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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

喜海 『高山寺明恵上人行状』

原文

すで出家仏弟子トナレリ。精進修行シテ佛ノヲシヘノ如クタフトクシテ、如來ノ戒法於テ違犯いぼんナカラム。又如來因位いんいノ修行ノ如ク志ヲタテ行ヲコノムヘシ。弓前きゅうせんヲトルともがらケキタナキセシト云カ如く、我モ又法ノ爲せハ、雪山せっせん童子ノ半偈はんげタメ身ヲ羅刹らせつナケ、薩埵さった王子ノ餓虎がこヲアハレムテ全身ヲホトコシ、尸毗しびカヒ慈力じりき五夜叉アタヘシカ如クニシテ死ヌヘシト思。よりてある夜、又先年幼稚ノ時ノ如ク思イタシテ、ナヲソノ志ヲトケムカタメ、先ノ如五三昧ごさんまい至ル事有。其夜、又別ノ事ナシ。むなしくかへりをはるすべ如此このごとく事ヲノミ思フ間、或夜ノ夢、狼二疋にひききたりかたはらソイヰテ我ヲ食せムト思ヘル氣色けしきアリ。心、我コノム所ナリ。此身施せムト思テ、汝きたりくふヘシト云。狼きたり食ス。苦痛タヘカタケレトモ、我カハスヘキ所ノ所作しょさナリト思ヒテ是ヲタヘ、しのびミナ食シヲハリヌ。しかしてシナスト思テ不思議ノ思ニ住シテ遍身汗流テさめをわんヌ云々。上人後、此夢覺時このみねがふトコロヲ夢中ニシテナシこころみ云々。又先年紀州きしゅう下向ノ時、藤代ふぢしろ王子わうじニシテ癩病人らいびゃうにんルニ、或人かたりいはく、人癩病ノ良藥らうやくナリ云々、心、我コヽロサス所、自本もとより𦬇ぼさつ修行ノ如一切衆生ノタメ頭目手足乃至身命しんみゃうマテヲモ捨ムト思。誰人たれびとソノまったきヲサキテ此これヲスクハム。なんぢカ身肉サキテ此癩病人あたへテ、此苦ヲスクフヘシト思テ、上洛ノトキ人ニモシラレスシテ刀ヲトキマウケテ持シテ、藤代シテ、サキノ癩人ヲタツヌルニ、わづか假舎かりやハカリ殘ステ死セルヨシヲ聞。遺恨ゐこん上洛畢。すべテ佛道修行ノコトハリヲオシフルニ人ナシ。タヽ佛衆生しゅじゃうノ爲身命ヲステ給ト云事ハカリヲキヽヱテ、如此命ヲステム事ヲノミ志サシキ云々

一 十八歲シテ始テ上覺じゃうかく上人對シテ十八道じうはちだう傳受ス。初行開白かいびゃくノ夜、夢滿月輪まんがちりん映徹セリ。其中角チカヘニ七八尺ばかり黑色こくしきけん月輪がちりんノ上覆テ光カクセリ云々。其後如此不吉祥ふきっしゃうノ相度々たびたびアリ行法ぎゃうはうノ間アキラメサル處アリ。此ノシルシナリト思テ、師匠對シテ問奉レトモ、分明ふんみゃうナラス。然レハ儀軌ぎき本經ほんきゃうあわせて諸聖敎ヨリテ此事ヲカムカフヘシト思テ、其後學問等ノごふヲハケミ營ム。すべテ我身ヲカヘリ見ルニ、サラニ人中マシワラム事ヲ思ハス。僧中緣務えんむシケシ、堂塔造營等マテなほ世間ノ事屬スヘシ。いはんヤ其餘ノ事哉。形ノ如ク佛法ノ所作しょさヲワキマヘナハイカナラム。山林深谷ノ中ニモスミテ、一行もはらにシテ、ひとへ文殊もんじゅ普賢ふげん祈請きしゃうシテ、現身佛ヲモ見、仏智ヲモヒラキ、聖果しゃうかヲモ證スヘシ。又眞言不思議ノ神驗しんけんアリ、彼ヲモヱサラムほか他事アルヘカラスト思キ。シカレトモ佛法コトハリヲシラスハ正理しゃうりウルコトナカラン。イソキテ敎文きゃうもんノヲシヱヲウカヽヒテ、聖敎ノ深意タツ子、ソノ肝要ヲサクリヱテ後ハつい人間にんげんのがいでム事ヲノミ思キ云々

