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智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

『仏説盂蘭盆経』 ―自恣の僧供とその功徳

盂蘭盆会と『盂蘭盆経』

盂蘭盆会とは

『仏説盂蘭盆経うらぼんきょう』とは、古来、支那および日本の現代に至るまで行われている盂蘭盆会うらぼんえ、いわゆる「お盆」の典拠てんことなっている経典です。

(※ 盂蘭盆の語義をのみ知りたい人は第二項、その構造と意義とをのみ知りたい者は第三項を直に参照のこと。)

盂蘭盆会とは、旧暦(本来的には印度歴)の七月十五日に行われる仏教の僧伽そうぎゃsaṃghaサンガ)における重要な儀式、自恣じしを迎えた比丘たちへの盛大な供養会です。

仏教の正式な出家修行者である比丘あるいは比丘尼は、これは印度以来の風習として、そしてまた仏陀の定めとして、彼の地の夏、雨季にあたる(印度歴での)四月十六日もしくは五月十六日からの三ヶ月間、それぞれどこか一処に集まり留まって一切の遠出を止め、修禅・修学に励まなければならない定めとなっています。これを 安居あんごといい、夏に行うから夏安居げあんご、あるいは雨季に行うから雨安居うあんごとも称します。

安居に入る四月十六日、比丘たちはそれぞれ自らが安居する精舎、庵、あるいは山林などにおいて、定められた通りの作法により、そこで安居に入ることを宣言しなければなりません。これを結夏けちげといいます。そして安居が開ける七月十五日は、結夏に同じくそこで安居を無事過ごし終えたことを宣言するのですが、これを解夏げげといいます。

解夏の日は特別な日で、安居の三ヶ月間における自身らの行為に過失があったかどうかを、比丘・比丘尼たちは互いに発露ほつろ懴悔さんげしなければなりません。これを自恣じしと言います。その原語は[S]pravāraṇaプラヴァーラナ([P]pavāraṇāパヴァーラナ)で、満足・充足の意です。なぜこれが特別かと言えば、安居の最終日であることもさることながら、安居をつつが無く過ごし自恣を終えたことによってのみ、比丘らはその法臈ほうろうを一つ重ねることが出来るからです。

法臈はまた夏臈げろうとも言い、比丘・比丘尼としての年齢であって、それが僧伽における席次を決定する唯一の基準となるものです。

したがって、自恣とは僧伽にとって一年のうち最も重要な日です。そしてそれが在家信者にとってもまた、やはり一年のうちでも特に重要な日となります。なんとなれば、自恣を迎えた僧伽は一年で最も清浄なものであって、故にそんな僧伽そうぎゃに対し衣食えじきなど出家生活に必要な諸々の物品を布施することの功徳が最も大きいとされるためです。

(僧伽とは何かについては別項、「七衆 ―仏教徒とは」および「Saṅgha vandanā(礼僧)」を参照のこと。)

そのような在家信者にも出家修行者にとっても最も大切な日、すなわち自恣を迎えた七月十五日における僧伽への供養会の功徳が大なることを強調してそれを行うことを勧めるのが『盂蘭盆経』であり、その供養にまた特殊な目的を付して称したのが盂蘭盆会です。

それにしても、では盂蘭盆うらぼんというただちに解し難い奇妙な言葉の意味は何か。それを見る前に、まずはその典拠である『盂蘭盆経』について概説しておきます。

『盂蘭盆経』について

支那にもたらされた経典がいつ、誰によって漢訳されたのか。そしてそれがいかなる内容のものであるか。それを分類して記録しまとめて伝えるものを、一般に経録きょうろくといいます。そして支那で経録を編纂した最初の人、それは四世紀の東晋とうしん(五胡十六国時代)の高僧、道安どうあんです。

ところで、支那に仏教が伝わったのは、一般に一世紀中頃の後漢時代の永平えいへい十年〈67〉とされます。以降、仏教は、支那古来の神仙思想や老荘思想、そして雑多な民間信仰とが習合した道教どうきょう儒教じゅきょうとのせめぎ合いの中、次第に受け入れられていきます。その過程で仏教は儒教的・道教的に理解されるようになり、これを格義仏教かくぎぶっきょうと言いますが、あるいは儒教や道教にことよせて捏造された、いわゆる偽経ぎきょうが次々現れるようになっていました。

