沙門髙弁者紀伊國在田郡人也。父平七武者重國髙倉院武者所、本姓者伊藤氏、養父ノ姓ニヨテ藤ヲ改テ平トス。治承四年庚子九月ニ源平ノ亂ノ始メ、上總國ニシテ源氏ノタメニ誅セラレ畢ヌ。母ハ湯淺權守藤原宗重第四女ナリ。次年春、正月八日入滅。上人、時ニ八歲ナリ。二親早世スルニヨテ、其後姨母ニ養育セラル云々。親父、法輪寺ニ詣シテ子息ヲ祈請スルニ、或日參詣ノトキ夢ニ内陳ヨリ一人出來テ告テ曰ク、汝カ所望コレヲアタヘム。スナハチ一ノ針ヲモテ右ノタリニサスト見ル。又、其母四條ノ坊門髙倉ヨリ六角堂ノ万度マウテヲ企ツ。其間一万卷ノ觀音經ヲヨミテ勤トシテ、我カ後生ヲタスケ、佛弟子トシテ尊トカラム子息ヲ給ラムト祈請ス。風雨ヲハヽカラス、寒熱ヲイタマス、一心ニ此事ヲ祈請スルトコロニ、承安元年四月ノ比、髙倉ノ宿所ニシテ彼妹崎山ノ女房ト枕合ニ臥ス。上人ノ母、夢ニ或人手ヨリ甘子ヲヱタリト見ル云々。此夢ヲ語ルニ、其妹又語テ云ク、我モ今夜夢ニ人アテ、白キ小カハラケニ大甘子二菓ヲ入テ給フ。然ニコレヲ見テ、此ハ我給ルヘキ物ナリト云テ、奪ヒトラレヌト見云々。其後懷妊ス。上人自ラ云ク、彼漢土ニ趙氏女夢ニ見ル、梵僧二ノ金菓ヲ持シテ來テ授テ云、汝ニ良種ヲアタヱム。ヨク守護スヘシ云々。其後二女ヲ產ス。二女トモニ出家ス。一人花嚴經ヲ持ス。無量トナツク。一人ハ涅槃經ヲ持ス。惠嵩トナツク。花嚴涅槃ノ二經ヲ持スルニヨテ、二ノ金菓ヲ給ト見ルナリ。檢ルニ金菓ト云フハ柑子ナルヘシ云々、今我花嚴眞言ノ二宗ノ末流タルニ依テ、大柑子二菓ヲ給ト見ヘケル歟。母氏懷妊ノ間常ニ法花經安樂行品ヲ轉讀ス云々。
承安二年巳癸正月八日辰剋、紀州在田鄕石垣庄内吉原村ニシテ誕生ス。懷妊ノ初ヨリヒソカニ願念ヲ發ス。若男子ナラハ髙雄ノ藥師仏ニマイラせテ、佛弟子トナスヘシト。仍童名ヲ藥師ト号ス後ニ一郎ト改タム。上人自語云、生年二歲ノ時、乳母コレヲイタキテ淸水寺ニ詣ス。諸人群集シテ或ハ經ヲ讀或ハ仏ヲ禮ス。見聞ノ間分別ナシト雖モ信心ヲ發ス。其時地主ノ社ノ御前ニ、本所ノ輩、延年遊戲ス。乳母見物ノタメニ、又彼所ニ趣ク。而ルニ延年ハミタクモ覺ヘスシテ、前ノ所ヘ行ムト泣叫フ。此レ心ニ覺テ佛法ヲ尊ク思ヒ始シ時ナリ。其以前以後ノ事ハタシニカ覺ス。又四歲ノ時、親父烏冒子ヲ取テキせテ云ク、形チ美容ナリ。男ニナシテ大臣殿小松内府ヘマイラせント云フ。心ニ思ク、我ヲハ法師ニナサムトコソ云ニ、美容ナリト云テ、男ニナサムト云ニ、カタワツキテ法師ニナラムト思ヒテ緣ヨリ墮ツ。人見テカタキ取、アヤマチケニ思ヘリキ。其後此事ナヲ遺恨ニ覺テ面ヲヤキ損セムト思テ、火箸ヲ燒。其熱氣ヲソロシク覺テ、先心ミニ左ノ臂ヨリ下ニ寸許ノ程ニ引アツ。ソノアツサニ涕泣シテ、面ニハアテスシテ止ニキ。此事佛法ノユヘニ身ヲヤツサムト思シハシメ也。又サシテ何事ト覺ヱサレトモ、佛法ノ事ト云ヒ、佛ノ御事ト云音聞シカハ、貴ク信ノ發リムツマシク覺シ事ハ、二歲以後物々ヲホヘタチテ後ハ何事モ餘事ノサ程覺ユル事ハナカリキ云々。
一生年七歲ノ時、其姨母夢ニ此兒白服ヲ着セリ。白布ヲモテ縛リテ柱ニ結ヒ付ルニ、ヒキチキリテ西ヲサシテ去ト見ル云々。上人自云ク、彼玄奘三藏ノ母夢ニ、三藏幼年ノ時、白服ヲ着シテ西ヲサシテ去ト見ル。此ハ天竺ヘワタルヘキ先兆ナリト云々。然レハ此夢モ正ク渡ルコトコソナケレトモ、心ヲ遺跡ニカケテ天竺ヘ渡ラムト云カ見ル歟。若ハ法師ニ成テ永ク欲縛ヲタツヘキカ見ケル歟云々。其後生年九歲ノトキ、八月ノコロ、髙尾山ニノホル。親類ニハナルヽ事カナシク覺ヱテ、泣々ク馬ニノリテ登山ス。鳴瀧河ヲワタルニ、ソノ馬アユミアユミ水ヲ飮ム。心ニ思ク、コノ馬タニモ人ノ心ヲ知テ、行ケトコソ思ラメトテ、立留ラスシテアユミアユミ水ヲ飮ム。我親類ノ後生タスカラムタメニ、法師ニナシテ尊トカラムトス。然レハ其志ヲ知テ尊トカルヘキニ、何ソ此馬ニヲトルヘキ。今ハ法師ナリヲ尊ク行テ、親類ヨリ始メテミナ一切衆生ヲ導引ムト思フ願ヲヲコス。其後、類親ノ戀シサモウせ、又尊トカラム事ヲノミ思キ。如此思ヒツヽケテ髙尾ニノホリツキヌ。則上覺上人ニ付テ倶舎頌ヲ受始ム。