又十九歲時、金剛界こんごうかい傳受。其後仏眼ぶつげんヲ本尊トシテつねニ仏眼ノ法修スルヲ業トス。毎日二時ノ勤行ごんぎゃうナリ。朝申剋さるのこく、或酉剋とりのこく出堂ス。初夜しょや後夜ごや以後、或晨朝じんでうヲヨムテ出堂。多分ハ二時にじ、或三時さんじナリ。然間しかるまカノ修中好相かうさうならび夢想むそう等種々不思議ノ奇瑞多シ。仏眼ノ法功能くうのう云、持此眞言誦一百八遍得諸仏位得灌頂位云々よりて多日ノ間他事ナク、一心仏眼のみゃうヲ誦ス。夢見ル天童てんどう殊勝奇麗ノ寶ノコシノセテカキアルキテ、仏眼如來々々々々云。我ステニ仏眼ナレリト思フ云々。又或時、夢荒舎あらやアリ。ソノ下ヲ見レハ无量むりゃう蛇蝎じゃかち惡虫等アリ。法花ほっけ譬喩品ひゆぼん所說ノコトシ、佛眼如來心ニ思フ我母ナリニイタカレ奉テ門、其怖畏ふいまぬがヌト見ル云々。或時、夢險路、佛眼如來指繩さしなわ引テ先導ス云々。或時、佛眼ノ御懷おふところイタカレ奉テつねに養育セラレ奉ルト云々

現代語訳

一.既に出家の仏弟子となった。精進修行して仏の御教えの如く尊くして、如来の戒法において違犯ないようにあろう。また如来因位いんい〈菩薩〉の修行のように、志を立てて行を好いていこう。弓箭きゅうせんを取るともがら〈武者〉は、気穢けきたなき死に様となるといわれるように、私もまた法の為であるならば、雪山せっせん童子〈釈尊の前生の一〉半偈はんげ〈「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」の後半二句〉のために身を羅刹らせつに投げ捨て、薩埵さった王子〈釈尊の前生の一〉が餓えた虎を憐れんで全身を施し、尸毗しび〈釈尊の前生の一〉が鷹に(自分の肉を)施し、慈力じりき〈釈尊の前生の一〉夜叉やしゃ〈yakṣa. 鬼神〉に(自らの血を)与えたようにして(私も同じく)死のうと思った。そこである夜、また先年の幼稚の時のように思い致って、なおその志を遂げるため、前のようにまた五三昧〈後三昧。遺体を遺棄し、あるいは荼毘に付す地。京の北西、愛宕山近辺〉に行ったことがある。(しかし、)その夜もまた特に何もなかった。空しく(高雄山神護寺に)返り畢って、すべてこのような身を捨てる事をのみ思っている間、ある夜の夢に、狼二匹が来たってかたわらに添い居て、私を食べようと思ってるかのような気色であった。心に思ったのは、「私が望む所である。この身を施そう」と考え、
「汝、来て食べるがよい」
と云った。そこで狼が来て(私を)食べだした。その苦痛は耐え難いものであったが、(その苦痛から決意を今更翻すことは)我が恥ずべき所の所作であると思ってそれを耐え、忍んでいるうちに(狼は我が体を)みな食べ終わった。それにしても、「(どうしたことか私は)死んでいないではないか」と思って不思議な思いに駆られて全身に汗が流れ出し、そこで目が覚めた、ということである。上人が後に語って云われたのには、
「この夢は覚醒時に好み願っていたところを夢の中において行い試したものであった」
という。
また、先年紀州〈現在の和歌山〉に下向した時、藤代ふぢしろ王子おうじ〈現在の藤白神社〉にて癩病人らいびょうにんを見たところ、ある人が語って云うには、
「人の肉は癩病の良薬である」
とのこと。そこで心に思ったのだ。「私が志す所は、もとより菩薩が修行されたように一切衆生のために頭・目・手・足、乃至、身命までをも捨てようと思うもの。誰人かその完き(五体満足の身体)を割いてこれを救おうとするであろう。ならば私が身の肉を割いてこの癩病人に与え、その苦を救おう」と思い、上洛の時、人に知られぬよう刀を研いだのを持って、藤代にて前の癩人を訪ねたけれども纔かに仮舎かりやばかりが残るのみですでに死んでしまったことを聞いた。(その癩病人に自らの肉を与えられず救えなかったことを)遺恨に感じつつ上洛した。(その頃は)すべて仏道修行の理を教わろうとしても、その人が無かった。ただ仏が衆生の為に身命を捨て給われたと云う事ばかりを聞き得て、このような命を捨てる事をのみ志していた、ということである

