一 建久ノ比、白上ノ修行思ヒ企シ時キ、因明ノ法門いまた師訓ヲウケス、小嶋四相違記一遍コレヲ談スへし、仍林觀房ノ法眼聖詮ニ對シテコレヲ受學ス、然ルニ夢ニ人アテ告テ云ク、八万四千諸對治門、皆此尺尊所說敎文、汝來世五百生ノアヒタ、尺迦如來ニ親近シ奉テ、是ヲ受學スへシ云々、仍彼私記ワツカニ初料簡談了テコレヲヤム、其後白上ノ修行ヲ結構ス、仍同六年秋比、髙尾ヲ出テ衆中ヲ辞シテ、聖敎ヲ荷ヒ佛像ヲ負テ、紀州ニ下向、湯淺ノ栖原村白上ノ峯ニ、一宇ノ草菴ヲ立テ居ヲシム、其峰ノ躰タラク、大磐石ソヒケタテリ、東西ハ長シ二丁ハカリ、南北ハせハシワツカニ一段餘、彼髙巖ノ上ニ、二間ノ草菴ヲカマヘタリ、前ハ西海ニ向ヘリ、遙ニ海上ニ向テ阿波ノ嶋ヲ望メハ、雲ハレ浪シツカナリト雖、眼ナヲキハマリカタシ、南ハ谷ヲ隔テ横峰ツラナレリ、東ハ白上ノ峰ノ尾ヤウヤク下リテ谷フカシ、北又谷アリ、皷谷ト號ス、溪嵐響ヲナシテ巖洞ニ聲ヲオクル、草庵ノ緣ノ前、西北ノ角、學問所ノ前ニ一本ノ松アリ、ソノ下ニ繩床一脚ヲタツ、又北ノ緣ノ中ヲウカチテ一本ノ松アリ、ウシロニハ白巖カサナリツラナリ、靑苔ムシムせリ、盤石ノソヒケタタテル事カラ餘ニコトナリ、又西南ノ角二段許ノ下ニ一宇ノ小草庵ヲ立ツ、コレ同行來入ノタメナリ、此處ニシテ行法坐禪誦経學問等勤、寢食ヲワスレテヲコタリナシ、晝夜朝暮ニ只仏像ニ向テ在世ノ昔ヲ戀慕シ、聖敎ニ對シテ說法ノ古ヲウラヤム、彼毱多ノ證智法身ヲミルト雖モ百歲ノ出世、猶生身ヲ拜セサル恨アリ、況滅後數百年ノ後、邊地末法ノ世ニ生レテ、在世ノ眞容ヲモ拜シタテマツラス、四弁ノ御法ヲモキカス、又賢聖向果ノ道モ耳ノ外ニ聞キ、西天處々遺跡モ此ヲ拜スルニ思ヲ絕リ、悲哉春來レハ花二タハフル、秋ヲ迎テハ菓ヲ翫フ、年月ハカハルカハル來ト雖モ、コノコトハリアラタマラサレハ、アクマテコレニ咲ミ、ホシキマヽニコレヲ食ス、コレヲモテ檢ルニ、我等カ第八識雜染種ノナカニハ、タヽ生死有漏ノ中ノ衣食等ノ増上業ノ種子ヲノミ裹メリ、シカレハ其感スル所ハ、只世間五欲ノ味ヲノミ貪ル、更無漏新薰ノ種ナシ、アチキナキ哉、ハツカシキカナ、春來レトモ卅二相ノ花ノスカタヲ拜スル春モ來ラス、秋ヲムカウレトモ三𦬢ノ菓ヲ結フ秋ノ來ル思ヲ絕リ、何ノ生何ノ世ニカ、我等カ第八識種ノ中ニ、无漏淸淨業ノ種ヲツヽミテ、親リ卅二相莊嚴ノ色身ニ仕ヘテホシキマヽニ如來ヲ見奉リ、又無上甘露ノ正法ヲ感シテアクマテ法味ヲアチハフ春秋ニアフヘキ、此事ヲ思フコトニ其心サクカ如シ、何ノ味アレハカ人間ニアテ世樂ニホコラム、又如來親リ最後入寂ノ中夜ニノソミテ、弟子ノ爲ニ遺敎ヲタレテ曰ク、汝等比丘當自摩頭、已捨飾好、着壞色衣云々、馬鳴論師此文ヲ尺シ玉フニ、上々尊勝處、最先折伏故、應自知故ト云ヒ、又示現自无尊勝心成就輕賤身心行故、遠離貢髙煩惱故ト云ヘリ、汝等憍心忽ニヲコラハ、自ラ頭ヲサクリ壞色ノ衣ヲ着セルコトハリヲ思ハヽ、貢髙憍心ヲノツカラ治せラレムコトヲ尺シ給ヘリ、然ルニ適頂ヲソレルモ、イヨイヨ其頭ノキラメケルヲ心ヨクシ、法衣ヲ着セルモ、マスマスソノ雜色ノテレルニヲコル、拙哉形ヲヤツシテ道ニイラハ、眼ヲモクシリ鼻ヲモキリ耳ヲモソキ手足ヲモタチツクスヘシ、然而彼ハ凡身ノタフヘキトコロニアラサレハ、先上々尊勝莊嚴ノ鬚髪ヲヲトシテ、身心ヲクタシテ志ヲイサキヨクせムコトヲ授ケ給ヘリ、シカルニ已ニ藥ヲ服シテ病ヲ發ス、聖術コヽニツキタリ、如此衆生法利ニウトク、我等如來ノ本意ニ背ケル事ヲ思ツヽクレハ、髪ヲソレル頭モソノシルシトスルニタラス、法衣ヲ着せル形モナヲウラメシキカナヤ、此心ヲサヘカタキニヨリテ弥形ヲヤツシテ人間ヲ辞シ、志ヲ堅シテ如來ノアトヲフマムコトヲ思フ、然ルニ眼ヲクシラハ聖敎ヲミサル嘆キアリ、鼻ヲキラハスヽハナタリテ聖敎ヲケカサン、手ヲキラハ印ヲ結ハムニ煩ヒアラム、耳ハキルトイウトモキコヘサルヘキニアラス、然モ形ヲヤフルニタヨリアリ、仍テ大願ヲ立テ志ヲカタクシテ、佛眼如來ノ御前ニシテ、耳ヲカラケテ佛壇ノ足ニ結ヒツケテ、刀ヲ取テ右耳ヲ截ル、血ハシリテ本尊ナラヒニ佛具等ニカヽレリ、其血今ニウセス 