大唐西域記卷第二 三國
三藏法師玄奘奉詔譯
大總持寺沙門辯機撰
濫波國 那掲羅曷國 健馱邏國
詳夫天竺之稱。異議糺紛。舊云身毒。或曰賢豆。今從正音。宜云印度。印度之人隨地稱國。殊方異俗遙擧總名。語其所美謂之印度。印度者。唐言月。月有多名。斯其一稱。言諸群生輪迴不息。無明長夜莫有司晨。其猶白日既隱宵燭斯繼。雖有星光之照。豈如朗月之明。苟縁斯致因而譬月。良以其土聖賢繼軌導凡御物如月照臨。由是義故。謂之印度。印度種姓族類群分。而婆羅門特爲清貴。從其雅稱傳以成俗。無云經界之別。總謂婆羅門國焉
《中略》
詳其文字。梵天所製原始垂則。四十七言也。寓物合成隨事轉用。流演枝派其源浸廣。因地隨人微有改變。語其大較未異本源。而中印度特爲詳正。辭調和雅與天同音。氣韻清亮爲人軌則。隣境異國習謬成訓。競趨澆俗莫守淳風。
至於記言書事各有司存。史誥總稱謂尼羅蔽荼唐言青藏〈底本「清藏」を梵語および『嘉興蔵』によって「青藏」に改む〉善惡具擧災祥備著。
而開蒙誘進先導十二章。七歳之後漸授五明大論。一曰聲明。釋詁訓字。詮目疏別。二工巧明。伎術機關陰陽暦數。三醫方明。禁呪閑邪藥石針艾。四謂因明。考定正邪研覈眞僞。五曰内明。究暢五乘因果妙理。
其婆羅門學四吠陀論舊曰毘陀訛也一曰壽。謂養生繕性。二曰祠。謂享祭祈禱。三曰平。謂禮儀占卜兵法軍陣。四曰術。謂異能伎數禁呪醫方。師必博究精微貫窮玄奧。示之大義導以微言。提撕善誘彫𣏓勵薄。若乃識量通敏志懷逋逸則拘縶。及關〈底本「反開」を『嘉興蔵』によって改む〉業成後已年方三十。志立學成。既居祿位先酬師徳。
其有博古好雅肥遁居貞。沈浮物外逍遙事表。寵辱不驚聲聞已〈底本「問以」を『嘉興蔵』によって改む〉遠。君王雅尚莫能屈迹。然而國重聰叡俗貴高明。褒賛既隆禮命亦重。故能強志篤學忘疲遊藝。訪道依仁不遠千里。家雖豪富志均羈旅。口腹之資巡匃以濟。有貴知道無恥匱財。娯遊墮業婾食靡衣。既無令徳又非時習。恥辱倶至醜聲載揚
底本:『大正新脩大蔵経』
大唐西域記卷第二 三國
濫波國 那掲羅曷國 健馱邏國
詳かにすれば夫の天竺の稱、異議糺紛たり。舊に身毒と云ひ、或は賢豆と曰ふ。今、正音に從て宜く印度と云ふべし。印度の人は地に隨て國と稱す。殊方異俗、遙に總名を擧げ、其の美する所を語らふて之を印度と謂ふ。印度とは唐に月と言ふ。月に多く名有て、斯れ其の一稱なり。言ふこころは諸の群生、輪迴して息まず、無明の長夜に司晨有ること莫し。其れ白日既に隱ぬれば宵の燭、斯れに繼ぐが猶し。星光の照すこと有りと雖も、豈に朗月の明なるに如かんや。苟に斯の致に縁るに因て月に譬ふ。良に以ば、其の土の聖賢、軌を繼ひで凡を導き物を御すること、月の照臨するが如し。是の義に由るが故に、之を印度と謂ふ。印度の種姓・族類、群分れたり。而して婆羅門をば特に清貴と爲す。其の雅稱に從て傳て以て俗を成して、經界の別を云ふ無く、總じて婆羅門國と謂ふ。
《中略》
其の文字を詳かにすれば、梵天の製する所なり。原始、則を垂るること、四十七言なり。物に寓りて合成し、事に隨て轉用す。枝派を流演して、其の源、浸くに廣し。地に因り人に隨て微に改變有れども、其の大較を語へば未だ本源を異にせず。而して中印度を特に詳正と爲す。辭調、和雅にして天と音を同ず。氣韻、清亮にして人の軌則たり。隣境異國、習謬して訓を成す。競て澆俗に趨り、淳風を守ること莫し。
言を記し事を書するに至っては、各の有司存せり。史誥は總稱して尼羅蔽荼と謂ふ唐では青藏と言う。善惡、具に擧げ、災祥、備に著す。
蒙を開き誘進せるをば先づ十二章に導ふ。七歳の後に漸く五明大論を授く。一に曰く聲明、詁を釋し字を訓じ、目を詮じて別を疏るなり。二には工巧明、伎術・機關・陰陽・暦數なり。三には醫方明。禁呪して邪を閑ぎ、藥石・針艾するなり。四に謂く因明、正邪を考定し、眞僞を研覈するなり。五に曰く内明、五乘の因果の妙理を究暢するなり。
