VIVEKA For All Buddhist Studies.
Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

喜海 『高山寺明恵上人行状』

原文

髙山寺こうざんじ明惠みゃうえ上人しゃうにん行狀ぎょうじゃう

沙門しゃもん髙弁かうべん紀伊國きいのくに在田ありたの郡人こほりのひと也。父たいらの七武者しちむしゃ重國しげくに髙倉院武者所、本姓者伊藤いとう氏、養父やうふかばねヨテとうヲ改へいトス治承ぢしゃう四年庚子九月源平げんぺいノ亂ノ始上總國かずさのくにシテ源氏げんじタメちゅうセラレをはん。母湯淺ゆあさ權守ごんのかみ藤原宗重むねしげ第四女ナリ。次年春、正月八日入滅にうめつ。上人、時八歲ナリ二親にしん早世そうせスルヨテ、其後姨母いも養育セラル云々親父しんぷ法輪寺はふりんじけいシテ子息祈請きしゃうスルニ、或日參詣さんけいトキ夢内陳ないぢんヨリ一人出來いできつげいは、汝所望しょもうコレヲアタヘム。スナハチひとつはりモテ右タリサスト見。又、其母そのはは四條坊門ぼうもん髙倉たかくらヨリ六角堂ろっかくだう万度まんどマウテヲくはだ其間そのま一万卷觀音經くわんおんきゃうヨミテつとめトシテ、我後生ごしゃうタスケ、佛弟子トシテタウカラム子息しそく給ラムト祈請。風雨ヲハヽカラス、寒熱イタマス、一心此事祈請スルトコロ承安じゃうあん元年四月ノ比、髙倉宿所シテかのいも崎山さきやま女房にうばう枕合まくらあはせ。上人母、夢或人あるひとヨリ甘子かんじヱタリト見ル云々。此夢ルニ、其妹又語、我モ今夜夢人アテ、白小カハラケ大甘子二菓しかるコレヲ見、此我給ヘキ物ナリト云テ、奪トラレヌト見云々。其後懷妊くわいにん。上人自云ク、彼漢土かんど趙氏ちょうし女夢梵僧ぼんそうふたつノ金菓ヲ持シテ來云、汝良種よきたねヲアタヱム。ヨク守護スヘシ云々。其後二女。二女トモ出家。一人花嚴經けごんきゃう無量むりゃうナツク。一人涅槃經ねはんきゃう惠嵩えすうナツク。花嚴涅槃二經ヲ持スルヨテ、二金菓こんかたまふト見ナリ。しらべルニ金菓ト云フハ柑子ナルヘシ云々、今我花嚴けごん眞言しんごん二宗末流まつりうタルニよりテ、大柑子二菓ヲ給見ヘケル。母氏懷妊くわいにんノ間常法花經ほけきゃう安樂行品あんらくぎゃうぼん轉讀てんどくス云々

承安じゃうあん二年巳癸正月八日辰剋たつのこく紀州在田鄕ありたがう石垣庄内いしがきのしゃうない吉原よしはらシテ誕生懷妊くわいにんはじめヨリヒソカニ願念ぐわんねんおこもし男子をのこナラハ髙雄たかおノ藥師仏マイラせテ、佛弟子トナスヘシト。よりて童名わらはな藥師やくし後ニ一郎ト改タム。上人みずからかたりていはく、生年二歲時、乳母おもコレヲイタキテ淸水寺きよみずでら。諸人群集シテよみらい見聞けんもんノ間分別ふんべちナシトいへど信心ヲおこス。其時地主ぢしゅやしろノ御前本所ほんじょともがら延年えんねん遊戲いうぎ。乳母見物タメ、又かのところおもぶしかルニ延年ミタクモ覺ヘスシテさき所ヘ行ムトなき。此佛法ヲ尊ナリその以前以後ノ事タシカ覺。又四歲ノ時、親父烏冒子えぼしキせテ云かた美容ナリ。男ナシテ大臣殿おほいどの小松内府ヘマイラせント云。心、我ヲハ法師ほふしナサムトコソ云、美容ナリト云テ、男ナサムト云カタワツキテ法師ナラムト思ヒテえんヨリツ。人見カタキ取、アヤマチケ思ヘリキ。其後此事ナヲ遺恨いこん覺テおもてヤキ損セムト思テ、火箸ひばしヲ燒。其熱氣あつけヲソロシク覺テ、先心ミニひぢヨリ下ニ寸ばかり程ニ引アツ。ソノアツサニ涕泣ていきふシテ、面ニハアテスシテ止キ。此事佛法ノユヘ身ヲヤツサムト思シハシメ也。又サシテ何事サレトモ、佛法事ト云、佛ノ御事トいふこえ聞シカハ、貴ク信おこムツマシク覺、二歲以後物々ものものヲホヘタチテ後何事モ餘事ノサほど覺ユル事ナカリキ云々