一 父母ニヲクレタルコト、日夜朝暮ニ思ヒ忘ル時ナシ。犬烏ヲ見ルマテモ、我父母ニテヤアラムト思ニ、ムツマシクヲモク覺テ犬ノ臥タル上ヲモ越行事ナシ。一度小犬ヲ超ルコトアリキ。父母ニテモヤアラムト恐覺テ、即時ニ立返テ拜ス。又戲レ咲フコトアルニモ、若父母三途ニ生レテ重苦ヲモウケムニ、是ヲタスケサラムサキニ、何事ヲ心ヨクシテカ戲レ咲フヘキ。若又善趣ニ有テ我ヲミル生ヲ受タラハ、我カ死ヲシラスシテ放逸歡樂シテ戲レ咲トミム事、ハツカシク覺テ、輙ク戲咲スル事ナカリキ。此事、睡時ノ外思ヒ忘ルヽ時ナシ。餘事、心ニイラスシテカナシク覺ル處ニ、釋尊ハ我等カ慈父ナリ。衆生ノ爲ニ世ニ出テ給ト聞シヨリ後、佛ノ御事ト云ヘハ尊クムツマシク思ヒ奉テ、心ヲ養トコロニ、化緣薪盡テ入滅ヲ唱ヘ給ニケリトキケハ、我等ステニ佛ニヲクレ奉リヌ。何レノ世ニカ値遇シ奉ル期アルヘキ。滅後ノ悲ミ抑カタク、戀慕ノ心タトウル方ナシ。父母ニヲクルヽ恨ミ、仏ノ御事ニノソムレハ物ノカスニアラサリケリ。然レハ今ハ法師ニナリテ行ヒ勤メテ尊トカラムコトヲ勵ムヘシ。聖敎ト云ハ、佛ノ人ヲ訓ヘ給ヒケル御詞ナリ。此ヲ習テコソ佛ノ御事ヲハ知ルヘキ事ナレト思テ、今ハ佛菩薩ニモコノ事ヲ祈請ヒ申テ、コレヲモテ佛ノ御形見トシテ心ヲヤスムヘシ。然ハ佛ニヲクレ奉ル事ノカナシサニカヘテ、父母類親ノ事ハ次ニナリニキ。其後慈父ニ捨ラレ奉テ、滅後ニ生テ如來ヲミ奉ラサルウラミ、片時モワスレス其心弥相續ス云々。
髙山寺明恵上人行状
沙門髙弁は紀伊国在田の郡〈現在の和歌山県有田郡〉の人である。父は平七武者重国高倉院武者所、本姓は伊藤氏〈伊勢に定着し拠点とした藤原氏の一族〉。養父の姓によって「藤」を改めて「平」とした。治承四年庚子〈1180〉九月の源平の乱〈治承・寿永の乱〉の始め、上総国〈現在の千葉県中部〉にて源氏によって誅せられた。母は湯浅権守、藤原宗重の第四女である。次年〈1181〉の春、正月八日に入滅。上人はその時、八歲であった。二親が早世したことにより、その後は姨母〈母の姉妹。母方の伯母・叔母〉に養育されたという。親父が法輪寺に詣でて子息(を懐妊すること)を祈請したところ、ある日参詣の夢に、(本堂の)内陣から一人の者が出で来ると、告げて
「汝が望んでいるものを与えよう」
と云い、一本の針をもって右の耳たぶを刺すの見た。また、その母は(京都の)四条坊門の髙倉〈四条坊門小路と高倉小路の交差地〉から(頂法寺)六角堂への万度詣でを企てた。その間は一万巻の『観音経』〈『妙法蓮華経』観世音菩薩普門品〉を読むことを勤めとし、我が後生の助けとなる仏弟子として尊くなるような子息を授かるように祈請していた。(六角堂への万度詣での間、)風雨をはばかることなく、寒さ熱さを苦ともせず、一心にその事を祈請していたある日、承安元年〈1171〉四月の頃、髙倉の宿所にて、その妹の崎山〈湯浅氏の分流〉の女房と枕を合せに同宿した。(その夜、)上人の母は、夢で或る人の手から甘子〈柑橘類の果実〉を得るというのを見たという。(翌朝、)この夢を語ったところ、その妹がまた語るには、