其夜ノ夢ニ、一人ノ梵僧アテ告曰ク、我ハ三世諸仏ノ因位ノ万行頭目手足ヲ衆生ニ施與シ給フトコロノ難行苦行ノ所作ヲシルシ候フモノナリ、然レハ御房如來ヲ戀慕シ奉テ、佛ノ御爲ニ身命ヲステ、耳ヲ切リ形ヲヤフリテ如來ヲ供養シ奉リ給フ、我此事ヲ記シ留目候也ト云テ、如此事記せラレタルカト覺シキ大ナル雙帋七八帖許リカサ子ヲカレタリト見ル、其後本尊ニ對シ奉テ、泣々滅後ノ劣報ヲ恨ム、何ノ生ニカ如來在世ノ衆會ニ列テ親リ如來ノ眞容ヲ拜シ、四弁ノ說法ヲモ聽聞せム、諸経ノ序分ヲ披テ、同會ノ𦬇聲聞天龍八部會座ニアテ如來ノ神變ヲ見、巨益ニ預ルコトヲ見ルコトニ、ソノ心サクカコトシ、悲哉何ノ時ニカ彼ノ衆ノ中ニ交テ、諸経ノ序分ノ中ニ、我カ名字ヲ列ル生アラム、此事ウラヤマシク覺ヘ、コノ恨ミサラニヲコタル事ナシ、コノユヘニ花嚴第一卷、又十地品ノハシメニ、同聞衆ヲ列ヌル所、并心地觀経ノ第一卷、コレヲ持経トシテ、常ニ経文ヲ誦シテ、彼ノ衆會ニ列ルニ擬シテ、心ヲヤスムヘシト思フ、コレニヨテツ子ニ尺尊ニ値遇シ奉ルヘキ夢感等アリ、
一.建久の頃、白上〈明恵の出身地、現在の和歌山県有田郡湯浅町栖原にある小高い山〉での修行を思いついた時、因明〈論理学〉の法門についていまだ師訓〈師からの教え〉を受けておらず、『小嶋四相違記』〈真興『因明論疏四種相違略私記』〉を一遍、これを談じようと思った。そこで林観房の法眼聖詮に対してこれを受学した。すると夢に人あって告げて云った。
「八万四千の諸々の対治門〈煩悩・悪業を戒め滅することに関する教え〉は、みなこれ釈尊所説の経文である。お前は来世五百生の間、釈迦如来に親近し奉って、これを受学するであろう」
(その夢告を、必ずしも今、因明に限り専心して学ぶ必要はないことの示唆と理解した)故に、その『私記』〈小嶋四種相違記〉のわずか初科を簡談〈概説〉され終わったばかりでそれを止めにした。
その後、白上の修行を結構〈計画〉した。そこで同六年〈1195〉秋頃、髙尾〈高雄山神護寺〉を出て衆中を辞し、聖教を荷い仏像を背負って紀州に下向して、湯浅の栖原村にある白上の峯に、一宇の草菴を立てて居を構えた。その峰の体たらく〈様子〉は大磐石がそびえ立っている。東西は長さ二丁〈約288m〉ばかり、南北はせわしくわずかに一段余り、その髙巌の上に二間の草菴を構えたのである。前は西海〈湯浅湾〉に向かい、遙かに海上に向かって阿波の嶋〈現在の徳島〉を望んだならば、雲晴れ、浪静かであったとしても、眼(の前に広がる光景)はなお極まりがたいものであった。南は谷を隔てて横峰が連なっている。東は白上の峰の尾が漸く下って谷が深い。北にはまた谷があって、皷谷という。溪嵐は響きをなして、巌洞〈洞窟〉に声を送っている。草庵の縁の前の西北の角、学問所の前に一本の松があり、その下に縄床〈座面が縄で網状になっている椅子〉一脚を建てた。また北の縁の中を穿って一本の松がある。後ろには白巌が重なり連なって、青苔がむしており、盤石のそびえ立っている様子からは余りに(その趣を)異にしている。また、西南の角二段ばかりの下に一宇の小草庵を立てた。これは同行〈同じく仏道を志す人〉が来入したときの為である。