一生年七歲時、其姨母いも此兒このこ白服しろふくちゃくセリ。白布モテ縛リテ付ルニ、ヒキチキリテ西サシテ去ト見ル云々。上人みずから、彼玄奘げんじゃう三藏ノ母、三藏幼年ノ時、白服着シテ西サシテ去ト見ル。此天竺てんじくヘワタルヘキ先兆せんてうナリト云々。然レハ此夢モまさしク渡ルコトコソナケレトモ、心ヲ遺跡ゆいせきカケテ天竺ヘ渡ラムト云カ見歟。若法師欲縛よくばくタツヘキカみへケル歟云々。其後生年しゃうねん九歲トキ、八月ノコロ、髙尾山たかおのやまノホル。親類ハナルヽ事カナシク覺ヱテ、泣々なくなノリテ登山鳴瀧河なるたきがわワタル、ソノ馬アユミアユミ水。心、コノ馬タニモ人ノ心、行ケトコソおもへラメトテ、たちとどまラスシテアユミアユミ水わが親類しんるい後生ごしゃうタスカラムタメ、法師ナシテたうカラムトス。しかレハ其志カルヘキ、何ソ此馬ヲトルヘキ。今法師ナリヲ尊クゆきテ、親類ヨリ始メテミナ一切いっさい衆生しゅじゃうみちびきひかムト思フねがひヲコス。其後、類親ノしたシサモウせ、又尊カラム事ノミ思キ。如此思ツヽケテ髙尾ノホリツキヌ。則上覺じゃうかく上人付テ倶舎頌くしゃじゅうけはじム。

父母ぶもヲクレタルコト、日夜にちや朝暮ちゃうぼ時ナシ。いぬからすマテモ、我父母テヤアラムト思、ムツマシクヲモク覺テ犬ノふしタル上こへゆく事ナシ。一度小犬超ルコトアリキ。父母テモヤアラムトおそれ、即時立返テ拜ス。又あざわらコトアルモ、若父母三途さんず重苦ぢうくモウケム、是ヲタスケサラムサキ、何事ヲ心ヨクシテカあざわらフヘキ。もし善趣ぜんしゅミル生受タラハ、我死ヲシラスシテ放逸はういつ歡樂くわんらくシテ戲レ咲トミム事、ハツカシク覺たやす戲咲げしゃうスル事ナカリキ。此事、睡時すいじほか思ヒ忘ルヽ時ナシ。餘事、心イラスシテカナシク覺ル處釋尊しゃくそん我等慈父じふナリ。衆生しゅじゃうノ爲聞シヨリ後、佛ノ御事おんことト云ヘ尊クムツマシク思ヒ奉、心やしなふトコロ化緣けえんまきつき入滅ケリトキケハ、我等ステヲクレ奉リヌ。いずレノ世ニカ値遇ちぐうシ奉ルアルヘキ。滅後ノかなしおさへカタク、戀慕れんぼノ心タトウル方ナシ。父母ヲクルヽ恨、仏ノ御事ノソムレハ物ノカスアラサリケリ。然レハ今ハ法師ナリテ行メテカラムコトヲはげムヘシ。聖敎しゃうぎゃうト云ハ、佛人ヲおし給ヒケル御詞おんことばナリ。此コソ佛ノ御事ヲハヘキ事ナレト思、今ハ佛菩薩ニモコノ事ヲいのりまうし、コレヲモテ佛ノ御形見おんかたみシテ心ヲヤスムヘシ。然ヲクレ奉ル事ノカナシサニカヘテ、父母類親次ニナリニキ。其後慈父捨ラレ奉テ、滅後うまれ如來にょらいミ奉ラサルウラミ、片時かたときモワスレス其心いよいよ相續ス云々

