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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

『雑阿含経』 巻二十九 ―安般念の修習

原文

《No.804》

如是我聞。一時佛住舍衞國祇樹給孤獨園。爾時世尊告諸比丘。當修安那般那念。安那般那念。修習多修習者。斷諸覺想。云何安那般那念。修習多修習。斷諸覺想。若比丘依止聚落城邑住。如上廣説。乃至於出息滅善學。是名安那般那念。修習多修習。斷諸覺想。佛説此經已。諸比丘聞佛所説。歡喜奉行

如斷覺想。如是不動搖得大果大福利。如是得甘露究竟甘露。得二果四果七果。一一經。亦如上説

《No.805》

如是我聞。一時佛住舍衞國祇樹給孤獨園。爾時世尊告諸比丘。如我所説。安那般那念。汝等修習不。時有比丘名。阿梨瑟吒。於衆中坐。即從座起。整衣服爲佛作禮。右膝著地。合掌白佛言。世尊。世尊所説安那般那念。我已修習。佛告阿梨瑟吒比丘。汝云何修習我所説安那般那念。比丘白佛。世尊。我於過去諸行。不顧念。未來諸行。不生欣樂。於現在諸行。不生染著。於内外對礙想。善正除滅。我已如是。修世尊所説安那般那念。佛告阿梨瑟吒比丘。汝實修我所説安那般那念。非不修。然其比丘。於汝所修安那般那念所。更有勝妙。過其上者。何等是勝妙。過阿梨瑟吒所修安那般那念者。是比丘依止城邑聚落。如前廣説。乃至於滅出息。觀察善學。是名阿梨瑟吒比丘。勝妙過汝所修安那般那念者。佛説此經已。諸比丘聞佛所説。歡喜奉行

《No.806》

如是我聞。一時佛住舍衞國祇樹給孤獨園。爾時世尊。於晨朝時。著衣持鉢。入舍衞城乞食。食已還精舍。擧衣鉢洗足已。持尼師9檀。入安陀林。坐一樹下。晝日禪思。時尊者10罽賓那。亦晨朝時。著衣持鉢。入舍衞城乞食。還擧衣鉢洗足已。持尼師檀入安陀林。於樹下坐禪。去佛不遠。正身不動。身心正直。勝妙思惟。爾時衆多比丘。晡時從禪覺。往詣佛所。稽首禮佛足。退坐一面。佛語諸比丘。汝等見尊者罽賓那不。去我不遠。正身端坐。身心不動。住勝妙住。諸比丘白佛。世尊。我等數見彼尊者。正身端坐。善攝其身。不傾不動。專心勝妙。佛告諸比丘。若比丘。修習三昧。身心安住。不傾不動。住勝妙住者。此比丘。得此三昧。不勤方便。隨欲即得。諸比丘白。佛。何等三昧。比丘得此三昧。身心不動。住勝妙住。佛告諸比丘。若比丘。依止聚落。晨朝著衣持鉢。入村乞食已。還精舍擧衣鉢洗足已。入林中若閑房露坐。思惟繋念。乃至息滅。觀察善學。是名三昧。若比丘。端坐思惟。身心不動。住勝妙住。佛説此經已。諸比丘聞佛所説。歡喜奉行

訓読

《No.804》

かくごとけり。一時いちじほとけ舍衛國しゃえいこく祇樹給孤獨園ぎじゅきっこどくおんに住せり。の時、世尊せそんもろもろ比丘びくに告げたまはく。まさ安那般那念あんなぱんなねん修習しゅじゅうすべし。 安那般那念を修習するに多く修習せば、諸の覺想かくそうを斷ず。云何いかんが安那般那念を修習するに多く修習せば、もろもろ覺想かくそうを斷ずるや。若し比丘、聚樂じゅらく城邑じょうゆうに依止して住し、上に廣說こうせつせるが如く、乃至ないし出息しゅっそくめつ に於て善く學す。是れを安那般那念を修習するに。多く修習せば、諸の覺想を斷ずと名づく。佛、此の經を説き已りたまひしに、諸の比丘、佛の所説を聞きて、歡喜かんぎ奉行ぶぎょうしき。