この処において行法・坐禅・誦経・学問等の勤めを、寝食を忘れて怠りなかった。昼夜朝暮にただ仏像に向かって(釈尊)在世の昔を恋慕し、聖教に対しては説法の古を羨んだ。かの毱多〈Upagupta(優婆毱多)。仏滅後百年ほどの印度僧。阿羅漢として名を馳せた〉がその証智によって法身〈真理そのもの〉を見たとはいえ、(仏滅後)百歲の出世であったため、なお(釈尊の)生身〈肉体〉を拝せなかった恨みがあった。ましてや、滅後数百年もの後の、辺地末法の世に生まれて(仏)在世の真容をも拝し奉らず、四弁〈四無碍弁・四無碍智。仏陀が真理について滞り無く自在であること〉の御法をも聞かず、また賢聖向果の道も耳の外に聞き、西天〈印度〉の処々にある遺跡もこれを拝するに思いを絶っている。なんと悲しいことであろう。春が来たならば花に戯れ、秋を迎えては菓を翫んでいる。年月は代わる代わる来たり来るけれども、この理を改めることがないため、(愚かにも)あくまでこれに咲み、恣にこれを食す。これらのことを以て検べてみたならば、我等が第八識〈阿頼耶識。唯識にて説かれる、生命すべての最奥にあるとされる深層意識〉の雑染種〈善・悪・無記の三つに通じた雑多な、種々の煩悩を増長するもの〉の中には、ただ生死有漏〈生存にまつわる煩悩〉の中における衣食等の増上業の種子〈習慣。志向性〉をのみ裹んでいる。然れば、その(業果の)感ずる所は、ただ世間五欲の味をのみ貪るものとなり、さらに無漏新薰の種(が第八阿頼耶識に植わること)は無い。なんとつまらなく虚しい事であろう、なんと恥ずべきことであろう。春が来たとしても三十二相の花の姿〈仏陀の肉身。生見の仏陀〉を拝する春が来ることはなく、秋を迎えたとしても三菩提〈無上正等正覚。この上なく完全な悟り〉の菓を結ぶ秋の来る思いを絶っている。何れの生、何れの世にか我等が第八識種の中に、無漏清淨業の種を包んで、親り三十二相荘厳の色身に仕え、ほしいままに如来を見奉り、また無上甘露の正法を感じて、あくまで法味を味わう春秋に逢えるのであろうか。この事を思う毎に、その心が張り裂けるかのようである。どのような味であれば、人間〈人の世、人社会〉にあって世俗の楽を誇れるというのであろう。
また、如来は親りその最後、入寂の中夜に望んで、弟子の為に遺教を垂れられ、「汝等比丘、まさに自ら頭を摩すべし。すでに飾好を捨て、壊色の衣を着す」とお説きになられた〈『仏遺教経』〉。馬鳴論師〈二世紀頃の印度僧ですぐれた詩人〉は、この文を注釈したまうに、「上々尊勝の処、最先折伏の故に、まさに自ら知るべきが故に」と云い、また「自ら尊勝心無くして身心を軽賎することを行じ、成就するを示現するが故に。貢髙煩惱を遠離するが故に」〈馬鳴説・真諦訳『遺教経論』〉と云われている。汝等、憍心〈驕り高ぶりの思い〉が忽ちに起こったならば、自ら頭を撫で、壊色〈袈裟。特に赤褐色〉の衣を着る理を思ったならば、貢髙憍心はおのずから治せらるであろうことを釈し給われた。
然るに適々、その頂を剃ったとしても、いよいよその頭のきらめいているに心よくし、法衣を着しても、ますますその雑色の照れるに驕っている。なんと拙いことであろう。形をやつして道に入ったならば、眼をも抉り、鼻をも切り、耳をも削ぎ、手足をも断ち尽くすできものである。しかしながら、それは凡身の耐え得るところでないことから、先ずは上々尊勝(たる頭や顔)を荘厳する鬚や髪を落とし、身心を降して志を潔くすることを(釈尊は我ら凡夫の出家の姿、その定めとして)授け給われたのだ。ところが、(現今の出家者の有り様を見たならば)すでに薬〈仏法〉を服して、むしろ病〈煩悩。生死流転の苦〉を発している。聖術〈仏陀が衆生の為に遺された教え、自らが自らを救うその術〉、ここに(万策)尽きている。そのように衆生は法利に疎く、我等が如来の本意に背けている事を思い続けたならば、(出家者として)髪を剃った頭もその徴とするのに足るものではない。