《No.810》
是の如く我れ聞けり。一時、佛、金剛の跋求摩河の側なる、薩羅梨林中に住しき。爾の時、尊者阿難、獨一静處にて思惟・禪思して、是の如き念を作さく。頗し一法有り、修習して多く修習せば四法をして滿足せしむ。四法滿足し已らば、七法滿足す。七法滿足し已らば、二法滿足す、と。時に尊者阿難、禪より覺め已て、佛の處に往詣し、稽首禮足して退て一面に坐し、佛に白して言さく。世尊、我れ獨一静處にて思惟禪思して、是の如き念を作さく。頗し一法有り、修習して多く修習せば四法をして滿足せしめ、乃至、二法滿足す、と。我れ今、世尊に問ひたてまつる。寧ろ一法有て多く修習し已らば、能く乃至、二法をして滿足せしむるや、と。佛、阿難に告げたまはく。一法有り、多く修習已らば、乃至、能く二法をして滿足せしむ。何等をか一法と為す。謂る安那般那念なり。多く修習し已らば、能く四念處をして滿足せしむ。四念處を滿足し已らば、七覺分を滿足す。七覺分を滿足し已らば、明・解脱を滿足す。云何が安那般那念を修せば四念處を滿足するや。是の比丘、聚樂に依止し、乃至、滅にして出息する如くに念じて學す。阿難、是の如く聖弟子、入息するを念ずる時は入息する如くに念じて學し、、出息するを念ずる時は出息する如くに念じて學す。若しは長し、若しは短しと。一切身行を覺知し、入息するを念ずる時は入息する如くに念じて學し、出息するを念ずる時は出息する如くに念じて學す。身行、休息して入息するを念ずる時は、身行、休息して入息する如くに念じて學し、身行、休息して出息を念ずる時は、身行、休息して出息する如くに念じて學す。聖弟子は爾の時、身において身觀念に住す。身に異あらば、彼亦た是の如く隨身に比して思惟す。若し、時に聖弟子が喜を覺知し、樂を覺知し、心行を覺知し、心行の息むを覺知すること有らば、入息するを念ずる時は心行の息んで入息する如くに念じて學し、心行の息んで出息するを念ずる時は、心行の息んで出息する如くに念じて學す。是の聖弟子は爾の時、受において受觀念に住す。若し復た異受あらば、彼亦た受を隨身に比して思惟す。時に聖弟子の心を覺知し、心悦・心定・心解脱を覺知すること有らば、入息するを念ずる時は入息する如くに念じて學し、心解脱にして出息するを念ずる時は心解脱にして出息する如くに念じて學す。是の聖弟子は爾の時、心において心觀念に住す。若し異心有らば、彼亦た隨心に比して思惟す。若し聖弟子が、時に無常・斷・無欲・滅を觀ずること有らば、無常・斷・無欲・滅を觀ずる如くに住して學す。是の聖弟子は爾の時、法において法觀念に住す。法に異らば、亦た法に隨て比して思惟す。是れを名づけて安那般那念を修さば、四念處を滿足すとなす。阿難、佛に白さく。是の如く安那般那念を修習せば四念處を滿足して、云何が四念處を修せば七覺分を滿足せしむるや、と。佛、阿難に告げたまはく。若し比丘、身において身觀念に住し、念に住し已て、繫念して住し忘れずんば、爾の時、方便して念覺分を修すなり。念覺分を修し已て、念覺分を滿足す。念覺を滿足し已て、法を選擇思量す。爾の時、方便して擇法覺分を修し、擇法覺分を修し已て、擇法覺分を滿足す。法を選擇し分別思量し已て、精勤方便を得。爾の時、方便して精進覺分を修習す。精進覺分を修し已て、精進覺分を滿足す。方便精進し已て、則ち心、歓喜す。爾の時、方便して喜覺分を修す。喜覺分を修し已て、喜覺分を滿足す。歓喜し已て、身心、猗息す。爾の時、方便して猗覺分を修す。猗覺分を修し已て、猗覺分を滿足す。身心、樂となり已らば、三昧を得。爾の時、定覺分を修す。定覺分を修し已て、定覺分を滿足す。定覺分を滿足し已て、貪憂則ち滅し、平等捨を得。爾の時、方便して捨覺分を修す。