其の婆羅門は四吠陀論を學ぶ舊に毘陀を曰ふは訛りなり。一には曰く壽、生を養ひ性を繕ふを謂ふ。二に曰く祠、享祭祈禱するを謂ふ。三に曰く平、禮儀・占卜・兵法・軍陣を謂ふ。四に曰く術、異能・伎數・禁呪・醫方を謂ふ。師、必ず博究して精微し、玄奧を貫窮す。之の大義を示して微言を以て導き、提撕して善く誘ひ、𣏓ちたるを彫て薄きを勵ます。若し乃れ識量通敏にして志し逋逸を懷くをば、則ち拘縶ふ。及ち業成るまで關かり後已、年方に三十にして志立ち學成じ、既に祿位に居せば先ず師徳に酬ふ。
其の博古にして雅を好み肥遁して貞に居し、物外に沈浮し事表に逍遙するは、寵辱に驚かず。聲聞已て遠かるもの君王雅尚して能く迹を屈すること莫し。然而、國は聰叡を重じ、俗は高明を貴ぶ。褒賛既に隆りにして、禮命亦重し。故に能く志を強くし學を篤くして疲ることを忘れて藝に遊ぶ。道を訪ね仁に依ること千里を遠しとせず。家、豪富なりと雖も、志、羈旅に均し。口腹の資けを巡り匃を以て濟し。道を知るを貴ぶこと有るも、財に匱しきを恥ること無し。娯遊して業に墮く、食を婾み衣を靡しくするは、既に令徳無く、又時の習に非ず。恥辱、倶に至て、醜聲、載ち揚る。
支那唐代の僧(602-664)。河南洛州緱氏県出身。13歳で出家し、成都にて受具(武徳五年〈622〉)。印度に『瑜伽師地論』なる書の存在することを聞いて渡天を決意し、いわゆるシルクロードを経て印度に入った。特にMagadha(摩伽陀)のNālanda(那爛陀寺)に長年滞在し、Śīlabhadra(戒賢)に師事して念願の阿毘達磨および唯識のを学び、当地で学頭を務めるなど高名を馳せた。故国を発ってから十七年、帰国。帰国後は印度からもたらした膨大な経論の翻訳事業に取り掛かり、三蔵として歴史上最多の仏典翻訳者となる。また、旅した中央アジア各国から印度各地の文化・風土など詳細に記しまとめた紀行文を著したがそれが本書。玄奘が印度に学んだ唯識を受けた弟子の基により法相宗が生じ、阿毘達磨を受学した普光により倶舎宗が生じた。
日本からの留学僧、道昭は入唐時に玄奘に師事して修学したといわれる(『続日本記』)。▲
弁機。出自等未詳。玄奘の弟子で本書を編纂した人。太宗の娘、高陽公主(合浦公主)と私通していたため太宗に斬殺されたという。▲
古代支那におけるインドの称。語源未詳。▲
入り乱れていること。▲
[S]Sindhuの音写。河川、あるいは海の意。特にインダス川流域の称とされる。
音写に「毒」を用いている点に、古代支那人における外国(外夷)を矮小化し蔑視する見方、中華思想があらわれている。▲
[S]Sindhuの転訛の音写、あるいは音写が転訛した語。▲
[S]Induの音写。玄奘は支那におけるインドの称が、天竺・身毒・賢豆など古来諸説あるがいずれも不正であり、印度とするのが正しいとする。▲
[S]Induは月夜、あるいは夜の意で、これを玄奘は「印度とは月の意である」と唐で紹介した。▲
生けるもの。衆生、有情に同じ。▲
[S]avidyā. 生けるものにおける真理に対する知識、理解欠いていること。生来的に有する根本的な無知。四聖諦・縁起・輪廻に対する無理解であり、その故に生死流転を永遠と繰り返して止まないことを明けぬ夜に喩えて「無明長夜」という。▲
夜明けを告げるもの。一般に夜明け前に鳴く鶏を言うが、ここでは輪廻の終わりを告げる者。▲
[S]gotra(姓)あるいはvarṇa(色)。 印度における生来的階級制。大きく四種に大別される。今一般にいわれるカースト。▲
[S]brāhmaṇa. 印度における種姓で最高位とされる学問・祭祀を司る者の階級。バラモン。▲
印度をして婆羅門国と称していたのは、義浄も『南海寄帰内法伝』(以下、『寄帰伝』)において「又復須知。五天之地。皆曰婆羅門國」と報告しており、当地にて一般に通用するものであったのであろう。▲