「私も今夜の夢で、人から白い小さい土器に大きな甘子二菓を入れたのを授かりました。ところが(姉である上人の母が)これを見ると『これは私が授かるべき物である』と云って奪い取られた、というのを見ました」
という。その後、(上人の母は)懐妊したのである。
上人自らが云われるには、
「かの漢土にて趙氏の女が夢を見、梵僧が二つの金菓を持って来て授け、『汝に良い種を与えよう。よくこれを守護せよ』といった。その後、二人の娘を産んだのである。二人の娘はともに出家した。一人は『華厳経』を受持し、(その僧名を)無量といった。もう一人は『涅槃経』を受持し、恵嵩といった。(二人の娘が)『華厳』と『涅槃』の二経を受持したのは、(夢で)二つの金菓を授かったことに見える。これを考えたならば、金菓というのは(母と叔母が夢に見た)柑子のことであろう。今、私は華厳と真言の二宗の末流であることに依り、大柑子二菓を授かると見るべきであろう」
という。(上人の)母氏が懐妊している間は、常に『法華経』安楽行品を転読していた、ということである。
承安二年巳癸〈1172〉正月八日辰剋〈午前八時頃〉、紀州在田郷石垣庄内吉原村〈現在の和歌山県有田川町〉にて(上人は)誕生した。(両親は)懐妊の初めより、ひそかに願念を発していた。もし男子ならば髙雄の薬師仏〈高雄山神護寺の本尊〉に参らせて仏弟子とならせようと。そこで童名を「薬師」と号した後に一郎と改めた。上人が自ら語られたのには、
「生年二歲の時、乳母が私を抱いて清水寺に詣でた。(そこでは)人々が群集し、ある者は経を読み、ある者は仏を礼拝していた。それを見聞していた間、(幼年であって)分別〈物事の見分け・区別〉などなかったけれども信心を発したのである。その時、地主の社の御前にて、本所の輩が延年遊戲〈法会の後に下級僧らによって行われた歌舞音曲。猿楽など〉をしていた。乳母は見物のためにまたその所に趣いた。しかし、延年など見たいなどと思わず、(もう一度)前の所へ行こうと泣き叫んだ。これが心に覚えている仏法を尊く思い始めた時である。それ以前、以後のことは確かに覚えてはいない」
とのことであった。また、
「四歲の時、親父が烏帽子を取って着せると、
『形、美容である。男にして大臣殿小松内府〈平重盛。平清盛の長子〉へ参らせよう』
と言う。そこで心に思ったのは、『私をして法師にしようとこそ云っていたのに、美容であるからと男にしようと云うならば、片端〈身体障害者〉づいて法師になろう』と思って、縁から(わざと)墮ちた。人がそれを見ると抱きかかえ、(不注意から)誤まったのであろうと思っていた。その後、その(片端になろうと大怪我するのを失敗した)事をなお遺恨と覚えていたため、(ならば)顔を焼いて傷つけようと思い、火箸を焼いた。(けれども)その熱気に恐ろしくなり、先ず試みに左の臂から下ニ寸ばかりの程に引き当てた。するとその熱さに涕泣して、顔には当てず止めにした。この事は仏法のために身をやつそうと思った初めである。また、さして何事とは覚えてはいないけれども、仏法の事と云い、仏の御事と云う音を聞いたならば、貴く信が発って睦まじく思うことは、二歲以後に物がわかるようになって後に、何事であれ他事についてさほどに思うことはなかった」
とのことであった。
一.生年七歲の時、その姨母が、夢の中で、その児が白服を着ていた。そこで白布でもって縛り柱に結び付けると、引きちぎって西に向かって去った、というのを見た。(これについて、)上人自ら云うには、