捨覺分を修し已て、捨覺分を滿足す。受・心・法の法念處も亦た是の如く説く。是を名づけて四念處を修して七覺分を滿足すとなす。阿難、佛に白さく。是を名づけて四念處を修して七覺分を滿足すとなすも、云何が七覺分を修せば、明・解脱を滿足するや、と。佛、阿難に告げたまはく。若し比丘、念覺分を、遠離に依り、無欲に依り、滅に依りて修さば、捨に向かふ。念覺分を修し已て、明・解脱を滿足す。乃至、捨覺分を、遠離に依り、無欲に依り、滅に依りて修さば、捨に向かふ。是の如く捨覺分を修し已て、明・解脱を滿足す。阿難、是を名づけて法法相類・法法相潤となす。是の如き十三法を、一法の増上と為す。一法を門と為し、次第に増進して修習滿足す。佛、此の經を説き已りたまひしに、尊者阿難、佛の所説を聞きて、歡喜奉行しき。
《No.811-812》
是の如く異比丘の問ふ所、佛の諸の比丘に問ひたまうも亦た上に説くが如し。
《No.813》
是の如く我れ聞けり。一時、佛、金毘羅聚落の金毘林中に住しき。爾の時、世尊、尊者金毘羅に告げたまはく。我れ今、當に精勤して四念處を修習するを説くべし。諦聴して善思すべし。當に汝の為に説くべし。爾の時、尊者金毘羅、黙然として住せり。是の如くすること再三。爾の時、尊者阿難、尊者金毘羅に語らく。今、大師、汝に告げて、是の如く三たび説きたまへり。尊者金毘羅、尊者阿難に語らく。我れ已に知れり、尊者阿難。我れ已に知れり、尊者瞿曇。爾の時、尊者阿難、佛に白して言さく。世尊、是れ時なり。世尊、是れ時なり。善逝、唯だ願はくは諸の比丘の為に精勤して四念處を修するを説きたまへ。諸の比丘、聞き已らば、當に受して奉行すべし。佛、阿難に告げたまはく。諦聴して善思すべし。當に汝の為に説くべし。若し比丘、入息するを念ずる時は入息する如くに學し、乃至、滅にして出息する時は滅にして出息する如くに學す。爾の時、聖弟子、入息するを念ずる時は入息するを念ずる如くに學し、乃至、身行止息して出息する時は、身行止息にして出息する如くに學す。爾の時、聖弟子、身において身觀念に住す。爾の時、聖弟子、身において身觀念に住し已て、是の如く知て善く内に思惟す。佛、阿難に告げたまはく。譬へば人有り、車輿に乗じて東方より顛沛として来るが如し。當に爾の時、諸の土堆・壠を踐蹈するや不や。阿難、佛に白さく。是の如し、世尊。佛、阿難に告げたまはく。是の如く聖弟子、入息するを念ずる時は入息するを念ずる如くに學す。是の如く、乃至、善く内に思惟す。若し爾の時、聖弟子、喜を覺知し、乃至、意行の息むを覺知し學せば、聖弟子、受において受觀念に住す。聖弟子、受において受觀念に住し已らば、是の如く知りて善く内に思惟す。譬へば人有り、車輿に乗じて南方より顛沛として来るが如し。云何が阿難、當に土堆・壠を踐蹈するや不や。阿難、佛に白さく。是の如し、世尊。佛、阿難に告げたまはく。是の如く聖弟子、受において受觀念に住せば、知りて善く内に思惟す。若し聖弟子、心・欣悅心・定心・解脱心を覺知して入息せば、解脱心にて入息する如くに學す。解脱心にて出息せば解脱心にして出息する如くに學すなり。爾の時、聖弟子、心において心觀念に住す。是の如く聖弟子、心において心觀念に住し已らば、知りて善く内に思惟す。譬へば人有り、車輿に乗じて西方より来るが如し。彼れ當に土堆壠を踐蹈するや不や。阿難、佛に白さく。是の如し、世尊。佛、阿難に告げたまはく。是の如く聖弟子、心、乃至、心解脱を覺知して出息せば、心解脱にて出息する如くに學す。是の如く聖弟子、爾の時、心において心觀念に住し、知りて善く内に思惟す。善く身・受・心に於て貪憂を滅捨す。爾の時、聖弟子、法において法觀念に住す。是の如く聖弟子、法の法觀念に住し已り、知りて善く内に思惟す。阿難、譬へば四衢道に土堆・壠有って、人有り、車輿に乗じて北方より顛沛として来るが如し。當に土堆壠を踐蹈するや不や。阿難、佛に白さく。是の如し、世尊。佛、阿難に告げたまはく。是の如し。聖弟子、法において法觀念に住せば、知りて善く内に思惟す。阿難、是を名づけて、比丘の精勤方便して四念處を修すとなす。佛、此の經を説き已りたまひしに、尊者阿難、佛の所説を聞きて、歡喜奉行しき。