[S]Brahman. 印度において世界の創造主として信仰される天。仏教では色界初禅天の王。▲
悉曇の母音(摩多)に十四字と子音(体文)に三十三字と、計四十七字あること。▲
広く行き渡ること。▲
大略。概略。あらまし。▲
ここでは四十七言、すなわち梵字悉曇の四十七字の字形。▲
音声が穏やかで上品であること。▲
一般に気品のある様子をいうが、ここでは発音・発声の意。▲
音声が清らかに澄んでいること。せいりょう。▲
軽薄な風潮。▲
一般に素直・実直な気風をいうが、ここでは梵語の正しい発音・文法の意。▲
役人。▲
史は朝廷において書を司る官名。誥は天子や王から家臣への言葉、勅命・王命。ここでは天竺における書や制度など実際の意。▲
[S]Nīlapiṭaの音写。年代記および勅命の集成。nīlaは青、piṭaは籠あるいは蔵の意であることから、唐でこれを青蔵 。▲
ここで玄奘は(梵字悉曇を学ぶ)子供用の教科書(支那・日本で一般に『悉曇章』という)が十二章からなることを報告している。玄奘に先行する隋代の慧遠もまたその著『大般涅槃経義記』にて悉曇章は「十二章」あることを述べていることから、隋代の昔に支那に伝えられていたそれは十二章立てであったようである。
しかし、唐代の義浄は『寄帰伝』において「一則創學悉談章。亦名悉地羅窣覩。斯乃小學標章之稱。倶以成就吉祥爲目。本有四十九字。共相乘轉。成一十八章」としている。このことから、印度においても時代によって章立てが簡単なものからより細分化され、あるいはその構成が変わるなど異なっていたであろうことが知られる。▲
義浄が『寄帰伝』にて、悉曇を「六歳童子学之。六月方了(六歳の童子がこれを学んで、六月にてまさに了る)」と報告していることに合致する。六歳となって悉曇という文字を習い始め、これを六ヶ月をかけて習得した後、すなわち七歳となって伝統的学問の門を叩くという当時の印度における習慣。▲
五明は[S]pañcavidyāの訳で、古代から中世印度における五つの学問。▲
[S]śabda-vidyā. 梵語の文法および音韻学。▲
[S]śilpakarma-sthâna-vidyā. 工芸・音楽・美術など芸術、および算術・卜占・呪術など、日常における技術と知識にまつわる学問。▲
[S]cikitsā-vidyā. 医薬にまつわる学問。▲
[S]hetu-vidyā. 論理学。▲
[S]adhyātma-vidyā. 仏教にまつわる学問。▲
五種の仏教。その目的・証果により、人乗・天乗・声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の五つに分類した称。▲
究明して講じること。徹底して調べ、研究して述べること。▲
吠陀は[S]vedaの音写。vedaは知識の意。古代印度において主として婆羅門が護持し学習した、Ṛg-veda(梨倶吠陀)、Sāma-veda(三摩吠陀)、Yajr-veda(夜柔吠陀)、Atharva-veda(阿闥婆吠陀)の四種の聖典。
以下、玄奘は四吠陀を列挙していくが、しかし必ずしもその名と内容が正確ではない。▲
玄奘はṚg-veda(梨倶吠陀)を挙げたつもりであったろうが、寿(壽)と訳されるのはそれに付随する典籍であるĀyur-veda。āyuは生命・壽命を意味し、古代印度における福祉健康にまつわる書。▲
Yajr-veda(夜柔吠陀)。▲
神を祀って供物を献じること。きょうさい。▲
Sāma-veda(三摩吠陀)。▲
Atharva-veda(阿闥婆吠陀)。▲
師が弟子を教え導くこと。▲
故事、歴史に詳しいこと。▲
隠遁。脱俗して、隠居・隠棲すること。▲
出俗。俗世間の外。▲
そぞろ歩き。彷徨。▲
名声を得ることと辱められること。名声と恥辱。ちょうじょく。▲
思慮深いこと。▲
旅。旅行。▲
美徳。▲
はずかしめ。ちじょく。▲