又建久ノ頃、殊ニ精誠ニ此法ヲ修ス 今歡喜薗堂ノ跡ナリ。初夜ノ時ニ入テ丑剋ニ至テ出堂ス。其夜緣行道シテ念誦スルニ、其下ノ壇今ノ前田ナリヲミヲロセハ、現ニ群猪六七疋西ヨリ東ヘ行。一番ナル猪ノ背ニ星五六アリ、ソノ星ノ大サ徑リ三四寸許ニシテ光明煥然トシテアサヤカナリ。其夜殊ニ暗シ。又坊中ニ燈燭ナシ。ソノ星ノ光ニ殘ノ猪アサヤカニ見ユ。コレ不思議ノ瑞獸ナリ。七星ノクタリ給ヘルカト覺ユ。是法成就ノ瑞相ナリ。一行禪師ノ傳ニ七星ヲ猪ニテ取ラシメ給事アリ云々。或時ハ修中ニ佛眼尊親形ヲ顯シテ其前ニ現ス。其形像者云々更問、或時又子ムコロニ佛道修行ノ法軌ヲ祈請スルニ夢ニ見ル、汝二金剛薩埵ノ大樂ヲ授ケム云々。又夢ニ明日理趣經ヲサツケム云々。然ルニ次日ノ日中ノ行法中ニ壇上ニ音アテ、理趣経ヲヨミサツク。初段ノ金剛手若有聞此淸淨出生句ノ下モ、経ノ終ヲ盡ス、其音親リ壇上ニアリ。遠近殆聞定サルカ如シ、出堂ノ後、是ヲ記せムトスル處ニ、経ノ讀始タシカニ覺ヘサル間、筆ヲ閣テ、若大聖ノ指授タラハ重テ示サレント乞、纔ニ目ヲフサクニ、又音アテサキノ如、金剛手若有聞此ノ以下此ヲ讀ム、其後此事イマタ心得サル間、猶重テ祈請ス、夢ニ仏眼如來ヨリ一通ノ消息ヲ給、ソノ表書ニ明惠房佛眼トカヽレタリ、披テ是ヲ見レハ、殊勝不思議、眞字ヲモテ書レタリ、其狀ニ云云々、傍人御手跡ヲ讚歎スルヲ聞テ、御使云ク、アタアタシク梵字ヲモ能アソハシ候ニヤ、上人語テ云ク、如此ノ好相等ハ我生死ヲ出テ成佛ノ位ニイタラムマテ、併仏眼尊ノ御加被力ニ依テ成就スヘキ瑞相ナリ云云、又或人死生ヲ知ムカタメニ、遠所ヨリ所勞大事ニシテ、万死一生ノヨシヲ相吿ル事アリ、使者ヲ置キナカラ、佛眼ノ法ヲ修シテ、祈請スルニ、開白ノ時白雉現セリ、良久シテウせヌ、此レ延壽ノ先兆ナリ、聖德太子ノ御時、天王夢ニ鳳凰ヲミル、太子ニ悦テ申云ク、是延壽ノ表瑞ナリ云々、其後百濟國ヨリ白雉ヲ送リ獻ス、太子奏シテ曰ク、白雉ハ鳳凰ノ類ナリ云々、又上人夢ニ、コノ病者大海ノ上ニ、黑キ灰ノ樣ナル物ヲマキタル上ヲ行クニ、灰ノアル程マテハ上ヲフミテ行ク、ナキトコロニイタリテ海ニシツミ入ルト見ルニ、忽ニ赤色ナル馬來テ、乘セテ安穏ニ地ニヲロシテ去ト見ル、此ハ七曜ノ御タスケ歟ト云々、仍延壽ノヨシヲ示シ遺ス、又或時不動ノ法ヲ修スル事アリ、道場タチマチニ花薗トナテ、種々ノ寶花弥布せリ、異香ヲ出シテ道場ニ薰滿ス、又現ニ種々寶網寶鈴寶幢幡蓋ヲモテ道場ヲ莊嚴ス、上人其中ニ有テ此法ヲ修スルニ、寶鈴右ニ旋テ其身ヲ旋遶ス、又三十餘人ノ梵僧行烈シテ、身ニ法服ヲ着シ、手ニ香爐ヲ取、讚歎シ給云々、又或時行法ノ修中ニ、侍者良詮ヲ呼テ吿テ云、手水桶ノ水ニ一ノ虫落入レルカト覺ユ、是ヲタスクヘシ云々、良詮驚テ見ニ、ハタシテ一ノ蜂ノ落入レルヲ見ル、後日又修中ニ、同キ侍者ヲ呼テ吿テ云ク、後ノ竹原ノ中ニ小鳥物ニケラレタルカト覺シキアリ、コレヲ見ルヘシ云々、スナハチ見ルニ又ハタシテ詞ノコトシ、惣テカクノ如ク奇瑞勝境ノ相等、他人ハカルヘキニアラス、又委細ニコレヲシラス、上人時々事ノ次ヲモテ示シ語ラルヽ事アリキ、纔ニ一兩ヲ註ス、コレヲモテ餘ヲシルヘシ