現代語訳

髙山寺こうざんじ明恵みゃうえ上人しょうにん行状ぎょうじょう

沙門しゃもん髙弁こうべんは紀伊国在田ありたのこおり〈現在の和歌山県有田郡〉の人である。父はたいらの七武者しちむしゃ重国しげくに高倉院武者所、本姓は伊藤いとう〈伊勢に定着し拠点とした藤原氏の一族〉。養父のかばねによって「とう」を改めて「へい」とした。治承じしょう四年庚子〈1180〉九月の源平の乱〈治承・寿永の乱〉の始め、上総国かずさのくに〈現在の千葉県中部〉にて源氏によってちゅうせられた。母は湯浅ゆあさ権守ごんのかみ、藤原宗重むねしげの第四女である。次年〈1181〉の春、正月八日に入滅。上人はその時、八歲であった。二親にしんが早世したことにより、その後は姨母いぼ〈母の姉妹。母方の伯母・叔母〉に養育されたという親父しんぷ法輪寺ほうりんじに詣でて子息(を懐妊すること)を祈請きしょうしたところ、ある日参詣の夢に、(本堂の)内陣から一人の者がると、告げて
「汝が望んでいるものを与えよう」
と云い、一本の針をもって右の耳たぶを刺すの見た。また、その母は(京都の)四条坊門ぼうもん髙倉たかくら〈四条坊門小路と高倉小路の交差地〉から(頂法寺)六角堂への万度もうでをくわだてた。その間は一万巻の『観音経』〈『妙法蓮華経』観世音菩薩普門品〉を読むことを勤めとし、我が後生ごしょうの助けとなる仏弟子としてとうとくなるような子息を授かるように祈請していた。(六角堂への万度詣での間、)風雨をはばかることなく、寒さ熱さを苦ともせず、一心にその事を祈請していたある日、承安じょうあん元年〈1171〉四月の頃、髙倉の宿所にて、その妹の崎山さきやま〈湯浅氏の分流〉女房にょうぼうと枕を合せに同宿した。(その夜、)上人の母は、夢で或る人の手から甘子かんじ〈柑橘類の果実〉を得るというのを見たという。(翌朝、)この夢を語ったところ、その妹がまた語るには、
「私も今夜の夢で、人から白い小さい土器に大きな甘子二菓を入れたのを授かりました。ところが(姉である上人の母が)これを見ると『これは私が授かるべき物である』と云って奪い取られた、というのを見ました」
という。その後、(上人の母は)懐妊したのである。
上人自らが云われるには、
「かの漢土にて趙氏ちょうしの女が夢を見、梵僧が二つの金菓を持って来て授け、『汝に良い種を与えよう。よくこれを守護せよ』といった。その後、二人の娘を産んだのである。二人の娘はともに出家した。一人は『華厳経けごんきょう』を受持し、(その僧名を)無量むりょうといった。もう一人は『涅槃経ねはんぎょう』を受持し、恵嵩えすうといった。(二人の娘が)『華厳』と『涅槃』の二経を受持したのは、(夢で)二つの金菓こんかを授かったことに見える。これを考えたならば、金菓というのは(母と叔母が夢に見た)柑子のことであろう。今、私は華厳と真言の二宗の末流であることに依り、大柑子二菓を授かると見るべきであろう」
という。(上人の)母氏が懐妊している間は、常に『法華経』安楽行品あんらくぎょうぼんを転読していた、ということである。