覺想かくそうを斷ずるが如く、是の如く動揺どうようせざれば大果大福利を是の如く甘露かんろを得、甘露を究竟くきょうし、二果にか四果しか七果しちかを得。一一いちいちの經もた上のごとく説けり

《No.805》

是の如く我れ聞けり。一時、佛、舍衛國しゃえいこく祇樹給孤獨園ぎじゅきっこどくおんに住せり。爾の時、世尊、諸の比丘に告げたまはく。我が所説の如く、安那般那念を汝ら修習せるや不や、と。時に比丘有って阿梨瑟吒ありしったと名づく。衆中しゅちゅうに於て坐せり。即ち座より起ちて、衣服えぶくを整え、佛の為にらいを作し、右膝みぎひざを地にけて合掌して佛に白して言さく。世尊、世尊所説の安那般那念を、我れ已に修習しゅじゅうせり。佛、阿梨瑟吒比丘に告げたまはく。汝、云何が我が所説の安那般那念を修習せりや。比丘、佛に白さく。世尊、我れ過去かこの諸行に於て顧念こねんせず、未来の諸行しょぎょう欣樂ごんぎょうを生ぜず。現在の所行しょぎょうに於て染著ぜんじゃくを生ぜず。内外ないげ對礙想たいげそうを善く正して除滅じょめつせり。我れ已にかくの如く、世尊所説の安那般那念をしゅせり、と。佛、阿梨瑟吒比丘に告げたまはく、汝、實に我が所説の安那般那念を修せり。修せざるに非ず。然るに其れ比丘、汝の修せる所の安那般那念の所より、更に勝妙しょうみょうにして其の上に過ぐる者あり。何らをか是れ勝妙にして阿梨瑟吒の修する所の安那般那念に過ぐる者なりや。是の比丘、城邑・聚落に依止し、前に廣説せるが如く、乃至ないし、息出の滅を觀察し善く學す。是れを阿梨瑟吒比丘より勝妙にして、汝の修する所の安那般那念に過ぐる者と名づくと。佛、此の經を説き已りたまひしに、諸の比丘、佛の所説を聞いて、歡喜かんぎ奉行ぶぎょうしき。

《No.806》

是の如く我れ聞けり。一時、佛、舍衛國しゃえいこく祇樹給孤獨園ぎじゅきっこどくおんに住せり。爾の時、世尊、晨朝じんちょう時に衣を著け鉢を持して、舍衛城に入りて乞食こじきしたまへり。食し已て精舎しょうじゃに還り、衣鉢を挙げて足を洗い已て、尼師檀にしだんを持ち安陀林あんだりんに入り、一樹下に坐して、昼日禅思ぜんししたまへり。時に尊者罽賓那けいひんなも亦た、晨朝時に衣を著け鉢を持して、舍衛城に入りて乞食し、還りて衣鉢を挙げて足を洗い已て、尼師檀を持ち安陀林に入り、樹下に坐禅す。佛を去ること遠からず、身を正して動ぜず、身心正直にして勝妙に思惟せり。爾の時、衆多しゅたの比丘、晡時ほじに禅よりめ、佛の所に往詣し、稽首けいしゅして佛の足に禮したてまつり、退きて一面に坐しぬ。佛、諸の比丘に語りたまはく。汝等、尊者罽賓那を見るや不や。我れを去ること遠からず、身を正して端坐たんざし、身心動ぜずして勝妙住しょうみょうじゅうに住せり。諸の比丘、佛に白さく。世尊、我ら数ば彼の尊者の身を正して端坐し、善く其の身をしょうして傾かず動ぜず、勝妙に専心なるを見たり。佛、諸の比丘に告げたまはく。若し比丘、三昧さんまいを修習し、身心を安住し、傾かず動ぜず勝妙住に住せば、此の比丘、三昧さんまいを得。勤めて方便せざるも、欲に隨て即ち得。諸の比丘、佛に白さく。何等の三昧もて比丘、此の三昧を得て身心動ぜず、勝妙住に住するや。佛、諸の比丘に告げたまはく。若し比丘、聚落に依止し、晨朝に衣を著け鉢を持し、村に入て乞食し已て精舎に還り、衣鉢を挙げて足を洗い已り、林中りんちゅう若しは閑房けんぼうに入って露坐し、思惟しゆいして繫念けねんし、乃至ないし、息滅するを觀察し善く學せば、是を三昧と名づく。若し比丘、端坐思惟せば、身心動ぜずして勝妙住に住す。佛、此の經を説き已りたまひしに、諸の比丘、佛の所説を聞きて、歡喜かんぎ奉行ぶぎょうしき。

脚註

  1. 覺想かくそうを斷ずるが如く...