一 建久四年癸丑東大寺尊勝院主法印弁暁在生ノ時キ、花嚴宗興隆ノタメニ、公請出仕アルヘキ評定アテ、一兩年彼寺ニ通ヒ住ス、其間聖敎修學ノ勤メ、學堂雌雄ノ諍ヒ、見ルニ不肖ノ身終ニタヱサル事ヲ知ヌ、此ヲ營テ聖意ヲモトメ、此ヲ馮テ仏法ノ益ヲウヘシトモ覺ヘサレハ、アチキナキ事ナリ、今ハ僧中ヲイテヽ、本意ノ如ク文殊ヲ師トシテ、仏道ノ入門ヲ得ヘシト思ヒ得テ、起信論ノ眞如生滅ノ二門、此ヲ心ニ懸テ眞如觀ヲ修スルニ、夢ノ中ニ或人ニ寄シテ、眞如ノ隨流反流生住異滅ノ大夢ノ四相ニ付テ、覺不覺ノ相ヲ見ルコトアリ、仍山林ニアトヲカクシテ生涯ヲツクシ、法門ニ心ヲ懸テ命ヲ終フヘシト思キ、其後本寺ノ下向思止畢、
また建久〈1190-1199〉の頃、殊に精誠
にこの法〈仏眼如来を本尊とする瑜伽法〉を修した 今の歓喜薗堂の跡であった。初夜の時〈18:00-21:00頃〉に入って丑刻〈1:00-3:00頃〉に至って出堂した。その夜緣、行道して
念誦していたところ、その下の壇 今の前田であるを見下ろしたらば、現に群の猪六、七匹が西から東へと行っていた。一番先を行く猪の背には星が五、六あり、その星の大きさ径リ三、四寸ばかりであって光明煥然として鮮やかであった。その夜は殊に暗く、また坊中に灯燭はなかった。その星の光に残りの猪も鮮やかに見えたのである。これは不思議の瑞獣である。七星〈北斗七星〉が降り給われたかと感じられた。これは法が成就する瑞相である。一行禅師の伝に、七星を猪によって取らさせ給われたという事があったという。ある時は、(行法の)修中に仏眼尊が親ら形を顕してその前に現われた。その形像は… 更に問え。
ある時、また懇ろに仏道修行の法軌〈筋道〉を祈請したところ、夢に「汝に金剛薩埵の大楽を授けよう」と云われるのを見た。また夢に「明日、『理趣経』を授けよう」という。すると次日の日中の行法中、壇〈大曼荼羅壇あるいは密壇〉の上に音があって『理趣経』を読み授けられた。初段の「金剛手若有聞此清淨出生句」の下から、経の終りまでを(読誦し)尽くす、その音が親り壇上にあったのだ。(その音がどこからあるのか)遠近、ほとんど聞き定められない程であった。出堂の後、これを記そうとしたところ、経の読み始めを確かに思い出すことが出来ず、筆を閣いて「もし大聖の指授であるならば重ねて示されよ」と乞い、纔かに目をふさぐと、また音あって先のように「金剛手若有聞此」の以下を読むのであった。その後、この事について未だ得心がいかなかったため、なお重ねて祈請した。すると夢で、仏眼如来から一通の消息〈手紙〉を給われた。その表書には「明恵房仏眼」と書かれていた。披いてこれを見たならば、殊勝不思議なことに真字〈漢字〉でもって書かれている。その状にかかれていたのは…云々。(私の)傍にあった者が(仏眼如来の)御手跡〈筆跡〉を讃歎するのを聞いて、(その消息を届けてきた)御使は、
「あだあだしく梵字をもよく書かれているでしょうか」
という。(当時を回想されて)上人が語って云われるには、
「このような好相などは私が生死を出て成仏の位に至るまで、ならびに仏眼尊の御加被力に依って成就すべき瑞相であった」
とのこと。
また、ある人が(自身の)死生〈死ぬか生きるか〉を知ろうと、遠所から所労〈病〉が重篤となって万死一生〈ほとんど助かる見込みのないこと〉であることの由を相吿げてきた事があった。(その病者の)使者を(仏堂に)置きながら、仏眼の法を修して祈請したところ、開白の時に白雉が現われ、やや久しくして(どこかに)去った。これは延壽〈長寿〉の先兆であった。聖徳太子の御時、天王〈推古天皇〉が夢に鳳凰を見た。太子に悦んで申して、
