《No.814》
是の如く我れ聞けり。一時、佛、舍衛國祇樹給孤獨園に住しき。爾の時、世尊、諸の比丘に告げたまはく。當に安那般那念を修すべし。安那般那念を修して多く修習し已らば、身、疲倦せず。眼も亦た患樂せず、觀に随順して樂に住し、覺知して樂に染著せず。云何が安那般那念を修するに、身疲倦せず、眼も亦た患樂せず、觀に随て樂に住し、覺知して樂に染著せざる。是の比丘、聚樂に依止し、乃至、滅において出息するを觀ずる時、滅において出息する如くに學す。是を名づけて、安那般那念を修して、身疲倦せず、眼も亦た患樂せず、觀に随て樂に住し、覺知して樂に染著せずとなす。是の如く安那般那念を修さば、大果・大福利を得。是の比丘、欲・悪・不善法より離れ、覺有り、觀有り、離生の喜・樂ある初禪を具足して住するを欲求せば、是の比丘、當に安那般那念を修すべし。是の如く安那般那念を修さば、大果・大福利を得。是の比丘、第二・第三・第四禪、慈・悲・喜・捨、空入處・識入處・無所有入處・非想非非想入處を具足し、三結盡きて須陀洹果を得、三結盡きて貪・恚・癡薄らぎ、斯陀含果を得、五下分結盡きて阿那含果を得、無量種の神通力、天耳・他心智・宿命智・生死智・漏盡智を得ることを欲求せば、是の如く比丘、當に安那般那念を修すべし。是の如く安那般那念は、大果・大福利を得。佛、此の經を説き已て、諸の比丘、佛の所説を聞きて、歡喜奉行しき。
《No.815》
是の如く我れ聞けり。一時、佛、舍衛國は祇樹給孤獨園に住して夏安居したまへり。爾の時、衆多の上座聲聞、世尊の左右の樹下、窟中に於て安居せり。時に衆多の年少比丘有て佛の所に詣りて、佛の足に稽首し、退きて一面に坐せり。佛、諸の年少比丘の為に種種に説法し、示教・照喜したまへり。示教・照喜し已て、黙然として住したまへり。諸の年少比丘、佛の所説を聞きて、歡喜随喜し、座より起て禮を作して去れり。諸の年少比丘、上座比丘の所に往詣して、諸の上座の足に禮し已り、一面に坐せり。諸の上座比丘、是の念を作す。我ら當に此の諸の年少比丘を攝受すべし。或は一人にて一人を受け、或は一人にて二・三・多人を受けんと。是の念を作し已て、即便ち攝受し、或は一人にて一人受け、或は二・三・多人を受け、或は上座の、乃至、六十人を受くる有り。爾の時、世尊、十五日布薩時、大衆の前に於て座を敷きて坐したまへり。爾の時、世尊、諸の比丘を觀察し已て、比丘に告げたまはく。善哉、善哉、我れ今、諸の比丘の諸の正事を行ずるを喜ぶ。是の故に比丘、當に勤めて精進すべし。此の舎衛國に於て、迦低月を滿たせ。諸處の人間比丘、世尊の舎衛國に於て安居したまへるを聞けり。迦低月滿つ。滿ち已て、衣を作り竟り、衣鉢を持し、舎衛國の人間に於て遊行し、漸く舎衛國に至れり。衣鉢を挙げ、足を洗い已て、世尊の所に詣で稽首禮足し已て、退いて一面に坐せり。爾の時、世尊、人間比丘の為に種種に説法し、示教・照喜し已て、黙然として住したまへり。爾の時、人間比丘、佛の説法を聞きて歡喜・随喜し、座より起て禮を作して去り、上座比丘の所に往詣して稽首禮足し、退いて一面に坐せり。時に諸の上座、是の念を作せり。我ら、當に此の人間比丘を受くべし。或は一人にて一人、或は二・三、乃至、多人を受けん。即便ち是を受け、或は一人にて一人を受け、或は二・三、乃至、六十人を受くる者有り。彼の上座比丘、諸の人間比丘を受け教誡・教授すること、善く先後の次第を知れり。爾の時、世尊、月十五日布薩時、大衆の前に於て座を敷きて坐したまひ、諸の比丘衆を觀察して諸の比丘に告げたまはく。善哉、善哉、諸の比丘、我れ汝ら所行の正事を欣び、汝らの所行の正事なることを樂ふ。諸の比丘、過去の諸佛も亦た、比丘衆有て所行の正事なること、今の此の衆の如し。未来の諸佛も諸衆有て、亦た當に是の如く所行の正事なること今の此の衆の如くなるべし。