《No.810》
このように私は聞いた。ある時、仏陀は金剛〈Vajjī〉の跋求摩河〈Vaggumudā 〉の側にある、薩羅梨林〈未詳〉の中で留まっておられた。その時、尊者阿難〈Ānanda〉は、独一静処〈人気なく閑静な場所〉にて思惟・禅思して、このような考えをなした。「実に一法がある。修習して習熟すれば、四法を満足する。四法を満足したならば、七法を満足する。七法を満足したならば、二法を満足する」と。そこで尊者阿難は、禅より覚めて仏陀のところに往詣し、稽首礼足してから少し退いて(仏陀の)傍らに坐した。そして仏陀に申し上げた。
「世尊よ、私は独一静処にて思惟・禅思して、このような考えをなしました。「実に一法がある。修習して習熟すれば、四法を満足する。四法を満足したならば、七法を満足する。七法を満足したならば、二法を満足する」と。私は今、世尊にご質問いたします。むしろ一法あって習熟したならば、乃至、二法を満足するでしょうか」
と。仏陀は阿難に語られた。
「一法がある。習熟したならば、乃至、二法を満足するであろう。何を一法というであろうか。それは安那般那念である。習熟したならば、よく四念処〈catu satipaṭṭhāna. 四念住〉を満足する。四念処を満足したならば、七覚分〈sattabojjhaṅga . 七覚支〉を満足する。七覚分を満足したならば、明〈vijjā. 智慧〉と解脱〈vimutti〉とを満足する。どのようなことが、安那般那念を修習すれば四念処を満足するというであろうか。比丘が村落に住み、乃至、滅にあって出息しているとそのありのままに念じて学ぶ。阿難よ、そのように、聖弟子〈ariya sāvaka. 声聞〉が、入息を念じる時には入息しているままに念じて学び、出息を念じる時には出息しているままに念じて学ぶ。(その入息・出息の)あるいは長いままに、あるいは短いままに。一切身行を覚知し、入息しているのを念じる時には、入息しているままを念じて学び、出息しているのを念じる時には、出息しているままを念じて学ぶ。身行が静まって入息しているのを念じる時には、身行が静まって入息しているままに念じて学び、身行が静まって出息しているのを念じる時には、身行が静まって出息しているままに念じて学ぶ。聖弟子はその時、身において身観念に住する。もし身に異変あれば、彼はまたそのように身に随って思惟する。もし、そこで聖弟子が喜を覚知し、楽を覚知し、心行を覚知し、心行が静まっているのを覚知したならば、入息しているのを念じる時には、心行が静まり入息しているままに念じて学び、心行が静まり出息しているのを念じる時には、心行が静まり出息しているままに念じて学ぶ。この聖弟子はその時、受において受観念に住する。もしまた異受あれば、彼はまた受について身に随って思惟する。そこで聖弟子が心を覚知し、心悦・心定・心解脱を覚知したならば、入息しているのを念じる時には、入息しているままに念じて学び、心解脱して出息しているのを念じる時には、心解脱して出息しているままに念じて学ぶ。この聖弟子はその時、心において心観念に住する。もし異心あれば、彼はまた心に随って思惟する。もし聖弟子が、そこで無常・断・無欲・滅を観じたならば、無常・断・無欲・滅を観じたままに住して学ぶ。この聖弟子はその時、法において法観念に住する。法に異あれば、また法に随って思惟する。これを名付けて『安那般那念を修習すれば四念処を満足する』と云う」