「これは延壽の表瑞である」
と云われたという。その後、百済国が白雉を送り献じてきた。太子が奏して言うには、
「白雉は鳳凰の類であります」
とのこと。また、上人は夢に、この病者が大海の上に黒い灰の様な物を撒いた上を行くのに、灰のある程までは上を踏んで行け、無いところに至ると海に沈み入るというのを見たところ、忽ちに赤色の馬が来たって、(病者を)乗せて安穏な地に降ろして去るというのを見た。「あれは七曜〈北斗七星〉の御助けであったろう」と云われた。そこで延壽の(兆しが修法中に現れた)由を示して(使者を返し)遺った。
またある時、不動〈不動明王〉の法を修した事があった。すると道場はたちまち花薗となって、種々の宝花でいよいよ敷き詰められた。(その花々は)異香を出して道場に薰りが満ち溢れた。また、現に種々宝網・宝鈴・宝幢・幡蓋をもって道場を荘厳した。上人はその中にあってこの法を修したところ、宝鈴が右に旋ってその身を旋遶した。また、三十余人の梵僧〈印度僧〉が行列して、身に法服〈袈裟衣〉を着け、手に香爐を取って讃歎し給われた、という。
またある時、行法〈密教の三密瑜伽法〉の修中に、侍者の良詮を呼んで吿げて云った。
「手水桶〈手洗い用の水を入れる桶〉の水に一匹の虫が落ち入ったように感じられる。それを助けよ」
良詮が驚いて(手水桶の中を)見ると、果たして一匹の蜂が落ち入っているのを見た。後日、また修中に、同じ侍者を呼んで吿げて云った。
「後ろの竹原の中で小鳥が物に蹴られている〈襲われている〉かのような感じがする。それを見てみよ」
そこで(竹原に行って)見ると、また果たして(上人の)詞の通りであった。すべてのそのような奇瑞なる勝境の相〈優れた現象〉等は、他人が(一体いかなることかと)推し量れるものではない。また委細を(私喜海〈『明恵上人行状』の編者〉も)これについて知ってはいない。上人は時々事の次いでに(そのような人の理解を超えた奇瑞を)示し語られた事があった。(ここには)纔かに二つ(の逸話)を註した。これを以て他を知れ。
一.建久四年癸丑〈北斗七星〉、東大寺尊勝院主の法印弁暁〈平安末期に華厳宗を興隆しようと努めた学僧〉が在りし時、華厳宗興隆のため、公請〈朝廷からの要請〉によって出仕をせよとの評定があって、二年間その寺に通って住した。その間、(東大寺における学徒らの)聖教修学の勤めや学堂雌雄の諍いを見るに、不肖の身は終に絶えない事を知った。これを営んで聖意を求め、これを馮んで仏法の益を得るであろうとも感じられなかったため、つまらなく虚しい事であった。今は僧中を出て、本意のように文殊菩薩を師とし、仏道の入門を得ようと思い得て、『大乗起信論』の(所説である)真如生滅の二門、これを心に懸けて真如観を修した。すると、夢の中である人に寄せて、真如の隨流反流、生・住・異・滅の大夢の四相に付いて、覚・不覚の相を見ることがあった。そこで山林に跡を隠して生涯を尽くし、法門に心を懸けて命を終えようと思った。その後、本寺〈出家者の属する本山。明恵の場合は神護寺〉の下向を思い止とどめた。
後鳥羽天皇および土御門天皇在位の年号。1190年4月11日から1199年4月27日までのおよそ九年間。▲
北斗七星。貪狼星・巨文星・禄存星・文曲星・廉貞星・武曲星・破軍星。▲