法衣〈沙門衣、三衣、袈裟衣〉を着た形も、なお恨めしきものであろう。そのような心がもはや抑えがたいものであったことから、いよいよ形をやつして人間を辞し、志を堅くして如来の跡〈仏陀が菩薩であった際になされた諸々の捨身行〉を踏むことを思った。しかしながら、眼を抉ったならば、聖教を見ることができなくなる嘆きがある。鼻を切ったならば、すす鼻が垂れて聖教を汚すであろう。手を切ったなら、印を結ぼうとするのに煩いがある。(そこでしかし、)耳は切ったとしても、聞こえなくなることはない。しかも形を破れるというのであるから都合が良い。そこで大願を立て志を固くして、仏眼如来の御前にて、耳を絡げて仏壇の足に結びつけ、刀を取って右耳を截った 血がほとばしって本尊ならびに仏具等にかかった。その血痕は今も消えない。その夜の夢に、一人の梵僧〈印度僧〉があらわれ告げて言った。
「私は、三世諸仏が因位の万行〈菩薩としてなしたあらゆる修行〉において頭・目・手・足を衆生に施与し給った難行・苦行の所作を記し候う者である。そこで御房〈明恵〉が如来を恋慕し奉り、仏の御為に身命を捨て、耳を切り形を破って如来を供養し奉リ給ったが、私はその事を記し留めるのだ」
とのこと。そのような事を記せられたのであろうと覚しき大きな双紙〈綴じ本〉、七、八帖ばかりが重ね置かれているのを見た。
その後、本尊に対し奉って、泣く泣く滅後の劣報を恨んだ。何れの生にか如来在世の衆会に列なり、親り如来の真容を拝し、四弁の説法をも聴聞するのであろう。諸経の序分を披き読んだならば、同会の菩薩〈大乗の仏弟子〉・声聞〈小乗の仏弟子〉・天龍八部〈諸々の仏教を守護する神霊〉が、その会座にあって如来の神変〈不可思議な力〉を見、巨益に預っていたのを見る毎に、心が張り裂けるかのようであった。なんと悲しいことであろう。何れの時にか彼の衆の中に交わり、諸経の序分の中に、我が名字を列ねる生があるのであろうか。この事が羨ましく覚え、この(自らが仏在世に生まれ得ず、その説法の会坐に交わることの出来なかった)恨み〈悲しみ、悲嘆〉がさらに怠ること〈やすまること〉は無かった。この故に『華厳経』第一卷、また「十地品」〈『華厳経』の一章〉の初めに、同聞衆を列ねる所、ならびに『心地観経』〈『大乗本生心地観経』〉の第一卷、これを持経として常に経文を誦し、彼の衆会に列なっているのに擬して、心を安んじようと思った。(すると)このことに因って、常に釈尊に値遇し奉るであろうことの夢感等があった。
現在の和歌山県有田郡湯浅町栖原にある小高い山。
明恵の過ごした有田の故地はその死後、弟子たちがその遺徳を偲んで木卒塔婆を建立したが、その地の一つ。今残る卒塔婆はやや後代に石造りのものとして再建立されたもの。今もそれらの地は国指定の史跡としてよく保存されている。▲
[S] hetu-vidyā. 論理学。特に印度において仏教および外道において生じ展開したもの。その代表的論書として印度僧Dignāga(陳那)によるNyāyamukha、およびこれをその弟子のŚaṅkarasvāmin(商羯羅主)が簡潔平易に説いたNyāyapraveśakaがあり、これを玄奘が支那に請来し漢訳したのが『因明正理門論』ならびに『因明入正理論』。爾来、特に法相の学僧らがよく研究して多くの注釈書などが著されたが、その学系は日本にもたらされ、主に南都において受け継がれた。▲
師の教え。▲
