しかし現代、本邦では巷間、「気づき」という言葉をもってsmṛti(sati)の訳に当て、あるいはその意味内容であるとし、安般念や四念処など念の語が付された仏教の修習法を、「気づきの瞑想」などと言って盛んに宣伝する一類の人々があります。
実際そのような理解を元にして、「サティを入れる」・「気づきを入れる」などという、日本語の「念を入れる」という表現を変にもじったのなのでしょうか、なんとも奇妙奇天烈、珍奇なる表現を用いる人々に幾度か出会うことがあります。いや、巷ではsmṛti(sati)に対する、引いてはvipaśyanā(vipassanā)の修習に対する「気づき」という言葉がすでに独り歩きして久しいようです。その結果、その一類の輩に影響されてしまった人々らはその正誤について毫も疑わうことなく、「仏陀の説かれた修習とは気づきの瞑想であった」などと理解するに至っています。
なるほど、「気づきの瞑想」などという語はなにやら知的な印象を持たせられようものです。「気づきの仏教」・「気づきの瞑想」・「毎日を気づきつつ生きる」といったような言い回しで本のタイトルや講演の演題にでもしておけば、いわゆる抹香臭さも漂わず、怪しげな宗教にも思われず、知的で斬新なものとして聞こえてくるかもしれません。
そもそも瞑想という言葉自体すら、それは明治期に今のような意味で用いられだした比較的新しい言葉ですが、その故もあったいまだ日本社会ではそれほど馴染みなく、その語感も何か不安定なものかもしれません。
そのようなことからすれば、坐禅や修禅、あるいは単に修習や修行といった古来の言葉を使用するのが吉というものでしょうか。しかしながら、修行という語についてもまた、日本ではオウム真理教を筆頭とする超常現象・超能力を宣伝文句に使う新宗教、または怪しげな信者寺・拝み屋・修験者共など伝統宗教側にも色々とありすぎ、その語に妙な違和感を覚えて怪しいと思う人、拒絶反応を示す者も最近は少なくないでしょう。
そこで、では修禅という伝統的語の一つを用いたとしても、ただちに臨済宗や曹洞宗など禅宗のみに関するものとして理解されてしまうかもしれません。そしてそれは近世以来、漠然と「無」を志向するものだとして、長く捉え違いされてきたものです。言葉の意味、語感や解釈というものは、それを単に肯定するかどうかは別問題として、時代によって変動するものであるでしょう。実に、言葉の選択というのは難しいものです。
しかしながら、そこに何か誤りがあるならば、その誤っている点はどこまでも誤っている。この点については、分別説部自身の典籍をそれぞれ挙げることによって、分別説部における伝統的な「satiの定義と位置付け」を示し、それが明らかに誤りであることを後述します。
何者が、そしていつ頃からそのような理解をし始めたのかは知りません。これはあくまで推測に過ぎませんが、そのようにsmṛti(sati)を「気づき」と訳すようになったのは、欧米のパーリ語やパーリ仏典の英訳者の一部がその著作の中でsatiをawarenessなどと時として訳しているのに触れた何者かが、その原意や伝統的仏教での定義などをさして検証することもなく、恣意的に日本語で「気づき」と転じたことを嚆矢としているのでしょう。
そしてそれはおそらく、仏教そのものからというよりも、1970年代頃からでしょうか、むしろ欧米で流行しだした仏教の修道に基づく瞑想法、そしてそれから展開して生まれた新しい潮流(Healing・精神医療等)や、ある場合には暇つぶしの娯楽の一種、または旧来の様々な宗教や権威などの影響から脱せんとする啓蒙思想に触発されたものでした。
先に示したように、現在の西洋で一般的に用いられている、修道に関する用語としてのsmṛti(sati)の英訳はmindfullnessです。この語は、冒頭示したようにsmṛti(sati)に対する訳として学術的に認められ、辞書にも記載されているもので、その意のただ一部を表したものではありますが適切なものです。
しかし、先ほど触れたようにすでに欧米において、70年代頃からビルマ発祥のいわばVipassanā movement(ヴィパッサナー運動)が紹介され流行。それにより、西洋人らにとっては革新的・象徴的であったその内容を表する語として、従来satiの訳として使用されてきたmindfulnessが用いられ、新たな意味を持つものとして定着していきます。