承安二年巳癸〈1172〉正月八日辰剋たつのこく〈午前八時頃〉、紀州在田郷ありたごう石垣庄内いしがきのしょうない吉原よしはら〈現在の和歌山県有田川町〉にて(上人は)誕生した。(両親は)懐妊の初めより、ひそかに願念をおこしていた。もし男子ならば髙雄の薬師仏〈高雄山神護寺の本尊〉に参らせて仏弟子とならせようと。そこで童名を「薬師やくし」と号した後に一郎と改めた。上人が自ら語られたのには、
「生年二歲の時、乳母が私を抱いて清水寺に詣でた。(そこでは)人々が群集し、ある者は経を読み、ある者は仏を礼拝していた。それを見聞していた間、(幼年であって)分別ふんべつ〈物事の見分け・区別〉などなかったけれども信心を発したのである。その時、地主の社の御前にて、本所の輩が延年えんねん遊戲ゆうぎ〈法会の後に下級僧らによって行われた歌舞音曲。猿楽など〉をしていた。乳母は見物のためにまたその所に趣いた。しかし、延年など見たいなどと思わず、(もう一度)前の所へ行こうと泣き叫んだ。これが心に覚えている仏法を尊く思い始めた時である。それ以前、以後のことは確かに覚えてはいない
とのことであった。また、
「四歲の時、親父が烏帽子を取って着せると、
『形、美容である。男にして大臣殿おおいどの小松内府〈平重盛。平清盛の長子〉へ参らせよう』
と言う。そこで心に思ったのは、『私をして法師にしようとこそ云っていたのに、美容であるからと男にしようと云うならば、片端かたわ〈身体障害者〉づいて法師になろう』と思って、縁から(わざと)墮ちた。人がそれを見ると抱きかかえ、(不注意から)誤まったのであろうと思っていた。その後、その(片端になろうと大怪我するのを失敗した)事をなお遺恨と覚えていたため、(ならば)顔を焼いて傷つけようと思い、火箸を焼いた。(けれども)その熱気に恐ろしくなり、先ず試みに左の臂から下ニ寸ばかりの程に引き当てた。するとその熱さに涕泣して、顔には当てず止めにした。この事は仏法のために身をやつそうと思った初めである。また、さして何事とは覚えてはいないけれども、仏法の事と云い、仏の御事と云う音を聞いたならば、貴く信が発って睦まじく思うことは、二歲以後に物がわかるようになって後に、何事であれ他事についてさほどに思うことはなかった」
とのことであった。

一.生年七歲の時、その姨母が、夢の中で、その児が白服を着ていた。そこで白布でもって縛り柱に結び付けると、引きちぎって西に向かって去った、というのを見た。(これについて、)上人自ら云うには、
「かの玄奘三蔵の母が夢で、三蔵が幼年の時、白服を着て西に向かって去る、というのを見ている。これは天竺へ渡るべき先兆であったろう。ならばこの夢も、まさしく(私が海を)渡ることこそなかったけれども、心を(仏陀の)遺跡にかけて天竺〈印度〉へ渡ろうと云うことに先見であろう。あるいは法師になって永く欲縛よくばく〈五欲への繋縛。見聞覚知した物事への執着〉を断つであろうことの先見であろう」
とのことであった。その後、生年九歲の時、八月の頃、高尾山〈高雄山神護寺〉に登った。親類から離れることを悲しく思えて、泣く泣く馬に乗って山を登っていった。鳴瀧河なるたきがわ〈現在の清滝川。神護寺の麓の谷間を流れる〉を渡るのに、その馬は歩み歩みに水を飲んだ。(その様子を見て)心に思った、この馬であっても人の心を知り、行かなければとこそ思い、立ち留まらずに歩み歩みに水を飲んでいるのだ。私の親類が後生ごしょうに助かろうと、(私を)法師にさせて尊いものとしようというのだ。ならば、その志を知って尊いものとなるべきであるのに、どうしてこの馬に劣ってよいことがあろうか。今は法師のあリ様として尊く行い、親類より始めて皆、一切衆生を導引こうと思う願いを起こした。その後、類親への恋しさも失せ、また尊とかる事をのみ思った。そのように思い続けて髙尾に登り着いた。そして上覚じゃうかく上人〈明恵の母方の叔父。文覚の弟子〉について『倶舎頌くしゃじゅ〈『倶舎論』の本頌。仏教の入門書〉を受け始めた。