(支那における仏教伝来の顛末てんまつ、および伝来以降の様相については、別項「『四十二章経』 ―仏教とは何か」および「牟融『理惑論』」を参照のこと。)

これを大いに問題視し、仏教は仏教として理解されねばならず、また漢訳も一定の規格・基準(「五失本ごしつほん 三不易さんふやく」)によってなされなければならないとしたのが道安という人です。実に道安とは往古の支那において最も尊ぶべき大徳です。

道安はさらに、すでに巷間に流布していたそれまでの仏典の真偽を可能な限り整理・分類し、またいつ誰によって翻訳されたかの記録を編集。それが『綜理衆経目録そりしゅきょうもくろく』であり、いわゆる経録の初めでした。これをまた一般に『道安録どうあんろく』と言いますが、残念なことに現存しません。

今、経録として伝わるもので最も古いのが、梁代の六世紀初め頃、僧祐そうゆうによって著された『出三蔵記集しゅつさんぞうきしゅう』です。僧祐は『道安録』を踏襲し『出三蔵記集』に取り込んでいることにより、今は散失して無いとはいえ『道安録』の内容をある程度は想像・復元することが可能となっています。

そこで『出三蔵記集』以降、今に伝わる諸々の主要な経録において『盂蘭盆経』がどのように記録されたかを容易く比較できるよう表にし、以下に示します。

諸経録にみる『盂蘭盆経』の記録
経録 題目 訳者 出典
僧祐『出三蔵記集』巻四
斉 ・梁代(六世紀初頃)
盂蘭経一巻 失訳 T55, p.28c
法経等『衆経目録』巻三
随代 (594)
盂蘭盆経一卷 失訳 T55, p.133b
費長房『歴代三宝記』巻六
随代 (597)
盂蘭経一卷 曇摩羅察
(法護)
T49, p.64a
道宣『大唐内典録』巻二
唐代 (664)
盂蘭経一卷 曇摩羅察
(法護)
T55, p.235a
智昇『開元釈教録』巻二
唐代 (730)
盂蘭盆経一卷
亦云盂蘭経與報恩奉盆経同本見長房録
竺曇摩羅察
(法護)
T55, p.494c

以上のように、経録を比較して見たならば、『盂蘭盆経』の原題はどうやら「盆」を欠いた『盂蘭経うらんきょう』であったようです。当初、その他の経録に「盆」の字を欠いて記されていたことは、後述する「盂蘭盆」の意味を考える時、非常に重要な点となります。

往古は『盂蘭経』とされていたことはまた、『出三蔵記集』とほぼ同時期のりょう代初頭の516年に著された『経律異相きょうりついそう』においても確かめることが出来ます。『経律異相』は経録ではなく、諸々の経と律とに説かれる重要な事項を抜粋・分類されている仏教百科事典、あるいは仏教説話集の如き体裁ていさいの書です。