そして特に西洋で展開されたヴィパッサナー運動において強調された"Mindfulness"は、パーリ語でCattāro satipaṭṭhānaすなわち漢訳で四念住あるいは四念処といわれる、仏教で最も根本的かつ核心的な四つの修習の枠組みのうち、特に身念住の修習内容に基づいて用いられた言葉でした。それはただ単にsatiという語だけで理解されたものではありません。故に、本来的には、四念住の修習と理解という文脈においてこそ、satiすなわちmindfulnessは理解されなければならないものです。
けれども西洋においてそれは、次第に仏教の要素が廃されていきます。いや、そもそも特にVipassanāを強調した瞑想というものは、欧米では仏教的・宗教的要素がかなり薄くされ紹介され、精神に健康的結果をもたらす瞑想の単なる技法(method)あるいは技術(technique)、ひいては精神セラピー(therapy)の一手段などとして取り入れられていました。
そこで今や、そのような潮流の中で象徴的に用いられたMindfullnessという語は、欧米での仏教への新しいアプローチの一つ、あるいは仏教だの東洋だのといった要素が排除され、その利点が科学的に保証された功利的で新しい精神修養法を象徴するものとなっています。
面白いことに、分量としては世界最大の英英辞書Oxford English Dictionary (OED) では、mindfulnessという英単語自体が、仏教の、特に先に触れた欧米で受け入れられ流行するようになった仏教の瞑想と、そこから展開した心理学とのみに関連付けられて説明されており、ほとんどその術語として紹介されるようになっています。
mindfulness
▶noun [mass noun]
1 the quality or state of being conscious or aware of something:
2 a mental state achieved by focusing one's awareness on the present moment, while calmly acknowlegding and accepting one's feelings, thoughts, and bodily sensations, used as a therapeutic thechnigue.
Oxford English Dictionary
(例文は省略)
ここでは省略しましたが、それはその例文を見ればさらに明らかに、まさに現在のヴィパッサナーを標榜する人々(そこから展開した「マインドフルネスという技法」)のいう内容そのものであります。それは、OEDに載せられるほど、欧米社会に受け入れられていわば成功し、一般的になっているわけです。
そのような西洋での潮流を受けた日本においても、仏教の修道法としてのsmṛti(sati)を、いわゆる宗教臭さを除外したかったのか、いや、結局は欧米発祥の流行に軽々と影響されてのことでしょう、あえて日本語訳せず「マインドフルネス」というカタカナ英語でもって紹介する、しかもビジネス関連の日本の書籍すら出版されるに至っています。
そして今や、マインドフルネスを、6,70年代のヒッピー・ムーブメントに乗じて世界的に紹介され、流行して今や様々に展開するようになったヨーガ(ハタ・ヨーガ)と同様のビジネスにしようとする有象無象が現出。ただほんの数日、あるいは数ヶ月の講習を怪しげな団体・組織から受け、または自ら薄っぺらい概説本を二、三冊読んだだけで大した経験も知識も無い、「マインドフルネス講師」や「マインドフルネス・インストラクター」を称する者が世のあちこちに湧いて出ています。そこで判で押したようなことをただ人に繰り返し、その大体が「そのままで、いいんだよ?」などと言った類の言葉で誤魔化しているのには失笑せざるを得ません。
同時に、先程述べたように何者かが「sati=気づき」などと主張し始め、さらには上座部の名のもとに「仏教におけるsatiとは『気づき』の意である」・「そもそも我らこそが信奉する純正仏教は「気づきという技法」をその最初から強調してきたのである。気づき、すなわちsatiこそ!」などと謳って盛んに布教する一群の輩が現れ、それをなんの不信も抱かず受け入れてしまった人々がある。