所以者何、今ま此の衆の中の諸長老比丘、初禪・第二禪・第三禪・第四禪、慈・悲・喜・捨、空入處・識入處・無所有入處・非想非非想處を得、具足して住する有り。比丘の三結盡て、須陀洹を得、悪趣法に堕せず、決定して正しく三菩提に向かひ、七たび天・人に往生すること有て、苦邊を究竟せるもの有り。比丘の三結盡て、貪・恚・癡薄ぎて斯陀含を得るもの有り。比丘の五下分結盡て、阿那含・生般涅槃を得、復た此の世に還生せざるもの有り。比丘の無量の神通境界、天耳・他心智・宿命智・生死智・漏盡智を得るもの有り。比丘の不淨觀を修して貪欲を斷じ、慈心を修して瞋恚を斷じ、無常想を修して我慢を斷じ、安那般那念を修して覺想を斷ずるもの有り。云何が比丘の安那般那念を修して覺想を斷ずるや。是の比丘、聚樂に依止し、乃至、滅を觀じて出息するに、滅を觀じて出息する如くに學す。是を安那般那念を修して覺想を斷ずと名づく。佛、此の經を説き已りたまひしに、諸の比丘、佛の所説を聞きて、歡喜奉行しき。
《No.814》
このように私は聞いた。ある時、仏陀は舍衛国は祇樹給孤独園〈祇園精舎〉に留まっておられた。その時、世尊は告げられた。
「まさに安那般那念を修習すべきである。安那般那念を修習して習熟すれば、身体は疲倦せず、眼もまた患楽することがなく、観に随順して楽に住し、(諸々の事象・刺激を)覚知して楽に執着することがない。ではどのようなことが、安那般那念を修習して習熟すれば、身体は疲倦せず、眼もまた患楽することがなく、観に随順して楽に住し、(それを)覚知して楽に執着することがないというのであろうか。比丘が、村落に留まり、乃至、滅において出息しているのを観じている時、滅において出息しているままに学ぶ。これを名付けて『安那般那念を修習して習熟すれば、身体は疲倦せず、眼もまた患楽することがなく、観に随順して楽に住し、覚知して楽に執着することがない』と云う。そのように安那般那念を修習したならば、大果・大福利を得る。その比丘が、欲・悪・不善法より離れ、尋〈[P]vitakka. 粗雑な思考〉あり、伺〈[P]vicārā. 微細な思考〉あり、離生の喜〈[P]pīti〉・楽〈[P]sukha〉ある初禅(の境地)を得て住することを欲し求めるならば、その比丘は、まさに安那般那念を修すべきである。そのように安那般那念を修習したならば、大果・大福利を得る。その比丘が、第二禅・第三禅・第四禅、慈・悲・喜・捨、空入処・識入処・無所有入処・非想非非想入処を得、三結を尽くして須陀洹果を得、三結を尽くして貪〈[P]lobha〉・恚〈[P]dosa〉・癡〈[P]moha〉が薄らぎ、斯陀含果を得、五下分結を尽くして阿那含果を得、無量種なる神通力である、天耳・他心智・宿命智・生死智・漏尽智を得ることを欲し求めるならば、その比丘は、まさに安那般那念を修すべきである。そのように安那般那念は大果・大福利をもたらす」
仏陀がこの経を説き終わられたとき、諸々の比丘は、仏陀の所説を聞いて歓喜し奉行した。
《No.815》
このように私は聞いた。ある時、仏陀は舍衛国は祇樹給孤独園に留まり、夏安居〈[P]vassa〉されていた。その時、衆多の上座声聞たちは、世尊の左右にある樹下や洞窟の中において安居を過ごしていた。ある時、衆多の年少比丘があって、仏陀のところに詣り、仏陀の足を礼拝して、少し退いてから傍らに坐した。仏陀は、諸々の年少比丘のために様々に説法され、教えを示されて喜ばせた。教えを示されてのち、(仏陀は)黙然として住された。諸々の年少比丘は、仏陀の説法を聞いて喜びに溢れ、座より立って礼拝をなして去った。諸々の年少比丘は、上座比丘のところに往詣し、諸々の上座比丘の足を礼拝してから傍らに坐した。