地(sekha vihāra)。▲
如来の境地(tathāgatavihāra)。▲
パーリ経典の対応箇所では、「tesaṃ pañca nīvaraṇā pahīnā ucchinnamūlā tālāvatthukatā anabhāvaṃkatā āyatiṃ anuppādadhammā.(五蓋は捨てられ根を断たれ、根元を失った多羅樹のように全く消滅せられ、それらは未来に生ずること無い法となる)」。漢訳では「如截多羅樹頭」と多羅樹の根ではなくて頭を伐ったようにとされている点が異なり、また「anabhāvaṃkatā」と「更不生長」とニュアンスが異なっている。しかし同様の表現は、パーリ仏典(中部や律蔵)にも「tālo matthakacchinno(頭を除かれた多羅樹)」などとあり、それはそれ以上成長しないこと、滅びの喩えとして用いられている。
なお、多羅樹とはパルミラ椰子のこと。多羅はtālaの音写語。インドからミャンマーの乾燥地帯に広く分布し、今も普通に見られるヤシ科の常緑高木。往古は経典として、この葉を乾燥させたものに文字を刻みつけ用いていた。その他にも筵や扇、履物など、その葉は多くの生活用品に加工され用いられた。その樹液からは砂糖そして酒が作られる。南方では、今も比丘たちはこの葉を扇に加工したものを儀礼的に用い、在家の人々も田舎ではこの葉で作った編笠を用い、樹液から作った砂糖を使って菓子を作り、また樹液で作った酒を呑むことがある。▲
[P]Vajjī ([S]Vṛji). 十六大国といわれたうちの一国。▲
[P]Vaggumudā ([S]Valgumudā?). パーリ語はヴァッジ国を流れていた河。▲
[P]Asubha bhāvanā. 我々の身体が諸々の不浄によって構成され、つねに不浄を垂れ流し、また死後には腐り、朽ち果て、白骨となるものであることを観想、あるいは実際に墓場などで死体を観察し、自他の身体への執着など愛欲を制し滅することを目的とした修習の一。▲
比丘が不浄観を修習したことによって極度に厭世的となり、次々と自殺し、あるいは他の比丘や他者をして自らを殺してもらうなどしたことが、比丘として致命的最重罪の一つとしての波羅夷罪が制定されるきっかけとなり、また安那般那念が説かれるきっかけとなった。▲
おかしな比丘。砕けて言えば、少し「足りない」が故におかしな事をしてしまう比丘。『パーリ律』の対応箇所ではただ「bhikkhū(比丘たちは)」と言って否定的な修飾は付されていない。『十誦律』の対応箇所でもただ「比丘」としてある。▲
梵志とは婆羅門のこと。他の仏典では鹿杖梵志とも。対応するパーリ経典では鹿林梵志についての言及が無いが、『パーリ律』の不浄観を契機として多くの比丘が自殺してしまったために安那般那念が説かれるという下りにおいては言及されている。ただし、『パーリ律』では「migalaṇḍika samaṇakuttaka」と、婆羅門ではなく(似非)沙門であったという。▲
善事がなされたときに発する喜び称える言葉。サンスクリット・パーリ語でsādhuという。▲
前述のとおり対応するパーリ経典では、比丘が鹿林梵志に依頼して自らを殺してもらうという話はないが、ある日は十人、ある日は二十人、ある日は三十人と都合六十人が刀でもって自殺したとしている。鹿林梵志の話を載せる『パーリ律』でも、終いには六十人の比丘が殺されたとの記述がある。本経では、上にあるように、自殺した比丘の数についての言及は無い。
あるいは六十人というのは正確な数ではなくて、例えば百二十歳とか八万四千法門だとかいう種類の、李白の「白髪三千丈」的な、漠然と「多くの数」を表現したものであったか。仏典において、百二十歳と言われている場合はその者が実際に百二十歳であったわけではなく、ただ大変に長寿であったことを示し、八万四千と言われる場合は「そりゃもう、すごい数」という意味であって、正確に八万四千あるわけではない。▲
説戒は布薩に同じ。布薩は黒月十五日すなわち新月の日と、白月十五日すなわち満月の日の月二回行われる。仏教では新月から満月までを白月十五日、満月から新月までを黒月十五日などと数える。
在家人には他に六斎日といい白月十五日、黒月の十四日・十五日ならびに上弦・下弦の月の日を加えて、月に六日の布薩日がある。在家信者の場合の布薩は、出家者とは異なって波羅提木叉を云々ということはなく八斎戒をまもり、あるいは僧侶から法を聴聞し、あるいは瞑想するなどする精神修養の日とする。▲
[S/P]Ānanda. 仏陀の直弟子のうち、最も重要な人の一人。その意は「よろこび」。漢訳名は慶喜。仏陀と同じく釈迦族の王族出身であり、仏陀の従兄弟であったといい、仏陀にもっとも長く側近く使えた人。パーリ仏典の伝承によれば、仏陀が成道されサンガが成立した翌年に出家し、仏陀が成道されて二十年後にその随行となったという。
出家して時を経ずしてPūrṇa(パーリ名Punna)の説法により預流果を得るも、仏陀が涅槃するまでのおよそ二十五年間の長きにわたって仏陀に側仕えていながら、阿羅漢となることが出来なかった。仏滅後三ヶ月の第一結集の直前、その日の明け方、なんとか悟らんと修禅に励むも果たせず、疲れた身体を休ませようと身を横たえ、その頭が枕に付くか付かないかの瞬間、期せずして阿羅漢となったという。晴れて阿羅漢となった阿難尊者は、第一結集に集った五百人の阿羅漢の一人として、経典編纂の頭となる。故にほとんどすべての経典の冒頭にいわれる「このように私は聞いた」の私とは阿難尊者のこととされる。
以降、どうやら第一結集の主導者であった摩訶迦葉尊者とは確執があったようではあるが、阿難尊者は仏陀亡き後の仏教教団の主導的立場にある一人となり、西方にその弟子を多く持った。仏滅後四十数年の長きを過ごし、その最後は、尊者の滅後の舎利をめぐって争いを起さんとしている者どもに、自ら火生三昧に入ってその身を焼き、舎利を公平に分配するようにした、などと伝承される。第二結集に集った阿羅漢たる長老のほとんどは阿難尊者の直弟子であった。▲