仏教の修道について言われる場合のsmṛti(sati)あるいは念とは、「気をつけること」・「注意」を意味するものです。まず「気づき」ではありません。
では、ここでまた念入りに、日本人であってもその意味を正確に把握していない可能性があるために、そもそも「気付く」・「気づき」という日本語の意味を確認しなければならない。
き・づ・く【気付く】
①ふと、思いがそこにいたる。気がつく。感づく。「手抜かりに―・く」
②意識をとりもどす。正気に戻る。「―・いたら病院にいた」
き・づき【気づき】
気が付くこと。心付くこと。「お―の点」
『広辞苑(第六版)」岩波書店
「気づく」は、頭の中に何かの考えが浮かぶことや、それまで認識していなかった刺激・感覚を見出すことです。それまで何も考えていなかった状態・それまで知らなかった状態・考えても結論が出なかった状態などから、突然に何事かの考えや感覚が浮かぶことを意味し、そのような意味で用いられる動詞です。それはいわば、ハッとすること、「あ、そうか!」となることです。受動的・偶発的・突発的な意味合いがある語と言えるでしょうか。その名詞が「気づき」です。
ところで、Buddha(仏陀)やBodhi(菩提)の語根はbudhで、その意は「目覚める」です。故にBuddhaとは「目覚めた人」であり、Bodhiとは「目覚め」です。そのようなことから、仏教とは「人生の苦しみの由来・根源とその除滅、そしてその方法に関する真理」に対して目覚めることを目標とする宗教であるということが出来ます。そして悟りとは「(大いなる)目覚め」・「(全き)気づき」であると言うことも出来るでしょう。
ただし、悟りとは、ある意味で受動的・突発的なものと表現することこそ出来ますが、しかし偶発的なものでは決してなく、あくまで自身のたゆまぬ努力と注意しつづける意識の上に現れるものですけれども。悟りをして「気づき」であると、仏陀と一般のそれとはその対象と程度とが大幅に異なりますが、大まかに言うことには問題はないでしょう。けれどもしかし、「念」と「覚り(悟り)」とは同じものでは到底ない。それらは決して、イコールではない。
では先程からsmṛti(sati)の意味であるとしてきた、「注意」・「気をつけること」という日本語の意味はどうかも確認しましょう。
ちゅう・い【注意】
①気をつけること。気をくばること。留意。「―して見る」「細心の―を払う」
②危険などにあわないように用心すること。警戒。「足元に―する」「子供の飛び出し―」
③相手に向かって、気をつけるよに言うこと。「先生から―される」
④〔心〕心の働きを高めるため、特定の対象に選択的・持続的に意識を集中させる状態。
○ 気を付ける
①気づかせる。狂言、抜殻「はたと失念致いたれば、気を付けに帰った」
②あやまりがないように気をくばる。「今後は気を付けます」「気を付けてお帰り下さい」
③元気にさせる。勢い付かせる。
『広辞苑(第六版)」岩波書店
smṛti(sati)に対応するのは、「注意」では①と②の意味、「気を付ける」では②の意味です。このように、「注意」・「気をつけること」と「気づき」・「気付くこと」とは、文字面やその響きこそ似たようなものですが、その意味は決定的に異なります。
サンスクリットならびにパーリ語で、日本語の「気づき」・「気付く」に該当する語は、smṛti(sati)ではありません。「気づき」をその原意どおりに「ふと、気がつくこと」・「ハッとすること」という意味で言っているならば、それは心所としての manasikāra(作意)が該当します。
ただし、manasikāraの意も多義であるため、何でもただちに「manasikāra=気づき」とすることは出来ないことに注意しなければなりません。例えば、パーリ仏典においてしばしば重要な意義あるものとして用いられるyoniso manasikāra という語は、「賢明なる思惟」と訳すことが出来、一般にそのような意味で用いられています。この語はまた「適切な注意」とすることも可能ですが、これを「賢明なる気づき」・「適切な気づき」などとすることは出来ない。