「かの玄奘三蔵の母が夢で、三蔵が幼年の時、白服を着て西に向かって去る、というのを見ている。これは天竺へ渡るべき先兆であったろう。ならばこの夢も、まさしく(私が海を)渡ることこそなかったけれども、心を(仏陀の)遺跡にかけて天竺〈印度〉へ渡ろうと云うことに先見であろう。あるいは法師になって永く欲縛〈五欲への繋縛。見聞覚知した物事への執着〉を断つであろうことの先見であろう」
とのことであった。その後、生年九歲の時、八月の頃、高尾山〈高雄山神護寺〉に登った。親類から離れることを悲しく思えて、泣く泣く馬に乗って山を登っていった。鳴瀧河〈現在の清滝川。神護寺の麓の谷間を流れる〉を渡るのに、その馬は歩み歩みに水を飲んだ。(その様子を見て)心に思った、この馬であっても人の心を知り、行かなければとこそ思い、立ち留まらずに歩み歩みに水を飲んでいるのだ。私の親類が後生に助かろうと、(私を)法師にさせて尊いものとしようというのだ。ならば、その志を知って尊いものとなるべきであるのに、どうしてこの馬に劣ってよいことがあろうか。今は法師のあリ様として尊く行い、親類より始めて皆、一切衆生を導引こうと思う願いを起こした。その後、類親への恋しさも失せ、また尊とかる事をのみ思った。そのように思い続けて髙尾に登り着いた。そして上覚上人〈明恵の母方の叔父。文覚の弟子〉について『倶舎頌』〈『倶舎論』の本頌。仏教の入門書〉を受け始めた。
一.父母(が共に逝去し自らのみ遺され、その死期)に遅れたことを、日夜朝暮に思って忘れる時はなかった。犬や烏を見るにつけ、(生まれ変わった)我が父母ではなかろうか思い、睦まじく、重く思えて、犬で臥しているのの上でも跨いで行くことはなかった。(ところが不意に)一度、小犬を跨いでしまったことがあった。父か母であったかもしれないと恐れ思い、即時に立ち返って(非礼を深く詫びて)拝んだ。また戯れて笑うようなことがあっても、もし父母が三途〈地獄・餓鬼・畜生〉に生れて重い苦しみをも受けているのにこれを助けもしないうちに、何事か快くして戯れ笑うべきであろう(と思っていた)。もしまた(父母が)善趣〈人界あるいは天界〉にあって私を眼にし得る生を受けていたならば、我が(来たるべき)死を知らずに放逸に歓楽して戯れ笑っている、と見られることを恥ずかしく思い、たやすく戯笑することはなかった。この事は、睡っている時の外では、思い忘れる時は無かった。他の事で心に入ることなどなく悲しく思える処に、釈尊は我等の慈父である。衆生の為に世に出て給われたと聞いてから後、仏の御事と云えば尊く睦まじく思い奉って、心を養うところに、化縁の薪〈教化の機縁。ここでは釈尊の寿命〉が盡き、入滅を唱え給われたと聞いたならば、我等はすでに仏に遅れ奉っている。何れの世にか(仏に)値遇し奉る期があるであろう。滅後の悲しみは抑え難く、恋慕の心を喩える方も無かった。父母に遅れたことの恨みは、仏の御事に比べたならば物の数でない。ならば、今は法師になって行い勤め、尊とかろうことに励まなければならない。聖教〈仏教。経律論の三蔵〉と云うのは、仏が人を訓え給いたる御詞である。これを習ってこそ、仏の御事をば知りえる事であろうと思って、今は仏・菩薩にもこの事を祈り請い申し、これを以て仏の御形見として心を安まなければならい。そうして仏に遅れ奉る事の悲しさに替え、父母類親の事は次になったのだ。その後、慈父に捨てられ奉って、滅後に生れて如來を見奉られない恨みを片時も忘れられず、その心はいよいよ相い続いた、とのことである。