    パーリ経典の「相応部大品」安般相応の第一経Ekadhammasuttaから第三経Suddhikasuttaまでの末尾には、「Evaṃ bhāvitā kho, bhikkhave, ānāpānassati evaṃ bahulīkatā mahapphalā hoti mahānisaṃsā(「実に比丘たちよ、このようにアーナーパーナサティを修習し、このように習熟したならば、大きな果報と大きな利益がある」)」との一文がある。また第四経ではこれに加え、「Evaṃ bhāvitāya kho, bhikkhave, ānāpānassatiyā evaṃ bahulīkatāya dvinnaṃ phalānaṃ aññataraṃ phalaṃ pāṭikaṅkhaṃ – diṭṭheva dhamme aññā, sati vā upādisese anāgāmitā(「実に比丘たちよ、このようにアーナーパーナサティを修習し、このように習熟したならば、二つの果報のうちの一方が期待される。――目の当たりに見た真理(法)についての完全なる智慧(阿羅漢果)か、もしわずかに(煩悩の)余依があるならば阿那含(不還果)どちらかかの」)」との一文がある。
    ところで、この一節の中にある「diṭṭheva dhamme aññā」という語は、上で一応そうしたように「目の当たりに見た真理についての完全なる智慧」、もしくはむしろこれが伝統的な読みであるが「現世における完全なる智慧」と二様に解し得る。別段、互いに矛盾して齟齬をきたすような理解ともならないため、その両者を意味するものとして捉えて良いと思う。
    漢訳経文中にある「覚想を断じる」に対応する言葉はパーリ経典中に見られない。覚とはvitarka(尋)の訳であり、これを断じるとはすなわち禅を得ること、特に第二禅以上に達することを意味する。安般念は、禅を得ることを前提としたものである。

  2. 甘露かんろ

    [P]amata ([S]amṛta). 不死の境涯。上にこの経と対応するパーリの経文を挙げたが、そこに甘露に該当する言葉はない。
    そこでしかし、「甘露を得」を不還果、「甘露を究竟」を阿羅漢果と解することは一応可能であろう。

  3. ニ果にか

    明と解脱。

  4. 四果しか

    身念住(身念処)・受念住(受念処)・心念住(心念処)・法念住(法念処)の四念住(四念処)。

  5. 七果しちか

    念覚支(念覚分)・択法覚支(択法覚分)・精進覚支(精進覚分)・喜覚支(喜覚分)・軽安覚支(軽覚分)・定覚支(定覚分)・捨覚支(捨覚分)のいわゆる七覚支(七覚分)。

  6. 一一いちいちの経もた上のごとく説けり

    他の経にもこの一節が最後に付されるが略していることの断り。

  7. 阿梨瑟吒ありしった

    [P]Ariṭṭha ([S]Ariṣṭa). 比丘の名。

  8. 右膝みぎひざを地にけて合掌

    古代インドにおける礼法の一。
    比丘が、自身より法臘が上の比丘(上座比丘)に対した際は、まず履物を脱ぎ素足となり、袈裟が通肩であったならば偏袒右肩になし、そして相手の足に自らの額を付ける如くにして三礼(投地礼)し、その上で右膝を地に著けて合掌する。支那・日本では、これを踞跪合掌(胡跪合掌)と言い習わす。『四分律』など律蔵でも、僧伽の諸行事や比丘が上座に対したときに為すべき礼法として説かれる礼法。また他に、両膝を地につけて状態を起こし合掌する、長跪合掌という礼法も説かれる。「有部律」などは、ほとんど長跪合掌を説いて踞跪合掌を言うのは稀。インドにても時代や土地によって礼法の用い方、重きの置き方が若干ながら異なったのであろう。これら礼法は、支那から日本に伝えられ、今の日本でも諸儀礼の中で行われている。

  9. 我れ過去かこの諸行に於て顧念こねんせず...