目連爲母造盆十一
目連始得道。欲度父母報乳哺恩。見其亡母生餓鬼中。不見飮食皮骨相連。目連悲哀。 即鉢盛飯往餉其母。母得鉢飯食未入口化成火炭。目連馳還具陳此事。佛言。汝母罪根深結。非汝一人力所奈何。當須衆僧威神之力乃得解脱。可以七月十五日。爲七世父母厄難中者。具飯五菓汲罐盆器香油鋌燭 床褥臥具盡世甘美供養衆僧。其日衆聖六通聲聞縁覺菩薩示現比丘在大衆中。皆同一心受鉢和羅具清淨戒。其有供養此等僧者。七世父母五種親屬。得出三塗應時解脱衣食自然。佛勅衆僧。皆爲施主家七世父母。行禪定意然後食供出盂蘭經
【目連が母の為に盆を造った話 第十一】
目連が始めて道を得、父母を度して乳哺にゅうほの恩に報いようと欲したところ、見ればその亡母もうも餓鬼がきとして生まれて飲み食いすることが出来ず、ただ皮と骨とが連なるばかりの様子となっていた。目連は悲哀ひあいし、鉢に飯を盛り、往ってその母におくった。母は鉢飯はちぼんを得たが、食が未だ口に入らないうちに変化へんげして火炭かたんとなった。目連は急ぎ還ってつぶさに仏に申し上げた。すると仏は言われた。
「おまえの母の罪根ざいこんは深く結しており、おまえ一人の力ではどうすることも出来はしない。まさに衆僧の威神力いじんりきってすれば、すなわち解脱げだつ〈離苦〉することが出来るであろう。七月十五日を以ってすべし。七世の父母で厄難の中にある者の為に、ぼん・五菓・汲灌盆器こうかんぼんき〈水入れ・水差し〉・香油・鋌燭ていしょく〈足つき燭台〉床褥しょうじょく〈寝台または腰掛け〉・臥具をそなえて世の甘美を尽くし、衆僧しゅそうを供養せよ。
その日の衆聖しゅしょう、六通〈六神通〉声聞しょうもん縁覚えんがく菩薩示現比丘ぼさつじげんびく〈菩薩比丘〉の大衆の中に在る者は皆、同じく心を一にして鉢和羅ぱわら〈pravāraṇa. 自恣〉を受ける。清浄戒しょうじょうかいを具える、そのそれら僧を供養したならば、七世の父母、五種親族は、三塗さんず〈三途.地獄・餓鬼・畜生〉を出ることが出来、ただちに(餓鬼の苦を)解脱げだつ〈離苦〉し(善趣に転生して)衣食えじき自然じねん(に備わる)であろう」
仏は衆僧に
「施主の家の七世の父母の為、禅を行じてこころを定め、そうして後にその供養をじきせ」
と勅(ちょく)された『盂蘭経』に出る

宝唱『経律異相』巻十四(T53, pp.73c-74a)

ここで注意すべき点があります。この話の典拠として挙げられている『盂蘭経』は、本稿に紹介する『盂蘭盆経』でなく、むしろ『報恩奉盆経ほうおんぶぼんきょう』という経によく合致している点です。『報恩奉盆経』とは今も伝わる『盂蘭盆経』の類本ですが、それがどういうことか実際に『報恩奉盆経』を見れば明らかとなるでしょう。

