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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

念(smṛti, sati)とは何か

作心師不師於心

心の主となるも、心を主とすることなかれ

以上、仏教における念の定義を、ごくいくつかの典籍を挙げることに依って示しました。

これは、我が怠惰と無能によって拙く不完全なものではあります。が、それは決して学術的目的からでも、好奇心を満たす目的からでもなく、仏道を実際に行うためにこそ為したものであります。あるいは巷間、あまりに根拠無く、あるいは思い込みや誤解によって「仏教の」などといった枕詞を多用しつつ、むしろ単なる我説を振るうのみの者が多いために、為したものでもあります。

これは別段、念についてだけのことではありません。

「仏教の」だとか「仏教における」というからには、先ずはどうしても仏教としての根拠が無ければならないでしょう。ならばそれは経・律・論いずれかの典籍か、もしくはそれらを解釈するなどしている注釈書、あるいはそれらを基にして立論され用いられてきた論書などに拠ったものでなければなりません。

もっとも、ただ多くの文書文字を追い、厳密な定義などといったことを追求したとて、それで自らの苦悩が解消されるはずもなく、ましてや生死輪廻より脱するなど望むべくもない虚しいこととなってしまうことは、決して忘れてはなりません。実際、それは不可欠な要素ではありますが、ただ念だけに焦点を絞って理解し、実行したとしても全く不十分です。仏教の目的は、ストレスを軽減することでも、健康になることでも、それで仕事を効率よくこなせるようになって社会的・経済的に安楽となることなどでも、まったくありません。

「そのような目的は達せられない」だとか、「そのような目的とした瞑想法なるものは邪道である」だとか「行なうべきでない」などと言っているのではありません。それらはそれらで良く、有益な結果をもたらすこともあるでしょう。端からそれを目的とした動機によって、私は瞑想するのだというのもそれはそれで結構な話だと思います。瞑想することは、その思想内容がどうであれ、例外ももちろん多くありますが、大体が人の心身両面に良い効果をもたらすものでありましょう。

しかし、ここではあくまで「仏教の」話をしています。

仏教の目的、それは正しく念を持つこと(正念)によって、対象を正しく知ること(正知)。そしてついには全てのモノの本質たる、無常・苦・空・無我であることを現観し、畢竟じて生死の苦海から解脱することです。それがすなわち仏陀が教えを垂れられ、ついには現代の我々に至るまで諸賢聖によって伝えられた、その目的でありましょう。

あるいはまた、頭脳明晰・優秀・弁舌巧みである人ほど、他に対する「思いやり」や「優しさ」など寛容さがなく、冷徹で冷笑的であり、仏教についても傍観者的・知的理解に留まってそれ以上進めないという傾向があるかもしれません。古来、八難とされるものの中、世智弁聡が最たるものとされるのは、その由あってのことでしょう。故にまた、慈・悲・喜・捨の四無量心を育み、また布施・ 愛語・利行・同事の四摂法を身に備えることも忘れてはなりません。

それらを踏まえた上で、念という、仏教を実際に修習する上で決して欠かすことの出来ないものを理解するのに、具体的な典拠を逐一示したことによって、いささかでも実際に仏道を歩み、ついには悉地を得る人の一助となればと願うばかりです。

最後に示すのは大乗の『涅槃経』にある一節で、特に「念とは」云々といったものではありません。しかし、その意図からすると自ら正しく念をもって生きることを説いたものです。すべからく仏者の金言として珍重し憶念すべき言葉です。

作心師不師於心
心の師となるも、心を師とせざれ。

曇無讖訳『大般涅槃経』巻廿八 師子吼菩薩品 (T12, p.533c)

念を保つこととはすなわち、心を自らの主としてこれに従うのではなく、自ら心を守って従わせる主となることです。

Bhikkhu Ñāṇajoti