ところで、もし「気づき」という日本語を、「よく知ること」・「よく知っていること」などという誤った意味で使っているならば、それに対応する仏典における語は、漢語経典では「正知」・「正智」あるいは「正慧」などと訳されている、サンスクリットsamprajñānaあるいはパーリ語sampajaññaが該当します。
この語は、例えばパーリ経典では"satisampajañña"、あるいは"sampajāno satimā" (確かに知り、気をつけて)、漢訳経典では「正念正智」・「正慧正念」などと、sati(念)と共にしばしば併用されるものです。しかし結局、それらがいくら密接な関係にあるものであったとしても、それぞれが別の意味を持つ相異なる言葉であって、互いにはっきりと区別して用いられるべきものです。
先程から繰り返し述べていることですが、smṛti(sati)を「気づき」・「気づくこと」などと捉えるのは、語義的そして内容的にも完全に誤ったものとなります。smṛti(sati)とは「気づき」などではありません。そのようなsmṛti(sati)の理解、それはまさに僻事というものです。
例えば、私が今なすべき物事があるとして、それに取り組んでいる時、しかし念という心の働きが弱まって他のことに気がそれてしまったならば、その他の心の働き、特に煩悩が心に生じて取り乱す、ということになります。それを「失念」と言います。仏教の術語です。
この失念という言葉にはまた「忘れてしまう」という他の意味もあり、一般的にはこの意味でよく用いられているでしょう。この失念なる言葉は「不注意」と「忘失」という意がありますが、念の両義を保持した言葉です。
では、ここでさらに、ただ「念とは気づきのことなどではない」と指摘するだけではなく、念がいかなることかを正確に、しかしながら人に平易に把握させるため、今までそうしてきた辞書などを用いた方法を離れ、拙いものながら私的な類比を用います。
仏教における念、それを譬えるならば以下の様なものです。
ある男があって、彼から離れたところに、遠目に美しそうに見える女性があります。彼女をもっと見たい、男はそう思います。はたして遠目にだけ美しく見えるのか、いや、美しいに違いない。より詳しく見たい、知りたい。けれども、その女性から距離があるのと、その女性があちこち動き回っているため、よく見て確かめたくともそのままではいかんともしがたい。見えるのは見えるけれども、今ひとつぼんやりとしてよくわからない。
そこで男は、サッといつも携帯している双眼鏡を手にし、その女性を双眼鏡の視界に入れて注意深く、外れぬように追い続けます。対象を把握し続けるのです。そうして、双眼鏡の倍率を拡大していって、焦点をグッと合わせていく。双眼鏡を通しているため視界は限定され、それ以外のことは見えない。けれども、彼には今、その女性の姿・顔形ははっきりと明らかに見えるようになった。しかしその瞬間、男は知ります。その遠目には美しく魅力的に見えた女性が自分の母親、カアチャンであったことを。それを知った刹那、男の欲貪は、たちどころにして消え去ったのでした。
…少し頑張って噛み砕いた喩え話を開陳してみたのですが、困ったことにまったく面白くありません。笑いどころがない。いや、そもそも今ここで笑いを誘う必要性など全然無かった。どうやら私には絶望的にユーモアのセンスが欠けており、さらに救いがたい阿呆であったようです。
いまさら「気づき」ました。
そのように、対象にあたかも双眼鏡を向けて視界から逃さぬように追って保持すること、すなわち対象を認識というフレームから外さないようにすること、それが念です。倍率を拡大していき、レンズの焦点を対象に合わせること、すなわち集中すること、それは心一境性([S]cittaikâgratā, [P]cittekaggatā)あるいは三昧・三摩地([S/P]samādhi)です。そして、明らかとなったその対象を正しく知ること、それが正知([S]samprajñāna, [P]sampajañña)です。