佛説報恩奉盆經 亦云報像功徳經
闕譯附東晋録
聞如是。一時佛在舍衞國祇樹給孤獨園。大目揵連始得六通。欲度父母報乳哺之恩。即以道眼觀視世界。見其亡母生餓鬼中。不見飮食皮骨相連柱。目連悲哀即鉢盛飯往餉其母。母得鉢飯。便以左手障飯右手搏食。食未入口化成火炭遂不得食。目連馳還白佛。具陳如此。佛告目連。汝母罪根深結。非汝一人力所奈何。當須衆僧威神之力。乃得解脱。吾今當説救濟之法。令一切難皆離憂苦 佛告目連。七月十五日當爲七世父母在厄難中者。具糗飯五果汲灌盆瓫器。香油庭燭床榻臥具。盡世甘美以供養衆僧。當此之日。一切聖衆或在山間禪定。或得四道果。或樹下經行。或得六通飛行。教化聲聞縁覺。菩薩大人權示比丘在大衆中。皆共同心受鉢和羅。具清淨戒聖衆之道其徳汪洋。其有供養此等之衆。七世父母五種親屬。得出三塗應時解脱衣食自然。佛勅衆僧。當爲施主家七世父母。行禪定意然後食此供。目連比丘及一切衆歡喜奉行
佛説報恩奉盆經
『仏説報恩奉盆経ほうおんぶぼんきょう』 または『報像功徳経』と云う
闕訳けつやく〈失訳〉。『東晋録とうしんろく〈異本では『西晋録』〉に附す
このように聞いた。ある時、仏は舎衛しゃえい国の祇樹給孤独園ぎじゅきっこどくおん〈祇園精舎〉に在した。大目揵連だいもくけんれん〈[S]Mahāmaudgalyāyana. 目連〉は初めて六通〈六神通〉を得て、父母を救って乳哺にゅうほの恩〈養育された恩〉に報いようと思った。そこで道眼どうげん〈天限通〉を以って世界を観視かんししたところが、見ればその亡母もうも餓鬼がきとして生まれて飲み食いすることが出来ず、ただ皮と骨とが連なるばかりの様子となっていた。目連は悲哀ひあいし、鉢に飯を盛り、往ってその母におくった。母は鉢飯はちぼんを得るとすぐ左手で以って飯をささえて右手で食をったが、食が未だ口に入らないうちに変化へんげして火炭かたんとなって遂に食を得ることが出来なかった。目連は急ぎ還って仏に申し上げ、具さにその様子をべた。すると仏は目連に告げられた。
「おまえの母の罪根ざいこんは深く結しており、おまえ一人の力ではどうすることも出来はしない。まさに衆僧の威神力いじんりきってすれば、すなわち解脱げだつ〈離苦〉することが出来よう。私は今、まさにその救済の法を説いて、一切の難、皆を憂苦うくから離れさせよう」
仏は目連に告げられた。
「七月十五日、まさに七世の父母で厄難の中にある者の為に、糗飯きゅうぼん〈炊いた麦と米〉・五果・汲灌盆瓫器こうかんぼんほんき〈水入れ・水差し〉・香油・庭燭ていしょく〈足つき燭台〉床榻しょうとう〈寝台または腰掛け〉・臥具をそなえて世の甘美を尽くし、以って衆僧しゅそうを供養せよ。まさにその日、一切の聖衆しょうしゅの、あるいは山間さんげんに在って禅定し、あるいは四道果しどうか〈四沙門果〉を得、あるいは樹下に経行きょうぎょうし、あるいは六通を得て飛行ひぎょうし、声聞しょうもん縁覚えんがくを教化し、菩薩大人ぼさつだいにん〈菩薩摩訶薩〉かりに比丘の姿を示して大衆の中に在る者など皆、共に心を同じくして鉢和羅ぱわら〈pravāraṇa. 自恣〉を受ける。清淨戒しょうじょうかいを具えた聖衆の道は、その徳、汪洋おうよう〈深く広々としている樣〉としている。その衆を供養したならば、七世の父母および五種親族は、三塗さんず〈地獄・餓鬼・畜生〉を出ることが出来、ただちに(悪趣の苦から)解脱げだつ〈離苦.悪趣における生を終えること〉し(善趣に転生して)衣食えじき自然じねんに備わるであろう」
仏は衆僧にちょくされた。
「まさに施主の家の七世の父母の為、禅を行じてこころを定め、そうして後にその供養をじきせ」
目連比丘および一切の大衆だいしゅは、(仏の所説を)歓喜かんぎ奉行ぶぎょうした。
『仏説報恩奉盆経』

失訳『仏説報恩奉盆経』(T16, p,780a)

以上のように、そしてまた本稿にて講じている『盂蘭盆経』本文とをそれぞれ比較すれば、むしろ『報恩奉盆経』と『経律異相』所載の話がよく合致していることは瞭然です。しかしながら、その題目はあくまで『報恩奉盆経』であって『盂蘭経』ではありません。

何故か。あるいは今の『報恩奉盆経』が元々『盂蘭経』と称されており、これが後に増広されて『盂蘭経(盂蘭盆経)』と云われるようになって、元の『盂蘭経』は『報恩奉盆経』と改称された可能性が一応考えられます。というのも、『出三蔵記集』には『報恩奉盆経』なる経は収録されていないためです。

ところが、そこでまたさらに『経律異相』以降しばらく後、おそらくは六世紀中頃、長江ちょうこう中流域における土俗の年中行事・風習が記録された、同じく南朝梁の宗懍そうりん荊楚歳時記けいそさいじき』という書があります。この書においても、まさに支那で盂蘭盆会が巷間行われていたことが記され、中でその典拠として『盂蘭盆経』が挙げられています。しかし、それは『報恩奉盆経』ではなく、間違いなく今の『盂蘭盆経』を参照したものとなっています。

