慈雲の生涯と事績を、簡にして要をとりつつしかも尊者に対する敬意をもって綴られた『正法律興復大和上光尊者伝』(以下、『光尊者伝』)は、直弟子の一人であった明堂諦濡により、その滅後二十年の後に著されたものです。
『光尊者伝』は細かい点で実際の時系列に即していない点や、事実が必ずしも正確に記されていない点があり、また慈雲の生涯における小事件やそれら一々に対する尊者自身の感慨などの多くは略して載せられていません。それらはその他の著作あるいは弟子達が筆受した書物に散見され、それぞれより詳しく記されていることが多いため、慈雲の思想ばかりでなく当時の様子やその思いを知るには必読のものです。しかし、その一生涯を通じて簡便に知るには『光尊者伝』が最も適した唯一のものとなっています。
『光尊者伝』の筆者明堂については、『慈雲尊者全集』(以下、『全集』)を編纂した長谷寶秀により、種々の史料を元にした伝記が新たに筆されています。
和上諱は諦濡。字は明堂。拙菴と號す。紀州海士郡安原庄相坂村の人なり。《中略》
尊者に從て出家し。安永八年〈1775〉疊峰法護和上と同壇にして進具す。安永九年〈1776〉三月八日高貴寺に於て灌頂を受く。同年八月照堂護明禪師寂するに依り長榮寺第四世となる。天明三年〈1783〉十二月八日長榮寺本堂吉祥殿焼失す。文化年中一派道俗の淨財を集めて之を再建し遂に輪奐の美を成す。 某年臘月廿六日水藥師寺操山清岳両式叉に與ふる書に「當寺本堂もおいヽ成就いたし戸障子も正月早々整ひ天井龍畫も在中したゝめ瓦も春中には成就いたし申候。まづヽ御悦び可レ被レ下。之迄入用二千金にちかくなり申候。扨々もの入多きものに御ざ候也」といひ。長榮寺最勝會施主姓名簿序に「斯寺觀音殿之建也。其費用殆三千金皆出二檀越之信施一矣」といへり。而るに文政八年正月廿五日又長榮寺本堂より出火し本堂幷南寮舎焼失す。同年三月和上再建に着手したれども功未だ成らずして文政十三年庚寅〈1830〉九月廿日寂。壽八十。臈五十二。長榮寺に葬る。剃度の弟子。黙住信正律師長榮寺第四世。高貴寺僧坊寺務五世 疊堂了遠律師壬生寺一代。招提寺三樂院一代 亮舜靈照律師長榮寺第六世。江州安養寺一代。高貴寺僧坊寺務五世 玉山靈明律師長榮寺第七世 敎節操峰律師高貴寺輪番有功之人也 寂然常照和上戒心和上の師也 徹洞自壯律師讃州小豆島西光寺一代 暁岳幻堂和上京都阿弥陀寺一代 敎海天保十四年九月九日寂 元堂瑞享没年不詳六月十日寂 忍義平岩忍覺居士の子也 文化三年九月十日寂 安然泰俊文政九年八月廿三日寂 深法慈海文化八年九月廿八日寂 等十餘人。具足戒の弟子三十六人あり。和上文筆に長じ贈答の詩文甚だ多し。詩集四巻。金仙閣文集一巻等あり。和上直筆の本皆長榮寺に現存す。其の作る所の尊者の略傅一巻は夙に上梓して廣く世に行はる
『正法律中四衆傅』巻上(『慈雲尊者全集』, vol.1, pp.352-354)
明堂は二十七歳前後のおり、慈雲の弟子として受具しています。慈雲はこの時六十二歳。翌年には明堂の叔父であり、慈雲が法を託していた照堂護明が阿弥陀寺にて入寂。慈雲が久しく月日を共にし、最も頼りとしてその後を任せるまでしていた愛弟子が四十六の若さで没するちょうどその時期、入衆したのが明堂でした。したがって明堂は慈雲の法弟愚黙や即成など最初期の門弟を直接知っていません。
いまだ受具して二年足らずの明堂でしたが、照堂が住持していた長栄寺を継ぎ、その第四世となっています。受具後まもなくして寺院の住職に任じられたのは慈雲に同じですが、五夏の依止を満たしていないため、住職ではあっても照堂は長栄寺に住する誰か先輩の比丘の監督下にあったことでしょう。とはいえ、若くして長栄寺を任された明堂の双肩には相当な責任があり、まして叔父である照堂の跡であったことから、それに応えようと懸命に修学修行に励んだに違いありません。