一.父母(が共に逝去し自らのみ遺され、その死期)に遅れたことを、日夜朝暮に思って忘れる時はなかった。犬やからすを見るにつけ、(生まれ変わった)我が父母ではなかろうか思い、睦まじく、重く思えて、犬で臥しているのの上でも跨いで行くことはなかった。(ところが不意に)一度、小犬を跨いでしまったことがあった。父か母であったかもしれないと恐れ思い、即時に立ち返って(非礼を深く詫びて)拝んだ。また戯れて笑うようなことがあっても、もし父母が三途さんず〈地獄・餓鬼・畜生〉に生れて重い苦しみをも受けているのにこれを助けもしないうちに、何事か快くして戯れ笑うべきであろう(と思っていた)。もしまた(父母が)善趣ぜんしゅ〈人界あるいは天界〉にあって私を眼にし得る生を受けていたならば、我が(来たるべき)死を知らずに放逸に歓楽して戯れ笑っている、と見られることを恥ずかしく思い、たやすく戯笑げしゃうすることはなかった。この事は、睡っている時の外では、思い忘れる時は無かった。他の事で心に入ることなどなく悲しく思える処に、釈尊は我等の慈父である。衆生の為に世に出て給われたと聞いてから後、仏の御事と云えば尊く睦まじく思い奉って、心を養うところに、化縁けえんの薪〈教化の機縁。ここでは釈尊の寿命〉が盡き、入滅を唱え給われたと聞いたならば、我等はすでに仏に遅れ奉っている。何れの世にか(仏に)値遇し奉る期があるであろう。滅後の悲しみは抑え難く、恋慕の心を喩える方も無かった。父母に遅れたことの恨みは、仏の御事に比べたならば物の数でない。ならば、今は法師になって行い勤め、尊とかろうことに励まなければならない。聖教しょうぎょう〈仏教。経律論の三蔵〉と云うのは、仏が人をおしえ給いたる御詞おことばである。これを習ってこそ、仏の御事をば知りえる事であろうと思って、今は仏・菩薩にもこの事を祈り請い申し、これを以て仏の御形見として心を安まなければならい。そうして仏に遅れ奉る事の悲しさに替え、父母類親の事は次になったのだ。その後、慈父に捨てられ奉って、滅後に生れて如來を見奉られない恨みを片時も忘れられず、その心はいよいよ相い続いた、とのことである。

脚註

  1. 髙山寺こうざんじ明惠みゃうえ上人しゃうにん行狀ぎょうじゃう

    明恵上人の弟子喜海によりその死後に編纂されたという初の伝記。現在、その原本は伝わっていないが施無畏寺にその写本が数本伝わっており、これを本稿では底本としている。その後、幾世代か後に著された『梅尾明恵上人伝記』(以下、『伝記』)が後代の伝説などが挿入されるなど史実から若干離れたものであるのに対し、本書は比較的忠実にその当時を伝えているとされる。ただし、本書は上中下三巻あったのが中巻を失伝した恨みがある。なお本書が仮名で著されたものであるのに対し、これを漢文として編集した漢文の行状も伝えられている。

  2. 沙門しゃもん

    [S] śramaṇa / [P] samaṇa. 原意は努める者。桑門とも音写され、または勤息などと漢訳される。
    印度古来のヴェーダを奉じる宗教者・祭祀者たる婆羅門に対し、ヴェーダの権威を必ずしも肯定・継承せず、その規定や伝統に縛られずして自由な思想を奉じ実践する者を沙門といった。したがって、当時は特に仏教の出家修行者に限って用いられた称でなく、婆羅門とは異なる自由思想家一般を言った。もっとも、今一般には仏教の出家修行者、すなわち比丘をして指す語として用いられる。

  3. 髙弁かうべん

    明恵はあざな、坊号(房号・仮名けみょう)であり、そのいみな実名じつみょう)が高弁。ただし、出家当初は成弁じょうべんを名乗った。
    普段は坊号を名乗り、また他者も坊号で読んで諱を用いることは無く、ただその著作や血脈相承、重要な消息などにのみ実名を用いた。