七月十五日。僧尼道俗。悉營盆供諸仙〈異本では「仙」は「寺」〉
按盂蘭盆經云。有七葉功德。並幡花歌鼓果食送之。蓋由此也。經又云。目連見其亡母生餓鬼中。即以鉢盛飯。往餉其母。食未入口。化成火炭。遂不得食。目連大叫馳還白佛。佛言汝母罪重。非汝一人所奈何。當須十方衆僧威神之力。至七月十五日。當為七代父母厄難中者。具百味五菓。以著盆中。供養十方大德。佛勅衆僧。皆為施主。呪願七代父母。行禪定意。然後受食。是時目蓮母得脫一切餓鬼之苦。目連白佛未來世佛弟子行孝順者。亦應奉盂蘭盆供養。佛言大善。故後代人因此廣為華飾。乃至刻木割竹。飴蠟剪綵。模花葉之形。極工妙之巧。
七月十五日、僧尼〈比丘・比丘尼〉・道俗〈出家・在家〉ことごとく盆をいとなんで諸仙しょせん〈道教と混淆して僧を仙としたか〉を供養する。
盂蘭盆経うらぼんきょう』を按じたならば、七葉しちようの功徳〈七世の父母を苦趣から離れさせる功徳〉があって並びにはた・花・歌・つづみ・食をこれに送ると云われる。けだしこれに由るものである。経にはまた、「目連もくれん〈[S]Mahāmaudgalyāyana. 大目揵連〉がその亡母もうもを(神通力によって)見たところ、餓鬼がきの中に生まれていた。そこで鉢を以って飯を盛り、往てその母におくった。しかし食が未だ口に入らないうちに、変化して火炭かたんとなり、遂に食べることが出来なかった。目連は大いに叫び、かえって仏に(そのことを)申し上げた。すると仏は『おまえの母は罪重であった。おまえ一人では奈何いかんとも出来はしない。まさに十方衆僧の威神の力を須うるがよかろう。七月十五日に至って、まさに七代の父母で厄難の中にある者の為に、百味ひゃくみ・五菓をそなえ、以ってぼん〈器、盥のような容器〉の中に入れて十方の大徳を供養すべし』と言われた。また仏は衆僧に勅され、『皆な施主の為に七代の父母を呪願じゅがんし、禅を行じてこころさだめ、然る後に食を受けよ』と云われた。その時、目蓮の母はあらゆる餓鬼の苦しみから脱れるることが出来た。目連は仏に申し上げた、『未来世の仏弟子で孝順を行う者も、またまさに盂蘭盆うらぼんを奉じて供養するべきであります』と。仏は『大いに善し』言われた」と云われる。故に後代の人は、これに因って広く華飾けしょく〈花飾り〉を造るのだ。すなわち、木を刻んで竹を割り、ろうあめ〈糊の意であろう〉にし、あや〈色絹.色布〉って(蓮の)花と葉の形を模しているが、それは工妙のたくみを極めたものとなっている。

宗懍『荊楚歳時記』七月十五日条

この書は特段仏教の立場で書かれたものでなく、あくまで土俗の行事をそのまま伝えたものでありますが、その故にむしろ貴重で、当時の南朝、長江中流域における習俗を知ることが出来るものとなっています。そしてその中、こうして梁においてすでに盂蘭盆会が行われていたことを伝えており、これが支那における盂蘭盆会の記録としては今のところ初出のものです。

しかし、ここで「僧尼道俗悉營盆(僧尼・道俗は悉く盆を営む)」とあることは、それがすでに行われて一定の時を経ていたことを伺わせます。ここに描かれている人々がただ食を僧に布施するばかりでなく、その飾りとして木竹、布などで美しい花飾りを造っていた様子など、これは経に基づかない行為であって、故に民衆の間で盂蘭盆会が行われるようになって一定の時を経ていたのをいかにも示したものだと言えるでしょう。

今一般に、支那において盂蘭盆会が始めたのは南朝りょうの武帝蕭衍しょうえんであって、それは大同だいどう四年〈538〉のことであったとされ、その根拠として志磐しばん仏祖統紀ぶっそとうき』が挙げられます。