そのように、対象の(執着する価値の無い)実際を知ることによって、貪欲が消える。と、このような次第にあいなるわけです。いや、このような私の拙く、また軽薄な喩えを出すだけではいけない。やはりここは伝統的に、念がどのように譬えられ理解されてきたかを示さなければならない。そこでその好例として、中世の日本に初めて臨済禅をもたらした栄西による以下の言葉があります。
禪法要解云。譬如獼猴繋在於柱。終日馳走。鎖常攝還。極乃休息。所縁在柱。念則如鎖。心喩獼猴。行者觀心亦復如是。漸漸制心令住縁處。若心久住是應禪法文 是故欲成此禪。持戒清淨無有瑕疵。禁戒調心如彼獼猴。戒經云。繋心不放逸。亦如猴著鎖文
『禅法要解』はこのように云う。「譬えば猿が柱に繋がれてあるようなものである。(猿が)一日中駆けまわったとしても、常に鎖や縄に引き止められて、結局は柱のもとで休息するようになる。(修習の)対象が柱であり、念とは鎖であり、心は猿に喩えられるのである。行者が心を観じることもまた、そのようなものである。漸漸として心を制して対象に留めさせ、もし心が(対象に)久しく留まるようになったならば、それが禅法に応じたものとなる」と。
このようなことから、禅を成就しようと欲するならば、持戒すること清浄〈戒律における「清浄」とは、戒律に違反していないこと〉にして瑕疵なく、禁戒によって心を整えることは、その猿のようにしなければならない。 そこで戒経〈『十誦律』・『摩訶僧祇律』等〉にはこう説かれている、「(念によって)心を繋いで放逸ならしめざることは、たとえば猿を鎖につなぐようなものである」と。
栄西『興禅護国論』巻中 (T80, p.12a)
ここで栄西は、念とはどのようなものであるかを説明するためではなく、むしろ禅法(三昧・修習)を成就するためには必ず須らく戒律を保つべきであること、戒律の最重要性を主張することを主眼として、この鳩摩羅什〈Kumārajīva〉の書(『禅法要解』・『坐禅三昧経』)の一節を引いています。が、この一節は「念とはいかなるものか」を理解するのに大変優れた譬えであるため、今ここにあえて孫引きして示しました。ここでひかれる戒経では端的に、「念とは不放逸である」と説かれます。そう、念とは「心を放逸ならしめざるもの」であります。
前述したように、近年の日本には、それこそ何を根拠にそう言うのか、「支那や日本では古来、念(smṛti, sati)が正しく理解されることはなかった」であるとか、「説一切有部や大乗における念の理解は上座部におけるそれとは異なる」などという主張をする一類の者があります。しかし、それは無知に基づいたまったくの誤認であって、事実ではありません。
ここであえて孫引きしたのは、それによって中世初期の日本における密教と禅との英傑だった栄西禅師も、ひいてはその他の修道者らも、「念とは何か」を以上のように正しく理解していたことが知られるであろうためです。先に出した私の拙い譬えなどまさしく蛇足もいいところで、まったく愚かな試みを重ねるばかりの暴挙でありました。
支那および日本において、「念」という語が多様な語義を持つものとして用いられてきたとはいえ、既に示したようにそもそもsmṛti(sati)という語自体が多様な語義を持っているのであって、「念」という漢字をその訳語としたことは全く適切・妥当なものでした。そして、仏教の修道において仏陀以来強調されてきた意味での「念」というものもまた、以上のように正しい理解がされていたことがわかるでしょう。
喩え(upamā)を以ってある物事や概念の構造・仕組みや働きなどを示し、他に理解させようとすることは、大変に有効な伝統的手法です。仏教では古来、様々な喩えによって教えが示され、また学ばれています。故にここでもその先蹤を踏んで、拙いながらも種々の喩えを以てしています。
我々の普段の「心とは、勝手気ままに木々を飛び回るエテ公」にすぎません。それをしつけるのにどうしても必要な鎖、それが念です。