(そこで)諸々の上座の比丘はこのように考えた。「我々は、これら年少比丘らを指導しなければならない。あるいは一人が一人を受け持ち、あるいは一人でニ、三人、それ以上を受け持とう」と。このように考えてから、実際に指導しはじめたが、あるいは一人で一人を受け持ち、あるいは一人で二、三人、それ以上を受け持ち、ある上座は、乃至、六十人を受け持つ者があった。その時、世尊は十五日の布薩の時、大衆の前に座を敷かれて坐された。その時、世尊は、諸々の比丘(の様子)を観察されてから、比丘に告げられた。
「善い哉、善い哉。私は今、諸々の比丘が様々に正しく行事をなしているのを嬉しく思う。その故に、比丘たちよ、これからも努めて精進すべきである。この舎衛国にて迦低の満月の日を迎えよう」
集落の比丘たちは、世尊が舎衛国で安居されているのを聞いた。迦低月が満ちた。満ち終わって衣を縫い竟り、衣と鉢を持って、舎衛国の集落を遊行し、ようやく舎衛国に至った。衣と鉢を片付け、足を洗ってから、世尊のところに詣でて稽首礼足し、少し退いて傍らに坐した。そこで、世尊は集落の比丘の為に様々に説法された。教えを示されて喜ばせてのち、黙然として住されていた。その時、集落の比丘は、仏陀の説法を聞いて喜びに溢れ、座より立って礼拝をなしてから去り、上座比丘のところに往詣して稽首礼足し、少し退いてから傍らに坐した。そこで諸々の上座は、このように考えた。「我々はこれら集落の比丘を指導しなければならない。あるいは一人が一人を、あるいは一人でニ、三人、それ以上を受け持とう」と。そこで(上座比丘たちは)実際に(集落の比丘らを)受け持ち、あるいは一人が一人を受け持ち、あるいは二、三人、乃至、六十人を受け持つ者があった。それら上座比丘は、諸々の集落の比丘を受け持って教誡教授するのに、善くその先後の順序を知った(優れた指導力を発揮した)ものであった。その時、世尊が月の十五日の布薩の時、大衆の前にて座を敷いて坐され、諸々の比丘の様子を観察されてから、諸々の比丘に告げられた。
「善い哉、善い哉。比丘たちよ、私は汝らが正しく行事をなしているのを喜び、汝らの行うところが(これからも)正しいものであることを願う。比丘たちよ、過去の諸仏にもまた比丘衆があって、その行うところが正しいものであったことは、今のこの衆と同様であった。未来の諸仏にも諸衆あって、その行うところが正しいものであるのは、今のこの衆と同様のものであろう。その所以は何かと言えば、今のこれら衆の中にある諸々の長老比丘は、初禅・第二禅・第三禅・第四禅、慈・悲・喜・捨、空入処・識入処・無所有入処・非想非非想処を得て、身に備えて住している者が有るためである。比丘の中には、三結を尽くして須陀洹を得て悪趣の法に堕すことなく、決定してただしく三菩提に向かい、七たび天もしくは人に往生すること有って、苦なるあり方を究竟する者が有るためである。比丘の中に、三結を尽くして貪・瞋・痴の勢力が薄らぎ、斯陀含を得ている者があるためである。比丘の中に、五下分結を尽くして阿那含の生般涅槃を得、ふたたびこの世に生まれ変わることのない者があるためである。比丘の中に、無量の神通力の境界を得て、天耳・他心智・宿命智・生死智・漏盡智を得ている者があるためである。比丘の中に、不浄観を修習して貪欲を断じ、慈心を修して瞋恚を断じ、無常観を修して我慢を断じ、安那般那念を修習して覚想を断じている者がある為である。どのようなことを、比丘が安那般那念を修習して覚想を断じると言うのであろうか。比丘が村落に留まり、乃至、滅を観察して出息するに、滅を観じて出息しているままに学ぶ。これを、『安那般那念を修して覚想を断じること」と云う」
仏陀がこの経を説き終わられたとき、諸々の比丘は、仏陀の所説を聞いて歓喜し奉行した。