真興『因明論疏四種相違略私記』。南都において相伝され学ばれていた(仏教の)因明、特に『因明入正理論』に対する慈恩大師基による注釈書『因明入正理論疏』にて解説される四相違をより平易に初学に示そうとした小著。小嶋とは、平安中期における法相宗の学僧、真興が小嶋寺に入って法相と真言の法燈を掲げて名を高めて「子島僧都」「小嶋大徳」と讃えられ、また後に「小嶋先徳」と謂われたことによる通称。▲
對治(対治)は、煩悩・悪業を戒め、滅することの意。對治門は仏陀の教えを分類して、特に対治について説かれたもの。▲
はかりしれぬほど数多くの生死を繰り返すこと。ここで五百は、百二十歳であるとか五百羅漢、八万四千法門などと同様に実数ではなく、非常に多いことの修辞。▲
「料」は「科」の写誤であって「初科」、ここでは『因明論疏四種相違略私記』の初段を意味するであろう。▲
全体の構成・構造などを考えること。転じて計画、準備。▲
現在の和歌山県有田郡湯浅町栖原。▲
ありさま、様子。現在は消極的・批判的に「ひどいありさま」の如き意で用いられるが、当時はそのような意での用例はない。▲
一丁(一町)は六十間。一間は時代によって異なり、平安時代はおよそ十尺、鎌倉時代は八尺ほど。ここで仮に一間を八尺とし、一尺を30cmとしたならば一丁は144mであり、したがって二丁は288m。▲
阿波国。現在の徳島県。
栖原の白上峰の頂きから、よく晴れて空気の澄んだ時にはちょうど西方にある徳島市や小松島市あたりを望むことが出来る。▲
枠は木製ながら、その床面は太縄を編んで網としたもの。印度における椅子や寝床の形態の一で、今も下層の人々は日常に用いている。▲
同じく仏道を志して歩む人。▲
[S] dharma-kāya. 真理そのもの。▲
[S] Upagupta. 優婆毱多。仏滅後百年頃、阿育王代にその名が広く知られた大徳であったとされる。仏の遺教によって阿羅漢果に達したとされるが、それでも釈尊の姿を一度でも拝したいと強く望んでいた、などとされる。律宗や禅宗などにおいて祖師の一人として崇められており、『今昔物語』にても語られるほど日本でもよく知られた人。優波笈多、 優婆掘多などとも。▲
[S] catu-pratisaṃvid. 四無礙弁の略。四無礙智とも。
①法無礙(dharma-pratisavid)…法(真理)について滞ることのないこと。
②義無礙(artha-pratisavid)…法の意義を知って滞ることのないこと。
③辞無礙(nirukti-pratisavid)…諸方の言語に通じていること。
④楽説無礙(pratibhāna-pratisavid)…以上の三智を以て自在に説くこと。▲
賢者と聖者。それぞれいかなる境地にあるかは、部派によって相違するものの、定義されている。たとえば説一切有部では加行位にある者を賢者とし、預流以上に登った者を聖者とする。▲
四向四果の略。声聞乗における聖者の位。
①預流(須陀洹)
②一来(斯陀含)
③不還(阿那含)
④応供(阿羅漢)
これら四位に向と果がある故に四向四果といわれる。四双八輩に同じ。▲
印度、天竺。▲
[S] ālaya-vijñāna. 阿頼耶識。唯識(『解深密経』等)において、あらゆる生命には八種の意識が有ると説かれるが、その最奥の意識。世界、宇宙はこの第八識、すなわち阿頼耶識が展開したものであって、すなわち万物の根本とされる。あらゆる存在の元(種子)を蔵するものであることからこれを蔵識、あるいは種子識という。
ただし、これは仏教に通じて説かれるものでなく、ただ法相唯識に関する経典のみ見られる、いわば特殊な見解。一般にはただ六識のみがあるとされ、第七・第八識などあることは説かれない。したがって、唯識を仏教全般に通じる見解と捉えてはならない。▲
善・悪・無記の三つに通じた雑多な、種々の煩悩を増長するもの。▲