一.十八歲となり、初めて上覚上人に対して十八道じうはちどう〈密教の入門となる行〉を伝受した。初行開白かいびゃくの夜、夢に見たのは、満月輪まんがちりんが映徹〈すみずみまで光り輝くこと〉していたところ、その中で角違えに七、八尺許りの黒色のけんが月輪の上を覆ってその光を隠す、というものである。その後、そのような不吉祥ふきっしょうの相が度々あった。(伝受した)行法ぎょうぼうの中に明瞭でない処があったが、(夢に見た不吉祥の相は)そのしるしであろうと思い、師匠に対して問い奉ったけれども(その答えには)釈然としないものがあった。そこで儀軌ぎき〈密教の修道法の根拠となる聖典〉・本経〈『大日経』や『金剛頂経』など〉ならびに諸聖教によってその事を考えなければと思い、その後の学問等の業に励み営んだ。すべて我が身を省みても、まったく人の中に交わろうとなどと思いもしなかった。(かといって)僧中にあっても縁務が多くあって、堂塔・造営等であったとしても、なお世間の事に属すものである。ましてやその他の事はいうまでもない。(仏典に説かれた)形通りに仏法の所作しょさをわきまえたならば、どんなであろうか。山林深谷の中に棲んで一行を専らにし、偏えに文殊もんじゅ菩薩や普賢ふげん菩薩等に祈請して現身に仏をも見、仏智をも開き、聖果しょうかをも証しよう。また真言には不思議の神験がある。それをも得ようとする外は「他事あるべからず」と思っていた。しかしながら、仏法のことわりを知らなければ正理しょうり〈菩提〉を得ることはないであろう。急いで教文の教えを伺って聖教の深意を訪ね、その肝要を探り得た後は、終に必ず人間〈人の世界、社会、俗世間〉のがいでる事をのみ思っていた、ということである。

また十九歲の時、(真言密教の瑜伽法の一つ、)金剛界法を伝受した。その後、仏眼ぶつげん如来〈仏眼仏母〉を本尊としてつねに仏眼の法を修することを業とした。毎日二時〈朝・夕〉の勤行である。朝に入って申刻さるのこく〈午後四時前後〉、あるいは酉刻とりのこく〈午後六時前後〉に出堂した。初夜〈午後八時頃〉に入って後夜〈午前四時頃〉以後、あるいは晨朝じんじょう〈午前六時頃〉に及んで出堂。多分は二時、あるいは三時〈朝・日中・夕〉である。そのような(日々を送っている)間、かの修法〈仏眼仏母の法〉を行っている中で、好相〈覚醒時に見る尋常ならざる吉祥な現象〉ならびに夢想〈夢中に見る吉祥な出来事、話〉等の種々不思議の奇瑞が多くあった。仏眼の法の功能を説いて云うには、「この真言を持して一百八遍を誦したならば、諸仏位を得、灌頂位を得る」〈原拠未詳〉とある。そこで多日の間、他事なく一心に仏眼のみょう〈仏眼仏母の真言〉を誦した。夢で、天童殊勝奇麗の宝の輿こしに乗せて舁き歩き、「仏眼如來、仏眼如來」と云い、私はすでに仏眼となったと思った、というのを見た。またある時、夢に一つの荒舎があった。その下を見れば無量の蛇蝎じゃかつ・悪虫等がある。『法華経』譬喩品の所説〈三車火宅〉のように、仏眼如来心に思う私の母であるに抱かれ奉って門を出て、その怖畏ふいを免れたと見た云々。ある時は、夢に馬に乗って險しい路を行くのに、仏眼如来が指縄さしなわ〈馬の轡にかけて引く綱〉を引いて先導した云々。ある時は、仏眼の御懐に抱かれ奉って常に養育され奉るのを(夢に)見た云々

脚註

  1. 因位いんいノ修行

    因位は菩提を求め修行している段階、すなわち菩薩としてある状態。菩提を得るための修行。大乗ではその具体的内容として六波羅蜜行が説かれる。

  2. 弓前きゅうせん

    弓箭。弓と矢。

  3. ケキタナキ

    気穢き。不純・粗暴なること。「け」は接頭辞で、ののしりの意を表す。

  4. 雪山せっせん童子ノ半偈はんげ

    『大般涅槃経』(北本)に説かれる説話。雪山(ヒマラヤ山中)にて修行していた菩薩に対し、羅刹に姿を変えて現れた帝釈天が唱えた「諸行無常 是生滅法」という半偈。これを聞いた菩薩は残りの半偈を聞きたいと所望するも、羅刹はその肉体を我が飢えを癒やすために投げ出すかわりならば教えようと答えた。すると菩薩は応諾し、残りの「生滅滅已 寂滅為楽」を聞いて満足し、自ら高い木の上に登って身をなげうつ。その体が地面に叩きつけられる寸前、羅刹に変化していた帝釈天は元の姿にもどって菩薩のみを受け止め、その行為を謝罪し礼拝して去ったという。いろは歌(以呂波歌・色葉歌)の主題。