    「Atītesu me, bhante, kāmesu kāmacchando pahīno, anāgatesu me kāmesu kāmacchando vigato, ajjhattabahiddhā ca me dhammesu paṭighasaññā suppaṭivinītā(「大徳よ、私は諸々の過去における欲楽への愛欲を棄てており、諸々の未来での欲楽に対する愛欲を鎮めています。そして、私は内と外とのものごとに対する嫌悪の想いを、よく一掃しています」)」。
    Paṭisambhidāmagga, Ānāpānassatikathāでは、安那般那念(十六事)を解釈する中このような偈を出す。「Atītānudhāvanaṃ cittaṃ, anāgatapaṭikaṅkhanaṃ līnaṃ; Atipaggahitaṃ abhinataṃ, apanataṃ cittaṃ na samādhiyati.(過ぎ去ったものごとを追い求め、未だ来たらぬものごとへ期待する心は下劣である。過ぎて努め、前へ横へと強いられた心は定まることがない)」。
    ここでは、『中阿含経』に説かれる跋地羅帝偈すなわち「慎莫念過去亦勿願未來 過去事已滅未來復未至 現在所有法彼亦當為思 念無有堅強慧者覺如是 若作聖人行孰知愁於死 我要不會彼大苦災患終 如是行精勤晝夜無懈怠 是故常當說跋地羅帝偈」(T1, p.697a)と通じる態度、いや全く同様の態度でもって安般念を修習することが説かれる。この偈はパーリ経典のMN. Ānandabhaddekarattasuttaなどに「bhaddekarattassa uddesa(吉祥なる執着の説示)」として説かれる。「Atītaṃ nānvāgameyya, nappaṭikaṅkhe anāgataṃ; Yadatītaṃ pahīnaṃ taṃ, appattañca anāgataṃ. Paccuppannañca yo dhammaṃ, tattha tattha vipassati; Asaṃhīraṃ asaṃkuppaṃ, taṃ vidvā manubrūhaye. Ajjeva kiccamātappaṃ, ko jaññā maraṇaṃ suve; Na hi no saṅgaraṃ tena, mahāsenena maccunā. Evaṃ vihāriṃ ātāpiṃ, ahorattamatanditaṃ; Taṃ ve bhaddekarattoti, santo ācikkhate muni(過去を追いゆくことなく、未来を俟つことなかれ。過去、それは捨てられしもの。未来、それはいまだ到らざるもの。現在するものごと、それをその時、その場にてじっと見つめる。操られることなく、動じることなく、それを知って確固たらしめる。今日こそ努力の為されるべき時である。誰が明日死せんことを知るであろうか。実に、いかなる約束によっても、死の大軍[を避け得ること]はない。このように、昼夜おこたることなく、熱意もって住すること、それはまさしく吉祥なる執着である、と寂静なる牟尼は示さる)」
    本経説における要は、仏陀はこのような態度を認めた上で、しかし詳細なる安般念の術、次第をもって修習することである。跋地羅帝偈などに説かれるのは、修習に関して云うならば、人が瑜伽を修習する上での態度である、その術ではなく。仏道を歩む者、瑜伽行者がその行による果をなんら期待せずにただ淡々と修習すべきであることは、それは瑜伽を修習するうえで非常に重要なことであるが、これらのような経説によって知られ確かめられる。過去の支那・日本の禅師、瑜伽師らも同様の言葉を残している。
    数年前、スリランカ南部、森林奥深くの瞑想寺院に飛錫した折、一人の中年の比丘と出会ったが、その人はまさしく「bhaddekarattassa uddesa」を旨とし、その地の洞窟で三年を瞑想に費やしてきたのだという。しかし残念なことに(そしてまた不思議なことに)、彼は安般念など具体的な瞑想の術をまるで知っておらず、言ってしまえばただ漠然と無闇に一日中三年間目をつぶっていただけのようなものであった。静かな人ではあったが眼は虚ろで雰囲気は異様であり、彼は身体不調を訴えていた。あるいは、彼はもとから精神の少しおかしな人であったのかもしれない。修行者と言っても様々である。翌日、彼は療養のためにコロンボの病院に行くことになっていたため、その日限りの出会いだった。