四年。帝幸同泰寺設盂蘭盆齋梵語盂蘭此云解倒懸。是目連尊者設此盆供。得脱母氏餓鬼之苦
大同だいどう)四年〈538〉。帝〈武帝蕭衍〉同泰寺どうたいじみゆきて、盂蘭盆斎うらぼんさいを設けた梵語「盂蘭うらん」とは、ここでは「倒懸を解く」という。これは目連尊者がこの盆供を設け、母氏の餓鬼の苦を脱れさせたものである

志磐『仏祖統紀』巻三十七(T49, p.351a)

しかし、『仏祖統紀』は十三世紀後半〈1269〉の南宋時代に編纂されたものであり、南梁とはあまりに時代が離れすぎており、これを盂蘭盆会の嚆矢こうしとして信用することには無理があります。やはりここは上に挙げた『荊楚歳時記けいそさいじき』の記述を先として考えるべきことでしょう。六世紀初頭成立の『経律異相』にも「盆」の記述があることからすれば、早ければ六世紀以前、五世紀にはすでに「盆」は行われていたものと思われます。

(これら往古の記述に「盂蘭盆」でなく、ただ「盆」とされている点は、盂蘭盆の意味を考える時、やはり非常に重要な点となります。)

いずれにせよ、ここでまず注目すべきは『経律異相』のいう『盂蘭経』は『報恩奉盆経』であり、『荊楚歳時記』で言及された『盂蘭盆経』は今の『盂蘭盆経』であることです。

しかし当時、それら二経に併せてもう一経、『灌臘経かんろうきょう』なる経典が同本異訳と見なされるようになっていました。『灌臘経』は、失訳としてながらすでに『出三蔵記集』にも収録されていた経で、別名『般泥洹後四輩灌臘経はつおいおんごしはいかんろうきょう』ともされています。

『経律異相』から一世紀近く後の七世紀末に編纂された法経ほうきょう等による経録、『衆経目録しゅきょうもくろく』(以下、『法経録』)には以下のように記録されています。

盂蘭盆經一卷
灌臘經一卷一名般泥洹後四輩灌臘經
報恩奉瓫經一卷
右三經同本重出
盂蘭盆経うらぼんきょう』一卷
灌臘経かんろうきょう』一卷一名には『般泥洹後四輩灌臘経はつおいおんごしはいかんろうきょう』ともいう。
報恩奉瓫経ほうおんぶぼんきょう〈報恩奉盆経〉』一卷
右の三経は同本重出〈同本異訳〉である。

法経等『衆経目録』巻三(T55, p.133b)

『法経録』では『盂蘭経』でなく『盂蘭経』、『報恩奉盆経』でなく『報恩奉ぼん経』とあり、またこれらに加え『灌臘経かんろうきょう』なる経典が同本異訳とされています。しかしながら、今伝わるそれら諸経を見たならば、『盂蘭盆経』と『報恩奉盆経』とは広略の関係にあるとは言えますが、同本異訳ではありません。いや、両経を確かに読んだならば『報恩奉盆経』は「略本」というのでなくやはり「元本」であって、『盂蘭盆経』は後、おそらくは梁代に儒教的・支那的言辞をあれこれ加え増広して成立したものであったように思われるものです。

『灌臘経』については、主題としては確かに他二経と同じでありはしますが、そもそも対告衆たいごうしゅ阿難あなんであって目連もくれんは出てこず、異訳とするには全く無理のあるものとなっています。そのようなことから、おそらく法経らは実際にそれら三経を見て比較し『法経録』にそう記したのでなく、当時何らかの形でそう云われるようになっていたのにただ従ったに過ぎなかったのでしょう。

次に訳者について、『盂蘭盆経』は当初、訳者が誰であるか不明の、いわゆる失訳しつやくとされるものでした。しかしながら、『法経録』のわずか三年後、費長房ひちょうぼうは『歴代三宝記れきだいさんぼうき』において、何故か失訳でなく竺法護じくほうごの訳出であると言い出しています。

竺法護とは、隋代の鳩摩羅什くまらじゅう以前、いわゆる古訳こやくを代表する訳経僧です。その梵名は、『歴代三宝記』など経録にて曇摩羅察どんまらさと音写されて法護と漢訳されていることから、[S]Dharmarakṣaダルマラクシャであったことが知られます。