[S] sāsrava. ここでは生存することにとらわれる煩悩、生きることへの渇望の意。▲
ここでは「日々の生活に追われ、衣食などそれに関わるものをのみ強く求める行為」という程の意味でいったものであろう。▲
[S] bīja. 唯識において説かれる術語で、第八識(阿頼耶識)に潜在する、あらゆる存在・現象の因子となるものを「種子」と表現したもの。あるいは現在、生命がもはや習慣・癖として行っていることをも云い、これをまた習気と称する。▲
五根、すなわち眼・耳・鼻・舌・身・意からなる五つの感覚の各対象である色(物質)・声(音声)・香(匂い)・味(味)・触(触り心地)に対する欲望。▲
煩悩を離れること、またはその状態。▲
今生において仏陀となる者に備わる三十二種の身体的特徴。▲
[S] (anuttara-samyak-)saṃbodhi. (阿耨多羅三藐)三菩提。無上正等正覚の意。𦬢は菩提を合略した文字。▲
色は物質の意。ここでは仏陀の実際の身体の意。▲
一年、転じて歳月の意。▲
鳩摩羅什訳『仏垂般涅槃略説教誡経』いわゆる『仏遺教経』にある一節(T12, p.1111b)。
「汝等比丘、當に自ら頭を摩すべし。已に飾好を捨て、壞色の衣を着る」▲
[S] Aśvaghoṣa. 二世紀頃に活躍した印度僧で詩人。Buddhacarita(『仏所行讃』)等々、非常に優れた仏伝文学の数々を遺した。『仏遺教経』の注釈書『遺教経論』を著したとされる(ただし、現今の大正新脩大蔵経所収の『遺教経論』は著者は世親であるとする)。▲
真諦訳『遺教経論』(T26, p.287b)にある一節。『遺教経論』は天平の昔、鑑真によって本邦にもたらされており、以来『仏遺教経』に同じくよく読まれた。
「上々尊勝處(に於て)、最も先に折伏するべきが故に。(常に)應に自ら知るべきが故に」▲
真諦訳『遺教経論』(T26, p.287b)にある一節。
「自ら尊勝心無くして身心を軽賎することを行じ、成就するを示現するが故に。貢髙煩惱を遠離するが故に」▲
『仏遺教経』の該当する一節には「憍慢」とある。自ら驕り高ぶり、他を見下す心の働き。▲
[S] kaṣāya. いわゆる袈裟の訳語。袈裟とは衣の呼称ではなく、特に赤褐色・赤黒色を意味する。印度において最も卑しい者らに相応しい色とされたと思われる。木の皮などを煮て染めた。▲
仏教の出家者が着すべき衣。沙門衣いわゆる袈裟衣、三衣に同じ。▲
壊色・袈裟に同じ。▲
『仏遺教経』の一節「我如良醫。知病說藥。服與不服非醫咎也。又如善導。導人善道。聞之不行。非導過也(我は良医の病を知って薬を説くが如し。服すと服せざるとは医の咎に非ず。また善く導く者の、人を善道に導くが如し。之を聞いて行かざるは、導く者の過に非ず)」を意識した一節。「已に薬を服して病を発す」は当時の出家者らの堕落した有り様への痛烈な批判であった。▲
都合、具合がよいこと。▲
仏陀の因位、すなわち菩薩として菩提を求めて修めたあらゆる修行を万行という。▲
双紙、または草紙に同じ。綴じ本。▲
[S] śrāvaka. 教えを聞く者、すなわち仏弟子が原意。しかし、ここでは大乗の菩薩に対し、小乗を奉じる仏弟子の意として用いられている。▲
仏教を守護する八種の諸天(神霊)。天・竜・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽。▲
不可思議な力。▲
『華厳経』を構成する諸章の一。高位の菩薩の階梯に十あることが説かれる。▲
般若訳『大乗本生心地観経』。心地を観じて妄想を滅し、仏道を成ずべきことを説くが、なかでも父母・衆生・国王・三宝の四恩を報ずべきことを説く。。▲