  4. たいらの七武者しちむしゃ重國しげくに

    明恵上人の実父。平重国。高倉天皇の武者所むしゃどころ(警護役の侍)を勤めた人。
    ここで「七武者」とあって、これを仮に「しちむしゃ」と訓じたがその意は未詳。『伝記』ではただ「姓ハ平、父重國ハ高倉院武者所也」とあって「七武者」なる語を継いでいない。伝記編纂当時もその意が不明であったのであろう。おそらく「七」の字は「士(氏)」もしくは「之」の写誤であったように思われる。

  5. 上總國かずさのくに

    現在の千葉県中部一帯。

  6. 源氏げんじ

    源頼朝。頼朝は治承四年八月十七日に伊豆にて挙兵し、石橋山の戦いで大敗して安房国に落ち延びた後、再起し総国を鎮定するのが九月下旬頃であったから、その頃の戦で明恵上人の父は命を落としたのであろう。

  7. 湯淺ゆあさ權守ごんのかみ藤原宗重むねしげ

    平安末期から鎌倉期初頭の武士。紀伊権守(国司の副官)。藤原宗永の長子で紀伊国湯浅党の祖。熊野詣の途上、平治の乱〈1159〉が勃発したことを知った平清盛を助け上洛して以後、平氏の有力な家人となった。平家が京から追われた際には平重盛の子忠房を湯浅城に匿ったが文覚の仲介に由って源頼朝に降った。後、義経の挙兵に誘われたが従わず、頼朝の下を離れず、やがて所領を安堵された。

  8. 姨母いも

    母親の姉妹。母の姉を伯母、妹を叔母という。

  9. 法輪寺はふりんじ

    洛外北東の嵐山に位置する古刹。行基の開創と伝説される。虚空蔵菩薩が本尊。

  10. 内陳ないぢん

    内陣。寺院において仏菩薩などを祀るため特に区切られた一角。

  11. 四條坊門ぼうもん髙倉たかくら

    坊は街(区画)の意。坊門は、特に洛内の二条大路から九条大路(までの坊)で、その中央を東西に走る小路の両端に設けられていた門。四条坊門は三条大路と四条大路で区切られた坊の中央を走る、その他に比せば比較的広い(道幅12m)小路(現在の蛸薬師通)の両端にあった坊門。ここで高倉とは高倉小路(現在の高倉通)で、坊門のある小路と交差した場所(現在の蛸薬師通高倉東入雁金町の交差点)。

  12. 六角堂ろっかくだう

    紫雲山頂法寺。四条坊門小路のすぐ北側をはしる小路と南北をはしる烏丸小路の交差する北東に位置。平安中期から観音と聖徳太子の霊地として信仰される。その本堂が六角であることから六角堂と通称される。西国三十三観音霊場の一つ。
    四条坊門高倉から六角堂までは直線距離にして250m、最短距離で300m程。明恵上人の母堂はこの距離を往復して万度詣したのであるという。

  13. 觀音經くわんおんきゃう

    『妙法蓮華経』の第二十五章にあたる「観世音菩薩普門品」を別出した称。その内容は仏教の思想を開陳したものでなく、ただひたすら観世音菩薩の徳(慈悲)を念じることによる諸々の功徳が説かれるのみ。觀音は音便変化して「かんのん」と一般に称される。