阿難は仏陀に申し上げた。
「そのように、安那般那念を修習すれば四念処を満足するものとして、ではどのように四念処を修習すれば七覚分を満足させるのでしょうか?」
仏陀は阿難に告げられた。
「もし比丘が、身において身観念に住し、念〈sati. 注意・不亡失〉に住しおわって、(その対象に)念を繋けて住し、忘れることがなければ、その時、勤めて念覚分〈satisambojjhaṅga〉を修する。念覚分を修しおわって、念覚分を満足する。念覚を満足したならば、法を選択思量する。その時、勤めて択法覚分〈dhammavicayasambojjhaṅga〉を修し、択法覚分を修しおわって、択法覚分を満足する。法を選択して分別思量したらなば、精勤方便を得る。その時、勤めて精進覚分〈vīriyasambojjhaṅga〉を修習する。精進覚分を修しおわって、精進覚分を満足する。精励精進し終われば、すなわち心が歓喜する。その時、勤めて喜覚分〈pītisambojjhaṅga〉を修す。喜覚分を修しおわって、喜覚分を満足する。(心が)歓喜し終わると、身と心とが猗息する。その時、勤めて猗覚分〈passaddhisambojjhaṅga〉を修する。猗覚分を修習しおわって、猗覚分を満足する。身と心とが安楽となったならば、三昧〈samādhi〉を得る。その時、定覚分〈samādhisambojjhaṅga〉を修す。定覚分を修し終わって、定覚分を満足する。定覚分を満足し終わって、貪欲と憂いとが滅し、平等捨〈upekkhā〉を得る。その時、勤めて捨覚分〈upekkhāsambojjhaṅga〉を修する。捨覚分を修し終わって、捨覚分を満足する。受・心・法の念処においてもまた同様に説く。これを名付けて『四念処を修習して七覚分を満足する』と云う」
阿難は仏陀に申し上げた。
「それを四念処を修習して七覚分を満足するものとして、ではどのようにすれば七覚分を修習すれば、明・解脱を満足するのでしょうか?」
仏陀は阿難に告げられた。
「もし比丘が、念覚分を遠離に依り、無欲に依り、滅に依って修するならば、捨に向かう。念覚分を修習して、明と解脱とを満足する。乃至、捨覚念を遠離により、無欲により、滅によって修するならば、捨に向かう。このように捨覚分を修習して、明と解脱とを満足する。阿難よ、これを名づけて『法法相類』・『法法相潤』とする。これら十三法を、一法の増上とする。一法を門として、次第に増進して修習し、満足する」
仏陀がこの経を説き終わられたとき、尊者阿難は、仏陀の所説を聞いて、歓喜し奉行した。
《No.811-812》
そのように異比丘〈おかしな比丘〉の問うたこと、仏陀が諸々の比丘に問われたこともまた上に説いた通りである。
《No.813》
このように私は聞いた。ある時、仏陀は金毘羅〈Kimbilā〉村の金毘林の中に留まっておられた。その時、世尊は、尊者金毘羅〈Kimbila〉に告げられた。
「私は今、これから努め励んで四念処を修習することについて説くであろう。あきらかに聴き、善く考えよ。これを汝の為に説くでろう」
その時、尊者金毘羅はただ黙然としたままであった。このように(仏陀が告げられ、尊者金毘羅が黙然と)すること三度に及んだ。すると、尊者阿難は、尊者金毘羅に語られた。
「今、大師〈仏陀〉は汝に三度まで告げられた」
尊者金毘羅は、尊者阿難に語られた。