  5. 羅刹らせつ

    [S] rākṣasa. 印度神話に登場する一族で、夜に墓場に現れ、人肉を喰らう悪の権化。しかし仏教では、仏陀に帰依してその守護神の一つとなったとされる。ここでは帝釈天が変化した姿。

  6. 尸毗しびカヒ

    尸毗は[S] Śiviの音写で、釈尊が前世において王として生まれ、しかし菩薩として修行していた際の名。鷹の獲物として追われていた鴿を救い、また鷹の飢えを癒やすため自分の肉を鷹に切り与えたという。『賢愚経』などに基づく説話。

  7. 慈力じりき五夜叉アタヘシ

    慈力は[S] Maitribala(彌佉羅拔羅)の漢訳で、釈尊の前世において王として生まれ、しかし菩薩として修行していた際の名。慈力王による十善を以てした治により世の人々は夜叉など悪鬼の付け入る隙がなくなり、夜叉たちは飢えに苦しんだ。そこで五人の夜叉がむしろ高潔な王に助けを求めると、王は自らの血を与えてその飢えを救った。そして彼らに以降は十善を指針として生きるべきことを諭したという。五夜叉は後、釈尊の初転法輪に預かる五比丘の前世であったという。『賢愚経』などに基づく説話。

  8. 藤代ふぢしろ王子わうじ

    熊野古道における九十九王子のうち特に重要とされた五王子の一つ。今の藤白神社(和歌山県海南市藤白)。藤白若一王子権現。

  9. 十八道じうはちだう

    真言密教における三密瑜伽の初門、基礎となる修法。六法十八印契によって構成されることからの称。十八契印とも。不空訳『観自在菩薩如意輪瑜伽』あるいは『如意輪菩薩念誦法』などに基づくが、流派によって本尊を異にする。

  10. 初行開白かいびゃく

    十八道など諸々の加行を修める最初にすべき、その行の本旨・目的などを仏菩薩に開陳し奏すること。

  11. 儀軌ぎき

    秘密儀軌。三密瑜伽を修める方法、その次第が説かれる仏典。

  12. 本經ほんきゃう

    三密瑜伽法、その次第や曼荼羅の建立方法を説く密教経典。『大日経』や『金剛頂経』など。

  13. 人間にんげん

    人の住まう世界、社会・世間。漢籍ではこれを「じんかん」と訓じる。

  14. 仏眼ぶつげんヲ本尊トシテつねニ仏眼ノ...

    ここでいわれる「仏眼ノ法」が具体的に何を指すかは不明瞭。あるいは『瑜祇経』に基づく仏母加持を行っていたか?

  15. 申剋さるのこく

    十六時前後の二時間。15:00-17:00。

  16. 酉剋とりのこく

    十八時前後の二時間。17:00-19:00。。

  17. 好相かうさう

    なんらか吉祥なる現象。たとえば修禅や礼拝などしている中、現に仏菩薩などが来臨して自らの頭を撫で、あるいは光輝を見、または空中などに華を見るなど血通常ではありえない現象を、夢中でなく意識ある状態で見ること。
    『梵網経』「好相者。佛來摩頂見光見華種種異相」(T24, p.1008c)

  18. 夢想むそう

    夢の中で(ここでは吉祥な)話、現象を見ること。

  19. 持此眞言誦一百八遍得諸仏位...

    此の眞言を持して一百八遍誦せば諸仏位を得、灌頂位を得。しかしこの通りの一節を仏眼仏母について説く聖教のうちに見出すことは出来ない。

  20. 仏眼のみゃう

    仏眼如来の真言。
    『大日経』にも仏眼明は説かれるが、ここでは『瑜祇経』の所説を示すと「曩謨 婆誐嚩底 瑟抳二合沙唵嚕嚕娑跛二合嚕入嚩二合攞底瑟吒二合悉馱路左抳薩嚩囉他二合娑馱𩕳曳娑嚩二合」、すなわち「namo bhagavatoṣṇīṣa oṃ ruru sphuru jvala tiṣṭasiddhalocane sarvārtha sādhaniye svāhā」。

  21. 法花ほっけ譬喩品ひゆぼん所說ノコトシ

    『法華経』巻二「譬喩品」第三にていわゆる「三車火宅」が説かれる中、悪しく汚泥にまみれ害獣害虫が蔓延してさらに火のついた家を俗世間の喩えとして描写する偈文を意図したもの。

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