そんな明堂は詩文を能くし文筆に長じていたようで、慈雲没後二十年を経てその伝記の一つも無いことを憂い、自ら筆することになっています。それは明堂の晩年、文政六年〈1823〉、七十四歳頃のことです。とはいえ、明堂は『光尊者伝』を書き上げ清書した後、世の漢文に通じた幾人かの儒者、例えば今もよくその名が知られている頼山陽 にその添削を依頼しており、その原本が今も高井田長栄寺に伝わっています。実際、明堂による漢文にはいくつか不味い点があってそれを山陽は指摘し朱を加えています。しかし、なぜか結局、修正すること無くそのまま出版されたようです。
なお、慈雲にはその出自や略歴を自ら記したものがそれぞれ後人により『開山大和上生縁筆記』および『慈雲大和上御自筆略履歴』と題され、高貴寺に秘蔵されています。それらは大正十五年までに編纂された『全集』に収録されていましたが、むしろ『全集』に収録されたことにより、ようやく世人の披見し得るところとなったものです。
現代、慈雲尊者その人や生涯に関する書籍は、そのほとんど絶版となってしまっていますが、若干ながら今も出版されています。そしてそれらの多くでは、この『光尊者伝』をまず基礎資料としてその他の慈雲の著作が用いられ、さらに著者自身の硏究成果や私的見解がふんだんに盛り込まれています。そのようなことから、慈雲の生涯がいかなるものであったかを知るには、まずこの『光尊者伝』に一通りでも直接目を通しておくことが最も肝要です。とはいえ『光尊者伝』は、その当時は文政七年〈1824〉に刊行された『十善法語』の末に附されて世に知られていましたが、今や『全集』の首巻に所載されているのみでそれ自体としては刊行されておらず、『全集』も絶版となっています。
また『光尊者伝』は漢文で綴られたものであり、その内容を理解するのにも仏教の素養をいくらかでも要するため、現代の多くの人にとってはこれを容易く読み、理解することは難しいものとなっています。そこで、本稿では『光尊者伝』の原文とその訓読を併記して必要と思われる語には脚注を付し、ならびに現代語訳を対訳したものを紹介しています。
江戸中期という比較的近い時代の人でありながら、極めて遺憾なことに、現代日本において慈雲の名とその業績を知る人は実に限られたものとなっています。生誕の地であり活動を主にされていた地の一つである大阪においてすら、その名を知る者はほとんどありません。ましてや仏教の価値が近世以上に低く見なされ、また仏教に限らず近世の思想家たちに対する関心も知識も極めて薄く、その教育や啓蒙もなされていない今の日本社会において、慈雲が脚光を浴びる機会が造られることはまずありません。
しかし当時、釈尊の説いた教えを純粋に実践せんとし、本来の僧侶や寺院のあり方を取り戻そうとして八面六臂の活動を展開していた慈雲は、近畿の貴賎・僧俗から非常に信仰されていました。その業績の数々は今見ても瞠目すべき輝きを放つものであり、それを知った者を魅了するに十分なものです。
そこで今、この『光尊者伝』を紹介することによって、さらに慈雲の思想、その意志に世の人が触れる機会を設け、江戸中期の日本にこれほどの傑物が存在したことが再び世にいくらかでも知られるようになることを期します。そしてまたこれにより、様々の人が「仏教をいかに理解し、向き合うべきか」を学ぶことの契機となることを願うばかりです。
愚衲覺應 拝記