「私はすでに(それを)存じています、尊者阿難よ。私はすでに存じています、尊者瞿曇よ」
そこで尊者阿難は、仏陀に申し上げた。
「世尊、今が(それについて説かれるにふさわしい)その時です。世尊、今がその時です。善逝〈Sugata. 仏陀〉よ、ただ願わくは比丘たちのために、努め励んで四念処を修習することについてお説きになって下さい。比丘たちはそれを聞いたならば、それを受持して修行するでしょう」
仏陀は阿難に告げられた。
「あきらかに聴き、善く考えよ。これを汝の為に説くであろう。もし比丘が、入息しているのを念じる時は、入息しているままに学び、乃至、滅にして出息している時は、滅にして出息しているままに学ぶ。その時、聖弟子は、入息しているのを念じる時は、入息しているのを念じるままに学び、乃至、身行が静まって出息している時は、身行が静まって出息しているままに学ぶ。その時、聖弟子は、身において身観念に住する。その時、聖弟子は、身において身観念に住してのち、そのままに知って善く内に思惟する」
仏陀は阿難に告げられた。
「譬えば、ある者が荷車に乗って、東方からまたたく間に来たるようなものである。その時、(その荷車は)所々で盛り上がった土を、踏み平らかにするだろうか?」
阿難は仏陀に申し上げた。
「そのとおりします、世尊」
仏陀は阿難に告げられた。
「そのように、聖弟子が、入息しているのを念じる時は、入息していると念じるままに学ぶ。そのように、乃至、善く内に思惟する。もしその時、聖弟子が、喜を覚知し、乃至、意行が静まっているのを覚知し学んだならば、聖弟子は、受において受観念に住する。聖弟子が、受において受観念に住してのち、そのままに知って内に思惟する。譬えば、ある者が荷車に乗って南方からまたたく間に来たるようなものである。どうであろうか、阿難よ、その時(その荷車は)所々で盛り上がった土を、踏み平らかにするだろうか?」
阿難は仏陀に申し上げた。
「そのとおりします、世尊」
仏陀は阿難に告げられた。
「そのように、聖弟子が、受において受観念に住したならば、知って善く内に思惟する。もし聖弟子が、心・欣悅心・定心・解脱心を覚知して入息したならば、(心・欣悅心・定心・)解脱心にして入息しているままに学ぶ。解脱心にあって出息しているならば、解脱心にして入息していると学ぶ。その時、聖弟子は、心において心観念に住する。そのように、聖弟子が、心において心観念に住してのち、知って善く内に思惟する。譬えば、ある者が荷車に乗って西方から来たるようなものである。それは所々で盛り上がった土を踏み平らかにするだうか?」
阿難は仏陀に申し上げた。
「その通りします、世尊」
仏陀は阿難に告げられた。
「そのように、聖弟子が、心、乃至、心解脱を覚知して出息しているならば、心解脱にして出息しているままに学ぶ。そうように、聖弟子が、その時、心において心観念に住し、知って善く内に思惟知る。善く身・受・心において貪欲と憂いとを滅し去る。その時、聖弟子は、法において法観念に住する。そのように、聖弟子が、法において法観念に住してのちは、知って善く内に思惟する。阿難よ、譬えば四衢道〈四ツ辻〉に所々で盛り上がった土があったとして、ある者が荷車に乗り北方からまたたく間に来たるようなものである。その荷車は所々で盛り上がった土を踏み平らかにするだろうか?」
阿難は仏陀に申し上げた。
「その通りします、世尊」
仏陀は阿難に告げられた。
「そのように、聖弟子が、法において法観念に住したならば、知って善く内に思惟する。阿難よ、これを名づけて、『比丘が努め励み方便して四念処を修めること』とする」
仏陀がこの経を説き終わられたとき、尊者阿難は、仏陀の所説を聞いて歓喜し奉行した。