明恵上人の弟子喜海によりその死後に編纂されたという初の伝記。現在、その原本は伝わっていないが施無畏寺にその写本が数本伝わっており、これを本稿では底本としている。その後、幾世代か後に著された『梅尾明恵上人伝記』(以下、『伝記』)が後代の伝説などが挿入されるなど史実から若干離れたものであるのに対し、本書は比較的忠実にその当時を伝えているとされる。ただし、本書は上中下三巻あったのが中巻を失伝した恨みがある。なお本書が仮名で著されたものであるのに対し、これを漢文として編集した漢文の行状も伝えられている。▲
[S] śramaṇa / [P] samaṇa. 原意は努める者。桑門とも音写され、または勤息などと漢訳される。
印度古来のヴェーダを奉じる宗教者・祭祀者たる婆羅門に対し、ヴェーダの権威を必ずしも肯定・継承せず、その規定や伝統に縛られずして自由な思想を奉じ実践する者を沙門といった。したがって、当時は特に仏教の出家修行者に限って用いられた称でなく、婆羅門とは異なる自由思想家一般を言った。もっとも、今一般には仏教の出家修行者、すなわち比丘をして指す語として用いられる。▲
明恵は字、坊号(房号・仮名)であり、その諱(実名)が高弁。ただし、出家当初は成弁を名乗った。
普段は坊号を名乗り、また他者も坊号で読んで諱を用いることは無く、ただその著作や血脈相承、重要な消息などにのみ実名を用いた。▲
明恵上人の実父。平重国。高倉天皇の武者所(警護役の侍)を勤めた人。
ここで「七武者」とあって、これを仮に「しちむしゃ」と訓じたがその意は未詳。『伝記』ではただ「姓ハ平、父重國ハ高倉院武者所也」とあって「七武者」なる語を継いでいない。伝記編纂当時もその意が不明であったのであろう。おそらく「七」の字は「士(氏)」もしくは「之」の写誤であったように思われる。▲
現在の千葉県中部一帯。▲
源頼朝。頼朝は治承四年八月十七日に伊豆にて挙兵し、石橋山の戦いで大敗して安房国に落ち延びた後、再起し総国を鎮定するのが九月下旬頃であったから、その頃の戦で明恵上人の父は命を落としたのであろう。▲
平安末期から鎌倉期初頭の武士。紀伊権守(国司の副官)。藤原宗永の長子で紀伊国湯浅党の祖。熊野詣の途上、平治の乱〈1159〉が勃発したことを知った平清盛を助け上洛して以後、平氏の有力な家人となった。平家が京から追われた際には平重盛の子忠房を湯浅城に匿ったが文覚の仲介に由って源頼朝に降った。後、義経の挙兵に誘われたが従わず、頼朝の下を離れず、やがて所領を安堵された。▲
母親の姉妹。母の姉を伯母、妹を叔母という。▲
洛外北東の嵐山に位置する古刹。行基の開創と伝説される。虚空蔵菩薩が本尊。▲
内陣。寺院において仏菩薩などを祀るため特に区切られた一角。▲
坊は街(区画)の意。坊門は、特に洛内の二条大路から九条大路(までの坊)で、その中央を東西に走る小路の両端に設けられていた門。四条坊門は三条大路と四条大路で区切られた坊の中央を走る、その他に比せば比較的広い(道幅12m)小路(現在の蛸薬師通)の両端にあった坊門。ここで高倉とは高倉小路(現在の高倉通)で、坊門のある小路と交差した場所(現在の蛸薬師通高倉東入雁金町の交差点)。▲
紫雲山頂法寺。四条坊門小路のすぐ北側をはしる小路と南北をはしる烏丸小路の交差する北東に位置。平安中期から観音と聖徳太子の霊地として信仰される。その本堂が六角であることから六角堂と通称される。西国三十三観音霊場の一つ。