  10. 尼師檀にしだん

    [S/P]nisīdanaの音写。坐具。おおよそ縦90cm×横67.5cmの、二重にして縁をつけた布。比丘が座ったとき、その身を地面に住む害虫などから守って、袈裟を汚すのを防ぎ、また坐った場所を自らが汚すのを防ぐための木綿・麻・亜麻などの布。色や製法は袈裟に同じ。諸律蔵にそれぞれの規定がある。礼拝・坐禅・食事・説法時など、およそ坐して何事かを行うほとんどすべての場合において用いる、比丘の日用品の一つ。
    これを、移動時などに所持携帯する方法には、およそ二通りの伝承がある。一つは縦に折りたたんで右肩にかける方法、他方はやはり縦に折りたたんで左下腕の上に載せ袈裟でそれを隠すという方法。インドではもっぱら前者で行われていたことが『解脱道論』や『大唐西域記』によって知られる。しかし、支那の律宗においては、敷物を肩に乗せるのはケシカランという外道からの批難がっあたため(『佛制比丘六物図』にて元照はそう説明する)、左下腕に掛ける方法に変えられ、それが正しいとされたようである。日本の律宗も後者を正しいとする説を蹈襲している。

  11. 安陀林あんだりん

    「寒い林」を意味する尸陀林([S]śītavana / [P]sītavanaの音写)に同じ。死体を打ち捨てる林。
    その昔のインドでは遺体を風葬に処する習慣があった。物理的に寒い、というより死体が捨てられる場所であるために薄ら寒く感じられた林であったようにも言われる。安陀とはおそらく[S/P]andhakāra(暗黒)を音写して略した語であろうと思われる。いずれにせよ、死体を打ち捨てる林を、漢訳経典では安陀林・尸陀林・昼暗林・寒矢林などと記している。『翻訳名義集』ではこのように言う。「尸陀。正云尸多婆那。此翻寒林。其林幽邃而寒也。僧祗云。此林多死屍。人入寒畏也。法顯傳名尸摩賒那。漢言棄死人墓田。四分名恐畏林。多論名安陀林。亦名晝暗林」(T54, p.1102a)。
    仏教の出家修行者には、不浄観を修すため、あるいは死体に巻かれた布(所有者の無い布)で袈裟衣をつくるためなどに、そのような林に行く者があった。中には、死体を犯すためにウロチョロとするような猟奇的な者があったり、そこまで行かずとも死体になんらか性的興味をもつなど異常な嗜好性をもつが為に好んで尸陀林に住する者があったりしたことが、諸仏典の記述により知られる(諸律蔵や『大宝積経』など)。修行者と言っても様々で、純粋に修行目的のためであったり、単に異常な性嗜好を満たしたいがための者、単に人と違ったことを好む天邪鬼などがあった。

  12. 禅思ぜんし

    心を統一して安定させること。禅思というと、原語として[P]jhānati ([S]dyāyati)が予想されるけれども、パーリ経典には対応する一節が見当たらない。

  13. 罽賓那けいひんな

    [P]Kappina. 対応するパーリ経典では、KappinaはMahā(偉大な)との敬称が付されている。同じく相応部のNidānavagga(因縁品)には同名の小経が収録されており、そこではKappinaが優れた才能あり、神通力あって巧みな説法師であると讃えられている。小部のTheragāthāには、Mahākappinaの偈が十偈収録されており、その中の一偈(No.548)は、アーナーパーナサティに言及したものとなっている。この経にある説話とその偈は関連するものとして見てよいであろう。その偈は『大毘婆沙論』にても引用されている。Kappinaはまた、『増一阿含経』巻廿二にては「能行出入息 迴轉心善行 慧力極勇盛 此名迦匹那」(T2, p.662c)との偈によって安般念に秀でた人として讃えられている。

  14. 三昧さんまい

    [S/P]samādhi. 心が統一され、安定して揺るがない状態。三摩地とも音写され、寂静・等持・定などと漢訳される。禅も三昧の一種であるが、しかし特定の心所がそなわった非常に深い三昧を禅という。

  15. 三昧さんまい

    文脈から安那般那念を修めた結果得られる三昧。対応するパーリ経典では「ānāpānassatisamādhi(安那般那念三昧)」とする。

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