  14. 崎山さきやま女房にうばう

    明恵上人の母は湯浅氏の出であるが、崎山は湯浅氏から出た姓の一つ。女房は朝廷に仕える女官。

  15. 甘子かんじ

    何等か柑橘類の果実。

  16. 紀州在田鄕ありたがう石垣庄内いしがきのしゃうない吉原よしはら

    現在の和歌山県有田川町。

  17. 髙雄たかおノ藥師仏

    高雄山神護寺金堂の本尊。

  18. 淸水寺きよみずでら

    音羽山清水寺。坂上田村麻呂の東国征伐の功により、大和小嶋寺の延鎮を請うて創建された寺。観音菩薩を本尊とする法相宗寺院。

  19. 地主ぢしゅやしろ

    地主明神(現在の清水寺地主神社)。清水寺本堂の裏に位置する大国主神を祀る鎮守社。

  20. 延年えんねん遊戲いうぎ

    法会の後に行われた下級僧らによる歌舞音曲など諸の芸能。延年舞とも。

  21. 大臣殿おほいどの小松内府

    平重盛。平清盛の長子で小松大臣、あるいは小松内府と称された。

  22. カタワ

    片端、あるいは片輪とも。肉体的に不具、何等か欠損のあること。身体障害者。

  23. 玄奘げんじゃう三藏ノ母

    『大慈恩寺三蔵法師伝』卷第一「母夢法師著白衣西去。母曰。汝是我子今欲何去。答曰。爲求法故去。此則遊方之先兆也」(T50, p.222c)
    明恵上人は長じて自身も印度渡航を企て、玄奘の『大唐西域記』や『三蔵法師伝』をよく研究しており、その故事を自身にも重ねて見ていた。

  24. 天竺てんじく

    印度の旧称。古来、語源未詳とされる。玄奘は他に身毒、賢豆などとも支那で云われるが印度とするのが正しいとし、その意は月であると伝えている(『大唐西域記』)。

  25. 欲縛よくばく

    五欲の繫縛。見聞覚知した対象を欲し執着する諸々の欲望。

  26. 髙尾山たかおのやま

    高雄山神護寺。

  27. 鳴瀧河なるたきがわ

    高雄山神護寺の北東から南西へと流れ、ついには桂川に合流する川。現在は清滝川と称される。

  28. わが親類しんるい後生ごしゃうタスカラムタメ

    当時の死生観および仏教に対する人々の意識が伺える一節。それは親類の人を僧として徳を積ませることが、その死後において悪趣から逃れ善処に転生することに繋がるとした見方であり、およそ『仏説盂蘭盆経』の所説に連なる理解であった。その前提として、当時の者らは多く悪業をなして死後は悪趣に転ずるに違いないとする見方、一種の諦めがあり、まして「成仏」「悉地」「悟道」など世俗の生活を送る者にとって夢のまた夢という理解がある。また、これは今の人が「亡者を供養する」「菩提を弔う」等というのに想起するものとは全く異なる態度であり、その方法であった。

  29. 一切いっさい衆生しゅじゃう

    あらゆる生けるもの、生命(意識)あるもの全て。しばしば巷間、誤解されているがここでいう「生けるもの」に植物は含まれない。意識を有しないためであり、したがって生死輪廻する存在でないものであるためである。

  30. 上覺じゃうかく上人

    上覚行慈。湯浅宗重の子息で母の弟、すなわち明恵上人の叔父。もと武士であったが後に文覚に師事して出家し神護寺に入った。

  31. 倶舎頌くしゃじゅ

    「諸一切種諸冥滅 拔生出生死泥...」と始まる世親『阿毘達磨倶舎論』の偈文(本頌)。出家したばかりの童子が仏教の教理を学ぶのにその基礎として最初に素読した。ただし、支那・日本ではその伝統を継ぐ者はもはや絶無となり、すなわち仏教における伝統的基礎的素養を全く失って僧を自称する者らは根拠不明の妄説をもってブッキョ―を称しているが、現在のチベット仏教の諸派においても同様に未だ行われている。

  32. 三途さんず

    地獄・餓鬼・畜生の三つの境涯。六道(五趣)輪廻のうち苦痛多く忌むべき三種の生命のあり方。三悪趣とも。

  33. 善趣ぜんしゅ

    人あるいは天としての境涯。

  34. 化緣けえん

    仏陀が人および神々など生けるものを教え導く機縁。仏陀としての生涯、寿命の意。

  35. 聖敎しゃうぎゃうト云ハ、佛人ヲおし給ヒ...

    ここに明恵上人ひいてはその弟子など当時の人々における「仏教とは何か」の理解が現れている。それはただ誦経・祈祷・祈念などによって救済を俟つばかりのものでは決して無く、ましてや亡者あるいは祖霊をジョーブツさせるための手段でもまったくなかった。

  36. 如來にょらい

    [S/P] tathāgata. tathā(如・真理)からāgata(来た)と理解されたことによる訳。あるいはtathā(如・真理)へgata(行った)と理解されて如去とも訳された。いずれの理解が正しいかは定めがたいが、支那では主に前者、西蔵では後者の理解が伝統的になされている。仏陀の異称(如来の十号)の一つ。

関連コンテンツ