四条坊門高倉から六角堂までは直線距離にして250m、最短距離で300m程。明恵上人の母堂はこの距離を往復して万度詣したのであるという。▲
『妙法蓮華経』の第二十五章にあたる「観世音菩薩普門品」を別出した称。その内容は仏教の思想を開陳したものでなく、ただひたすら観世音菩薩の徳(慈悲)を念じることによる諸々の功徳が説かれるのみ。觀音は音便変化して「かんのん」と一般に称される。▲
明恵上人の母は湯浅氏の出であるが、崎山は湯浅氏から出た姓の一つ。女房は朝廷に仕える女官。▲
何等か柑橘類の果実。▲
現在の和歌山県有田川町。▲
高雄山神護寺金堂の本尊。▲
音羽山清水寺。坂上田村麻呂の東国征伐の功により、大和小嶋寺の延鎮を請うて創建された寺。観音菩薩を本尊とする法相宗寺院。▲
地主明神(現在の清水寺地主神社)。清水寺本堂の裏に位置する大国主神を祀る鎮守社。▲
法会の後に行われた下級僧らによる歌舞音曲など諸の芸能。延年舞とも。▲
平重盛。平清盛の長子で小松大臣、あるいは小松内府と称された。▲
片端、あるいは片輪とも。肉体的に不具、何等か欠損のあること。身体障害者。▲
『大慈恩寺三蔵法師伝』卷第一「母夢法師著白衣西去。母曰。汝是我子今欲何去。答曰。爲求法故去。此則遊方之先兆也」(T50, p.222c)
明恵上人は長じて自身も印度渡航を企て、玄奘の『大唐西域記』や『三蔵法師伝』をよく研究しており、その故事を自身にも重ねて見ていた。▲
印度の旧称。古来、語源未詳とされる。玄奘は他に身毒、賢豆などとも支那で云われるが印度とするのが正しいとし、その意は月であると伝えている(『大唐西域記』)。▲
五欲の繫縛。見聞覚知した対象を欲し執着する諸々の欲望。▲
高雄山神護寺。▲
高雄山神護寺の北東から南西へと流れ、ついには桂川に合流する川。現在は清滝川と称される。▲
あらゆる生けるもの、生命(意識)あるもの全て。しばしば巷間、誤解されているがここでいう「生けるもの」に植物は含まれない。意識を有しないためであり、したがって生死輪廻する存在でないものであるためである。▲
上覚行慈。湯浅宗重の子息で母の弟、すなわち明恵上人の叔父。もと武士であったが後に文覚に師事して出家し神護寺に入った。▲
「諸一切種諸冥滅 拔生出生死泥...」と始まる世親『阿毘達磨倶舎論』の偈文(本頌)。出家したばかりの童子が仏教の教理を学ぶのにその基礎として最初に素読した。ただし、支那・日本ではその伝統を継ぐ者はもはや絶無となり、すなわち仏教における伝統的基礎的素養を全く失って僧を自称する者らは根拠不明の妄説をもってブッキョ―を称しているが、現在のチベット仏教の諸派においても同様に未だ行われている。▲
地獄・餓鬼・畜生の三つの境涯。六道(五趣)輪廻のうち苦痛多く忌むべき三種の生命のあり方。三悪趣とも。▲
人あるいは天としての境涯。▲
仏陀が人および神々など生けるものを教え導く機縁。仏陀としての生涯、寿命の意。▲
ここに明恵上人ひいてはその弟子など当時の人々における「仏教とは何か」の理解が現れている。それはただ誦経・祈祷・祈念などによって救済を俟つばかりのものでは決して無く、ましてや亡者あるいは祖霊をジョーブツさせるための手段でもまったくなかった。▲
[S/P] tathāgata. tathā(如・真理)からāgata(来た)と理解されたことによる訳。あるいはtathā(如・真理)へgata(行った)と理解されて如去とも訳された。いずれの理解が正しいかは定めがたいが、支那では主に前者、西蔵では後者の理解が伝統的になされている。仏陀の異称(如来の十号)の一つ。▲