唐代の支那僧。禅・律・天台を学んだ後、印度僧の金剛智および善無畏から密教を承けた。日本では『大日経』系の密教の相承者、その阿闍梨(伝持の八祖)の一人として崇敬される人。仏教だけでなく数学や暦法にも通じたいわば科学者でもあって当時の暦に大きな影響を及ぼしている。▲
[S] Vajra-sattva. 密教において最も重要な菩薩の一。大日如来から直接密教を伝受し、それをまた龍猛に授けたとされることから、付法の八祖の第二に挙げられる。一説に普賢菩薩と同体とされる。金剛手または執金剛とも。▲
不空訳『大楽金剛不空真実三昧耶戒経』の通称。教主は釈迦牟尼でなく大日如来(大毘盧遮那如来)で、説処は人間界でなく他化自在天、対告衆は金剛手(金剛薩埵)で、一切が無自性空なることを「清淨」という語句によって表現し、その般若理趣に達した境地が「大楽(大なる楽)」にして「金剛不空(金剛のように空しからざる)」ものであることを種々に説く経。
従前、読経や仏教の術語はもとよりおよそ漢文など呉音で読んでいたのを、桓武天皇は国策として当時の長安で行われていた漢音に改めるべき詔を出していた。それによって、真言宗では今でも『理趣経』など密教経典の多くに関しては、呉音でなく漢音で読誦する習いとしている。▲
密壇。密教を修するために用いられる長方形の机。本来は正方形の大曼荼羅壇(大壇)を用いるべきところを三分の一に略したもの。仏前に常設し、あるいは灌頂などの儀式に用いられる。▲
『理趣経』初段にある一節。「金剛手、若し此の淸淨出生句を聞くこと有らば…」。一般にこれを読経の際は「きんこうしゅじゃくゆうぶんしせいせいしゅっせい…」と漢音で唱える。▲
仏・菩薩。▲
手紙。▲
漢字。仮名(カタカナ・ひらがな)に対していう語。仮名が漢字を元に造られたものであることに基づく。▲
徒徒しく。あだあだしく。
①誠実でない、無責任な・②好色がましい・③表層的、中身がない等の意味を持つ語。▲
ほとんど助かる見込みがないほど危険な状態であること。九死一生に同じ。▲
寿命を延ばすこと。長寿。▲
[S] Acalanātha. 不動明王。無動尊とも。▲
沙門衣。いわゆる袈裟衣。▲
隆詮とも。明恵上人に側仕えた弟子の一人。明恵の膝下にあってその講説を筆記した、たとえば『納凉坊談義記』などの書がいくつか伝わっている。▲
手洗い用の桶。▲
尊勝院は光智が天暦九年〈955〉に創建した東大寺の子院の一で、華厳宗の本所とされた学問寺院。弁暁は当時の華厳宗でも弁舌優れた学僧で、尊勝院の住持に任じられ華厳宗の興隆に務めた。▲
朝廷の要請で法会や論議のために特定の僧を召し出すこと。▲
あぢきなきこと。価値のないこと、無益でつまらないこと。▲
馬鳴『大乗起信論』。大乗とは何かを理論・実践・功徳の三面から説いた書。支那および日本仏教の諸宗諸派通じてきわめて重大な影響を及ぼした論書。▲
真如門と生滅門。世界の一切の事物が生滅する有り様を克明にすることによって、真如すなわち一切が非我であって無自性空であることを理解すること。
『大乗起信論』「顯示從生滅門即入眞如門。所謂推求五陰色之與心。六塵境界畢竟無念。以心無形相十方求之終不可得。如人迷故謂東爲西方實不轉。衆生亦爾。無明迷故謂心爲念心實不動。若能觀察知心無念。即得隨順入眞如門故」(T32, p.579c) ▲
出家者がその籍を置く寺。いわゆる本山。▲