法護は敦煌とんこうに代々居住していた月氏の人で、漢語を初め諸々の胡語こごに精通していたといい、西域を遍歴して仏典を蒐集しゅうしゅうした後に西晋の支那の都、長安ちょうあんおよび洛陽らくように到来。それまでに『維摩経ゆいまきょう』や『正法華経しょうほけきょう』、『光讚般若経こうさんはんにゃきょう』など幾多の重要な大乗経典を訳しています。なぜ法護が、普通は天竺てんじく出身を意味する「竺」を冠していたかというに、その師であった竺高座じくこうざに因むものであると云います。

費長房は、『盂蘭盆経』を竺法護とするに加え、これは『法経録』の説を受けてのことであったと考えられますが、同じく前述の三経を同本異訳であるとしています。

灌臘經一卷一名般泥洹後四輩灌臘經
盂蘭盆經一卷
報恩奉盆經一卷上三經同本別譯異名
灌臘経かんろうきょう』一卷一名に『般泥洹後四輩灌臘経はつないおんごしはいかんろうきょう』という。
盂蘭盆経うらぼんきょう』一卷
報恩奉盆経ほうおんぶぼんきょう』一卷上の三経は同本別訳の異名である。

費長房『歴代三宝記』巻六(T49, p.118c)

費長房がこのように記したのもまた、それら三経を実際に触れず読まず、ただ先行する経録や伝承をのみ受けて書いたに過ぎません。

しかしながら、それから一世紀半ほど時を過ぎる間に、『盂蘭盆経』を竺法護訳とする説は継承しつつ、さすがに三経を同本異訳とするその無理と誤りは気づかれたようです。盛唐の智昇ちしょうにより著されて以来、今に至るまで最も信頼されてきた『開元釈経録かいげんしゃっきょうろく』では、以下のように訂正されています。

盂蘭盆經一卷亦云盂蘭經
西晋三藏竺法護譯
報恩奉盆經一卷
失譯今附東晋録
右二經同本異譯莫辯先後廣略稍異
盂蘭盆経うらぼんきょう』一卷また『盂蘭経』と云う。
西晋三蔵竺法護訳
報恩奉盆経ほうおんぶぼんきょう』一卷
失訳。今『東晋録とうしんろく』に附す。
右二経は同本異訳であるその先後を弁ずること莫れ。広略、稍異なる

智昇『開元釈教録』巻十二(T55, p.598b)

以上示したように、諸経録における『盂蘭盆経』に対する見方には若干の変遷が見られます。

ところで今一般に、特に仏教学会においては近代以降、『盂蘭盆経』をして支那撰述の偽経であるとする見方が支配的です。その根拠は様々に挙げられていますが、確かに『盂蘭盆経』を実際読んで見れば、そのあちこちに支那的言辞のあることに目がつきます。

日本の僧職者らのほとんどもまた、そのような学的意見に無闇に釣られ同調し、『盂蘭盆経』が偽経であることはもはや自明と平気で口にするに至っています。ところが、その偽経に則って「ご先祖様が還ってくる夏の時期には盆をしなければならない」などと檀家に必ず言い、アツイ、タマランとぼやきながらも夏の定例集金に勤しんでいます。偽経であると言いながら、それを行うことが世人に対してさも義務であるかのように言いつつやる僧職者らの欺瞞ぎまんは論外として、これを偽経だと一概に断じる見方が果たして正しいかどうか。

上に示したように、同本異訳とされ、あるいは広略の関係にあるとされて、同じく『盂蘭経』と称されていた『報恩奉盆経』に注目したならば、それを容易く偽経であると断じることは出来ないに違いありません。菲才は先に述べたように、おそらく今の『盂蘭盆経』は『報恩奉盆経』を元に支那的情緒をもってやや潤色したものであったと考えていますが、であったとしたならば、これも必ずしも偽経とは言えぬものとなります。

それはまた、次項にて述べる「盂蘭盆」とは何を意味するもの語であるかを理解することによっても、その真偽を判断する糧となるでしょう。