そこでさらに、世間でそのように言われている二つのこと、すなわち英訳で「smṛti (sati)=mindfullness」と言われ、日本の一部で「smṛti(sati)=気づき」だと言われていることを、特に考えもせず、まったく単純に「smṛti(sati)=mindfullness=気づき」などと合して理解しまい、それがあたかも昔からそうであったかのように主張する粗忽者らが出現しています。
しかしながら、それは元来が紛れもなく仏典に基づいたものであり、その伝統において行われてきたものです。それがアメリカのように恣意的に仏教の要素を排し、看板を付け替えるようにするのでなく、これを仏教の枠内にいわば逆輸入して行うならば、やはりその源流、根拠である仏典においてこそ、その意がどのようなものとされているかを正しく証しなければなりません。また、日本語における「気づき」の意味も確認することなく、ただ自身が言い続けてきたことだからという理由で「satiとは気づき」などと言い続ける態度は、まさしく 漱石枕流というもの。
ところで、現代そのような特別な内容のものとして変質し、用いられる以前の、そもそものmindfullnessという英単語の一般的意味は、日本語で「注意深さ」・「注意深いこと」あるいは「忘れないこと」です。そこに「気づき」などという意はありませんでした。ここを理解しておかないと、「satiの訳として当てられたMindfulnessという英単語は、まさにそのような意味のものとして用いられているじゃないか!」などという本末転倒となってしまうでしょう。
前述の通り、仏教の教学(心所説)はもとより修道において言われる場合においても、smṛti (sati)に、「気付くこと」・「気づき」という意味などありません。
俗間には、「いや、satiに対する上座部の理解と、支那や日本あるいはチベットに伝えられた仏教における理解とは異なるのであり、上座部の修道法ではsatiに「気づき」という(本来の正しい)理解がなされてきたのだ」などと主張し、さらに「念とsatiとは峻別して用いるべき言葉である」などとすら言う軽率な輩があります。それは、近年の日本において上座部を奉ずる団体を組織したその一部が、そのような誤った主張をもって布教・宣伝してきたという事情を反映しての主張、いわばプロパガンダをそのまま受けたものです。
「気づきだ」・「気づきを入れる!」・「ラベリングするのだ!」などという、誠に奇態な主張をする同じ人々が、「ヴィパッサナーこそ」・「ただヴィパッサナーだけを」・「我が信奉する上座部のみが真に純粋なる仏教であって、覚りに至り得るのはこの我が信奉する教えだけ」云々と、きわめて一向に布教してきたことは物議を醸すものでした。
しかしそれは、事実に基づいた言ではなく、また当然ながら妥当なものでもありません。プロパガンダとはラテン語で、要するに宣伝・広報のことであって「なんであれプロパガンダは悪」などということはありません。しかし、それが事実でない、人を誤認させ自身らの利益につながる特定の方向へ誘導させようとするものであるならば、それは悪とすべきものでしょう。そしてそのような主張は、いわば「現代版一向宗」の出現でありました。
ところが、そんな彼らの組織・団体に属しない、あるいは特に信奉してなどいない者であっても、意識的あるいは無意識的にそのような彼らのプロパガンダにまんまと乗せられ、そのまま受け入れてしまっている人々は、今や世間に多く存在するようになっています。その結果、実は何だかよくわかってなどいなくとも、「とりあえず気づきといっておけば良い」というが如き風潮すら生み出されています。
なぜそのように言えるかは、後に上座部を含めた「仏教におけるsmṛti(sati)の伝統的理解・定義・位置付け」を様々に示すので、それによって明瞭に理解できるでしょう。いや、前述したように、そもそも仏教しかもまさに上座部が伝統的に信奉され、伝えられてきたビルマやセイロンなど諸国において受容されて土着化し、日常的に用いられてきたsatiという語の意味・用例に、「気づき」などという意味が皆目ないことだけをもっても、その根拠と十分し得るものです。